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詠天先生
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詠天先生

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霊障害・開運方法・運勢・仕事・相性・結婚・離婚・不倫・同性愛・三角関係・金運・歳の差恋愛・遠距離恋愛・復活愛・略奪愛・縁結び・縁切り・家庭問題・子育て・対人関係・ペットの気持ち

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    【大阪 / 難波中央店】
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    【大阪 / アメリカ村店】
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    【大阪 / アメリカ村店】
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    【大阪 / アメリカ村店】
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    【大阪 / 難波中央店】
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    数多くの手相の先生の中でも突出した鑑定力を持つ先生です。もちろん霊視にも定評があり、包み隠さずすべてをお伝えします。
    片想いや不倫問題など難しいお悩みも解決してきた実績に加え、朗らかなお人柄にTV・雑誌等のご出演も多数ございます。
    ご自身の運気や運命を知ったうえで、未来を見つめ直すと意外にも簡単にお悩みが解消するとか!?是非ご相談なさってみてください。

    メディア出演履歴

    アメトーーク!(TV) / 村上マヨネーズ(TV) / やまとナゼ?しこ(TV) / 狩野英孝の行くと死ぬかもしれない肝試し~成仏編~(TV) / デイリースポーツ(連載)/メッセンジャーの〇〇は大丈夫か?

    詠天先生 コラム

    不死身の分隊長 舩坂弘伝説 その2

    毎度、千里眼の詠天です。
    無数の死体が、転がる戦場に取り残された舩坂弘は、手渡された手榴弾を強く握り締めながら夜空を睨んだ。
    「戦争なのだから死ぬことは覚悟の上だ。しかし今ここで死ぬわけにはいかない」
    上体を少し起こして左足の傷を見た。
    今も血が流れ出している。
    傍らにあった日章旗に手を伸ばすと、強く傷口に巻きつけ止血した。
    そしてうつ伏せに体を返すと右腕にグッと力を込めた。
    匍匐前進である。
    元来の負けず嫌いが、させた行動かも知れない。
    そして、なぜか自分は「ここでは、死なない」という根拠のない自信があった。
    夜通し匍匐前進を続け、夜が明ける頃、洞窟壕にたどり着いた。
    驚きなのは、その翌日には、左足を引きずりながらも歩けるほどに回復していたのだ。
    後年、舩坂弘はこう記述している。
    「私は幼い頃から、傷が治りやすい体質だった。それで何度も助かったのかも知れない」
    その回復ぶりには、軍医の小林も舌を巻いた。
    軍部本体と連絡も取れない上に、戦力と兵力に差がありすぎる戦いは、初めから勝ち目のない戦だったが、舩坂の目は諦めていなかった。
    左足を引きずりながら戦場に飛び出し、拳銃の三連射で三人の米兵を倒し、敵の小銃を取り上げては連射、両腕が負傷している状態でも銃剣で敵陣を切り開く。
    その姿を見た部隊員からは、「不死身の分隊長」「鬼の舩坂」と異名を取るほど、まさに鬼神のごとく戦ってみせた。
    米軍キャンプでも「ヒロシ・フナサカ」の名が知れ渡るほどだった。
    だが、何よりも日本兵たちを苦しめたのは、飢えと灼熱の暑さだった。
    毎日が戦いの連続で、生傷が絶えない。
    物資のない状況では傷口がすぐに化膿し二日ほど経つと傷口にウジが湧く。
    それほどアンガウルの戦いは壮絶を極めていた。
    飲み水すらない戦いは、日本兵を徐々に蝕んでいき、洞窟壕の中では、自決用の手榴弾を求める重傷者たちのうめき声で、さながら地獄絵図のようだった。
    舩坂も左腹を銃弾が貫通する重傷を負っており、まともに立つこともできなかった。
    しかも極度の栄養失調と失血で視点も定まらない。
    そして傷口から無数のウジが湧いて出るのを見たとき「ここまでか」と絶望した。
    舩坂は、両親に向けて遺書を書いた。
    「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。国家危急存亡の時に、皇天皇土に敵を近づけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。天命を待たず、敵を目前にして戦死するのは悔しいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。七度生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。思い残すことはありません」陸軍軍曹 舩坂弘(原文直訳)
    そして手榴弾を咥えてピンを引き抜いた。

    つづく

    この章を書きながらスゲー辛くなったよ
    千里眼  詠天  

    不死身の分隊長 舩坂弘伝説 その1

    毎度、千里眼の詠天です。
    今回からまた少し長いエピソードの始まりです。
     
    『舩坂弘』と言われてもピンと来る人は、少ないでしょう。
    実はこの方、二次大戦中に活躍した偉大な人物なのです。
    そのストーリーは、仰天至極、空前絶後と驚愕するばかりです。また、長いストーリーになりますが、最後までお楽しみください。
     
    舩坂弘(ふなさかひろし)
    大正9年10月30日栃木県西方村(現栃木市)に農家の三男として生を受ける。
    幼い頃から野山を駆け巡り、強靭な肉体を手に入れ、ケンカでも舩坂の右に出るものはおらず、極度の負けず嫌いのガキ大将だった。
    それでいて勉学も好きで、尋常小学校、公民学校、早稲田中学、満蒙学校と卒業しており、頭も相当良かった。
    勉強の傍ら、剣道や銃剣術、居合道などでも名を馳せ、文武両道を絵に描いた人物だった。
    昭和16年、陸軍宇都宮第36分隊に現役入隊し、満州にてソ連の侵入を警戒する隊に歩兵として配属される。
    その頃から舩坂は頭角を現し、射撃と銃剣術で30数回表彰されており、「銃剣術徽章と射撃徽章を同時に授けられたのは後にも先にも舩坂弘だけだ」と謳われるほどだった。
    その甲斐あって、15名を従える擲弾筒分隊を任される。
    そして昭和19年4月、3年の兵役を終えて除隊目前だった舩坂は、戦況の変化によりパラオ・アンガウル島に主力大隊とともに上陸することになる。
    アンガウルの戦いは、パラオ侵攻を目指す米軍を水際で食い止める作戦だった。
    アンガウルを守る日本兵1400名に対し米軍は22000名。
    約15倍以上の人数を相手に日本軍は、戦うこととなったのである。
    9月11日、米軍は戦艦テネシーから砲艦攻撃を行う。
    その砲撃により、日本軍の通信施設が破壊され、日本軍は通信手段を持たぬまま、玉砕するまで叩い続けなければならなくなってしまった。
    その中にあっても舩坂は、擲弾筒や臼砲で200人以上の敵兵を殺傷する戦果を残している。
    しかし多勢に無勢、22000対1400では、勝敗は目に見えている。
    日本軍は劣勢となり砦を捨て洞窟壕に篭城しゲリラ戦を余儀なくされた。
    3日目の戦闘の時、アメリカ軍第81師団通称山猫部隊は、数に物を言わせ総攻撃に出た。
    不幸にも舩坂のすぐそばで炸裂弾が爆ぜ、左大腿部に大きな裂傷を負う。
    仲間は助けに行くこともできず、倒れている舩坂の真上を無数の銃弾が行き交う戦闘が数時間続いた。
    ようやく戦闘が収まり、軍医の小林が舩坂に駆けつけた。
    そして大腿部の裂傷を一目見て首を振った。
    「舩坂軍曹、よりによってなぜ君が...」
    そして小林は、手榴弾を手渡す。
    一目見ただけで助からないのが分かるほどの傷だった。
    それで小林は、自決用の手榴弾を舩坂に手渡したのだ。
    受け取った手榴弾を見ながら舩坂は憮然と空を見上げた。
                    つづく
     
     ずっと書きたかった舩坂弘のお話です。最後までお付き合い降れば幸いです。 千里眼 詠天

    ヒュー・ウィリアムズ (都市伝説)

    毎度、千里眼の詠天です。
    今回はヒュー・ウィリアムズという名前についてお話しましょう。
     
    占いの世界でも名前は、古来から「名は体を表す」の言葉通り、人それぞれ、その人の性格や人となりを表すものとし、漢字を多用する中国や日本では、字画や左右対称で名付けをしたりする風習があります。
    警察官や法律家に『正義』という名前が多いように、人の名前にはその将来や行く末を占うパワーがあるとされています。
     
    『ヒュー・ウィリアムズ』という名前は、英国男性の名前ですが、この名には、偶然とは言い切れない奇妙な一致があり、都市伝説として有名な名前なのです。
    海難事故や遭難事故で、これまでに数百万人の命が海で失われています。
    約350年前の1660年ドーバー海峡で大型貨物船が転覆する大事故がありました。
    その時たった一人の男性を除いて、多くの命が失われました。
    生き残った男性の名が、『ヒュー・ウィリアムズ』だったのです。
    その事故から100年後の1767年、ドーバー海峡の同じ地点で海難事故が発生。
    この事故でもたった一人の生存者の名前が、『ヒュー・ウィリアムズ』だった。
    時は流れ、1890年テムズ川で遊覧船が転覆する事故が発生。
    信じられない話ですが、その時の唯一の生存者は『ヒュー・ウィリアムズ』でした。
    時代は変われど、三件の水難事故での生存者の名前が『ヒュー・ウィリアムズ』だったのです。
    これだけでは、かなり希な確率ですが、偶然の一致として笑われる話かもしれません。
    1940年第二次世界大戦で英国艦隊の船が、ドイツ軍の砲撃により転覆します。
    この船の乗組員は、2人の生存者を除いて全滅します。
    助かった一人の名前は・・・もうお分かりですよね。
    そうです『ヒュー・ウィリアムズ』です。
    そして生き延びたもう一人の名前も『ヒュー・ウィリアムズ』だったのです。
    これは全て事実であり、全員別人で、共通しているのは、名前だけなんです。
    ただの偶然とは言い切れない不思議があると思いませんか?
    おわり
     
    船旅の時はヒューウィリアムズに改名しよう
    詠天

    宮本武蔵の真実 詠天的研鑽編 その8

    毎度、千里眼の詠天です。
     
    「一乗寺下り松の決闘」の一部始終を小高い丘の上から見ていた者がいた。
    スラリとした体躯に長い刀を背にした眉目秀麗な男。
    佐々木小次郎である。
     
    ぬかるみをいとも簡単に走り去る武蔵の背中を凝視していた。
    「宮本武蔵、ただの荒くれ者かと思うたが、なんのなんの、兵法にも明るい武芸者であったか・・・」
    小次郎は夕暮れから一夜を明かすつもりでこの丘にいた。
    吉岡と武蔵の決闘を聞きつけたからだ。
     
    決闘の時間は明け六つ(午前6時)だが、武蔵が現れたのは、午前3時頃だった。
    吉岡が陣を張る前に握り飯を頬張りながら、下り松から目と鼻の先のぬかるんだ藪の中に身を伏せた。
    埋伏の策である。
     
    その後吉岡一門が現れ門弟を配置するが、全て武蔵には筒抜けだったのだ。
    そして遅れてくるものと思い込んでいた吉岡は、松沢帯刀の言葉もあって、気が緩みきっていた。
    そこへ定刻通り武蔵が現れては、たまったものではない。
    「あれでは、始まる前から吉岡に勝ち目はない」
    そう言って小次郎は、優雅に笑った。
     
    ひょっとしたら小次郎は、武蔵が吉岡に血祭りに上げられるのを見に来たのかもしれない。
    しかし武蔵の戦術がその予想を大きく上回ってたのだろう。
    同じ武芸者としてのプライドが傷ついたのかもしれない。
    そして物語は、「巌流、舟島の決闘」へと向かうのである。
     
     
    「一乗寺下り松の決闘」は、「巌流島の決闘」に次いで映像化されているストーリーで、武蔵一人で吉岡一門と戦う有名な物語ですが、実際には、ドラマのような戦いはなく、アッという間に終わったということです。
     
    小説宮本武蔵の著者、吉川英治氏もインタビューでこう答えています。
    「僕は、歴史書を書いたのではなく、武蔵というキャラクターを使ってドラマを書いたのです」
    この言葉が、宮本武蔵を剣豪でありヒーロー的なキャラクターとして作り上げたのでしょう。
     
    また機会があれば、その後の武蔵を書きたいと思います。
    長々とありがとうございました。
    おわり
     
    次回から、また面白い長編を書きます。
    懲りずにお付き合いください。
     
     千里眼  詠天

    宮本武蔵の真実 詠天的研鑽編 その7

    毎度、千里眼の詠天です。

    「皆の衆、篝火に手を当てて温めておけ、身体が冷えていては、良い働きができんからな」
    松沢帯刀は、大きな声を張り上げた。
    これから始まる殺戮に自分自身をも鼓舞しているようだ。
    「松沢、あちらの暗がりが手薄に思えるのだが・・・」壬生源左衛門が田のあぜ道を指さした。
    「心配ご無用、あちら側は、昨夜の雨で大層ぬかるんでおり、足を踏み入れたものではない。百姓でも足を取られるほどでござる」
    松沢帯刀は、歳上の源左衛門に対し、しっかり考えてるんだからゴチャゴチャ言うなという感じで答えた。
    もうすぐ明け六つの鐘が鳴る
    吉岡一門に緊張が走る。
    亦七郎は、不安気な顔で源左衛門を見上げた。
    「皆の衆!心配するな!武蔵は遅れてくる。わざと遅れて我らが痺れを切らすのを待つ作戦じゃ!そんな姑息な手に乗るな。心をゆるりと落ち着けて、篝火で身体を冷やさぬようにせよ」
    松沢は、そう言うと手本を見せるように長槍を脇に抱えて篝火に手を当ててみせた。
    皆それに習い、篝火に手を当てて暖を取る。
    そして明け六つの鐘が比叡山の方から鳴り始めた時、ぬかるんだ藪の中から黒い影が、中空に躍り出た。
    その影は、素早い動きで門弟たちに大刀を振りかざすと其処此処で血飛沫が上がる。
    火縄銃を持った者も弓を構えている者も、あまりの素早さに対応しきれない。
    そして一直線に亦七郎の前に到達した。
    「作州浪人、宮本武蔵約定により見参」
    そう言って本阿弥光悦が鍛えた刀をひと振りすると亦七郎の首がゴロンと地に落ちた。
    「おのれ!武蔵!我がせがれを・・・」
    源左衛門は、叫びながら長槍を突き出すが、言い終わらぬうちに武蔵のひと振りで唐竹割りにされた。
    突然の暴風に呆気にとられた松沢帯刀は、武蔵と認識する間もなく脇に長槍を抱えたまま、その顔面に刀を受け絶命した。
    そして武蔵は、ぬかるんだあぜ道を、そのままのスピードで走り去っていく。
    門弟たちも慌てて武蔵を追うが、ぬかるみに足を取られて思うように走れない。
    なぜか?
    武蔵の足には、草鞋に革紐を巻きつけてぬかるみでも踏ん張りがきくように工夫していたのである。
    こうして「一乗寺下り松の決闘」は終幕した。
    数々のドラマで描かれたように70数名と戦ったのではなく、傷らしい傷も負わぬまま武蔵は、吉岡一門をねじ伏せたのである。

    つづく

    米ぬか酵素風呂に激ハマリ中
    千里眼 詠天

    宮本武蔵の真実  詠天的研鑽編 その6

    毎度、千里眼の詠天です。
    清十郎を再起不能にされ、伝七郎まで亡くした吉岡一門は、存続のため是が非でも武蔵を打たなければなりません。
    そのためには、名代が必要であり、正当な後継者二人はもういません。
    そこで重鎮である壬生源左衛門の嫡男でまだ11歳だった源次郎を吉岡亦七郎として名代に据え武蔵を迎え撃とうと考えたのです。
    場所は一乗寺下リ松、時刻は明け六つ(午前6時)
    11歳の亦七郎を新しい旗頭に吉岡十剣筆頭の松沢帯刀を作戦参謀に「一乗寺下り松の決闘」は幕を開けたのです。

    約束の明け六つの一刻前。
    篝火に照らし出されたその少年は、いかにも利発そうで端正な顔立ちをしていた。
    吉岡亦七郎である。
    その傍らには、父である壬生源左衛門が立っている。
    「総勢78人か・・・意外と集まらなんだな」
    壬生源左衛門は、居並ぶ門弟達を見ながら呟いた。
    「致し方あるまいて、二人の若様を失くしたとあっては、逃げ出す者も多かろう。何しろ弟子は家来ではないからな」
    そう言って松沢帯刀は、高笑いした。
    「首尾はいかがかな?」
    「草むら雑木林の其処此処に門弟を配置し、火縄銃4艇、弓の名手を5人、首尾は上々、いかに武蔵とて鉄砲玉までは、避けられまいて」
    「帯刀、火縄を使う気か?」
    訝しがる源左衛門を松沢帯刀は、手で制した。
    「壬生殿、我らはすでに二人の次期頭領をとられているのですぞ、このままでは吉岡道場は潰えてしまう。なんとしてでも、武蔵なる山猿を退治しなくては、冥土のご頭首に顔向けできませんぞ!」
    「う・・・む。そうだな・・・」
    源左衛門とて武芸者の端くれだという自負がある。それゆえ飛び道具を使うことに抵抗があるのだ。
    「壬生殿、そんな顔されるな。武蔵なんぞ、聞けば卑怯な小技を使う山猿ではございませんか。我らは山猿を退治するのでござる。なれば飛び道具も常套手段」
    そう言って高笑いをする松沢帯刀。
    彼はまだ武蔵と対峙したことがないのだ。
    卑怯な手でたまたま清十郎と伝七郎を罠にはめたくらいにしか評価していなかった。
    武蔵、恐るるに足らず・・・
    「もうすぐ約束の時間・・・この包囲網の中、どうやって山猿を退治するか?」
    松沢帯刀は、一人ほくそ笑んだ。

    つづく

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    もっと痩せてやる
    千里眼  詠天

    宮本武蔵の真実  詠天的研鑽編 その5

    毎度、千里眼の詠天です。
    雪が舞い散る宵、吉岡伝七郎は兄清十郎と同じ轍を踏まぬため、門弟を隠すのではなく自分の周りに配置していた。
    その数、13名
    大御所の剣豪、壬生源左衛門を筆頭にいずれも手練の剣士を揃えていた。
    夜でしかも雪ということもあり、篝火を焚いては、提灯を持つ8人の従者を、そこここに配置し三十三間堂の前は、昼間のごとく照らし出されていた。
    「若様、考えましたな!これでは隠れる場所すらない。しかもどこから攻めてきてもすぐに見つけることができる」
    そう言って源左衛門は大笑いした。
    「源左衛門、若様はやめてくれ」
    伝七郎は、篝火に手を当て寒さで凍えぬようにしている。
    伝七郎の作戦は、雪の夜ならば武蔵といえど、ここに来るまでに寒さで身体は冷え、いつもどおりの動きはできないだろうし、これだけの手練がいれば仕留め損なうことはない。
    「それにこれだけ明るければ、どこに隠れていてもすぐに見つけられるしな」
    伝七郎は、得意げに笑ってみせた。
    時折、150cmの大振りな刀をブン!と振っては体を冷やさぬようにしている。
    「あの大太刀を自在に振れるのは、伝七郎先生ぐらいのものぞ」
    周りの門弟たちが感嘆の声を上げる。
    「しかし遅いぞ武蔵!」
    すでに約束の時間から1時間は過ぎている。
    「清十郎先生の時も奴は遅れて参られました。ゆめゆめ気を抜かれることなく」
    「わかっておる!しかし遅いぞ」
    元来、短気な性格の伝七郎は、いらだちを隠すことなく門弟たちに当たり散らしていた。
    次第に冷たい風が吹き付け、雪が強くなりだした。
    伝七郎は、篝火に手をあてながら「まだかまだか」と喚きだした。
    その伝七郎の横に提灯を持った従者が、スーッと近寄ってきた。
    伝七郎は、篝火に手を当てながらその従者に声をかけた。
    「なんじゃ!」
    「作州浪人宮本武蔵参る!」
    そう言うと伝七郎の大太刀に手をかけスラッと抜くと、返す刀で伝七郎の首を打ち落とした。
    一瞬の出来事で誰も動くことができない。
    武蔵は、周りの門弟を斬りつけると篝火を蹴飛ばして走った。
    辺りは一瞬で真っ暗闇になり、武蔵はそのまま暗がりに消えていった。
    つづく
     またそばを食べに長野に行ってこよう 
    千里眼  詠天

    宮本武蔵の真実  詠天的研鑽編 その4

    毎度、千里眼の詠天です。

    さて、吉岡清十郎との果し合いに勝利した武蔵ですが、これは全て武蔵の作戦だったのです。

    時間に遅れたのではなく、先に来て隠れて清十郎を見ていたのです。
    武蔵が恐れたのは、清十郎個人ではなく連れてくるであろう門弟たちでした。
    清十郎に勝利したとしても、手練の門弟が10人もいては多勢に無勢です。
    だから時間を待ち、清十郎のシビレが切れるのを待ったのです。

    「もう帰ろう」と清十郎が腰を上げた瞬間、それまで緊張の糸を切らさなかった門弟たちも「ホッ」と息を吐き、一瞬緩んだはずです。
    その隙に武蔵は物陰から清十郎の目の前に現れ、刀よりも軽い木刀で素早く打ち倒したのです。
    そして門弟たちに捕まることなく、一目散に逃げていったのです。
    武蔵の目的は、清十郎を倒すことであって、門弟たちと打ち合うことではありませんからね。

    門弟たちから逃げ切り、広い荒れ野に差し掛かった時、武蔵は一人の人物に出会います。
    後の武蔵に多大な影響を与えた文化人にして芸術家である本阿弥光悦です。
    おそらく光悦は、清十郎との決闘を知り、武蔵が来るのを待っていたのでしょう。
    武蔵が残した墨絵や木彫りの仏像などの作品は、光悦からその手ほどきを受けたものと思われます。

    『清十郎敗れる』の報は瞬く間に広まり、一躍武蔵の名は、京では知らぬ者がいない程になりました。
    これに収まりがつかないのは、吉岡道場です。
    清十郎の弟、伝七郎は、実は吉岡道場の跡目を狙っていて、兄清十郎は、伝七郎にとって目の上のタンコブだったのです。
    しかも巷では、清十郎よりも伝七郎の剛剣の方が、強いのではないかと言われるほどです。

    もし自分が武蔵を斬れば、名実ともに吉岡道場の頭首として君臨することができる。
    野望に満ちた伝七郎は自ら、武蔵に挑戦状を叩きつけたのです。
    場所は三十三間堂、時間は夜10時
    武蔵はこの挑戦を快諾した。
    「弟の伝七郎は、相当腕の立つ剣士らしいが、頭は相当弱いと見える」
    そう言って武蔵は一人ほくそ笑むのだった。

    つづく

    今年は丙申だから四国88箇所を、逆打ちで回る計画中
    千里眼  詠天

    宮本武蔵の真実  詠天的研鑽編 その3

    毎度、千里眼の詠天です。

    関ヶ原から4年後の慶長9年、21歳になった武蔵は、いよいよ天下無双となるべく京都に上がります。
    なぜ京都だったのか?当時、日本の中心地であり、日本一と名高い剣術道場「吉岡道場」があったからです。
    この頃の武蔵は、人一倍野心に満ちており、いかに好条件で大名に取り立てられるのか?そればかり考えていました。
    自分を高く売るためには、大物を倒し名を挙げることが先決です。
    吉岡道場といえば、足利将軍家剣術指南役を務めた誰もが知っている名門で、名を挙げるには手っ取り早い相手だったからです。
    史実によれば、吉岡とは3度にわたり決闘をしています。
    京に上がった武蔵は、「吉岡道場」に直行するのですが、門前払いを喰らいます。
    当時名を挙げたい武芸者は武蔵以外にも五万といて、そのことごとくを吉岡は相手にしませんでした。
    いちいち相手をしていたらキリがないということでしょう。
    何しろ門弟500人とも言われる吉岡道場は、名実ともに日の本一の道場だったからです。
    (このままではラチがあかん…なんとしても頭首吉岡清十郎を、引張り出すことはできないものか?)
    そこで武蔵は、人の往来がある五条大橋に看板を立てたのです。
    『吉岡清十郎は、作州浪人である宮本武蔵が恐ろしいと見える。先日も、怖がって逃げてしまいよった』
    などと、吉岡道場をディスる内容の看板を立てたことによって、吉岡清十郎は武蔵の挑戦を受けざるを得ない状況になったのです。

    決闘場所は、蓮台野、時刻は早朝5時
    吉岡清十郎は、十数名の門弟を付近に潜ませて、ただ一人武蔵が来るのを待ち構えていた。
    しかしいつまで経っても武蔵は現れない…
    その場で武蔵が来るのを待つ清十郎。
    そして約2時間・・・
    いよいよシビレを切らし帰ろうと腰を上げた瞬間、どこからともなく武蔵が清十郎の目の前に現れた。
    「あっ!」と言う間もなく武蔵は手に持った木刀を清十郎の右肩に振り下ろす。
    その一撃で勝負は決した。
    右肩と鎖骨を砕かれ、その場にうずくまる清十郎。
    それを一瞥すると、踵を返し武蔵は走り去っていった。
    身を隠していた門弟たちが、清十郎に駆け寄った時、武蔵は一目散に逃げたあとだった。

    つづく

    長野県の金泉に浸かってきた!これでわしも金持ちに…ぐふふ
    千里眼 詠天

    宮本武蔵の真実  詠天的研鑽編 その2

    毎度、千里眼の詠天です。

    武蔵が残した書物に、『五輪の書』があります。
    内容は知らなくとも、聞いたことはあるでしょう。
    この本は、現代でも約70カ国で翻訳されており、学術書やビジネス本として扱われています。

    『五輪の書』と示すとおり、地、水、火、風、空の5巻構成から出来ており、本来の目的は、武蔵が作った剣術流派二天一流を、後世に残すための指南書なのです。
    内容としては、地の巻―兵法 水の巻―鍛錬法、心得 火の巻―戦術理論 風の巻―他流派の誤り 空の巻―真の道の極め(モラル)というラインナップです。
    剣の持ち方はもちろん、日々の生活態度や戦いへの心持ちなど、実生活に関わる事が事細かに記されています。
    驚きなのは、現代でも出版されており、海外ではビジネス書として愛用されているということです。
    詳しい内容については、興味のある方は一度手に取ってみてください。
    宮本武蔵、本名新免武蔵ノ守藤原玄信(しんめんたけぞうのかみふじわらのはるのぶ)五輪書ではそう名乗っています。

    ではストーリーをすすめましょう、武蔵は、13歳の時に有馬喜平を斬り16歳で秋山虎之助という武芸者と戦っています。
    小説などでは、その時期に義父新免無二斎は亡くなっており、武蔵は16歳で下級武士として関ヶ原を戦い、放浪の旅に出たということなのですが、史実としては、新免無二斎は、当時黒田官兵衛の軍に属していたことが、近年解っており、しかもかなり長生きだったことがわかっています。
    無二斎が、黒田軍にいる以上、武蔵も黒田軍の一員だったに違いありません。
    関ヶ原では、恐らく黒田長政に付き従い足軽などの下級武士として戦ったというのが、妥当な線でしょう。
    まだ弱冠16歳の武蔵では、目立った働きも出来ず仕官はならなかったのでしょうね。
    その後、黒田家の流れから姫路の木下家に奉公に出ます(このくだりは刑部姫参照)。
    そして21歳の頃、京都へ上り数々の剣豪と相まみえるのです。

    次回、吉岡一門との戦いの真実

    最近大きなパワーストーンを手に入れてご満悦な詠天

    宮本武蔵の真実  詠天的研鑽編 その1

    毎度、千里眼の詠天です。
    今回からまた長いシリーズを開始します。

    私は、学生時代に剣道をしていた事から、あらゆる剣豪の書籍を読んでいます。
    こと宮本武蔵については、10代の後半から様々な文献を読みあさり、現在も新事実が見つかるたびに情報を得ています。
    宮本武蔵という人物像を知れば知るほど、時代劇やコミックに描かれているイメージとはかけ離れており、妙な違和感を覚えます。
    そんなこんなを私自身の見解で『本当の宮本武蔵』という人物をご紹介したいと思います。
    恐らく皆さんの知っているものと違う点が多々あると思いますが、怒らずにご容赦ください。

    宮本武蔵と聞けば、「天下無双の剣豪」「巌流島の戦い」「バガボンド」など思い出すでしょう。
    イメージとしては、一途に剣の道に生き、一匹狼で放浪を続けるストイックな人物像を想像するかと思います。
    では、どんな人だったのか、2016年現在で解明されている事を中心にご紹介します。

    武蔵は、1582年に兵庫県米田村(現在の高砂市)に田原某という豪族の家に生を受けます。
    豪族ということは、おぼっちゃまとして生まれたのです。
    田原家は豊臣軍に抵抗したため、とり潰されてお家断絶となり、当時9歳の武蔵は、岡山県美作にいた新免無二斎に養子として出されます。
    剣豪として名を馳せていた無二斎は、武蔵を武士にするべく厳しく育てました。
    武蔵の剣術の基本は、無二斎に叩き込まれたものなのです。
    しかしドラマや小説においては、ドラマチックにするため、独学で剣術を磨いたとされています。

    そして13歳の時、有馬喜平という武芸者を決闘の上、切り伏せたのを皮切りに武蔵の剣豪へのストーリーは、始まるのです。
    その後、鎖鎌の宍戸梅軒、槍の宝蔵院、吉岡一門、佐々木小次郎らと計60数度の戦いをして一度の負けもなし。
    と自身の書いた五輪書に記載されていますが、そのほとんどが嘘であることがわかっており、そもそも五輪書自体が、何度も書き換えられているのではないかと言われているのです。

    次巻以降は、剣豪としてだけではなく、戦略家や芸術家としての側面をご紹介していきます。お楽しみに!
    つづく
    ※物語には諸説あります。

    白毛が混じってて相当落ち込んだ…詠天

    怖い話 (苦手な人は読まないで下さい)

    毎度、千里眼の詠天です。

    夏らしく怖い話をお届けしましょう。

    A子さんは、私の顧客から紹介されて連絡してきたのです。

    「詠天先生。最近引っ越した部屋が気持ち悪くて…見ていただけませんか?」という依頼でした。

    A子さんいわく「いつも誰かに見られている感じがする」というよくある心霊体験のような相談だったのです。

    連絡の3日後、彼女の住むマンションを見に行きました。

    3年前にリフォームされたデザイナーズマンションで隅々まで趣向を凝らした綺麗な建物でした。

    しかし彼女の部屋を見た瞬間に変な違和感を感じたのです。

    それは、洋間のベッドルームなのに、木製のクローゼットの上に和室で使う天袋があったのです。

    すぐに「これは?」と彼女に聞いたところ、元々和室だった部屋をリフォームの時に無理やり洋室にしたのですが、天袋だけはそのまま残ったということでした。

    実際その天袋を見たときに白い女の顔が、ぬ~と出てくるイメージが見えたので、ここに何かあると思い、懐中電灯を手に天袋に潜り込みました。

    奥の隅を見ると天井に少しだけ隙間があったので、正直、怖かったのですが思い切って開けてみたのです。

    そして天井裏をゆっくりと懐中電灯で照らすと配管の裏手におかしな紙の包みを見つけました。

    それを手にした瞬間に、全ての元凶はこれだと直感したのです。

    すぐに管理人さんを呼んでもらい、A子さんと管理人さんの前でその紙包を開封しました。

    一枚目の紙をめくると、半紙と思われる薄手の紙に「呪」と茶褐色の字で書かれています。間違いなく血文字です。

    さらに紙をめくると黒い物体が、出てきました。

    それは、女性のものと思われる大量の髪の毛で、よく見ると根元に毛根と思われる変色した肉片が付いていました。

    そうです。その髪は切ったものではなく引き抜いたものだったのです。しかも大量に。

    よほど恨みがこもったモノが、その部屋に取り憑いていたというお話です。

    このお話は、コラム用に切り取ったもので、本当はもっと長い恐怖のお話です。

    聞きたい方は、ぜひ千里眼へ…  千里眼 詠天

    柳原白蓮という生き方9『戦争そして悲母の会』

    毎度、千里眼の詠天です。
    吉原遊廓から逃げてきた花魁の光子を、手厚く保護した宮崎と燁子は、当時では出来なかった遊女の自由廃業を手助けしたことによって、苦難を強いられてきた遊女たちに燁子は一縷の光となったのです。
    その後も次々と遊女たちの救済活動を続け、時には現代でいう暴力団に命を狙われたこともありました。
    何度も危険な目に合いながらも、救済を続けたのは、九州時代に己の自由のために犠牲にしたおゆうや船子らへの罪滅ぼしだったのかも知れません。
    その後、龍介が再び病床につく事になりますが、燁子は遊女のみならず中国人留学生や行き場のなくなった華族の子弟、北小路家に残してきた発子に実子である功光をも家に住まわせ、皆の世話を一手に引き受けていたのです。
    そして昭和20年、学徒出陣していた長男香織が、鹿児島で爆撃を受けて戦死します。
    終戦の4日前のことでした。
    香織戦士の報を受け入れることのできない燁子は、一夜にして髪が白髪化するなど精神的に追い詰められます。
    年が明けて徐々に落ち着きを取り戻した頃、旧友である村岡花子の勧めでNHKのラジオ番組で息子を亡くした母の悲しみと平和を訴えかけることをきっかけに「悲母の会」を結成し、各地に支部を設けるため全国を行脚するのです。
    同時期に白蓮事件を題材とした映画「麗人」を当時の大スター原節子が主演し大ヒットします。
    悲劇のヒロインとして描かれた作品は、燁子の活動に拍車をかけ、またたく間に海外にも波及、世界連邦運動婦人部として大きな躍進を遂げるのです。
    その後、昭和36年には緑内障により両目の視力を失います。
    そして昭和42年2月22日
    龍介や娘夫婦の手厚い看護の元、81年の生涯に終止符を打ちます。
    家柄や歴史に翻弄されながらも、激動の奔流に身を投げ、自身の愛に生きた柳原白蓮。
    晩年は、夫婦で穏やかに歌を詠み過ごしたそうです。
    おわり

     ようやく最終回です。ご愛読ありがとうございました。
    千里眼 詠天

    柳原白蓮という生き方8『関東大震災』

    毎度、千里眼の詠天です。

    東京御茶ノ水にある中野本家に幽閉された燁子と長男香織は、依然として自由を与えられることはなかった。
    それでも京都の尼寺での生活よりは、数段良い環境で過ごしていた秋に日本を揺るがす大事件が起こります。

    1923年9月1日関東大震災発生。

    燁子は、大炎上する中野本家から一家と共に駒込の松平家へと避難しました。
    貴族とは言え、緊急時にあっては、着る物や食べ物に困っていたその時、松本蔵次という男が、着る物とおにぎりを、持って参上した。
    この時、龍介は持病の結核が悪化しており、病床で動けなかったが、
    燁子が不自由していてはいけないと父の親友である松本に頼み持たせたものだった。

    それを知った中野は、宮崎家の真意に胸を打たれ、何の連絡も寄越さない柳原家に大義を果たすことはないと、
    燁子の監禁を解き宮崎家へと帰す決心をするのでした。

    出奔事件から2年が経ち、ようやく燁子は宮崎家で暮らすことになりました。

    それでも義光は結婚を許さなかったため、龍介は東京地裁に香織が自分の嫡子であることを証明する訴えを起こします。
    その同時期、伝右衛門にも宮内庁から香織を実子として戸籍に入れるよう要請がされていたが、
    これを跳ね除け、自ら精子検査を受け自分が生殖不能であることを証明したため、
    香織は、燁子の不義による子供であると証明されたのです。

    これにより、燁子は「出奔」だけではなく「姦通」が明らかとなり華族から除籍される事となりました。
    そして以前京都で判を押した婚姻届が、4年を経た1925年に提出されたのでした。

    「男尊女卑」の傾向が強かった時代に自己主張し、愛を貫いた燁子は、
    ある意味次代のジャンヌ・ダルクであり、賛否はあったものの、報われない女性たちの憧れとなりました。
    そんな燁子を頼り、吉原遊郭から花魁の光子が助けを求めて駆け込みました。

    燁子は、光子を哀れに思い、自由廃業の手助けをしました。
    その一件から、宮崎家は報われない女性達の駆け込み寺へと変貌していくのです。

     つづく

     ぶっちゃけ6話で終わらせようと思ったのに・・・      千里眼 詠天

    柳原白蓮という生き方7『白蓮事件』

    毎度、千里眼の詠天です。

    燁子と龍介が行った、新聞を使った縁切り行為を世間は「白蓮事件」と名付け、連日燁子と伝右衛門の名前が紙面を賑わせました。

    これは、姦通罪を恐れた龍介が知人の新聞記者とともに仕組んだもので、これまで「女は黙って男の言う事を聞け」という風潮を根底から覆すセンセーショナルなものでした。
    悲劇のヒロインとして燁子を祭り上げた朝日新聞に対し、毎日新聞は世紀の悪女として熾烈なマスコミ合戦が行われたのです。

    伝右衛門側は、当初はインタビューという形で反撃したのですが、その後一切コメントせず「男は黙して語らず」を貫いたのです。
    これにより、燁子は女社会実現への確立的シンボルとなり、伝右衛門は妻を寝取られたのにも関わらず、男としての名を挙げたのです。

    その後、金品や株券を返還する事で、燁子の離縁が正式に決まり、1921年11月晴れて龍介との生活がスタートしました。

    しかしわずか二ヶ月後、姉の信子と兄嫁の花子が、龍介の留守中に訪れ、兄義光が窮地にあることを伝え「ふたりの結婚を説得させる」という名目で身重の燁子を連れ出します。

    これは、連れ出すための口実で、柳原家では龍介との縁を切らせるために、燁子を京都の尼寺に監禁したのです。
    新聞には、「激高した義光が燁子の髪を切り,尼として改心させた」という記事が載り、龍介は燁子の動向を新聞でしか知ることができなかったのです。

    同年5月に、尼寺で龍介との長男を出産しますが、華族としての体面を気にする義光は伝右衛門との子供として出生届を出すことを図り、生まれたばかりの子供を燁子から取り上げます。傷心の燁子は、密かに龍介と連絡を取り、その6月に尼寺で再会を果たしました。

    その折、龍介はまだ見ぬ我が子に「香織」と命名し、提出の目処がない婚姻届に判を押したのでした。
    その後、出口王仁三郎らの助けで、子供は燁子の手に戻され、尼寺から東京の中野家で幽閉されることになったのです。
    つづく

     最近味噌チゲがやたらうまい…千里眼 詠天

    柳原白蓮という生き方6『福岡出奔・白蓮事件』

    毎度、千里眼の詠天です。

    燁子は、本出版のため宮崎龍介と事務的な手紙のやりとりが始まった。
    しかしいつしかその手紙は、密かに心を伝え合う恋文へと変化していき、今でいう遠距離恋愛が始まったのです。

    その後も伝右衛門の上京に付き添っては、何かしらの理由を付け龍介との逢瀬を楽しみ、情熱的で激しい愛情表現で彩られた恋文のやりとりは、二人の激情に火を点けるには十分でした。
    その二人の仲が雑誌『解放』の編集部に広がり、「華族出のブルジョアと恋愛遊戯に耽る」のは思想の敵であるとされ、龍介は編集部を除名されてしまいます。
    その一件が、さらに燁子の情熱に拍車をかけ、ついには福岡出奔を決意するに至るのです。

    大正10年8月、京都で龍介との逢瀬で燁子は身ごもりました。
    この時代、まだ姦通罪があり不貞を行った者は刑事罰に処せられる時代でした。
    一刻も早く出奔しなければ、自分はまだしもお腹の子供まで殺されてしまう。
    燁子は、怒涛の力技を行使し、伝右衛門のお気に入りの芸妓「舟子」を大金で身請し、以前の「おゆう」同様、妾として伝右衛門にあてがい、そのスキに龍介や新聞記者の赤松らと結託して出奔への計画を練るのでした。
    燁子36歳、龍介29歳。
    同年10月20日
    東京日本橋の旅館島屋に夫婦で滞在し、燁子は親族に合うことを理由に東京に残ることを告げます。
    そして福岡に帰る伝右衛門を見送り、そのまま失踪するのでした。

    白蓮事件の始まりです。
    22日 朝日新聞のトップニュースに「筑紫の女王伊藤燁子 伊藤伝右衛門氏に絶縁状を送りつけ姿をくらます」の見出しで失踪の第一報が紙面に踊ると、当事者である龍介の談話を掲載。
    朝日新聞の単独スクープとして公表されました。
    しかも夕刊には、燁子直筆の絶縁状が掲載されたのです。
    このスクープは、姦通罪を恐れた龍介や赤松記者が、ただの不貞問題ではなく、マスコミを通じて男尊女卑による人権問題に発展させようとして仕組んだことでした。

    ここから苛烈な取材戦争が始まるのです。

    つづく

    そろそろ雪の気配やね・・・   詠天

    柳原白蓮という生き方5 『筑紫の女王』

    毎度、千里眼の詠天です。
    大金持ちであるがゆえに女関係にだらしがない伝右衛門との歪んだ夫婦生活を、赤裸々に短歌にして発表し続ける燁子に、師である佐佐木信綱は、本名ではなく雅号を勧めました。
    そして明治44年「歌人白蓮」が誕生したのです。
    その後も福岡社交界の華として活動し続け、大正4年、処女作である歌集「踏絵」を自費出版します。
    「伊藤家の嫁が、本を出すのに恥ずかしいものは出せん」と全額を伝右衛門が出資し、挿絵には人気画家の竹久夢二を起用するなど非常に豪華な装丁がなされたのです。
    同年、大分県に広大な別荘を落成し文化人が集うサロンとして活用され、燁子は日頃の鬱憤を、大学教授や陸軍中将、新聞記者などと歌による擬似恋愛を楽しんでいました。

    大正6年 福岡炭鉱で贈収賄疑惑が浮上し、筑豊疑獄事件として検察による大規模な捜査が実施されました。
    贈賄側の証人として燁子が出廷したことにより大きな話題となり、朝日新聞は「筑紫の女王燁子」というタイトルで連載を始め、7年前の結婚から不遇な結婚生活などを白蓮の歌を織り交ぜて記事にしたことで全国的に筑紫の女王白蓮として知られることになります。
    大正8年には、菊池寛が燁子をモデルとした小説「真珠夫人」を刊行し大ベストセラーとなります。
    白蓮の活躍の場は歌だけに留まらず、大正8年には戯曲「指鬘外道(しまんげどう)」を雑誌「解放」に発表し、話題となり本にする計画が立ち上がり、「解放」の主筆をしていた宮崎龍介が打ち合わせのため別府の別荘を訪れることとなります。
    龍介は、燁子より7歳年下の27歳で、東京帝国大学の3年生でした。

    この会合が、二人にとって運命的な出会いとなります。
    龍介の父は、孫文を支援した第一人者であり、バリバリの社会運動家でした。
    その血を強く引く龍介も、当時の軍国主義を批判し社会変革への夢を持っていたのです。
    燁子にとってこれまでに周囲にいなかった人種の龍介に大きく心を動かされていくのです。

    つづく
     
    気付けばもうこんな季節・・・     

    千里眼 詠天

    柳原白蓮という生き方4『黄金結婚の果て』

    毎度、千里眼の詠天です。

    1911年2月日比谷大神宮で大々的な結婚式が執り行われ、帝国ホテルでは盛大な披露宴が催されました。
    新聞では、3日間に渡り二人の経歴や馴れ初めを報じ、良くも悪くも大金の渦巻いた『黄金結婚』と銘打たれたのです。
    そして燁子は福岡の伊藤家に迎え入れられます。
    それは、豪華で瀟洒な贅を尽くした大豪邸で燁子のために大改築を施したのです。

    しかし燁子が衝撃を受けたのは、大豪邸ではなく伊藤家の複雑な家族関係でした。
    伝右衛門に子供は居ないと聞いていたのに、実際には三人の子供がおり、妾に産ませた12歳の娘、静子。
    妹の息子で大学生の金次、その弟の小学生の八郎を養子にしていたのです。

    伝右衛門は若い頃から放蕩が過ぎたせいで、子供のできない体であったため、燁子とは実子を持つことができず、世間的には「出来損ないの嫁」と呼ばれながら、大勢の使用人、女中、下男を抱える大家族の女主人となるのです。

    その立場は非常に微妙なもので、伝右衛門は燁子を迎えるにあたり、何人もいる妾と別れるなど身辺整理はしていたものの、側近の妾で女中頭のサキは家を切り盛りするために辞めさせることができず、何かと燁子と衝突が絶えませんでした。

    一時は、実質的権限を持つサキが 燁子を東京に送り返すという大問題となりますが、結局はサキを家から出すことで決着を見ます。

    しかし燁子は、既に柳原家に自分の帰る場所はなく、伊藤家を出されたら行き場所のないことを実感するのです。
    しかも、あちらこちらで女性関係を満喫する伝右衛門に淋病を移された事で、気位の高い燁子は大きな屈辱を受け、夫婦間には深い溝が出来てしまいます。

    愛を求めて福岡に来たはずなのに、さらなる孤独感を感じていたおり、燁子が信頼を寄せていたのは、当時京都に住んでいた伝右衛門の古くからの妾「野口サト」でした。
    サトに懇願し、妹の「おゆう」を女中として福岡に迎えいれ、後にそのおゆうを口説き伝右衛門の妾に据えます。

    燁子は、夫に妾をあてがってまで、理解のある妻として福岡での立場を守ろうと必死だったのです。

    つづく

    なごり雪の季節やね…詠天

    柳原白蓮という生き方3『歌人としての目覚め』

    毎度、千里眼の詠天です。
    東洋英和女学校に入学した燁子は、始め抵抗はあったものの年下の女生徒とも上手く付き合い、学生生活を満喫していました。
    中でもドラマになった、後の翻訳家村岡花子とは、服心の友と呼び合う仲になり、将来歌人として生きたいとの意思を固めます。
    姉、信子の勧めで歌人佐佐木信綱に師事したことも「白蓮」としてのスキルアップに大きく繋がったことでしょう。
    燁子にとって、この時期が一番ピュアで黄金色の日々だったのかもしれません。

    1910年3月 英和所学校を卒業
    同年11月、燁子は兄、義光に呼ばれ上野精養軒で九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と出会います。
    燁子はそれを見合いとは聞かされておらず、また自分の知らぬ間に縁談の話がまとめられていたのです。

    当時50歳の伝右衛門は、妻を亡くしたばかりで、気を揉んだ周囲が早く新たらしい嫁を、しかもそれは爵位のある一流の令嬢をと仲介人が伝右衛門へ のゴマすりを兼ねて勧めた縁談だったのです。
    しかも一番それを望んだのは、兄の義光でした。

    伯爵家の議員といえども選挙には金が掛かる。
    当時は華族といえども職がなければ、資金調達に苦労する時代でした。
    しかも伝右衛門は、一介の炭鉱夫からの叩き上げであり、学も家柄もないが、ただ金だけは溢れるほど持っている富豪です。
    この縁談は、伝右衛門にとって伯爵家というブランドを手に入れる絶好の機会であり、義光にとっても多額の献金を得るチャンスだったのです。
    巷では、「伯爵家の令嬢が炭鉱王に売りに出された」と揶揄されたのです。
    もちろん燁子も25歳も年齢差のある結婚に悩みましたが、伝右衛門が自分を大事にしてくれることと九州に女学校を経営していること、何より不器用 で豪快な伝右衛門を愛おしく感じたことから結婚を決意します。
    幼い頃から愛に飢えていた燁子は、これで本当の愛を知ることが出来ると期待を込めた決断だったのです。

    つづく

    最近老眼鏡をプレゼントされた… 詠天

    柳原白蓮という生き方2 『幽閉生活』

    毎度、千里眼の詠天です。
    北大路資武(すけたけ)との結婚について燁子に選択の余地はありませんでした。
    妾の子であることを知った以上、柳原家に帰るわけにも行かず、当時の華族法や北大路家家訓により承諾を余儀なくされるのです。
    半ばレイプされたかのように凌辱された燁子は15歳で長男功光を産みます。
    その半年後、北大路家は京都に引っ越すこととなりました。
    子供は、義母である久子に取り上げられ、学校にも行かせてもらえず、資武は女中に手を出しては愛情の一つも示さない。
    そんな中で燁子は孤独に耐えていました。

    しかし5年経った頃、燁子の申し立てにより柳原家との話し合いがもたれ離婚が成立します。
    20歳になった燁子は、ようやく柳原家に戻ることになったのです。

    しかし苦難はまだ続きます。
    出戻りで出来損ないの娘というレッテルを貼られた燁子は、本家に入れてもらえず、母初子の隠居先に幽閉され、門から一歩も外に出ることを許されませんでした。

    その間約4年間、小説や和歌集を差し入れてもらい、ひたすら読書に勤しんだのです。
    そんな折、柳原家では燁子の政略結婚第2弾が、粛々と進められていました。
    それを知った燁子は、また自分の意志を無視して家柄の道具にされてしまうと感じ、脱走しました。
    しかし行くあてのない燁子は、すぐに捕まってします。
    どうしても政略結婚の道具にされたくないと訴える燁子を、不憫に思った姉、信子が燁子を庇い、政治家で華族院議員の兄、義光夫妻の元に預けます。
    実の所、義光も出戻りの妹を受け入れることには抵抗があり、厄介なものを受け入れてしまったと後悔しきりでした。
    そこで 妻花子の家庭教師が卒業生である縁を辿り、東洋英和女学校に入学させ、寄宿舎生活をさせることで厄介払いするのです。

    かくして23歳になった燁子の新たな学生生活が始まったのです。

    続・・・

    今は秋だがこのコラムが載るのは冬あたりか…
    千里眼 詠天

    柳原白蓮という生き方 1

    毎度、千里眼の詠天です。
    今回からシリーズで柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)についてお話を綴りたいと思います。
    白蓮は俳号であり、本名は燁子(あきこ)
    白蓮という名を聞いてピンと来る方もおられるかも知れません。
    先日のNHK朝のテレビ小説「花子とアン」で主人公村岡花子の腹心の友『蓮様』こと葉山蓮子のことです。

    1885年(明治18年)10月15日生柳原家は、天皇家と強い縁が有り、燁子は大正天皇の従妹にあたります。
    柳原光三伯爵が芸妓に産ませた娘で、生後7日で正妻である初子の次女として入籍、その後里子に出されます。
    そして6歳の頃柳原家に戻され、華族の令嬢として厳しくしつけられました。
    燁子は長く初子を実の母と思っていたのです

    9歳になり、燁子は遠縁にあたる子爵の北大路随光の養女として迎えられます。
    しかしそこには政略的な意図がありました。
    北大路随光には子がおらず、跡取りとして柳原家より光三の甥を養子として出しておりましたが、その後随光が女中を孕ませ、長男として資武(すけたけ)が生まれます。
    このことで柳原家との養子関係が解消されるのですが、その条件として燁子を資武と結婚させることしたのです。

    燁子は何も知らぬまま、北大路家の養女となりました。
    そこで随光に句や歌を習いました。
    幼いながら燁子は、天才歌人としての片鱗を見せ、随光は大層可愛がったそうです。
    13歳になった頃、燁子は才色兼備の美少女へと成長します。
    もちろん年頃の女子なので他校の男子生徒が気になりますし、人気もかなりのものでした。

    それを快く思わなかったのは、義兄で婚約者の資武です。
    この頃20歳の資武は、知的障害があり、燁子が男子生徒と同席するだけでも嫉妬に狂い、家では暴力が待っていました。
    婚約者であることはおろか、何も知らされていない燁子は、資武に恐怖し嫌い抜きます。
    しかし北大路家では結婚に向けて動き出します。
    燁子はそれに激しく抵抗するのですが、資武の一言で沈黙することになります。
    「お前なんか芸妓に産ませた外子ではないか!そんなお前を嫁にもらってやると言っているのだ。ありがたく思え」
    燁子は、初子が母であると信じていましたが、事実を知り柳原家に戻れない事、そして13歳の自分には逃げ道がないことを思い知らされたのです。

    つづく

    最近また太り気味…だって美味しいんだもん 詠天

    土方歳三7 『戊辰戦争』

    土方歳三、生前の写真が残されている。
    有名な写真なので、目にした方も多いと思うが、それは新選組の姿ではなく髷を切り、首にスカーフを巻き、洋装でブーツを履き、腰にピストル左手に刀という写真です。

    鳥羽伏見での敗戦により、もはや刀の時代ではないと痛感した土方は、古い武士の姿を捨て、西洋軍人のスタイルに変革したのです。
    それは「武士よりも武士らしくあれ」と説いた新選組副長ではなく、ある意味武士へのこだわりを捨て、病魔に倒れた沖田総司、斬首を余儀なくされた近藤勇ら亡くなった仲間達のために勝たねばならないという決意の表れが、その写真に込められているのです。
    それは格好だけではなく、西洋式の戦術を習い、勝つための戦略を取り入れる柔軟性をも手に入れたのです。

    34歳になった土方は、蝦夷(現北海道)函館で最後の決戦に出ることになります。
    戊辰戦争の始まりです。
    旧幕府軍海軍副総裁の榎本武揚は函館に蝦夷共和国を立ち上げ、五稜郭を起点に近代的な国造りを目指していました。
    そこで土方は陸軍奉行並を拝命し、事実上陸軍のナンバー2として手腕をふるいます。
    周りは元幕府の高官やエリートであり、農家出身の土方は遂にここまで登り詰めたのです。
    しかし新政府軍と蝦夷軍との戦力差は、歴然としており、土方自身「勝てる見込みは無い」と公言していました。
    「しかし軍を任された以上、全力を持ってそれにあたる。それが、新選組魂である」
    やはりどこにあっても土方は新選組の心を忘れることはなかったのです。
    攻めてくる新政府軍をことごとく打ち破り、近代戦略の才を知らしめました。
    明治2年5月11日 新政府軍は、函館を包囲し砲台の一角である弁天台場が孤立してしまいます。
    もはや奪還不可能という惨状にもかかわらず土方は一騎で出陣しました。
    もはや勝ち目のない戦いに歩兵を無駄死にさせないため、ただ一人で仲間の救出のため飛び出したのです。
    なぜなら弁天台場で戦っているのは、新選組の仲間達だったのです。
    そして1発の銃弾が土方を貫きました。

    享年35歳
    夢を抱き、大志のため熱く生涯を全うするだけのために純粋に生きた土方歳三は幕を下ろしたのです。

    土方歳三は最後までかっこいい…  詠天

    土方歳三6 『大政奉還』

    33歳になった土方は、近藤とともに徳川家幕臣に取り立てる正式辞令が与えられ、夢であった武士への望みを叶えたのです。
    農民の子が武士になれたのは、まことに稀有なことであり、大出世でした。
    人斬りで鬼の副長として恐れられていた土方ですが、実は筆まめで知られるほど達筆で、事あるごとに故郷である多摩の実家に手紙を書いていました。
    それには、家族を気遣うことももちろん、新選組が京都で肩身の狭い思いをしていた頃も、功績をあげた時も事細かに記していたのです。
    150年経った今もその手紙のほとんどが残っています。

    幕臣となり政府の仕事を任されていた頃には、「京都のお茶屋ではモテてモテて仕方がない」という内容の手紙を送っています。
    これは自慢の手紙ではなく、彼特有のユーモアを織り交ぜた文なのです。
    鬼と呼ばれる側面には、家族を思い心配させないようとする細やかな配慮があったのです。

    さて、池田屋の一件から新選組には、入隊者が相次いで殺到しました。
    そのほとんどが農民や商人であり、やはり農民から武士へと躍進した土方に憧れた者が多かったようです。
    念願の幕臣となり、隊員も200人を超え、新選組も安泰かと思われた矢先、大事件が起こります。
    坂本龍馬らの働きにより大政奉還が成ったのです。
    これにより徳川幕府は崩壊。
    鳥羽伏見の戦いを機に薩長による新政府軍との戦いが激化してゆくのです。
    新選組は、旧幕府軍の伏見奉行所の警護にあたりますが、圧倒的な火力差で惨敗します。
    この敗戦により、もはや剣を取っての戦いはではなく、鉄砲や大砲でなければ戦えない事を痛感するのです。
    その後江戸に引き揚げるも、新政府軍による無血開城で江戸をも追われ、念願の幕臣となったのも束の間、朝廷に刃向かう逆賊として追われることになるのです。

    つづく・・・

    次回、最終回予定…なのか?  詠天

    土方歳三5 『池田屋騒動』

    長州、肥後、土佐の尊皇攘夷派(以降尊攘派)による天皇拉致奪取の情報をつかんだ新選組は、会津藩と共同で捜査することになります。
    しかしこのまま一緒に捜査していたのでは、手柄は会津藩に持って行かれてしまう。
    そして襲撃計画の会合が、池田屋か四国屋で執り行われるという情報を掴んだ土方は、「何としても新選組として手柄を立てなくては!」
    と、会津藩を待たずに近藤組は池田屋、土方組は四国屋へと二手に分かれて捜索を開始します。

    沖田総司、永倉新八。藤堂平助らを従えた近藤組が、池田屋の前に着くと店主が慌ただしく対応に顔を出します。
    それが不自然と見た途端、近藤は戸口を蹴倒し、2階へ駆け上がりました。
    先の4人が中に踏み込み、残りの隊士は逃げ出す者を捕らえるべく外を固めました。
    「御用改めである!」
    近藤の野太い声が響き渡ると、いきなり白刃が近藤の顔の前に突き出されました。
    中に踏み込んだ4人の新選組隊士に抜刀した30人あまりの尊攘派が一斉に襲いかかってきたのです。

    近藤の剛剣が唸りを上げ、沖田の華麗な剣技が尊攘派をなで斬りにしていきます。
    しかし藤堂はずれた鉢金から額を割られその血が目に入ったことから戦線離脱、沖田は持病の結核による発作で離脱を余儀なくされました。
    池田屋内には、まだ20数名の尊攘派が、これでもかと刀を振るっているのに対し新選組は近藤と藤堂の二人だけ。

    まさに万事休すの状況に、四国屋から土方、斎藤、原田らが合流すると形勢は逆転し、尊攘派7名を殺害、4名を負傷させ、23名を逮捕したのです。
    会津藩が到着した頃には、すべての騒動が収まり、池田屋事件の大手柄は、新選組が独占することとなり、天下に新選組ありと知らしめたのです。

    土方歳三4 『鬼の副長』

    新局長として近藤を据え一枚岩となった新選組ですが、すぐに評判が上がったわけではありません。
    1863年8月18日、御所の警護を依頼されます。
    それは天皇や公家を護るという大仕事でした。

    新選組も御所に急行し任に就こうとしましたが、既に警護に就いていた兵士たちに足止めされ、御所に立ち入ることすら許されませんでした。
    しかもその兵士たちは会津藩の武士であり、新選組とは仲間であるはずなのに、曲者扱いされ門前払いを食らったのです。
    やはり寄せ集めの浪人軍団という位置づけは変わることはなく、肩身の狭い思いをしていたのです。

    そんな状況に嫌気が差した隊士たちは、街中でタダ飯やタダ酒を喰らい、商人から金を巻き上げるといった横暴な振る舞いをしたり、扱いに耐えられず脱走する者が増えたのです。

    土方は「新選組隊士は、武士よりも武士らしくあらねばならない」という信条を持ち、『誠』の旗掲げます。
    ダンダラと呼ばれる波に誠の文字。
    誠は誠実や士道を表し、ダンダラは赤穂浪士に見られる忠義の印なのです。
    そして局中法度を設け、士道に背く行為をした者や脱走した者をことごとく切腹もしくは斬捨て、士道を重んずる新選組の鬼の副長として君臨するのです。
    それも、主君の命を帯びて、武士として生きたい、武士として死にたいという純粋な思いから鬼と呼ばれることを甘んじて受け入れたからなのです。

    京都に来てから一年が経った頃、新選組にとって千載一遇のチャンスが訪れます。
    反幕府派らしき商人がいるという情報を受けた新選組が、その住処に踏み込むと大量の鉄砲や武器が見つかったのです。
    大きな陰謀があると睨んだ土方は、この男を拷問にかけます。
    そして聞き出した情報は、大変なものでした。
    それは反幕府派の一軍が、御所に火をかけて混乱を誘い、その隙に天皇を拉致しようと企んでいたのです。

    つづく

    ヒザの痛みも回復してきた 詠天

    土方歳三3 『浪士隊から新選組へ』 

    近藤勇、沖田総司らとともに浪士隊の試験に合格し、憧れだった武士として京都に上がることになったのです。

    将軍守護のもと、会津藩に迎えられた浪士隊は、将軍守護の任を解かれたあと京都自警団・壬生浪士隊として結成します。現代でいう警察です。
    しかし一部の浪士たちが、傍若無人な振る舞いでむやみに罪人を殺すことから“壬生の狼(みぶろ)”と揶揄され、嫌われていたのです。

    1863年8月に政変がおき、会津藩主・松平容保より新選組と名付けられます。

    ですが新選組の立場は、非常に低いものでした。
    なぜなら新選組は、主君をもたない浪人の集まりであり、会津藩管轄ではあるが、あくまで臨時雇用というアルバイト的な扱いしかされていなかったのです。
    近藤と土方は、ただの二本差し(武士)になるのではなく、主君に仕える武士になりたいという希望を持っていました。
    そのためには大きな功績を残さなければならない、そんな焦りを感じていたことでしょう。

    しかし現状を甘んじて受け入れ、守護代新選組の名を笠に着て、好き勝手していた者がいます。
    それは初代局長・芹沢鴨です。

    芹沢は、元水戸藩の幕臣で、新選組でも一番の功績と、なにより士族であるということから局長に任命されましたが、土方達のように大志があるわけではなく、自分の欲望のために新選組を利用していたのです。

    新選組の名を落としめた張本人といっても良いかもしれません。
    新選組内は、芹沢派と近藤派に2分され、事あるごとに対立をくり返していました。

    ドラマでは極悪人として描かれることの多い芹沢ですが、実は豪胆で、自己中なわりに責任感が強く、しかもお茶目で憎めないキャラクターをしていたようです。

    しかし、このままでは新選組が日の目を見ることはないと考えた土方は、沖田・山南・原田らとともに暗殺を実行し、その後釜に近藤を局長として据えることに成功するのです。
    つづく

    冬の間に体重が減った私は特異体質なのでしょうか?
    詠天

    土方歳三2 『近藤勇、誕生数は9』

    毎度、千里眼の詠天です。
    さて、前回の続きです。
    近藤勇は1834年11月9日、宮川家の三男として生まれ、土方と同じく農民の子でした。
    誕生数は9。しかし霊数11を含んでいるので、少し変わった性格を有していたようです

    誕生数9の基本性格は、慈愛を持った人で困っている人を見すごせない人のいい性格です。
    どのドラマでも描かれている近藤像は、まさにこれではないでしょうか。

    しかし近藤は、農民の子でありながら剣の腕を買われ、天然理心流試衛館長の近藤周助の養子となり、農民から武士になった稀な人物だったのです。
    もちろん負けず嫌いの土方は、一つ違いの近藤に対してライバル心を燃やします。
    しかし剣では敵わず、立ち居振る舞いもひとつ違いとは思えぬほど落ち着いており、よほど大人に映ったのです。

    そして実際に農民から武士になった近藤を目の当たりにすることで、さらに武士への憧れは強くなるのです。
    どの職場でも長続きしなかった土方ですが、実家秘伝の石田散薬の行商は熱心に続けていました。
    なぜなら各地に剣術仲間がおり、折を見ては果し合いをする武者修行を兼ねていたのです。

    25歳の時、土方はすでに義兄弟の契を結んでいた近藤勇の、天然理心流に正式入門します。
    自宅の一角に道場を作るほどの力の入れようで、武士になる夢が日に日に大きくなっていました。
    そんな土方に転機が訪れます。

    黒船来航です。
    開国する、しないで揉めに揉め、京都では毎日のように反対勢力による暗殺事件が頻発しました。
    それを諌めるため、将軍徳川家茂が上洛するにあたり、護衛する武官を一般公募したのです。
    それに近藤、沖田総司ら試衛館の仲間数名とともに志願しました。

    土方歳三28歳にして、ようやく訪れた千載一遇のチャンスでした。

    つづく

    なんで酒を飲んで深夜2時を回るとラーメンが恋しくなるのだろう?
    詠天

    土方歳三に見る誕生数8

     毎度、千里眼の詠天です。
    今回は新選組《鬼の副長》と謳われた土方歳三についてお話しましょう。

    1835年5月31日、農民の子として生を受けます。
    彼の誕生日を数秘術で見ると、誕生数は8。
    8の基本性格は、激しい気性で極度の負けず嫌い、自己中で一匹狼気質だがリーダーの資質に優れている。
    こうやって見ると、なんか土方って性格通りに生きてた感じですね。

    さて、今で言う東京の日野市の農家で生まれた土方ですが、農家といっても貧乏ではありません。
    豪農として有名なお家柄で、末っ子のおぼっちゃまとして育てられたのです。
    元の性格が自己中の負けず嫌い、しかも末っ子ですから、わがまま放題炸裂で育ってきたわけです。
    幼い頃の逸話に、旅のお侍さんが子供の土方にまんじゅうを差し出したことがありましたが、土方はこれを断り、今で言うナイフくらいの小刀をほしがったという話があります。
    物心つく前から刀や武器に興味があったのですね。

    14歳の頃、当時の呉服問屋(現在の松坂屋)に丁稚奉公に行きます。
    しかし元々勝気で負けず嫌いな性格が災いし、番頭と大ゲンカの後、ほかの支店を転々とさせられます。
    17歳の頃には、女中を妊娠させて郷里の日野に逃げ帰ります。
    この頃から浮名を流していたんですね。

    土方は、幼い頃から武士に憧れていましたが、当時、徳川幕府の敷いた武家士族制度により、農民から武士になることはありえないことでした。
    それでも武士になりたいという漠然とした夢を持ちつつ、郷里の剣術道場に通います。
    そこで土方の運命を変える出会いがありました。

    それは、後の新選組局長、近藤勇との出会いでした。
    土方歳三17歳、近藤勇18歳。

    一つ違いの近藤との出会いにより、漠然とした夢が希望へと変貌し、運命は加速していくのです。

    つづく

    宮本武蔵とどっちが良かった?

    千里眼 詠天

    聖杯伝説(最終回)『そして伝説へ』

    毎度、詠天です。
    毎月書いてきました聖杯伝説ですが、いよいよ物語は終焉となります。

    アメリカ国内で『聖なる幾何学』により作られた最古の建造物は、テンプル騎士団が建てたと思われるニューポートタワーだといわれています。
    聖なる幾何学が、古代エジプトで生まれたものだとしたら、それは聖杯に繋がる概念なのかもしれません。

    アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンは、ワシントンDCを四角い街にしたいと考えました。
    そして街の形は、10マイル四方に正方形の街となったのです。
    10は『完全なる数字』として考えられており、これは『完全なる国家を作る』という思想の現れだったのです。
    これらの知識も、聖なる幾何学に基づくものであることは言うまでもありません。
    ワシントンDCという街こそが、聖なる幾何学により造られた街なのです。

    テンプル騎士団、ヘンリーシンクレア、そしてフリーメイソンは、本当に財宝や聖杯をアメリカに持ち込んだのでしょうか?

    もしその聖杯が、物質的な物ではなく知識だったとしたら……。
    これまでになかった建造物や新しい街作り、それらが財宝であると説明がつきます。
    テンプル騎士団が持ちこんだ知識をフリーメイソンが引き継ぎ、新たなるエルサレムを作り上げた、ということなのかもしれません。
     
    だとすれば、神殿の丘で見つけた財宝、それは新エルサレム『アメリカ合衆国』だったのです。
    テンプル騎士団を再生するという願いが具現化したものが、アメリカという国なのかもしれません。
    テンプル騎士団が、古代スカンジナビア人とともに土地所有権を主張したケンジントン・ルーンストーン、それが数十年後ヘンリー・シンクレアがアメリカに向かう旅のきっかけとなり、聖杯や財宝という名の知識が持ち込まれたのではないでしょうか。

    聖杯とは聖なる幾何学であり、財宝はそれを伴う建築技術なのかも知れません。
    なにせ、聖杯を見たものは、誰一人としていないのですからね。
    1898年、オロフ・オーマンが見つけたケンジントン・ルーンストーンは、間違いなく中世のものであり、それは世界を驚愕させるほど、大きな歴史のかけらだったのかもしれません。

    終 

    これは事実ではありません。
    ただ信憑性の高い都市伝説として楽しんでいただけたら幸いです。

    千里眼 詠天

    聖杯伝説13『聖なる幾何学』

    毎度、詠天です。新年あけましておめでとうございます。
    昨年より書かせていただいている、これまでのストーリーをおさらいしてみましょう。

    テンプル騎士団は、聖母マリアを崇めていたことから偶像崇拝の汚名を着せられ、解体へと向かいました。
    世界最大の秘密結社フリーメイソンの儀式や作法に、秘密主義やシンボリズムがあり、寓話や暗号を使って秘密裏に活動しなければならなかったのは、テンプル騎士団の過去が影響しているのでしょう。
     
    分散した騎士団は、スコットランドの独立を助け、シンクレア家そしてフリーメイソンと関わりを持ち、ポルトガルに渡った騎士団は、キリストの騎士団として生まれ変わり、100年後にコロンブスを輩出することになります。
    さらに500年後、ケンジントンやポートランドでルーンストーンが見つかります。
    これらすべてに共通するのは『カギ付きのX』です。

    映画『ダヴィンチ・コード』の終幕の舞台となる、スコットランドのロスリンチャペルもシンクレア家が設立したもので、内部にはカギ付きのXが見つかっています。
    カギ付きのXは、謎のすべてを解く暗号なのかもしれません。
     
    そして、カギ付きのXの他にテンプル騎士団とフリーメイソンに共通するものは『聖なる幾何学』です。
     
    これはフリーメイソンが掲げる概念であり、文字や数字がなかった時代、人々は形などを通じて神への信仰を表現していました。
    聖なる幾何学で重要なのは、科学的、精神的に価値のある神聖な目印や、天文学的配列を取り入れたところです。
    世界各地に見られるストーンサークルなどが最たるものでしょう。

    天文学的配列を重要視して作られた建造物は、ニューポートタワーとロスリンチャペルです。
    この二つに符合するのは、石工職人…フリーメイソンの由来となる職業の人たちです。

    古代エジプトのピラミッドに見られるとおり、昔から石工職人は、天文学を重要視していたと考えられます。
    そしてワシントンDCのレイアウトを作ったのも、石工職人なのです。
    ワシントンという街につきまとうものは『疑問』です。

    なぜこのモニュメントはこんな形でここにあるのか?
    なぜこの街並みは、こうなっているのか?
    なぜこの場所にこの建物があるのか?
     
    なぜ?
    なぜ?
    なぜ?…

    それは、聖杯伝説の核心に近づくための疑問なのかもしれません。

    つづく・・・

    ようやく終焉が見えてきました
    詠天

    聖杯伝説12『第2のエルサレム』

    毎度、詠天です。
    前回のコラムでは、コロンブスがキリストの騎士団のメンバーで、アメリカの地図を手に入れた上で大陸発見の偉業をなしたことを示唆しました。
    しかし本来の仕事はアメリカへの侵略だったと思います。
     
    大陸発見後のコロンブスは、冒険家ではなく大量虐殺者(ジェノサイダー)としての本性を見せているからです。彼は、何よりも金(きん)を好む男でした。
    金の装飾物や宝石を奪うために二度のアメリカ侵略を果たし、原住民の多くを奴隷とし、大虐殺をくり返しました。その数は、5万人とも10万人とも言われています。
    そして、新大陸に白人文化の礎を作っていったのです。

    アメリカという国は、世界的に見てまだまだ新しい国家です。
    その起源は、合衆国憲法制定の50年ほど前、1730年ごろです。
     
    その頃のフリーメイソンはアメリカ各地に支部を構えていました。
    規律や戒律は厳しく、メンバーになるには2人以上の推薦が必要であり、入会にあたり儀式が催されるのです。(テンプル騎士団にも、入会時に秘密の儀式があったとされています)
     
    初代大統領ジョージ・ワシントンはフリーメイソン初期のメンバーで、アメリカ建国にあたり、合衆国憲法に署名したメンバーのうち40%がフリーメイソンだったのです。
    まさにフリーメイソンがアメリカを作ったといっても過言ではありません。

    フリーメイソンがアメリカ建国時に立ち上げた基本理念に『国家と宗教の分離』があります。
    この概念は当時、他の国では考えられなかった制度で、類を見ない画期的な改革でもありました。
     
    国家と宗教が密接していると、宗教差別が生まれます。
    わかりやすく言うと、イスラム教の国では、イスラムを信仰する者は優遇されますが、他の宗教徒は異教者として迫害される、そんな時代だったのです。
    これが『フリーメイソンはテンプル騎士団から派生したのではないか』と連想させる事象にあげられます。
     
    テンプル騎士団は、イエス・キリストを信仰していたのではなく、当時の教会では『神』と認められていなかった聖母マリアや女神を信仰していました。
    それが偶像崇拝の罪、異教徒として糾弾され、解体に追い込まれる原因となったのです。 
    二度とこのような過ちを起こさせないために、新しい国アメリカでは、国家と宗教の分離が不可欠だったのです。

    つづく

    最近寝汗が止まらない…
    詠天

    聖杯伝説11『コロンブスの真実』

    毎度、詠天です。
    1492年の10月、コロンブスは偶然アメリカ大陸を発見します。
    本当に偶然見つけたのでしょうか?

    コロンブスは、イタリアの貧しい家に生まれた後、ポルトガルに移住して妻を娶ります。
    妻の父、コロンブスの義父にあたるバルトロメウは、貴族の出で、キリストの騎士団でグランドマスターの称号を持った騎士でした。
    キリストの騎士団は、元々テンプル騎士団のメンバー中心で組織されており、そのつながりからシンクレア家とも姻戚関係を結んでいたのです。

    ヘンリー・シンクレアがアメリカにわたってから100年以上すぎていること、航海士で地図製作者だったコロンブス、そしてキリストの騎士団との親密な関係から、コロンブスはアメリカ大陸の存在を知っていた可能性は非常に高いです。

    もしコロンブスがキリストの騎士団のメンバーだったとしたら、シンクレアの残した地図を持っていても不思議ではありません。

    なにせコロンブスの船の帆には、テンプル騎士団やキリストの騎士団に採用されている『大きな赤い十字架』が描かれているのです。
    そして彼が残した手書きの署名には、カギ付きのXが書かれていました。

    これまでの調査からカギ付きのXが示しているものは、テンプル騎士団の行く末と、第2のエルサレム建設計画だといえます。
     
    第2のエルサレム……。
    それは、アメリカ合衆国です。

    自由の国アメリカは、フリーメイソンが作り上げた国家です。
    フリーメイソンの思想は『個人の自由』であり、それが名前の由来にもなっています。(フリーとは、自由に考え行動すること。メイソンは石工職人です)

    フリーメイソンが現れたのは、テンプル騎士団解体後の中世スコットランドといわれています。
    しかし、その起源については、定かではありません。
    古代エジプトという説もありますし、ソロモン神殿の建築時という説もあります。
    フリーメイソンの起源については、今後も明かされることはないでしょう。

    コロンブスは、アメリカまでの航路と地図を手に入れた上で、テンプル騎士団の傀儡として、アメリカ大陸の発見と所有(侵略)の役目を担っていたものと思われます。

    まだしばらく続きますよ。お付き合いください。

    詠天

    聖杯伝説10『100年の英雄』

     毎度、詠天です。
    聖杯をめぐる旅も、いよいよ佳境です。
     前回お話ししたように、『ニューポートタワー』は17世紀後半に風車として建てられたと言われていますが、1524年に発行された地図に、実はその存在が記されています。

    では、誰が何の目的で建てたのか?

    その造りは、円柱型で8本の柱で構成されており、ところどころ、幾何学的に小さな窓のような穴が空いています。
    そして高度な建築技術が詰め込まれており、中世ヨーロッパの建造物であることが解っています。

    現代に残されているテンプル教会など、騎士団に関連する建造物は、円形で、8本の柱で構成されています。
    また、ニューポートタワーの穴(窓)は、テンプル騎士団が使っていた天文学的配置により空けられており、ここから見える星や光は、季節の周期や一年の長さ知るカレンダー的な役割を果たしていました。

    そしてテンプル騎士団は、キーストーンイルミネーションという現象を崇拝し、大切にしていました。

    12月の冬至の日、キーストーンと呼ばれる丸い卵形の石に、強い日差しが照りつけます。
    その日差しは、薄暗い塔の内部を柔らかい光で満たしていきます。
    それはさながら、映画のワンシーンのように荘厳で美しい瞬間ですが、卵形の石は『聖なる女性のシンボル』とされ、女神を中心とするテンプル騎士団の信仰と合致するのです。
    ニューポートタワーの中心からキーストーンが放つ光の方向にまっすぐ線を引いていくと、2400キロ先のケンジントン・ルーンストーン(アメリカ)に行き着きます。

    土地所有権を主張するルーンストーンが、ケンジントンにあることを知っており、なおかつテンプル騎士団の天文学や、宗教的幾何学を熟知していた者。
    それは年代から見て、ヘンリー・シンクレア以外にありえないのです。

     そしてこれほどまでにアメリカの土地所有を主張するのは、テンプル騎士団が彼の地を『第2のエルサレム』と定めていたからではないでしょうか。

     話は戻ります。
    エルサレムを追われたあと、二手に分かれたテンプル騎士団の残党のひとつは、ポルトガルへと渡り、キリストの騎士団として生まれ変わりました。

     百年を過ぎたころ、一人の英雄が登場します。

    それは、アメリカ大陸を一番最初に発見したとされるクリストファー・コロンブスです。

    つづく    
     
    佳境はまだまだ続きます
    詠天

    山の老人

    毎度、千里眼の詠天です。
    今回は《聖杯伝説シリーズ》をちょっとお休み、番外編をお届けします。

    アサシンという言葉を聞いたことがありますか?

    アサシンというのは、暗殺教団のことで、暗殺などを請け負うカルト教団を指しています。
    最近では、9・11事件や無差別テロを指してイスラムのシーア派を指してアサシンと呼んでいます。
    では、本来のアサシンとは?

    彼らが暗躍したのは、11世紀から14世紀のシリアで正十字軍やザンギー朝などの勢力に対抗し、イスラム教イスマイル派から分派してアサシン教団という秘密結社が誕生するわけです。
    元はニザール派の指導的立場にあったラシード・ウッディーン・スナーンと、フェダーイー(自己犠牲を厭わぬ者)の集団で組織されました。

    ではなぜ、フェダーイーという命知らずな集団が組織されたのか?
    山の老人とは、古くはマルコ・ポーロが伝えたと言われています。

    ある青年が、山中で気を失います。
    気がつくと、そこは煌びやかな花が咲きほこる場所で、セクシーな女性たちが何人も青年を囲んでいます。
    鼻をつく香の匂いが青年を淫靡な世界へといざない、飛び散る酒、豪勢な食事、そして絡み合う身体。
    青年は夢のような一夜をすごします。

    あくる日、青年は、何もない野原で目を覚まします。
    「あれは…夢だったのか…」
    茫然自失とする青年の前に一人の老人が現れました。

    その老人は、にこやかに笑いながら問います。
    「楽園は楽しかったかい?」
    青年は、夢のような一夜を思い出し、熱くなる股間を押さえました。
    「今一度あの快感を得たいか?」
    青年は、取り憑かれたように頷きます。
    「ならば私のいう事を聞くか?」
    青年は思考を奪われたかのように頷くしかできません。
    こうしてフェダーイーを作り上げていくのです。

    そして「山の老人」こそ、聖十字軍を震え上がらせたラシード・ウッディー・スナーンその人なのです。

    これは洗脳の一種であり、それに使用した香が大麻なのです。
    大麻を吸わせることにより、命知らずの軍団フェダーイーを作ったのです。
     大麻=ハシシ
    このハシシがアサシンの語源となったのです。
    現代では、幼少期からの教育や宣教により自爆テロをするようなフェダーイー(アサシン)を作り出しているのですから、恐ろしいことです。

    あたしが殺せるのはベッドの中でだけ!
    千里眼鑑定師 詠天

    聖杯伝説9『財宝が眠る島』

    毎度、詠天です。
    いよいよ物語は、伝説の島にまでたどり着きました。

    聖杯が隠されているであろう島、オークアイランド。

    周辺の住人は、今でもここに財宝(聖杯)が眠っていると信じています。
    もちろん発掘作業をする者は後を絶ちませんが、そのたびに海を利用した罠が張り巡らされていて、一向に作業が進まないというのが現状です。
    現代においても、7・8章でご案内したヘンリー・シンクレアの仕掛けた罠が、その行く手を阻んでいるのです。

    マサチューセッツ州ウェストフォードには、ウェストフォードの騎士と呼ばれる石があります。
    中世の剣と紋章が描かれており、シンクレアがここまで侵攻していたことの足跡として残っているのです。

    そしてメイン州スピリット池では、1971年にウォルター・エリオットという地元住民が、岩に刻まれたルーン文字を見つけます。
    掘ってみると、3つのルーンストーンが見つかりました。
    ふたつは文字が刻まれたもの、もうひとつは地図でした。

    刻まれている文字が区切られていないため、解読はまだされていませんが、やはりカギ付きのXと二重日付が確認されており、この石もテンプル騎士団に深い関わりを持つものと見られています。
    興味深いのは地図のほうで、スピリット池の周辺を書いたものなのですが、南の方向に矢印と「その先二日かかる」と記されていました。

    そこから二日かかる場所は、ケープコットのナラガンセット湾です。

    ナラガンセット湾では、1984年にカギ付きのXが書かれたルーンストーンが見つかっています。
    それらの遺物も、ヘンリー・シンクレアが残したものだと信じられているのです。

    ナラガンセットのすぐ近く、ロードアイランド州ニューポートには円形(正確には八角形)の石塔があります。
    それは『ニューポートタワー』と呼ばれており、17世紀にベネディクト・アーノルドが風車を立てさせたというのが一般的に知られていました。

    しかしそれは、風車にしては不自然な形をしており、風車を立てた痕跡すらありません。

    しかも15世紀に作られた地図に、すでにニューポートタワーの存在が記されていたのです。

    そしてこのニューポートタワーが、謎を解く重要な鍵となるのです。    

    つづく

    聖杯伝説8『聖杯の護り手』

    シンクレア家はヴァイキングの子孫でスコットランドでもっとも有名な一族です。
    テンプル騎士団が、スコットランド国王ロバートⅠ世に加担したおかげで、イングランド軍との戦いに勝利し、独立を勝ち取りました。
    そして1329年、ロバートⅠ世は亡くなる直前に、自分の遺体はエルサレムに葬ってほしいと願い出ます。
    それを引き受けたのが、テンプル騎士団とシンクレア家だったのです。

    その頃から、テンプル騎士団とシンクレア家には強い絆がありました。
    そしてシンクレア家が、聖杯を隠したという伝承が残っています。
    テンプル騎士団が、信頼するシンクレア家に聖杯を託したのではないか?といわれているのです。

    ヘンリー・シンクレアが生まれたのは、1345年頃。
    テンプル騎士団と親密な関係にあったシンクレア家の嫡男ですから、彼も聖杯(聖櫃)の秘密を知っていた可能性が非常に高いのです。
    もちろん、ヘンリー・シンクレア自身もテンプル騎士団員でした。

    シンクレアは、まずアメリカノバスコシア州の先住民、ミクマク族と友好関係を築きます。ミクマク族は、シンクレアからヨーロッパ的な思想を伝授されたといっていいでしょう。造船方法や樹木の栽培など、当時のアメリカにはなかった
    ものを、ミクマク族はいち早く取り入れていたのです。

    そのひとつが、のちに財宝が眠るという伝説を持った島オークアイランドです。

    オークアイランドには、その名の通り、島中に樫の木がうっそうと生えていますが、それは自然栽培ではなく、シンクレアが植えさせて整備させたものだといわれています。
    なぜ、彼はそんなことをしたのか?

    オークアイランド周辺には、300前後の島が密集していますが、彼は他の島々と差別化するために、樫の木を植えたのです。
    (なにせオークアイランドにしか、樫の木は存在していません)
    しかも島のまわりには、他の進入を拒むように幾重にも罠が仕掛けられているのです。

    それは、まるで何かを隠すためのように…

    つづく

     最近めっきり涼しくなったね
     詠天

    聖杯伝説7『聖杯と1人の男』

     毎度、詠天です。
    聖杯の行方を探る物語の続きです。

    はるか昔、アメリカ大陸に上陸し、ルーンストーンを埋めたとされる古代スカンジナビア人。
    そして、それに同行していたと思われるテンプル騎士団ですが、イリノイ州リトルエジプトで出土した、あやしげな石版や土器の数々は『贋物である』という見解がなされています。
    ここでいう贋物とは、古エジプトのものではないということです。
    しかもテンプル騎士団の財宝だとすれば、それは非常にチープなものとなってしまいます。

    おそらくは、騎士団のメンバーがお手製で作ったものではないか?
    その見方が、大半を占めています。
    それでも、聖杯の正体は、エジプト文化がにぎっているのではないかと思われます。

    そのカギを握るのは、石版や彫像ではなく、エジプトの持つ概念だと推理されているのです。

    テンプル騎士団が、神殿の丘で探していたものは、聖杯(聖櫃)の他に、古い記録だったと唱える学者もいます。

    エルサレムからヨーロッパに持ち帰ったもののひとつに、ゴシック様式の大聖堂があります。
    テンプル騎士団の残した功績として、新たな文化がヨーロッパに伝わったのです。
    それはアーチ型の天井に代表されるアラブ建築であり、数学や幾何学などです。
    これにより、幾何学は芸術から科学へと変化していきます。

    テンプル騎士団は、皆が豊かに暮らすために、自分たちが見つけた発見を実務的な方法で活用したのです。
    このことからテンプル騎士団は、聖杯を探す作業と称して、財宝や知識を探していたことがわかります。

    その後、ヘンリー・シンクレアという男が登場します。

    1398年、大西洋沖に航海に出たシンクレアは、コロンブスより先にアメリカ大陸を発見したであろう人間として語られています。
    その証拠に、彼がアメリカ大陸に足を踏み入れていたという文献は、100を超えているのです。

    しかし彼の本当の目的は、アメリカ大陸の発見ではなく、ケンジントン・ルーンストーンの発見、そして聖杯(財宝)の隠し場所の確保だったのです。

    つづく

    最近めっきり酒に弱くなった気がする…
    詠天

    聖杯伝説6『新たなエルサレムへ』

     毎度、詠天です。
    コロンブス以前のアメリカ大陸が未開の地だったという話は18世紀に入ってから伝わりました。
    しかしヴァイキングは、紀元1000年にはニューファンドランド(アメリカの手前)まで足をのばしていたのです。
    当然、アメリカ大陸が発見されていたということは周知の事だったのです。

    ヴァイキングの時代が終焉を向かえると、古代スカンジナビア人は、手つかずの地に目を向けました。
    それは、発見、そして獲得の旅を意味しています。
    アメリカに向かう航路上にある国、極寒の地グリーンランドでもルーンストーンは見つかっています。
    そこには1314年に、古代スカンジナビア人が航海の末、グリーンランドに渡ったと書かれています。
    そしてこのルーンストーンにも二重日付が記されています。

    これは、テンプル騎士団が古代スカンジナビア人と同行していたことを証明しており、古代スカンジナビア人は、財宝とともに消えたテンプル騎士団の船で航海をしていたのでしょう。
    テンプル騎士団は、結成当初から古代スカンジナビア人と友好関係を結んでいました。
    いわば同志として行動をともにしていても、おかしくはありません。
    ヴァイキングの残した航路をたどれば、グリーンランド→ニューファンドランド→アメリカという構図が成り立ちます。

    ではなぜケンジントンだったのか?
    その答えは牧草にあります。

    シトー修道会=テンプル騎士団の重要な資金源は羊でした。
    羊は大量の牧草を食べ、糞をすることでその地は豊かな実りを得ます。
    しかも羊毛は高く売買され、食肉としても大きな資金を生み出すアイテムだったのです。
    ケンジントンには大量で質のいい牧草が広がっており、羊を飼育するには最適の場所でした。
    そしてケンジントン近隣からは、穴の開いた石・船をかたどった石・ナイフやツノを掘った石が出土しています。
    古代スカンジナビア人は、土地の売買や譲渡にはナイフや動物のツノを所有権の証として重用していました。
    やはりルーンストーンを埋めることによって、土地所有権を主張していると考えられます。

    さらにイリノイ州南部・リトルエジプトとよばれる地域にある洞窟で、1984年多くの出土品が見つかっています。
    その数、約7000点におよぶ石版や土器、しかもそのいずれにも古代エジプトの文字や宗教的な儀式の絵・アイコンなどが彫られており、まさにエジプト信仰のアイテムと見てとれます。

    それはキリスト教会が固く禁じており、テンプル騎士団が糾弾される原因となった異端信仰のひとつ、偶像礼拝に使用されていたものと一致するのです。

    しかし、この出土品については現在でも誰のものなのか、いつのものなのか、すべては謎に包まれています。
    ただ、この場所はケンジントンからつながる土地所有権を主張している境界線の中にふくまれている場所だったのです。 

    そしてこの境界線は、アメリカ大陸の半分以上を占める広大な土地の所有を主張しているのです。
    つづく

    最近近所で黒猫の赤ちゃんが生まれたよ
    だけど顔を見ると逃げるんだよ 泣
    詠天

    聖杯伝説5『ルーンストーンの意味』

     毎度、詠天です。
    ラルソンペーパーとは、1883年と1885年に書かれたもので、この文書は、神秘思想の強いフリーメイソンが儀式などに使用していたとされています。
    しかも仲間内での暗号解読書とも言われており、その存在自体が謎となっています。
    そしてケンジントン・ルーンストーンに刻まれている、カギ付X以外の7つの珍しい文字も、ラルソンペーパーには記載されているのです。

    ケンジントン・ルーンストーンに記載されている文字をすべて網羅する文書は見つかっていませんが、ほとんどの文字が現れる場所がひとつだけ見つかりました。
    それはバルト海に浮かぶ島、ゴトランドにあるシトー修道会です。

    シトー修道会とは、テンプル騎士団を組織したことで有名な教会です。
    教会内では、さまざまなルーン文字が使用されており、そのほとんどが暗号化されています。
    とくに日付に関しては、普通に書かれたものと暗号よってわかる『二重日付』が採用されており、これは後から普通に書かれた日付を書き換えられたとしても、元々の日付がわかるように暗号化されているのです。

    ルーンストーンは石碑としての存在よりも、土地の所有権を主張するものとしての役割を大きく担っているので、日付を書き換えられた場合、その所有権は危ういものとなります。
    しかし暗号によりその日付を証明することで、所有を確定させる証拠として二重日付にしているのです。
    ケンジントン・ルーンストーンにも不確定な文字が3つ記されており、それを解読すると1362年と刻まれています。
    二重日付ということです。

    この石の意味するものは、アメリカの所有権の主張ということであり、コロンブスが大陸を発見する100年以上前に、所有権を主張する民族がいたという証明なのです。
    そして使用されていたルーン文字と二重日付により、ケンジントン・ルーンストーンとシトー修道会との関連が確定しました。

    もともとシトー修道会の僧侶と探検隊が、発見や布教のために世界中を旅することは珍しくありませんでしたし、アメリカのケンジントンを旅した探検隊がテンプル騎士団だったとしてもおかしくはありません。
    むしろその方が自然です。
    そしてルーンストーンを使って主張することで、発見の旅から獲得の旅へと、意味合いが大きく変貌したのです。
    なんせはじめに発見した者が、土地の所有を宣言できる時代でしたからね。

    ヨーロッパを追われたテンプル騎士団は、国を失い、多くの仲間は拷問により命を奪われました。
    騎士団の復興を願った彼らは、新たなエルサレムを再建するため、舞台をアメリカに移し聖杯伝説は、確信へと近づいていくのです。

    つづく 

    手作り餃子に悪戦苦闘中
    詠天

    聖杯伝説3『テンプル騎士団(前編)』

    毎度、詠天です。
    前回は、ケンジントン・ルーンストーンのお話でした。
    では、ルーンストーンとは、どんな意味を持つ石なのか?

    国境が曖昧だった頃、領土は見つけた者勝ちという時代でした。
    その領土を主張するためにルーンストーンに文字を刻み、稜線を描いていくつも埋めていき、そのルーンストーンで囲んだ土地をその者の領土と認めるという風習があったのです。
    アメリカのケンジントンで見つかったルーンストーンは、コロンブスよりも前に大陸を見つけた者がいたという証明となるのです。
    では誰が見つけたのか?

    話は、1099年にさかのぼります。
    キリスト教徒は、十字軍の働きもありエルサレムを手中に治めます。
    しかし激化するイスラム教との戦いで、エルサレムへ向かう巡礼者は非常に危険を伴う旅をしなければなりません。
    その巡礼者たちを警護するため騎士団が結成されました。

    彼らの功績は素晴らしく、現代の銀行の原型となる組織を作ります。
    これにより巡礼者たちは、多額の金銭を持たずに安全に旅をすることができたのです。
    その功績を認めたエルサレム王から、騎士団は宿舎を与えられます。
    彼らは、神殿の丘に建つ古いユダヤのモスクを宿舎として所望しました。
    神殿の丘とは、元々ソロモン王の神殿があったとされる場所で、もっとも神聖な場所でもありました。
    そしてその地中奥深くに財宝が眠っているという伝承も残されていたのです。

    その財宝が何なのか?

    いまだに謎のままなのですが、一説にはイエスキリストの聖杯もしくはモーゼの聖櫃が会ったのではないかと言われているのです。
    なぜならソロモン神殿の施政所に聖櫃があったといわれてます。

    神殿の丘に宿舎を持ったことから彼らはテンプル騎士団と名乗り、日夜地中を掘りまくり、多く財宝をヨーロッパに持ち帰ったのです。。
    そして1128年ローマ法により正式騎士団としてテンプル騎士団は認可されるに至ります。。

    その後、中世ヨーロッパ産業の中枢にテンプル騎士団は位置されていきます。
    農業を発展させ、毛織物を流通させることで大きな富を得て、多数の船を所有します。
    その他、今で言う長距離輸送会社や銀行業務、貿易などを取り仕切り当時の産業に革命を起こしたのです。
    フランス王フィリップ4世は、聖戦のためにテンプル騎士団から多額の借金をします。
    それは返済不可能な債務となりました。

    1307年、借金を払いたくないフィリップ4世は、テンプル騎士団にあらぬ疑いを掛け排除しようと動き出します。
    それは偶像崇拝の罪です。
    それに乗じて、カトリック教会もテンプルは異端だと共闘戦線を張ります。
    どちらもテンプル騎士団は目の上のたんこぶだったからです。
     
    1307年10月13日の金曜日、テンプル騎士団は逮捕され非情な拷問を受け、多数の死傷者を出しました。
    テンプル騎士団にとって最悪の一日となり、この出来事が今日に語り継がれるテンプル騎士団の神話を作り出したのです。
    つづく

    次回テンプル騎士団Ⅱかみんぐす~ん

    詠天

    聖杯伝説2『ケンジントン・ルーンストーン』

     毎度、千里眼の詠天です。
    さて前回は『聖杯』についてのウンチクを述べさせていただきましたが、今回からはそれにつながるミステリーを紹介していきましょう。

    1898年アメリカはミネソタ州ケンジントンにオロフ・オーマンというスウェーデン移民の親父がいました。
    農場を作るため敷地内の木を撤去作業をしていたところ、1本のポプラの木の根元から大きな四角い石を発見します。

    その石をよく見るとなにやら文字が彫られていました。

    その文字は、オロフには解読できないものの、それが古代ルーン文字だとすぐにわかりました。
    なぜなら彼の母国、スウェーデンのあるスカンジナビア地方では、ルーン文字の石碑が、数多く出土していたからです。

    彼がそれを公表すると瞬く間に『ケンジントン・ルーンストーン』として一躍注目を浴びることになります。
    そして書かれていた文字を紙に起こし、あらゆる言語学者に解読を依頼しました。

    しかしマスコミは、これはオロフのでっち上げではないか?という疑惑を定義します。
    これがスカンジナビアなら不思議でも何でもありませんが、アメリカで初めて見つかったルーンストーンであり、見つけたのがルーン文字の存在を知るスウェーデン人のオロフだったからです。
    オロフ自身が、ルーン文字に精通していたのなら、売名のために詐欺を行ったのではないか?という疑惑が浮上したのです。
    オロフはそんな誹謗中傷に耐えながら、鑑定結果を待ちました。

    そしてイリノイ州のジョージ・カーム教授から詳しい翻訳書が届きます。
    それには『8人のスウェーデン人と22人のノルウェー人が大陸発見の旅に出て、40日間かけてこの地に降り立った。1362年』と書いてあったのです。

    当時これはセンセーショナルなニュースとなりました。
    なぜならコロンブスがアメリカ大陸を発見したのが、1492年。

    それよりも100年以上も前に、大陸を見つけた者がいたということになるからです。

    本当なら歴史を覆す大発見となるのですが、実は北欧系アメリカ人の中では、紀元1000年くらいの頃、すでにバイキングがアメリカ大陸を見つけていたという伝説が信じられていました。
    コロンブスの功績は、バイキングの発見をイタリア系アメリカ人に横取りされたという、遺憾をつのらせていたのです。
    では、1362年この地に降り立ったのは誰なのか?

    それは、国を追われたテンプル騎士団の残党だったのです。

    次回『聖杯伝説3』テンプル騎士団の軌跡Ⅰに続きます。

     
     このごろ鼻炎に悩まされている 詠天

    聖杯伝説

    毎度、千里眼の詠天です。
    さて今回は『聖杯伝説』ということなんですが、実はズーッと書きたかったテーマなんです。
    しかし、ただでさえ何回もの連載形式をとっている私ですので、このテーマは実に何回続くのか見当がつかないほど長くなりそうなんです。
    ですが、続き物を楽しみしてくださってる方もおられるという事なので、長くなりますがお付き合いください。

    さて、聖杯伝説はインディ・ジョーンズやダ・ヴィンチ・コードなどで取り上げられており、イエス・キリストが最後の晩餐で使用したグラスのことを指して『聖杯』と呼んでいます。
    そのほか、磔にされたイエスの血を受けたグラスであるとも言われていますが、実はこれが本当に杯(グラス)なのか?
    わかっていないのです。

    そもそも聖杯伝説という物語が発表されたことにより、グラスであるという認識が強まっただけで、実際には何なのかわかっていないのです。
    そしてもうひとつ『聖櫃』(せいひつ・アーク)があります。

    これはモーセが十戒を受けた石版を収めた箱であり、キリスト教においては『契約の箱』と呼ばれているものです。
    これも聖杯と同様、発見されておらず、実在するものなのかわかっていません。
    一説には、聖杯=聖櫃という見方もされており、聖杯と聖櫃は同じものなのではないかといわれています。

    そしてそれは、本当に杯の形をしたものなのか?
    それとも『聖杯』という名の知識なのか?
    実際のことは、謎のままなのです。

    お話のサワリはこの辺にしておきましょう。
    これから本題に入るわけですが、この物語を綴るのには、はるか昔のテンプル騎士団までさかのぼらなければなりません。
    そしてコロンブスによるアメリカ大陸発見。
    そしてアメリカ建国、それにかかわる秘密結社の存在。
    ひいては建国間もないアメリカが、なぜ世界のリーダーとなりえたのか?

    このように進行していきたいと思います。
    まぁ。都市伝説の一環として、気軽にお楽しみください。

    次回『聖杯伝説その2』ケンジントンルーンストーン篇です。

    基本的にいつも暇なのに最近忙しい鑑定師 詠天

    神のクイズ

     毎度、千里眼の詠天です。
    私は言わずと知れた、韓流ドラママニアなんです。
    韓流ドラマというと、まだまだ毛嫌いする人が多くおられると思います。
    実は以前私もその一人でした。

    『花より男子』『いたずらなKISS』など日本の漫画原作のドラマが多く、ブームを巻き起こした『冬ソナ』にしても日本のドラマのパクリやん!ってな感じだったんですが、ここ10年の韓国ドラマは、日本のものを遥かにしのぐボリュームとクオリティで、面白い作品がいっぱいあります。
    涙、笑い、サスペンス、そして胸キュンが詰まっているのが、韓流ドラマなんです。

    私は、これまでに数多くの韓流ドラマを視聴していますが、最近アツいのは『神のクイズ』です。
    韓国では、『神ク』中毒者続出といわれており、韓流ドラマでは異例のシーズン3まで制作されているんです。

    物語は、ヤル気0の脱力系医師ハン・ジヌが主人公。
    彼は10歳でロボット光学博士となり「最も難解なのはロボットではなく人間だ」
    と外科医になります。
    文字通り、若き天才医師にして法医学博士ハン・ジヌを主人公に、さまざまな殺人事件を遺体から解明していく医療ミステリードラマです。
    何万人に1人という稀少病(稀少疾患)をあらゆる角度から解明し、「稀少病こそ神が人間に与えた最大のクイズだ」をテーマに物語は進行していきます。

    基本的に1話完結なのですが、ベースとなる物語はハン・ジヌは、なぜ超天才なのか?彼の脳に何が起こっているのか?そしてパートナーとなる美人捜査官カン・ギョンヒとの恋の行方が盛り上げてくれます。
    『見ると眠れない、見ないと眠れない』というキャッチフレーズがつけられるほどのムーブメントを巻き起こしているのです。
     個人的には、毎回ラストに師匠であるチャン教授との禅問答ともいえる掛け合いが、的を突いていて面白いです。

    「年をとるほどに欲はなくなり、心が広くなるんじゃないですか?」というハン・ジヌの問いに教授はこう答えます。
    「そんな人間は少ない。年をとれば、それだけ執着心が強くなり、より多くのものを手に入れようと醜態をさらす」
    「本能ですか?」
    「動物は必要以上のものを求めない。それが法則だ」
    「でも、人間は子供の食べ物まで奪う」
    「だから人間は、自然の法則に逆らう唯一の変種なのさ…進化を重ねるほどにね」
    まさにこれが真理なのではないでしょうか?

    機会があれば、レンタルしてみてくださいね。
     すでに私は、全話見ました。

     韓流マニマニチョアヨ  詠天

    孫子の兵法

    毎度、千里眼の詠天です。

    古代中国には、偉大な先人がたくさんいました。
    孔子、孟子、老子、荘子…現代でも著書が刊行されるほどの偉大な哲学者たちです。
    そして今日は、中国春秋時代に刊行された「孫子の兵法」のお話です。

    これは、13篇からなる戦争の指南書で、孔子や老子などの哲学とは一線を画する本として有名です。
    「彼を知り、己を知らば百戦危うからず」
    これはもっとも有名なフレーズですね。
    まず自分を知り、敵を知れば戦っても負けることはないという戦いの基本となる言葉です。
    さて、この孫子とは、どんな人で誰なのか?

    通説では、三国志で有名な呉の国の孫堅の先祖、『孫武』であると言われています。
    ですが、実際のところ、本当に孫武が書いたのか?それは謎なんです。
    この時代、子というのは先生をあらわし、孫子の場合、孫先生というのが正しい読み方となります。

    おそらくは、孫家に古くから伝わっていた兵法ではないか?とも言われており、孫武が世の中に広めたのではないか?という見解がされています。
    しかし、本当にこの孫武が存在したのかが、長く論じられており、孫武自体がフィクションなのではないか?といわれているのです。

    ともあれ、この『孫子の兵法』は、現代社会でも多く用いられており、M&A(会社乗っ取り)は、戦わずして勝つという孫子の兵法に基づいているといわれてます。
    やはり、先人の残した言葉や思想は、永遠に語り継がれるものなのですね。
    『温故知新』古きを知り、新しきを知る。
    迷ったり、悩んだりしたら過去に立ち戻り、先人の言葉により新しい知識や見解を得るということなのかもしれませんね。

    そしてこの『孫子の兵法』もちろん著者は孫氏なのですが、元々は100篇以上あり、非常に難解な書物だったのです。
    それをあの三国志の裏主役、曹操孟徳が編集し、13篇にまとめ上げて出版したのです。
    ある意味、孫子ではなく曹操が、本来の著者であるといえます。

    曹操といえば、稀代の戦上手。
    ひょっとしたら孫武を作り出したのは、曹操かもしれませんね。

    三国志の本来の主役は曹操だと思っている
    詠天

    タロット制作

    毎度、千里眼の詠天です。
    先日、手相を教えている生徒さんから、ウェイト版のタロットカードをいただきました。
    以前私は、天野嘉孝氏の描いたタロットを持っていましたが、まさに20年ぶりにタロットを手にしたのです。

    久しぶりのタロットをパラパラと手の中で見ていた時、不意に『タロットを作らなきゃいけない』という衝動に駆られたのです。
    天啓というにはおこがましいのですが、なぜか『作らなければ!』という意思とドンドンとイラストや構図が、溢れてきたんです。

    んで、早速、関係各所に相談しました。
    「タロットカード?まぁ別に売ってもいいけど…どこから持ってくんの?」
    『持ってくるんやなくて作りますねん』
    「オリジナルでタロットカードを作るって事?」
    『そう!』
    「オリジナルねぇ…」
    担当マネージャーは、あまり乗り気ではないようでした。
    「そうなると、絵とか必要になるじゃないですか?」
    そこで私は、用意してきた鉛筆描きのラフ画をお見せしました。
    「このイラストは?」
    『ワテが描きました』
    「え!?詠天先生が描いたの?』
    『そうでおます。ワテが全部のカードのイラストを描きます。んで、タロットの先生に説明書を書いてもらったら、占い師の作ったカードとして手にとってもらえるんちゃいまっか?』
    「やりましょう!」
    と、トントン拍子に話は決まり、かくしてタロットカードとの格闘の日々が始まったのです。

    まず、タロット自体をもう一度勉強しなおす必要があり、カードの持つ意味を理解してからイラストに表現していくという、非常にめんどくさい作業を毎日しています。

    もともと私は、タロットカードから占いの世界に入ったのですが、その当時は遊びの範疇でカード占いに対しては否定的でした。
    毎回出るカードが違う、そんな曖昧な占いは、ただの運試しだと思っていたからです。
    しかし、すでに20数年占いを勉強し生業としてる今は、わかります。

    タロットカードは、非常に完成された占術で、リーディング能力やスピリチュアル的な感覚を鍛えるには、有効なアイテムです。
    これから占いの世界を目指す人の入口になってくれれば幸いと思いながら、毎日イラストを描いております。

    発売は、私の作業次第ということですが、できましたらここでご報告させていただきますので、乞うご期待ください。

    タロットって知れば知るほど奥深い   詠天

    アダムとイブが伝えたいこと

    毎度、千里眼の詠天です。
    占い師という仕事をしていると「先生の宗教は何ですか?」と聞かれることがあります。
    私は決まって「神道です」と答えるようにしています。

    この「神道」というのは、独自の宗教というか、生き方のようなもので、どのようなものか一言で言うなら「自由」です。
    すべての宗教や学問から必要なものを取り入れて、自分独自の信心するものを作るというのが「神道」なのです。

    ですから私の「神道」においては、私が教祖で信者ということです。
    たったひとりの宗教ってことですね。
    だから真言宗のお寺で修行もしますし、神社には頻繁に通い御朱印を賜り、気が向けばキリスト教会で賛美歌を歌うこともあります。
    ひとつの宗派や経典にとらわれず、自由に自分の信じるものを見つけるということが「神道」なのです。
    今回『アダムとイブ』についてお話ししますが、決して私はキリスト教やフリーメーソンの回し者ではありませんので、あしからず。
    私は経典などの宗教本を読むのが好きで、中でも聖書はよくできた短編小説が多くある本だと思います。
    ふとアダムとイブの話を読み返していた時、なんでこんなストーリーを書いてんだ?と疑問を持ちました。

    アダムとイブのお話については、ほとんどの皆さんがご存知でしょう。
    神が作り出した、一対の夫婦で(イブの前にリリスという女性がいましたが、この話は後日)神様から「喰うたらアカンで!」と言われたリンゴを、蛇にそそのかされたとはいえ齧ってしまったことにより、楽園を追放されるというお話です。
    これは人間がはじめて犯した罪という位置づけをされています。
    それを教訓にしているという側面もあるのですが、もっと深い意味があるんじゃないか?なんて思ったんです。

    非常に哲学的なんですが、アダムとイブは確かに罪を犯し楽園を追放されます。
    が、その後、人間としての暮らしを手に入れた、という風に解釈すると、非常に面白くありませんか?
    楽園に入れば、何不自由なく食っちゃ寝の生活が約束されていますが、それは神様に「生かされている」だけで「自分で生きている」ということにはならないんじゃないでしょうか?

    結果、追放されたことにより、二人は自給自足で生きていくという当たり前の生活を手に入れ、リンゴを齧るという罪を犯したことで【選択する自由を手に入れた】と考えれば、神の庇護から独立して、努力をして生きていく人間的な生活を手に入れたのです。
    これも神様の計算だったのかも知れませんね。
    だから私たちは、自由なんです。

    相談に来られる数多くの人たちは「好きなようにしたいが自由がない」と言われる人、思う人がたくさんおられます。人生なんて辛くて当たり前、生きることなんてしんどいことの連続です。

    そんな中の限られた時間や空間でいかに自由=楽しみを見つけるかが肝心じゃないでしょうか。
    アダムとイブは楽園を追放されたあと、額に汗して人生をまっとうしましたが、充実した一生だったのではないでしょうか。

     人生楽ありゃ苦もあるさ 詠天

    心の病

     毎度、千里眼の詠天です。
    私の友人に、役者をしているアツシという男がいます。

    今は、東京でVシネマとかドラマのエキストラやチョイ役で見たりします。
    彼がまだ舞台俳優をしている頃、大阪に住んでいまして、私の経営していた飲食店を手伝ってもらってました。

    そのアツシなんですが、極度のウツ病持ちで「来週あたり、堕ちそうです」というように自分が堕ちる日がわかる、いわゆるウツのベテランでした。
    私が見る限り、月に2~3日はウツで堕ちてる状態だったんです。

    そんなアツシに私は、こう言ったんです。
    「ウツっていいよな~、考える時間がいっぱい有るからウツになるんやろな。俺なんか生きるので精一杯やからウツになってるヒマがないわ…なってみたいよな~ウツ」
    実際ウツ病の人が聞いたら、スゲー失礼なことかもしれませんよね。
    でも、その日からアツシに異変が起こったんです。

    月に一度は必ず有った堕ちる日が、二ヶ月に一度になり、半年に一度となり、終いにはウツになることがなくなったんです。
    アツシいわく「詠天さんに言われてから、ウツになるのが馬鹿らしくなりました」とのこと。
    やっぱり精神的な病気は、気の持ちようで十分改善されることがあるってことなんですよね。

    冷静に心の病になっている人を考えてみると、無理にツライことを抱えている感じがします。
    もっと楽にシンプルに考えればいいのに、自分で複雑に物事を捉え、自分で自分にプレッシャーを与え、自分には生きている価値がないとか、自分は何の役にも立ってないとかネガティブな思考に陥り、マイナスな世界から抜け出せなくなってしまっている感じがします。

    私の好きなアーティスト高橋優の『少年であれ』という曲の歌詞にこんなくだりがあります。
     抱えきれない痛みは 抱えなくて別にいい
     無理に苦しむ必要がどこにある?
     誰しも気ままで元々

    これです。

    無理に抱える悩みや絶望なんてないってことです。
    嫌ならやめる、できないなら別のことを考える。
    そして自分にとって、何が楽しくて意義のあることなのか?
    それを選ぶ権利は自分にあることを忘れなければいいんです。

    アツシは、今年36歳になります。
    それでもなお、保険会社で働きながら、役者の道を目指しているアツシに乾杯!
    10年近く悩まされてたウツを簡単に克服した君なら、きっと夢は叶うだろう。
    皆さんも自分らしさを探して、楽しいことを選んで生きていきましょう。

    最近、毎晩『龍が如く5』に悩まされている詠天

    刑部姫(おさかべひめ) 其の伍

    毎度千里眼の詠天です。
    では続きです。
    その後、平穏を取り戻したかに見えた姫路城ですが、刑部姫は密かに暗躍していたのです。
    この時期の話は、日本昔話で紹介されたりしてます。
    大天守に女の幽霊が出るという噂が広まり、若衆たちが肝試しをしたりしていました。
    輝政自身も夜の大天守に登り、盲目の僧侶に化かされたり不思議な体験をしていました。
    すでに刑部姫の存在を口にせずとも認知していたのです。
    そしてある夜、また夢枕に刑部姫が現れたのです。
    「ごきげんよう。輝政殿」
    その声に輝政はむくりと起き上がりました。
    「そなた、刑部姫か?」
    「そうじゃ、わらわが刑部じゃ」
    そこには、十二単を着た美女が立っていた。
    「ほぉ」と輝政は、その美貌に感嘆の息を漏らした。
    「輝政、目がエロ~い」
    「な…何を申すか、それよりも八天塔に祠、護摩壇まで作ってやったぞ!これで良いだろう?」
    「ありがと♪でもホントは大天守の中がよかったのにな~。また呪っちゃうかもよ(笑)」
    そう言うと口が耳まで裂けて鬼の形相になった。
    「わ…わかったわかった。近いうちに移動するようにする。なにせ作ったばっかりだからすぐに動かすのも難儀だからな。とりあえず辛抱してくれよ」
    「わかったよ」
    そう言うと元の美女の顔に戻った。
    「それとな、何か注文があるなら年に一回まとめて聞いてやるから、変な悪さはやめてくれ。皆、怖がっておるではないか。な!頼む」
    刑部姫は、う~んろ中空を見つめながら何やら考えている。
    「いいよ。その代わりわらわ(祠や社)を大事にしてくれるならね」
    「そんなこと、たやすい御用だ。これから我が家では刑部明神を祀ることにしよう」
    意外にあっさり了承したので、輝政は調子に乗ってきた。
    「それとな、出てくるなら鬼面や狐はやめてくれ、今日みたいに十二単で出るようにしてくれ。やっぱり若い女のほうがいいからな」
    そう言って鼻の下を伸ばす輝政。
    刑部姫は「む~~~~」とふくれた。
    「いいよ。んじゃあたしも若い男のほうがいいわ。んじゃね」と消えていった。
    その数日後、輝政はコロっと死に、長男の利隆が当主となった。
    その後は、年に一度当主が大天守に移設した社にお参りし、刑部姫の無理難題を聞くというのが姫路城の行事となったのです。
     
     めでたしめでたし       詠天

    刑部姫(おさかべひめ) 其の四

    毎度千里眼の詠天です。
    長々と続けてきた刑部姫のストーリーですが、これが最終章となります。
     慶長5年、家定は関ヶ原で豊臣についたため姫路城を追われます。
    そして豊臣七将に数えられる猛将池田輝政が新城主として姫路入りしました。
    彼はいわゆる戦成金(いくさなりきん)で三河15万石からいきなり播州52万石へと大躍進した大大名です。
    突然、大富豪になった人間の鐘の使い道はだいたい決まっています。
    家→車→時計→女って感じでよね。
    彼も例にたがわず「こんな城、小せえ小せえ!わしにはもっと大きな城こそふさわしい」と新しい築城を命じます。
    もとより豊臣嫌いだった輝政は秀吉が建てたこの城が気に食わなくて仕方がなかったのです。
    約10年を費やして、現在の姫路城を築いたのです。
    これに喜んだのは輝政だけではありませんでした。
    そう刑部姫も「家が大きくなった」とたいそう喜んび大天守にまたもや住み着いたのです。
    しかし根っから武人の輝政も秀吉同様、無頓着な性格で、いくら刑部姫が悪さをしても一向に気にとめません。
    現実的な輝政には、妖魔や妖怪などただの笑い話と思っていたのです。
    全く相手にしてくれない輝政に業を煮やした刑部姫は様々な怪現象を引き起こしました。
    次第に城内で怪現象が噂されるようになり、輝政の耳にも入るようになったのですが、それでもただの噂と相手にしません。
    そんな折、怪文章が輝政の元に届けられたのです。
    『おのれらに呪いをかけた。命が惜しくば城内に八天塔を作りわらわを祀るのじゃ』
    これに輝政はキレた。
    「どこのどいつじゃこんな手紙を書いたのは?」
    その怪文書には『天狗より』と書いてありました。
    これを輝政は『アホか!』と笑い飛ばすことができませんでした。
    なぜなら、毎夜のごとく鬼面の女が夢に現れてはうなされ、しまいには原因不明の病魔に侵されてしまったからです。
    リアリストの輝政もこれではたまったものではありません。
    直ちに八天塔と刑部明神の祠そして護摩堂を立てさせました。
    すると原因不明の難病は、ケロッと治ってしまったのです。
    やはり刑部姫の祟りだったのか…あの夢に出てくる鬼面の女こそが刑部姫だったのだな。
    背中に嫌な気配を感じつつ、輝政はようやく刑部姫の存在を認めるに至ったのです。
    次回予告 「池田輝政の末路」どんみしっと
     刑部姫っておもろすぎる… 
     詠天

    刑部姫(おさかべひめ) 其の参

    では続きです。
    魔を恐れず、立ち向かってくる武蔵に刑部姫は圧倒された。
    気力を振り絞り強いオーラを纒った武蔵の豪胆さと何よりその体から発する臭いが刑部姫を困惑させるほど強烈だった。
    「ぅ臭っ…なんて臭いなの?」
    武蔵はこれまで一度も風呂に入ったことがなかった。
    その体臭たるや常軌を逸する臭いだったのである。
    しかも悪鬼の如く鋭い眼光でズイズイと歩を進めてくる。
    「こ…怖っ…こんな怖い奴まともに相手できんわ」
    武蔵の気迫と臭いに圧倒された刑部姫は、即座に手を変えてきた。
    「むーさーしーちゃん!」
    緊迫したシリアスな状況下に似つかわしくない間延びした声が背後から掛かり、慌てて武蔵はを振り返った。
    そこには十二単を羽織った可憐で美麗な姫様が立っていた。
    鬼女かおどろおどろしいものを想像していた武蔵は呆気にとられた。
    「武蔵ちゃん、これを授けよう」
    そう言ってひと振りの刀を武蔵に預けた。
    「こ…これは!?伝説の名刀、郷義弘(ごうのよしひろ)ではござらぬか!」
    「うふふ…欲しい?」
    郷義弘といえば、当時は特権階級しか手にできない名刀中の名刀。欲しくないわけがない。
    武蔵は無言で何度も頷いた。
    「うふふ…んじゃあげる。その代わり、おとなしく立ち去りなさい。わらわは刑部明神の化身でこの姫路城の守り神です。あなたの気迫に恐れをなして妖怪は逃げたと皆に伝えるのです」
    「わかりました!あなた様は守り神で妖怪は逃げ出しました!ありがとうございます」
    武蔵はお礼まで言い、名刀を手に意気揚々と武者修行の旅へと出たのです。
    「あんがい可愛い坊やだったわね」
    まんまと武蔵を調略した刑部姫はニヒニヒと笑いながらその後も姫路城の天守に居座ったのです。

    次回予告 「刑部姫VS豊臣七将が三 池田輝政」  
        まだまだ続くぜ  
    詠天

    刑部姫(おさかべひめ) 其の弍

    毎度千里眼の詠天です。
    では前回の続き…
    刑部姫退治を請け負った若き日の宮本武蔵。
    この頃は、まだ剣も荒く血気盛んな若者でした。
    ストーリーを進める前に補足しておきますが、武蔵という人物は、本やドラマで言われているような実直で素直な人格とは違い、実際には非常に頭が良く合理的で人並み以上に腹黒い性格だったという事が言われています。
    吉岡道場の一件も巌流島の戦いも綿密に計算された事実があるのです。これについてはいずれご紹介しますが、武蔵も人並みに欲のある人間だということを念頭において読み進めてください。
    刑部姫退治は、士官を目指す武蔵にとって木下家で一躍名を上げる千裁一隅のチャンスですから、一層気合もこもっています。
    天守閣への階段を一足ずつ『ミシ…ミシ』と登っていきます。
    「さて、鬼が出るか蛇が出るか…」
    恐る恐る登っていくと、高らかな笑い声が武蔵を包みました。
    「ホホホホ…アンタわらわを退治しにきたのかい?」
    どこからするともなく声はするが、姿は見えない。
    嫌な汗を背中に感じながらも、武蔵は恐怖心と戦いながら階段を登った。
    「無駄無駄…人間ごときが、わらわを退治できるものか!」
    その時、階段の上から無数のコウモリが、武蔵目掛けて落下してくる。
    武蔵は剣を抜かず、小太刀でそのコウモリを払い落としながら一段一段登る。
    「ええい小賢しい!刑部姫とやら!!姿を現せ!」
    武蔵はコウモリを払いながら天守閣にたどり着いた。
    「よくここまで来れたわね…名を聞いておこうか」
    「作州浪人、宮本武蔵」
    「武蔵ちゃんかい、若いわね」
    なおも声だけで姿は見えない。
    「刑部姫とやら、隠れてないで姿を見せろ」
    「隠れてるわけじゃないさ、お前に見えないだけさ」
    武蔵は大きく鼻で息をした。
    一瞬武蔵の体が大きくなった。
    そして強いオーラが溢れ出す。
    何者かわからないものに対する恐怖心を拭い去り、妖魔に打ち勝とうと腹をくくったのだ。
    武蔵の体温が2~3度上がったように全身から強い気迫が漲る。
    「いざ!刑部姫!宮本武蔵、参る!」
    武蔵は大刀を抜き、声のするあたりを切りつけると『ビシュ!』と凄まじい風きり音が、天守閣にこだました。

    次回予告
    『刑部姫VS若き剣豪宮本武蔵 解決編』
              てことで続く
     詠天

    刑部姫(おさかべひめ) 其の壱

    毎度、千里眼の詠天です。
    今回は、戦国の妖怪『刑部姫』についてお話しましょう。

    元々は富姫といい、遥か太古の昔に日女道丘(ひめじのおか)におられた方です。
    この姫様が意中の人、大国主命(おおくにぬしのみこと)を食事に誘います。

    姫は乙女心全開で手料理を振る舞いますが、大国主が美食家だったのか、料理がクソまずかったのか、それ以来、大国主が姫の元に来ることはありませんでした。
    有り体に言えば、フラれたってことですね。

    失意の果てに姫は亡くなり、日女道丘(ひめじおか:現在の姫路)にて刑部明神として祀られることとなったのです。

    時は過ぎ、南北朝時代に播磨(はりま)を守護していた赤松貞範が、日女道丘に城を建てます。
    「なにをさらしてくれとんじゃい!」と、刑部姫は怒りましたが、赤松は刑部明神を崇拝してくれていたので「ま、ええやろ」と赦したのです。

    その後、小寺氏、黒田氏と城主は変わったのですが、皆、明神様を大事にしてくれていたので刑部姫は、おとなしく見護っていたのです。
    しかし彼女にとって天敵が現れます。

    当時、日の出の勢いで登りつめた男、羽柴秀吉です。
    姫路城改築のために訪れた秀吉は、刑部明神の祠を見るやいなや。
    「これ邪魔だのう。どっかもってけ」
    と、家臣に命じ、刑部明神は射盾兵主(いたてひょうず)神社に移設されたのです。

    これに憤怒した刑部姫は、祠には入らず、姫路城の天守閣にいすわったのです。
    時々、秀吉に取り憑き悪さをするのですが、この秀吉、『日輪の子』と呼ばれる通り、非常に強い天運を持ち、取り憑かれていてもどこ吹く風で、何にも気にしない無頓着な性格だったのです。

    その後、秀吉は大坂城へ移り、義兄である木下家定が城主となります。
    その頃には、姫路城には刑部姫という妖怪がいるとの噂が蔓延していました。

    家定が「それってホンマけ?」と問えば、家臣団から「鬼のような巨人を見た」「狐面の女がいた」と口々に上申したのです。

    「誰かその妖怪を退治する者はおらんか?」
    「殿。一人心当たりがございます」
    家臣のひとりがズイと前に出ました。
    「若いのにめっぽう腕の立つ者がおりますゆえ、そのものに命じましょう」

    そこに呼ばれたのは、むさくるしく汚いなりをした青年でした。

    「この者、作州出の宮本武蔵という浪人にございます」
    後の剣豪、宮本武蔵の若き日の姿がそこにありました。
    武蔵は、侍になるべく木下家に奉公していたのです。

    「武蔵と申したな、お主妖怪退治してくれるか」
    「御意」と武蔵が、刑部姫退治に名乗りを上げたのです。

    長くなりそうなので、続きます。

     クリスマス楽しみ!でも予定なし!!   詠天

    サンタクロースのお話

    毎度、千里眼の詠天です。
    そろそろクリスマスですね。

    クリスマスとは、「キリスト・マス」
    「イエス・キリストが生まれる日」という意味です。
    クリスマスといえば、サンタクロースですね。

    この人は、フィンランドやグリーンランドが発祥と言われていますが、実は村興し的な意味合いが深くあり、実際には寒い国でのサンタはこじつけに過ぎません。
    実際には、オランダのセント・ニコラウスという人がその発祥なのです。

    この方は、3世紀後半から4世紀に活躍したキリスト教の聖人です。
    困っている市民を助けては導く、えらい偉人さんなのです。
    そのエピソードにこんなものがあります。

    相談に訪れた村人は非常に貧乏で、しかも嫁入り前の娘を3人抱えていました。
    それを不憫に思ったニコラウスは、皆が寝静まった深夜に村人の家を訪れ、その窓から金塊を投げ入れました。
    それが偶然干してあった洗濯物の靴下の中にすっぽりと入ったのです。
    これが、クリスマスにはプレゼントを靴下に入れるという風習になったのです。

    そしてオランダでは、14世紀の後半くらいからニコラウスの命日である12月6日にシンタクラースというお祭りを開催します。
    これは毎年行われる行事となり、17世紀にアメリカに移民したオランダ人によりシンタクラースがアメリカに根付いたのです。

    さらにその当時ニューヨークにいた作家が、我が子のためにシンタクラースとセント・ニコラウスの話をひとつのストーリーにして「サンタクロース」が誕生します。
    その話は瞬く間にベストセラーとなり、クリスマス=サンタクロースという一大ムーブメントが起こります。

    当初、サンタクロースの衣装はブルーが基本で高貴なニコライに準じて紫などが使用されていました。
    しかし1960年代にコカ・コーラがキャンペーンにサンタを使用したことからサンタ=赤白が定着したのです。

    日本には、昭和30年中盤街頭テレビが主流の時代、視聴率は90%以上という時期でした。
    12月のある日に銀座のキャバレーが呼び込みにサンタの衣装を使用し銀座駅前でビラを配っている映像がテレビで中継されたのです。
    日本国民のほとんどがそれを見ていましたから、日本中にサンタブームが巻き起こります。
    そこに目をつけた明治屋がクリスマスケーキを考案しクリスマスにはケーキを食べるという習慣を作ったのです。

    アメリカでは、七面鳥などの鳥肉を食べる風習はあったのですが、ケーキを食べるという概念は日本オリジナルなのです。
    従ってクリスマスケーキはアメリカにとっては逆輸入商品なのです。

    元々クリスマスって大人たちの金儲け主義が生み出したイベントなんですね…
    だけどクリスマスってワクワクしますよね。
     
     今年は何かあって欲しい    詠天

    空飛ぶスパゲッティモンスター教2

    毎度、千里眼の詠天です。
    前回に引き続き、空飛ぶスパゲッティモンスター教(FSM教)についてお話しましょう。
    創始者ボビー・ヘンダーソンは、反キリスト論者でも他宗教を迫害する存在ではありません。
    その宗教を通じて権力を振舞う者が許せないのです。
    そこで「FSM教」を作りました。
    それは宗教自体を皮肉ったものであり、ブッシュ元大統領をはじめとするI.D論者に対するプロパガンダだったのです。
    パロディ教団でありながら彼の真意は世界に伝わり、若者をはじめとするFSM教徒が続々と彼の元へ集まっているのです。
    その一つには、FSMの教義にあります。
    FSM教が崇める神「フライング・スパゲッティ・モンスター様」は誰でも作ることができます。
    毛糸の束に目をつければ、それがご本尊になるのです。
    そしてキリスト教徒に決まった服装があるようにFSM強では海賊のコスチュームが正装になります。
    人間を形成しているのは、スパゲッティであり、DNAが複雑に絡まってるさまはまさにパスタそのもの。
    内臓ももちろんパスタであり、赤く染まっているのはタバスコやトマトソースである。
    脳みそはミートボールのようである。
    シェフが愛情を込めてスパゲッティを作るのと同じようにFSM様は、私たち人類を作ってくださったのだ。
    もちろん地球を作ったのもFSM様で、海でパスタを茹でる際、塩を入れすぎたので海は塩っぱくなった。
    麺は神聖な神であり食物なのだ。だからFSM教では「アーメン」とは言わず「ラーメン」という。
    天国にはストリッパー工場とビール火山があり、女性やゲイのために男性ストリッパーも用意されている。
    地獄を恐れなくともよい、ただ気の抜けたビール火山が有り、ストリッパー達が性病持ちである以外天国とは変わりがない。
    スパゲッティモンスター神がいないという明確な証拠を提示してくれるならば、我々はそれを受け入れる。
    信者は、教祖や教団にお布施する代わりに、そのお金は自らの「貧困をなくす」「病気を治す」「平和に生きて、燃えるように愛して、電話の通話料を下げる」ために使う。
    これがFSM教の主な教義なのです。
    そして誰でも海賊服に身を包み、眼帯をすればFSM神が守ってくれるのです。
    とってもファンタジーがあって、至極真っ当な宗教だと思いませんか?

     昔、セックスカルト教団に無理やり入信させられかけた男         詠天

    空飛ぶスパゲッティモンスター教

    毎度、千里眼の詠天です。
    皆さんは空飛ぶスパゲッティモンスター教をご存知でしょうか?(以下FMS)
    2005年カンサス州教育委員会で公教育において進化論と同様にインテリジェント・デザイン説(I.D説)の立場も教えなければならないという決議が評決されようとしていたのです。
    簡単に言うと、人間は猿から進化した説と
    I.D説を学校で教えようというのです。
    どちらの説も推論にほかならないもので確証がないのにです。
    特にI.D説は、キリスト教とは明言していませんが、絶対的な存在が人間を作ったという、神秘的で宗教的な説であり、キリスト教を布教するための目論見が隠されていると反発したボビー・ヘンダーソンが「確証のない曖昧なものを学校教育として教えるならフライングスパゲッティモンスターも教えろや!でなければ猿が進化して人間になった証拠、カニが存在する証拠を見せてみろ!!」
    てなことで、自分の運営するサイトで「FSM教」を創設し、世界中に呼びかけたのです。
    それに呼応した人々が集結し瞬く間に全世界にFSM教徒が増えていき一大ムーブメントを起こしているのです。
    これは宗教をパロディ化した側面を持ちながら本来の宗教としてあり方や人間としてのあり方を諭しているのです。
    I.D説(神が人間を作った)と教えるなら、平等にスパゲッティモンスターが人間を作ったことも教えるべきだと主張し、学校で進化論、I.D説、FSM説を平等に教えないと法的に抗議すると訴えたのです。
    なぜなら教育とは事実に基づいたことや歴史上明らかなることを教えるべきであって、進化論はともかくI.D説については一部のI.D信奉者(キリスト教徒)によって教育にねじ込まれたものだからです。
    そもそも宗教には教義があり、それは崇めないと地獄に落ちるだの家族が不幸になるという恐怖の側面を持っていますし、現実に戦争を引き起こしたのは宗教が発端であり、裏切ったものには死を与えることも辞さないのです。
    FSM教は、その存在にこそ意義があり宗教に違反したものに死を与えなければ異教徒を地獄に送ることもない。
    確かにパロディ教団ではありますが、それは一部の権力者や世論の横暴に対するプロパガンダのひとつなのです。
    現にカンサス州は、2006年にI.D信奉者を全員落選し2007年にはI.D説を撤廃、2005年の基準改正は破棄されたのです。
    そしてFSM教は今なお存在しており、誰でも入れるしいつでもやめれる自由な宗教として教徒を拡大しているのです。
    面白くなってきたので、次回はFSM教の教義についてご紹介しましょう。

     基本的に無宗教な男    詠天

    愛すべき変人 津島恒夫

    毎度、千里眼の詠天です。

    私のコラムを読んでくださっているクライアントに「先生って占い師らしくないことばっかりコラムに書いてますね」と、よく言われますが、全くその通りで小難しい占いの話や精神論は他の鑑定師さんにお任せして、私はどーでもいい雑学を中心に展開したいと思っています。

    て、ことで今回は偉人さんなどではなく。私のごくプライベートな知り合いのお話をします。
    津島恒夫博士は、変人です(笑)

    氏がなぜ博士なのか?
    それは自称宇宙学の権威で国立フィリピン大学の客員教授なのです。

    本業は愛媛県在住で木彫りの民芸品などを自作して販売などをしておりますが、実はこの人『コンタクティ』と呼ばれており、UFOに乗せられた数少ない人間なのです。
    すごい眉唾でしょ(笑)
    テレビでお見かけした人も多いと思うのですが、「たけしの超常現象スペシャル」には毎年レギュラー出演されていますし、そのほかUFO系の番組にはよくご出演されおります。
    実際に私が氏から聞いたお話を記載します。

    氏は3回にわたりUFOに乗せられており、今から40年ほど前に初めて乗せられたそうです。
    やはり例にたがわず、オレンジ色の光が近づいてきたと思うと、いきなりその光包まれて眠らされて、何やら怪しい実験をされたそうです。
    気がつくと自宅で寝ていたのですが、顔や足にいたずら書きのように絵や見たことのない文字が書かれていたのです。
    そしてUFOに乗っていた者からのメッセージを思い出しました。
    「その絵図を基にそれを作れば、あらゆる病気を治すことができるであろう」
    ということだったのです。
    足や顔に書かれていたのは、落書きではなく設計図だったのです。
    それは、いわゆる人体を正常に戻す装置だったのですね。

    氏は、色々と研究し試した結果、竹でそれを作り、現在もそれを販売しております。
    2度目は、かなりおおきなUFOに乗せられており、直径が1.5Kmもあったそうです。
    そういえば、最近東京で直径1.7KmのUFOが大勢に目撃されたそうです。
    津島博士が乗せられたUFOなのかもしれませんね。

    そんな氏ですが、現在歯が悪化して入院しているそうです。
    あれ?竹で作った装置があれば、治るんじゃ…(笑)

    そんな博士が大好きです     詠天

    最強伝説 中村日出夫

    毎度、千里眼の詠天です。

    中村日出夫総師は、拳道会という空手道場の創始者であり空手家です。
    1913年当時、日本領土だった北朝鮮平壌で生を受け、1936年日本に渡り空手を始めます。
    かの極真空手、大山倍達総裁ですら「中村先生」と敬意を表するほどの人物で、数多くの伝説を残す空手家です。

    ここでは記載する事もはばかれる伝説がやたら多いので、気になる人はググるかウィキってください。
    その技の中でも『垂木斬り』という技があります。

    それは、足で踏みつけてようやく曲がるくらいの角材を手刀で叩き切るという技です。
    ある漫画家が取材のために訪れた時、目の当たりにしたのは、スーツ姿の中村総師がなんの準備運動もせずに、角材に向かって手刀を振ると『コッ!』という乾いた音のあとに、その角材は真っ二つに切られていたそうです。

    その話を専門家にしたところ、「高速で大きな物体が貫通した時に起こる現象であり、人間に出せるスピードではない」ということでした。
    実際に中村総師が演舞した写真には、突きや蹴りのスピードが早すぎて写っていなかったそうです。

    「空手に流派なし」という言葉を常に持っていて、自分の流派を立ち上げずに拳道会という組織を作っているのです。
    ○○流ではなく、自分の流派は”空手道”ということですね。

    現に内弟子だった廬山初雄(ろうやまはつお)は極真空手の全日本チャンピオンであり、空手に流派なしを体現して見せたのです。
    その当時、20代で武道家としてもピークだった廬山も、50歳を超えていた中村総師には、早すぎて手も足も出なかったということです。

    以前テレビに出演していたのですが、中村総師の声はガラガラで何を言っているのか聞き取れないほどでした。
    なぜなら61歳の時に喉頭がんが見つかり、すぐに切除しなければならないと宣告されたのですが、声帯を切っては後進の指導ができないという理由で手術を断り、火鉢で焼いた針金を喉に突っ込み腫瘍を焼き、ウイスキーをあおり消毒。

    それを十数回繰り返し、ついにはがん細胞を焼き切ってしまったのです。
    そのため声はガラガラ声になってしまいました。
    そして90歳を超えた今日も道場で指導をしている、まさに生きた伝説なのです。

     ニキビくらいなら自分で潰せるよ    詠天

    トリノFCの軌跡

    毎度、千里眼の詠天です。
    ワールドカップは国同士の戦争だと比喩されることが多々あります。
    時に、見ていても目を覆いたくなるような汚いプレイや、1点を守るために無駄に時間を使う遅延プレイなど、観戦していても辟易とする場面がありますが、それも国同士の戦争だから選手たちもやりたくないプレイをさせられているというのが現状です。

    しかしそのサッカーで戦争が休戦・終結した事実もあり、単なるスポーツではなく世界情勢を左右するほどのスポーツなのです。

    イタリアのサッカー1部リーグ(セリエA)にトリノFCという伝統のあるチームがあります。
    1906年に発足し、当初はFCトリノ→ACトリノ→トリノ・カルチョを経て2005年よりトリノFCとして活動しています。

    トリノFCを語る上で『スペルガの悲劇』は欠かせない大事件です。

    1942年から49年にかけてトリノはセリエA5連覇を果たします。
    当時それは大記録で「グランジ・トリノ(偉大なるトリノ)」と賞賛されました。

    その1949年シーズン終盤にポルトガルのチーム、ベンフィカとの親善試合を終えて帰る途中、トリノ郊外にあるスペルガ聖堂の外壁に激突し、飛行機は大破。
    乗員31人と選手18名監督を含むスタッフ5名が帰らぬ人となったのです。
    その中には、イタリア代表の選手が多く含まれており、イタリアサッカー界の大きな損失となったです。
    49年シーズン、4戦を残してまるごとトップチームがなくなったトリノは、ユースチームでシーズンを乗り切ることにします。
    苦肉の策としか言い様がありませんよね。

    しかし相手チームも「グランジ・トリノ」に敬意を表してユースチームで構成し、トリノはこのシーズンも優勝で幕を閉じることになるのです。
    これぞ、スポーツマンシップであり死者への畏敬の表れなのではないでしょうか?

    八百長試合が暴露されている昨今のイタリアサッカー界ですが、このスペルガの悲劇の精神はいまだに根強く息づいているのです。
    そしてサッカーは国技という枠を飛び出して、地球技として全世界を結ぶ一端を担っているのかもしれませんね。

     ヘディングで脳震盪を起こした男 詠天

    ニコラ・テスラ2「フィラデルフィア計画」

    毎度、千里眼の詠天です。
    「孤高の偉人 ニコラ・テスラ」の続編です。

    1943年1月にニコラは亡くなりましたが、彼の残した計画は密かに遂行されたのです。
    これから書く事は、非常に眉唾でリアリストには信じられない内容ですが、すべて資料に基づいた事実です。

    1931年にニコラは「レインボー・プロジェクト」を設立します。
    元々は交流電源や電磁波を使って生活や軍需産業への参入を目論んでいたようです。
    その一環として、当時の戦艦を電磁波を使用してレーダーから消すという作戦でした。
    ニコラが亡くなったため、ノイマン博士に引き継がれて同年10月にこの計画は実行されたのです。

    ペンシルバニア州フィラデルフィアの海上に駆逐艦「エルドリッジ」は実験の時を待っていました。
    実験の内容は、ニコラ・テスラにより開発されたテスラコイルを使用して、船全体を電磁波で覆い、レーダーから消失させることにあります。
    「エルドリッジ」には数多くの機械が取り付けられ、しかも約50人(人数は定かではない)の乗組員を乗せたまま生体実験を兼ねたものでした。

    そして実験のスイッチを入れると「エルドリッジ」は緑色の発光体に包まれだし、それが幾重にも重なり「エルドリッジ」みずからが発光したかと思うと、徐々に水面から船体が持ち上がりしまいにはレーダーから消えるどころか「エルドリッジ」そのものが消えてしまったのです。
    その場は騒然となり、そして大歓声が起こります。

    なぜなら「エルドリッジ」そのものはここにあるのに、その姿が消えたのだと思ったからです。
    誰もが大成功だと思いました。

    しかし実際には「エルドリッジ」は、2500km離れたノーフォークの港に現れたのです。
    姿が視界から消えたのではなく、磁界が作り出した何らかの作用により「エルドリッジ」はワープしたのです。
    そして、フィラデルフィアの大歓声は悲鳴に変わります。

    消えてから数秒後、またもや発光体とともに元の場所に「エルドリッジ」は戻ってきたのです。
    甲板にいた乗組員は、不可解な死を遂げます。

    あるものは上半身だけが甲板に残り、あるものは一瞬で氷漬けになり、そして叫びながら船内から出たものは、表に出るなり炭になるまで焼けて死んだのです。
    他の者もありえない死を遂げ、16名が行方不明・死亡、生き残った6名も精神に異常をきたし入院・隔離、唯一機関室に居た数名だけが助かるという事態になったのです。

    米国海軍は、この異常事態を隠蔽し、無かったことにしました。
    しかし関係者の手紙により「フィラデルフィア計画」は発覚するのです。
    そして助かった数名の乗組員たちも現在では行方がわからない状況です。

    誠に信じがたいお話ですが、これは事実なのです。

    なぜ「エルドリッジ」はワープしたのか?
    電磁波が生み出す磁界は一体なんなのか?

    現在でも調査が続行されています。
    これはニコラ・テスラが私たちに残した宿題なのかもしれませんね。

     宿題なんて大嫌い       詠天

    ニコラ・テスラ1「孤高の偉人」

    毎度、千里眼の詠天です。

    以前は一部の数学者や電気関係者しか知らなかった人です。
    直流電流を主としたエジソンに対し、交流電流を発案した大天才!
    それがニコラ・テスラです。

    1856年、現在のクロアチアにて生を受けます。
    彼が5歳の頃、6つ年上で「神童」と呼ばれた兄が急死したことにより、その兄を上回るため勉学に励み、数学に関しては突出した才能を周囲に見せつけるのです。
    大学生時代には、交流電磁誘導の原理を発見し、その後尊敬するエジソンが経営するエジソン電灯に入社。

    当時エジソンは直流電流による電力事業を展開していたのですが、ニコラは交流電流による事業を発案します。
    交流電流ならば、直流よりもかなり安い経費で電力を供給することができるのですが、当時エジソンが開発した家電製品はすべて直流ですし、直流の方が交流よりはるかに儲かるという利点があったのです。

    そこでエジソンは、「私の直流工場の電力をニコラの言う交流電源で動かすことができたなら褒奨金5万ドルを出そう」と言い出します。
    この当時交流電源は、その安全性や実用性が確立できていなかったための発言だったのですが、ニコラはこれを成功させます。

    しかしエジソンは、交流電流の成功を認めくたくないので「褒奨金なんて冗談やがな」と反故にしたのです。
    このことから「直流と交流の確執」が始まり、ニコラはエジソンの元を去ります。
    憧れの存在が憎むべき存在となったのです。

    一方エジソンは、そのニコラの天才的素養を恐れ、何かと彼の邪魔をします。
    彼に賛同する仲間たちと交流による電力会社を発足させ、1888年にはナイアガラの滝の発電所に交流電源を取り付け、一躍交流電流は脚光を浴びます。
    現在、世界の主流は交流電流です。

    そして遠隔で(電線を使わずに)電流を発生させるテスラ・コイルを発明します。
    (これは現代でも使用されており、でんじろう博士が静電気を発生させる時に使用している、丸いコイルから四方八方に稲妻のような電流を発生させている装置です)

    第1次世界大戦が始まるとニコラの研究は頓挫します。
    それは彼の人間性に疑問を持ったスポンサーが降りたことにより、資金繰りが難しくなったからです。

    1917年、ニコラは非常に貧乏な生活を強いられていました。
    そこに米国電気工学協会からエジソン勲章の授与の打診が来ます。
    ニコラはこれを一笑に伏し断ります。

    「あなた方は私の体を飾り立てるばかりで、功績を認められそこなった私の頭とその画期的な発明には何も与えてくださらない。今日、あなた方の協会があるのは、おおかた私の頭とその産物が下地を与えたからだというのに」
    しかも憎むべきエジソンの名が冠された勲章を受け取る気にはならなかったというのが本音でしょう。

    1943年1月ニューヨークのホテルで彼は息を引き取ります。
    奇しくも同年、ニコラ・ステラが発案した恐るべき実験をアメリカ政府は行うのです。
                     つづく

     久しぶりに引きずってみるわ~~ 詠天

    ハンムラビ法典

     毎度、千里眼の詠天です。
    今回は、ハンムラビ法典についてです。

    皆さんには聞き覚えのあまりない言葉だと思います。 
     これは世界で2番目に古い法典で、古代バビロニアの王ハンムラビが282条からなる習慣法を制定したもので、最古の司法と言われています。

    有名な条文に「目には目を、歯には歯を」というものがあります。
    これはみなさんご存知ですよね。
    聖書の福音書にも同文が記されており、近年でも多用されている報復の言葉となっています。

    これは、やられたら倍返しという概念ではなく、目を潰されたなら相手の目を潰さねばならない、歯を折られたなら歯を折らねばならないという同害報復を記しているもので、過剰な報復はしてはならないということを制定した、人類において初めての法律なのです。

    しかし、これは万人に適用されたものではなく、身分に応じて適用されるというものでした。
    例えば、奴隷が奴隷の歯を折ったのなら歯を折ればよいが、奴隷が貴族の歯を折ったならば死を持って償わねばならない。
    貴族が奴隷の歯を折ったならば、同等の代価(慰謝料)若しくは解放をもって償う。

    といった階級に応じて変化するもので、あくまで同等の場合のみ適用される法律だったのです。

    基本理念は、弱者救済であり罪人に裁きを与えるのではなく、罪を解明し同等の代償を与えるという建前上平等に基づいた法律なのです。

    ですが、この法典による裁判は、かなりいい加減なものが多く、立証不可能な訴訟に対しては、その容疑者を水に放り込み溺れ死んだら有罪、浮かんできたら無罪、その場合、原告の方が虚偽の告発をしたとして、死刑になるというものだったのです。

    後年キリスト教の教えにより、階級差別や人種差別の項目が無くなり、より平等に判決がなされることになるのです。
    差別項目こそなければ、このハンムラビ法典はかなり正義に基づいた法令となります。

    しかし「目には目を歯には歯を」の理念は、人間の本質をついた法律なのかもしれませんね。

     いい歳をして歯医者で泣く男   詠天

    オーパーツの話

     毎度、千里眼の詠天です。
    今回はオーパーツについてお話しましょう。

    オーパーツとは、その時代にそぐわないモノ場違いな遺物の俗称です。

    有名なのは、ナスカの地上絵、コロンビアの黄金シャトル、バクダッド2000年前の電池などがあります。

    誰がどのようにして作ったのかわからない、その時代にそれを作る技術があったのか??
    そのようなものを総じてオーパーツと呼びます。

    今回は、映画「インディ・ジョーンズ」でも有名なヘッジスの水晶ドクロについてお話しましょう。

    1927年、イギリスの考古学者ミッチェル・ヘッジスがベリーズ南部のルバアントウェン遺跡から発掘しました。
    約3600年前のもので、大きさが25cm重さ5.4kg。

    太陽光を当てるとプリズム効果で7色に発光し、ロウソクの火を当てると紫色に淡く光りだし。
    その光には催眠効果があるのです。

    それゆえ宗教的な集会や祭事で、使用されたのではないかと言われています。
    はっきり言ってイマドキ水晶ドクロは珍しくないのですが、このドクロはキレイに研磨されていて、しかも人骨を忠実にミニチュア化しており、寸分違わずシンメトリーされており、しかも頭蓋とアゴの2分割になっているのですが、それが別々に作られたものではなく、ひとかたまりの水晶から削り出された一点ものなのです。

    そして問題なのは、3600年前に人骨を忠実に再現できる知識、ひとつの水晶から失敗することなく削り出す技術があったのか??
    しかも光の反射を考えて研磨することができたのか?ということなんです。

    そして不可解なのは、歯の部分にドリルを使った跡があり、現代でもそのように削れるドリルは存在しないそうです。
    総じて言うなら、3600年前の代物ではないということです。

    しかもいろんな逸話が残っていて、水晶ドクロは全部で13個有り「2012年までに一箇所に集めないと世界は滅びる」なんてことを言われていますが、現在19個も見つかっており、ヘッジスの水晶ドクロが一番の出来栄えであると同時に発見時の曖昧さから偽物ではないか?という疑惑が現在でも囁かれているのです。

    状況などから偽物の可能性が高いのですが、それじゃあロマンが無さ過ぎだと思いませんか?

     ロマンは男の大好物!    詠天

    手相は変化する

    毎度千里眼の詠天です
    たま~に占い師っぽいお話をしましょう。
    よくクライアントさんに「手相って変わるんですか?」と聞かれます。
    つい先日も「2年くらい前に見てもらったんですが、変わったんでしょうか?」
    なんてお客様がお見えになりました。
    もちろん変わります!
    なかなか変わらない人もいれば、頻繁に変わる方もいます。
    人それぞれ格差はあるのですが、だいたい3ヶ月も経てばある程度の変化が見て取れます。
    中には、1日で運命線が2cmも伸びたなんて人もいます。
    なぜ?手相は変わるのでしょうか?
    それは脳と関係があります。
    右脳で考えたことが、左手に先天性(運命)として刻まれ、左脳で考えたことが右手に後天性(変化)として現れるのです。
    いろんなことを考えたり、悩み事の多い人は手相が複雑になり、直感や感覚を大切にするインスピレーション派の人は、サッパリとした手相となります。
    ここ5年ほど前から、韓国では手相の整形手術やイレズミなどが多く行われています。
    そんなことしても運命が変わるわけないじゃん!って思われがちですが、実際運気や運命は変わります。
    なぜなら、手に刻まれた線、それがイレズミであってもボールペンで書かれたものであっても、脳がその線を読み取り、徐々に思考が変化していくのです。
    その最たるものが、豊臣秀吉の右手でしょう。
    もともと上昇志向の強かった秀吉ですが、それを決定づけたのが、右手に刻まれた刀傷なのです。
    斬りかかられた時、とっさに右手で刀身を受けたため秀吉の右手には真っ直ぐな刀傷が残っています。
    これは彼の残した手形から実証されています。
    その刀傷は、まるで昇龍のように立ち上る運命線として刻まれているのです。
    その傷(線)が、あったからこそ信長ですら成し遂げられなかった天下を治める偉業が成せたと言われています。
    不思議なことに手相となる傷は秀吉のようにそのまま残るのですが、運命にならない傷はキレイに治癒するのです。
    ね、手相って不思議でしょ。

     手の平に愛を語る伝道師    詠天

    祖母の思い出

    毎度千里眼の詠天です。
    最近ヴェルニのプロフィールコメントをちょっと変えました。
    これまでは「幼少から授かった霊感を駆使して…」なんて書き出しだったんですが、実はこの書き出しになんか違和感がずっとあったんです。
    子供の頃から霊感があったのは事実なんですが、幼少から云々っていうのは何か眉唾っぽくて…
    いつか変更しようと思ってたんですが、なかなかタイミングがなくてね。
    んで、つい先日夢枕に死んだ祖母が現れて、なんにも言わずにニコッと笑って消えたんです。
    私自身、プライベートでちょっと凹むことがあったので元気づけるために出てきたのかな~なんて思ってました。
    それで、祖母のことを書こうと思ったんです。
    私の祖母は、北海道の人間で地元では「神様」と呼ばれるヒーラーでした。
    今で言うヒーラーではなく、火傷や切り傷を負った人がよく通っていたんです。
    治療を施すのではなく、いわゆる『おまじない』を使って火傷なら1っヶ月足らずで跡形もなく治すことができた人なんです。
    実際、病院ならケロイドになって跡ってしまうような火傷もキレイに治す人だったんです。
    お金をもらって商売していたのではなく、善意で行っていた人なので「神様」と呼ばれていたんでしょうね。
    幼い頃になんでそんなことができるのか?祖母に聞いたことがあります。
    祖母が子供の頃、大雪の日に行き倒れていた旅の托鉢僧を家に泊めたそうです。
    手厚い施しを受けたことに感銘を受けた托鉢僧は、お礼の代わりにと末娘だった私の祖母に「おまじない」とその治療法を伝授したのです。
    その「おまじない」は、真言のひとつです。
    そして托鉢僧は、祖母にしかその真言を教えなかったのです。
    やはり幼かった祖母の中に眠っていた霊力や法力といったものを見抜いていたのでしょうね。
    私の母も「お前はババの血を引いている」とよく言っていましたし、家系の中でも霊感が強くあるのは私くらいなので、プロフィールに「…祖母の血を引き…」という文に変えたのです。
    だからなんだというわけじゃないんですが、とりあえずイチ鑑定師として頑張りまーす。

     果てしなく肉食系男子   詠天

    角界の話

     毎度、千里眼の詠天です。
    今回は、角界についてお話しましょう。
    角界とは相撲界のことです。
    なぜ角界というのか?
    相撲取りのことを「角力」といいます。
    そのことから、角界と呼ぶようになりましたとさ…というのが相撲協会の公式な説明なのですが、もっと詳しく掘り下げると、この「角力」という言葉が、どこから来たのか?
    ということなんです。
    元は力比べのことを「角力」と呼び、相撲取りを「角力士」と呼んだ事が語源となっているのですが、この「角」という言葉がなぜつかわれているのでしょうか?
    それは、中国拳法に由来する言葉なのです。
    中国古来の武術に「率角」(そっかく)という体術があります。
    この「率角」は、最も古い武術と言われており、現在の拳法の基礎になってものとも言われています。
    ルールは、丸い土俵の中で戦い、主となる技は体当たりなのです。
    相撲で言う「ぶちかまし」という技ですね。
    「率角」が発展して、現在のモンゴル相撲になったのです。
    しかも相手と組んで、投げる技などがあり、柔道の源流も「率角」だと言われています。
    日本には、紀元前に伝わったものと思われます。
    なぜなら垂仁天皇の時代に当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿祢(のみのすくね)による御前試合が行われてます。(このお話はまた後日)
    そして源義経が遮那王と呼ばれていた頃、鞍馬山で身を守るため天狗に体術を教わるのですが、この技術を「源の角」と呼んだそうです。
    おそらく当時は拳法や体術を総称して「角」と呼んだのではないでしょうか?
    しかし相撲協会は、日本古来の国技であり、中国から伝来したわけがないと「率角」の存在を認めません。
    まるで剣道は、国技だ!とのたまっている、どっかの国と同じハムニダ。
    相撲はもともと「率角」だったことは、まず間違いないでしょうし、すべての体術の基礎だったのも頷けます。
    そしてなぜ「角界」というのか?
    それも辻褄が合うということでしょう。

     ちなみに私が相撲をとるのは女性だけ…
                     詠天

    映画カサブランカの真実

     毎度、千里眼所属の鑑定師、詠天です。
    今回は、古いハリウッド映画「カサブランカ」のお話です。
     
    ハリウッドの古典的名作として有名な作品で、見たことのない人でも
    「君の瞳に乾杯」や「昨日?そんな昔のことは忘れたよ」などの名ゼリフは聞いたことがあるでしょう。
    ハードボイルドという言葉を生み、現代ラブストーリーの原点ともいえる作品です。
     
     そしてこの映画により、人生が変わった2人の男のお話です。
     
     1942年第二次世界大戦の最中、この映画は封切られました。
    当時のハリウッドは西部劇が主流で、カサブランカのような現代劇は、B級映画と言われていました。
    そこで制作側は、その通説を逆手にとり、大スターだったジョン・ウェインを主役に、
    ヒロインには人気最高だったヘディ・ラマーを起用します。
     
     現代で言うなら、ジョニー・デップとエマ・ワトソンが共演するようなものです。
    しかしジョン・ウェインのスケジュールが合わず降板、ジョンが出ないならとヘディも降板・・・。

     そこで売り出し中だった、イングリット・バーグマンを抜擢します。

     そしてジョンの代わりに若手のホープ、ロナルド・レーガンが挙がりますが
    「俺様がそんなB級映画に出るわけねーだろ!」とオファーを蹴ったんです。
    そこで仕方なく、パットしない若手俳優ハンフリー・ボガードを大抜擢するのです。
     
     こうして代役同士で制作されたB級映画「カサブランカ」は、公開と同時に大ヒット作となり、
    ハード・ボイルドという言葉とともにイングリットを大女優というステージに乗せ、ハンフリー・ボガードという
    唯一無二の大俳優を生み出したのです。

     その年のアカデミーを総ナメで「カサブランカ」旋風を巻き起こし、一躍、現代劇が主流の時代へとなるのです。
     
     ラッキーが重なり大スターとなったボギーことハンフリーボガード。
    そして大スターになりそこねたが、第40代大統領となったロナルド・レーガン。
     
     レーガンが、「カサブランカ」に主演していたら大統領にはなっていなかったでしょうね。
    その点で一番ラッキーだったのは、レーガンなのかもしれませんね。  
     
     では、さよならさよならさよなら。
     

     詠天

    「天駆ける夢」~二宮忠八伝~

     毎度、千里眼の詠天です。
    今回は、二宮忠八という人を紹介いたしましょう。

     慶応2年、現在の愛媛県で生を受け、幼いころから人一倍、好奇心の旺盛な忠八は、奇抜な凧をつくり周囲をおどろかせていたそうです。
    12歳のころに父が他界されたため、学校にも行けず丁稚奉公をしていました。

     その後明治20年、21歳になった忠八は、徴兵されました。
     毎日辛い演習をくり返していたある日の帰り道、滑空するカラスを見てひらめきます。
    カラスは羽をバタバタと動かすのではなく、大きく翼をひろげて風に乗り飛んでいる。
    それを見て、翼を動かさなくても、風の力を利用して空を飛ぶことができるのではないか?
     
     そう考え、カラス型の模型飛行器を制作します。
    しかしそれは、私たちが子供のころに遊んでいた飛行機模型と同じようなもので、実用できる代物ではありませんでした。
     
     しかしこれが、現在の飛行原理の発見だったのです。

    忠八は、研鑽に研鑽をかさね、二枚の翼で飛行する玉虫型の模型飛行器を制作しますが、頭のかたい軍のお偉方は「そんなおもちゃ」と一笑に付し、理解されなかったのです。
    だって飛行機が登場するのは、まだまだ後のことでしたから、有人飛行ができる乗り物など、夢のまた夢でしかなかったのです。

     そして1903年にライト兄弟が有人飛行を成功させ、飛行機時代のパイオニアとして現在でも君臨しています。
     忠八が玉虫型を考案したのが1893年ですから、軍が後押しして実機を制作していれば、二宮忠八こそがパイオニアになれたはずなのです。

     そんな軍に見切りをつけ、忠八は自力で飛行器を制作することにします。
    資金作りのために製薬会社に就職、1906年には支社長にまで登りつめます。
     やっと資金の目処がついた忠八は、飛行器作りを再開します。
    エンジンを使用することに目をつけ、精米機用の2馬力エンジンを使用しますが、馬力不足が露呈したため、12馬力のエンジンを自作しようとしますが、
    その折、すでにライト兄弟が飛行機制作に成功したこと知ります。

     当時の日本では、欧米の情報がなかなか入ってこなかったのです。
     急激に情熱をなくした忠八は、制作を取りやめ製薬会社の仕事に傾倒するのです。
    その後は、1909年に皆さんご存知のエンリッチ食塩のマルニ株式会社を創業。
    これだけでも、二宮忠八は飛行器考案・製薬会社支社長・大会社創業と、先見の明ありすぎの大天才と言えるでしょう。

     1919年には、忠八の飛行器は理論的・技術的に正しいことが認められ、フランスやイギリスでは、飛行理論を世界で初めに考案した人として評価されています。
     遅すぎた評価と言えるでしょう。

     その後の功績と、財界人として成功したからでしょうが、有功章や勲六等を受賞し、忠八の理論が20年をへて認知されたのです。

     晩年は、飛行機事故で亡くなった人たちのために飛行神社を作り、神主として余生をすごしました。
    もし日本軍が忠八の考案を受け入れて実機制作をしていれば、飛行機ではなく飛行器と呼ばれていたのかも知れません。

     日本にも、世界に通用する”報われない天才”がいたのですね。

    死ぬまでにコンコルドに乗りたい   詠天

    万治の石仏

     毎度、千里眼の詠天です。
     私は以前、長野県に7年ほど住んでいたことがあり、そのつながりで年に
    2~3回長野県に行くことがあります。

     この8月初旬も長野に行き、三日ほど余暇を過ごしてまいりました。

     久しぶりに諏訪大社にも参拝して来たのですが、一口に諏訪大社と言いまして
    も一箇所にあるのではなく、諏訪湖畔に本宮(ほんぐう)前宮・春宮・秋宮と4
    箇所の境内を保有している巨大なお社です。

    本宮には、稀代の大大関「雷電為衛門」の銅像や古い土俵があり、秋宮には夜中
    になるとイビキをかく杉の木、日本一大きな狛犬、そして春宮の境外に「万治の
    石仏」という異形の仏像が鎮座しています。

     大きさは、高さ235センチ、幅275センチと巨大な岩で作られており、球体の胴
    の上に小さな頭がのっているという格好です。

    神社仏閣で見る仏像のように精巧なものとは対照的に、ハニワのような顔(どこ
    となくモアイに似ている)、胴にはミステリーサークルで見るような幾何学模様
    が彫られています。

     万治というのは、作成された日時が万治3年(1660年)と彫られていること、
    そして胸に卍が彫られていることから「万治の石仏」とよばれています。

     近年、芸術家の岡本太郎が大絶賛したことにより、広く知られることになった
    のです。

    ですが、不可解な逸話が多々あり、もちろんその風体も不可解なのですが、1665
    年に春宮の石鳥居を建造する際、この石仏を材料にしようとノミを入れたとこ
    ろ、その箇所から血が滴り落ちたので祟りを恐れた職人たちは、それ以後手をつ
    けないようにしたという話があります。

    それにその石仏を制作した者の名前が彫られているのですが、その者たちの僧籍
    がないことから誰が作ったのか確かではない。

     しかも胸についている卍のマークは、反対をむいており、逆卍として知られる
    秘密念仏や密教から派生する邪教の類としても見てとれる。

    血が流れ出た逸話など、今でいうカルト教団のような匂いもするのですが、その
    異形の風体と幾何学模様が芸術的に評価され、現在では人気の仏像として観光ス
    ポットになっているので喜ばしいことではあります。

    長野県に行くことがあるならば、一度、諏訪大社の「万治の石仏」を観光される
    ことをおすすめします。

     温泉と蕎麦なら長野が一番!   詠天

    永遠のヒロイン ひし美ゆり子

     毎度千里眼の詠天です。
    私が生まれた年に「ウルトラセブン」の放映が始まりました。
    セブンは、ウルトラシリーズの中でも異質な作品であり、今でも中高年に人気の作品となっています。
    他の勧善懲悪を基準としたシリーズと異なり、時には、セブンや人間自体もが悪者なのかもしれない?と考えさせられるストーリー構成なのです。
    キャストの中でも、一際目を惹くのはアンヌ隊員役のひし美ゆり子さんでしょう。
    シリーズでもイチニを争う美貌の持ち主で、その人気の高さから10年ほど前に当時の写真集が発売されるなど特撮ファンからも非常に高い評価を得ており、40代50代のお父様方の永遠のアイドルとなっているのです。
    セブン放映後も多くの作品に出演しておりますが、彼女の人生、それは一筋縄なものではありませんでした。
    1973年には成人映画(現在のAV)にも主演しており、迷走する時期があったのです。
    その頃は心の病の中にあったのかもしれません。
    自身の著書によると、セブンを経験したことで、身も心もアンヌ隊員にシンクロしていたそうです。
    ウルトラセブン撮影中、ひし美ゆり子は、ひし美ゆり子ではなくアンヌ隊員としての日常を送っていたのです。
    そしてウルトラセブン=モロボシダンに恋をしていました。
    主演の森次晃嗣にではなく主役のモロボシダンを愛していたのです。
    それに気づいていた脚本家は、最終回にアンヌの恋を完結させるべくセブンとアンヌの宇宙人(ドラマ)と地球人(現実)は結ばれないという悲恋の台本を書き上げるのです。
    しかしそれも功を奏しませんでした。
    すべての撮影が終わったあと、ひし美ゆり子はアンヌ隊員としての生き方を見失うのです。
    なぜなら愛する者を最終回という名目でいきなり奪われてしまったのですからね。
    どんな役の仕事をしていても、彼女の中のアンヌは彼の面影を追い続けていたのです。
    しかしそんな低迷期を過ごしたからこそ現在の成功があると言えます。
    台湾料理のシェフと2度目の結婚をし、今では東京に3店舗を経営するオーナーになっているのです。
    アンヌという呪縛があったからこそ、今の彼女があるのでしょうね。
    そして私は、モロボシダンがアンヌに残した最後のセリフが忘れられません。
    「西の空に明けの明星が輝く頃、一筋の光が宇宙に向かって飛んでいく…それが僕なんだ」
     
    子供の頃、ウルトラ警備隊に本気で入隊したかった…           詠天

    お墓の話

    千里眼所属鑑定師の詠天です。
     今回もお盆にまつわる話をいたしましょう。

     私が小学生の頃のお盆に体験したお話です。
    私が育った町には、有名な観音様があり、そのすぐ側に大きな墓地があります。
     どこの墓地でも戦死者を慰霊した墓碑やお墓がありますよね。

     8月14日、私は母に連れられて先祖供養だかなんだか忘れましたが、その大
    きな墓地の裏山にあるお寺に連れて行かれました。

     130段ある参道の階段を登り、墓地を抜けてテクテクと歩いていると、大きな
    戦死者の墓碑があり、その並びには星型紋のついたお墓が立ち並んでいました。
     そのひとつのお墓の上に上半身だけの日本兵が立っていたのです。

     将校のようなキチンとした制服で足はなく、腰から上だけがお墓の上に乗って
    いる感じです。
     それが不思議と怖くなかったんです。
     私は子供の頃からそういったものが見える人だったので、怖がりな母にいうこ
    ともなくそのお墓の前を通り過ぎました。

     その兵隊さんは、私を見ることもなく、表情こそは読めませんでしたが、ただ
    立っているだけだったのです。
     お寺に行き、用事を済ませてまた来た道を戻って行くと、やはり兵隊さんは
    立っています。
     ただ表情は笑っているように見えました。

     そしてそのお墓の前に、おばあちゃんがお花を備えてきれいに掃除していたの
    です。
     母がおばあちゃんに、「ご苦労様です」と声をかけたのをきっかけに、私はお
    ばあちゃんに聞きました。

    「おばあちゃん、この墓の上に若い兵隊さんが立ってるんやけど…」

     そう言った途端に、おばあちゃんは泣き出したんです。
    聞けば、そのお墓は息子さんのもので、広島に落とされた原爆で亡くなったそう
    です。
     もちろん遺体はおろか骨さえも見つかっていませんが、息子さんが不憫なので
    お墓を、ここに建てたとのことでした。

     そのお墓には、骨もなにも入っていないのですが、魂はちゃんと帰って来たん
    ですね。
     お墓はただの箱ではなく、ちゃんと魂が帰ってくる家なのだと知った10歳の夏
    でした。

     一番の供養は忘れない心です  詠天

    お盆の話

     毎度、千里眼の詠天です。
    今回はお盆の由来についてお話しましょう。
    お盆とは、推古天皇の頃(606年)に初めてお盆という行事が始まり、今日まで続いています。
    その日にちは、地方により異なり8月15日が一般的ですが、7月15日に執り行う地方もあります。
    元々「お盆」は「盂蘭盆会」(うらぼんえ)という仏教用語を簡素化したものであり、元はサンスクリット語のウラバンナを音読したものと言われています。
    その意味は「逆さ吊り」ということです。
    なぜ逆さ吊りなのか?
    お釈迦様の内弟子に目連尊者(もくれんそんじゃ以下目連)という人がいました。
    彼は神通力に優れ、釈迦の弟子筆頭の座につくほど実力を持っていました。
    ある日、亡き母はどうしているのかと、神通力を飛ばしたところ、母は餓鬼道に堕とされて身体は痩せ細り、逆さ吊りにされる哀れな状態でした。
    目連が鉢に持った米を母の口に運ぼうとすると、その寸前で炎となり消えてしまいます。
    目連は釈迦のもとへおもむき、母を救うにはどうすれば良いか問いました。
    すると釈迦は「お前のオカンは、生前の悪業から餓鬼道へ堕ちたんや、オカンを救うには雨安居(うあんご・夏の修行)のあと7月15日に僧侶を招き多くの供物を捧げて供養すればオカンは助かるやろう」
    目連はその通りにすると、その功徳が認められ母は極楽往生されたのです。
    そして目連はさらに問いました。

    「未来世でも私がしたのと同じように供養すれば、父母を救うことが出来るのでしょうか?」
    「せやな、目連がしたように多くの供物で亡き父母のために供養すれば、一切の苦から逃れるやろな」
    と説いた事から、毎年7月15日若しくは8月15日に盂蘭盆会が行われることになったのです。
    現在では、ご先祖様が戻ってこられる日として知られていますが、元は逆さ吊りにされた母を救うために供養したことから始まっているのです。
    盆踊りにしても、地獄での修行を免れた亡者が喜んで踊っていることの模写であり、修行を終えた亡者を供養する意味のものとなっているのです。
    盆休みだから旅行ばかりって言わずに、先祖供養もするようにしてくださいね。

     夏はとにかく忙しい…     詠天

    悪魔の音楽

     毎度、千里眼の詠天です。
    日本では既に、R&Bという音楽がポピュラーなものになっています。

    R&Bとはリズム&ブルースのことで、独特の発声法でブルースをミドルテンポから速いテンポのリズムで歌うものです。
    この発声法は、声を楽器のように扱う基礎であり、レゲエなどでも多く使われています。日本でも和田アキ子や久保田利伸、EXILE、宇多田ヒカル、平井堅等、数え上げればきりがないほどR&Bのテクニックを取り入れているシンガーがたくさんいます。

    最近では、ラップなどとの融合によりHIPHOPなんて呼ばれたりもしていますが、このR&Bを生み出したのはレイ・チャールズです。

    「?」と思った方も多いかも知れません。

    R&Bは、1950年代に作られた比較的新しいジャンルなんです。
    当時、教会では賛美歌をアンサンブルで歌うことがゴスペルと呼ばれていました。
    レイが、その賛美歌をR&R調にアレンジして歌ったことからR&Bというジャンルが生まれたのです。
    その歌は敬虔なクリスチャンから反感を買い「悪魔の音楽」と蔑まされたのです。

    それもそのはず、神に捧げるための歌を流行りの音楽に合わせて歌うなんてバチアタリなことと思われて当然です。
    しかもここには黒人差別の意識が強くあったのかもしれません。
    しかし黒人教会は、徐々にR&Bを受け入れていき、厳かなゴスペルから「イエ~」とか「ウォ~」というフェイクを入れて皆で踊りながら歌う現在の形に変わっていったのです。

    虐げられていた黒人の歴史が、レイに反映されたのかもしれませんね。
    しかも黒人特有の音楽と見なされていたR&Bを、R&Rスターのエルビス・プレスリーがカバーしたり最近ではマライヤ・キャリー等のヒットにより市民権を得るに至ったのです。

    現在では、音楽学校でも必須科目にファルセットなどのR&Bテクニックが入っており、ムージックシーンにおいてR&Bは、なくてはならないジャンルとなっているのです。

    レイ・チャールズに生み出されマーヴィン・ゲイに熟成されたR&Bはスティービーワンダーやマイケル・ジャクソンによってポピュラー音楽へと変貌していったのです。
    そしてこれからもHIPHOPなどのように形を変え、進化していく音楽なのでしょう。

     私も一部分だけ形が変わります。 詠天

    南光坊天海伝説

     毎度、千里眼の詠天です。
    今回も歴史ミステリーをご紹介しましょう。

    南光坊天海とは、日光東照宮に拠を置く大僧正であり、徳川家康の側近としても有名。
    裏で徳川を操る黒幕としても名を馳せた人物です。

    この天海の出自は不明で、豊臣が天下統一をはたす頃、突如として徳川方に登場します。
    そして、まことしやかに囁かれる伝説は、天海は明智光秀だったのではないかというお話です。

    明智光秀といえば、稀代のテロリストとして織田信長を討ったことで有名です。

    その後、終生のライバル豊臣秀吉の大返しのおかげで逆に討ち取られ、そのおかげで秀吉は天下統一をなすのです。
    敗戦した光秀は、刀狩りとよばれる農民の集団に会い首をとられたと言われていますが、その首をみた者はいなく、実際に光秀が死んだのかどうかはわかっていません。

    そんな折、徳川家に南光坊天海という天台宗の僧侶で、参謀役が突如あらわれます。
    家康は天海を徴用し、ことあるごとにアドバイスをうけて秀吉亡きあと将軍として幕府を開きます。
    このことから天海は闇将軍ともよばれました。

    では、なぜ天海が光秀という逸話がうまれたのか?

    それは天海がおさめる日光東照宮には、明智家の家紋である桔梗紋があらゆるところに飾られており、東照宮の装飾のほとんどに桔梗紋の飾り彫りがなされています。
    そして日光には天海が名づけた明智平という土地があります。

    しかも徳川の子供の名は、天海がつけており、まず、徳川二代将軍は秀忠、三代は家光、四代家綱。
    二代と三代は、光秀の名からつけられ、家綱は光秀の父・光綱に由来するのでは?と言われているのです。

    自分が天下統一できなかった代わりに、徳川の跡取りに明智家由来の名をつけたのでは?と言われているのです。

    しかも学僧である天海が関ヶ原で采配をふるう屏風絵が残されており、大阪城には天海が使用したと言われる鎧が現存しています。
    以前テレビの検証番組では、光秀と天海の筆跡鑑定したところ、限りなく同一人物に近いという結果が出ています。
    このことからも、天海は明智光秀だったのではないかと思われているのです。

    光秀については、まだまだ謎が多いので、また機会があればご紹介します。

     戦国時代ならたぶん足軽  詠天

    天草四郎の謎

     毎度、千里眼の詠天です。
    今回は歴史にまつわるミステリーをご紹介いたします。

    天草四郎といえば、美輪明宏さんの前世として有名ですが(笑)
    みなさんはどれくらいご存知でしょうか?
    絶世の美少年で、島原の乱では隠れキリシタン3万5千の頭領として16歳で討ち死に。
    というのが、史実として伝わっています。

    しかしこの天草四郎には、不可解な謎が数多くあるのです。
    その最たるものが、豊臣秀綱の伝説です。

    この秀綱ですが、史実記述ともに定かではありません。
    豊臣秀吉の嫡男、秀頼の子供、秀吉の孫が秀綱であると言われています。
    しかし秀綱が存在していたものを証明するものは何もないのです。

    では、なぜこの秀綱という名前が世に出てきたのか?
    それを語る前に、天草四郎の謎を整理しましょう。

    1、なぜ天草四郎は16歳で3万5千もの軍の頭領となったのか?
    本名益田四郎は庄屋(益田屋)の小倅であり、カリスマ性があったとしても、島原軍の中にはゴリゴリの武将もいたのに16歳の若造に付き従ったのか?

    2、島原軍の軍備は大層金のかかったもので、刀や甲冑等は全て新品だった。
    その資金力はどこから手に入れたのか?

    3、なぜ、徳川軍は3万5千の島原軍に対して13万の大群で押し寄せ、しかも女子供まで皆殺しにしたのか?

    この全ての答えが、豊臣家にあると言われています。

    大坂夏の陣の際、燃える大阪城と共に時価80兆円と言われる秀吉の金塊が消失しています。
    嫡男の秀頼は、落城した次の日自害したと言われていますが、実際に秀頼の首を見たものはいません。

    その後、京ではこんな手毬唄が流行りました。
    「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」

    そして鹿児島には、秀頼の墓碑が存在します。

    これが事実ならば、秀頼の息子である秀綱は正当な豊臣の跡継ぎであり、
    身を隠すために益田屋に預けられたのだとしたら、島原軍の総大将となってもおかしくはない。

    潤沢な資金も消えた秀吉の金塊が元なら納得できるでしょう。
    そして徳川軍は、豊臣の残党駆除のために大軍を送り、血を残さぬために皆殺しにしたのです。

    しかし天草四郎らしき死体は見つけたものの
    それが四郎だと立証するものは、何も見つかっていないのです。

    しかも天草軍の旗頭は、秀吉と同じ千成瓢箪だったのです。

     実は歴史も大好き!    詠天

    魂の水先案内人

     毎度、千里眼の詠天です。
    暑い日が続いていますので、少し涼しくなるお話を致しましょう。
     今から3年前の9月のお話です。

     当時私はフリーの占い師として出張鑑定をしておりました。
    自宅から20キロほど離れた所で同級生がお店を経営しておりまして、私は連絡を頂くとそのお店で手相鑑定をさせてもらっていたんです。
    その日は、午後11時に呼び出しがあり、私は20キロの道のりを1時間かけて自転車で向かいました。
    帰りは電車のない時間なので、自転車で行くほかなかったのです。

    午前3時過ぎに鑑定を終えて、再び私は自転車にまたがり帰路についたのです。
    自宅の近くまでは、大きな国道が一直線に続いています。
    私は、心地よい夜風を感じながらペダルを踏み続けました。
    国道といえどもローカル地区では、街燈も極端に少なくなり車のヘッドライトが見えないときは、真っ暗になるほどです。
    時折見えるガソリンスタンドやコンビニの光が道標のように光っています。
    そのスタンドを通りかかったとき、時刻は4時過ぎ。
     自転車に乗った女の子とすれ違いました。

    ミニスカートからのぞく白い太ももは私のスケベ心いや、男心をくすぐるのには十分だったのですが、すれ違ってから思いました。
    周囲には、コンビニがあるものの田んぼだらけで、若い女の子が一人でいるのは非常におかしなシチュエーションだったのです。

    しばらくペダルをこいでいると、後ろから「ギッ…ギッ…」と音が聞こえてきました。

    振り返ってみると、先ほどすれ違った女の子が、私の後ろをついてきているのです。
    その距離は100mくらいで私が時折立ち止まっているのにもかかわらず、女の子との距離は100mくらいで一向に近づいてこないのです。
    私はものすごい違和感を感じていました。
    彼女が霊魂だとしたら、すれ違った瞬間に解ったはずなのです。
    しかし後ろをついてくる彼女は、人間ではありません。
    私のスケベ心…いや男心が霊感を上回ったのか?なんて思いながら、自宅へ向かう大きな交差点に差し掛かった時、赤色灯が回っているのが見えました。
     救急車とパトカーが止まっていたんです。

    近づくと2トントラックが自転車を巻き込んだ事故でした。
    ちょうど救急車にケガ人を載せるところだったのですが、私に見えたのはストレッチャーの上に横たえられてミニスカートから白い太ももを覗かせている血だらけの女の子だったのです。
    私はビックリして振り返ろうとしたら、女の子が私のスグ隣にいました。
    そしてペコリと頭を下げたのです。

    突然サイレンが鳴り救急車は発車しました。

    一瞬その方向を見て、女の子を見るとすでに消えていたのです。
    おそらく私が連れてきたのは、女の子の生きた魂だったのではないでしょうか?
    だから霊と気づかなかったのでしょう。
    そして間違いなく女の子は一命を取り留めたはずです。

     時々魂の配達もします     詠天

    超能力捜査官の話

     千里眼所属鑑定師の詠天です。
    皆さんは、ちょっと前に話題となったFBI捜査官をご存知でしょうか?
     最近はメッキリ見ることがなくなりましたよね。
    ジョン・マクモニーグルやナンデッカ・マイヤーなんていう自称FBI捜査官がテレビでとり上げられてました。

    そもそもFBI捜査官って本当にいるの?ってことなんですが、答えはいません(笑)

     実際に全米の警察署に『超能力捜査官を捜査に使用した事があるか?』とアンケートしたところ、2%の田舎の警察署でイエスと答えたそうです。
     その2%の警察署に、その協力で検挙したのか?と問うたところ、答えはノーでした。
    警察としては、超能力捜査なんて一切していないというのが、公式に発表されているのです。
    しかし重大事件が発生した場合、透視したという投書や電話はゴマンと来るそうです。
     そう言う輩が、自称FBI捜査官とのたまうのでしょうね。

    テレビの話に戻しましょう。
    超能力者が一番最初に透視した絵を書いて、それを元にスタッフが捜査するという具合に話は進むのですが、結果的に最初の透視はまったく外れていて、その後こじつけるような感じで「こんな絵を描いていた」とかいうことが多いと思いませんでしたか?
     初めのうちは矛盾点が多くて、後半はコジツケ気味に「やはり彼の透視は当たっていた」みたいな具合でしょう。

     その矛盾点を突いて抗議の電話を入れた方がいました。
    テレビ局側の対応は「あの番組は、ドキュメンタリーではなくバラエティの範疇で製作しています」ということ。
    結局は、真実の報道ではなく、作り物であるということですね。
     とは言っても、超能力を持った人はいるはずで、本当に捜査協力している超能力者もいると思いたいです。
    でないと、夢がないですもんね。
     やはり本物は世に出ないということでしょうね。

     逃した魚は、また獲れ!    詠天

    船越義珍に見る基本の重要性

     毎度、千里眼の詠天です。
    皆さんは、船越義珍という方をご存知でしょうか?
    知っている方は、空手に携わったことのある方でしょう。

    船越義珍翁は、日本空手の父とも言われており、明治元年生まれで沖縄から初めて本土に空手を持ち込んだ人と言われています。
    なぜ空手が柔道のようにオリンピックの競技にならないのか?
    それは、空手のルールにあります。

    現代空手は、大きく2派に分かれており、糸東流や松濤館に代表される伝統派空手と極真や正道会館等のフルコンタクト空手の2種です。
    しかし流派だけでいうと、分かっているだけで200流派を超える大所帯であり、各流派独特のルールがあるので、統一することが難しいのです。
    ともあれ、船越義珍翁(以下義珍)ですが、お亡くなりになったあと、その道場を松濤館と呼ぶようになり、それがそのまま流派となったのです。

    空手の発祥は沖縄県で元は唐手と呼ばれていました。
    しかも那覇手と首里手があり、義珍は両方共習った稀なブサー(拳士)といえます。
    幼い頃からナイファンチ(鉄騎)という型を毎日、幾度も繰り返し修練し、空手とは型を重んじる武道だということを死ぬまで伝え続けた偉大な人なんです。
    近代空手では、目標を持たせることから試合を目的とし、組手や乱取りを中心に練習をしています。型は体操や踊りの一つのようにされて、あまり重要視されていないのが現状です。
    昔も「実践で使えてこその空手」というポリシーで野試合や闇討ち等の実践で鍛えていた拳士もたくさんいたそうですが、義珍はほとんど試合したことがなく、練習で組手をするくらいで、修練のほとんどがナイファンチだったそうです。
    なのに組手で義珍に勝てる者はいなく、強い拳士だったのです。
    ある時弟子が、空手の奥義を教えて欲しいと懇願した時、義珍は言いました。
    「奥義ならとっくに教えている。ナイファンチこそが基礎であり奥義なのだ」
    基礎となる空手の型にこそ本質があり、それを極めることによって奥義となる。
    だから、毎日、朝も昼も夜も型を修練するのです。
    そういうことだったんですね。

    基本にこそ本質がある。
    それは空手だけではなく、私たちの日常にも言えることなのではないでしょうか。

    わても空手してましてん、通信教育やけど   詠天

    桃太郎伝説 其の二

     毎度、千里眼の詠天です。
    前回に引き続き、桃太郎のお話です。

    各地に残っている伝承から、桃太郎をみてみましょう。
    まず岡山には「温羅(ウラ)伝説」があります。

    温羅とは、百済の王子といわれており、恐らくは百済が滅亡したあと亡命し、岡 山に住み着いたと思われます。
    伝承には、赤い髪で身の丈4mとありますが、これも外人に対する恐怖から生み だした比喩でしょう。
    大柄だったので、鬼という表現がはまったのではないでしょうか?

    それを吉備津彦(キビツヒコ)が退治したという伝承があります。
    吉備津彦は、大和朝廷より吉備平定の命を得ていたのですから、温羅は山賊だっ たのでしょう。

    香川では、孝霊天皇の皇子である稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)と弟の吉備 津彦命が、瀬戸内平定のために派遣されました。
    スサノオが海原を平定したように、吉備津彦も海賊らを従えて平定したのです。

    奈良県には、桃太郎の伝承はありませんが、吉備津彦=桃太郎という方程式か ら、吉備津彦は孝霊天皇の皇子なので、
    当然奈良で生まれた史実から桃太郎の生 誕地として名乗っています。
    これはあからさまに、吉備津彦と桃太郎を同一人物と認めていることになります。

    唯一、岐阜には吉備津彦の伝承はなく、桃太郎のストーリーが伝承されています。
    おそらく桃が流れてきた川は、木曽川であると想定され、そのほか不可解な名称 の土地が多々あり、
    中でも犬山、猿洞(さるぼら)、堆ケ棚(きじがたな)とい う土地があり、岐阜県で三匹のしもべと鬼退治の
    ストーリーは作られたものと思 われます。

    おそらく岐阜・愛知に山賊が多発し、吉備津彦が朝廷より派遣されて、討伐のた めに犬山・猿洞などの武士に援軍をたのみ、平定したという伝承なのではないか と思います。

    総合して考えると、吉備津彦が朝廷の命令で各地の平定におもむき、残した実績 が桃太郎とリンクされたのでしょう。

    各地にある桃太郎伝説は、すべてが吉備津彦がらみの事実で、物語は岐阜でつく られ、犬・サル・キジについては玄奘三蔵の「西遊記」にヒントを得てつくられ たのではないでしょうか?
    あくまで個人の分析・感想です(笑)

     
     日本の3太郎 桃・浦・金…なんかやらしい…  詠天

    桃太郎伝説 其の一

    毎度、千里眼の詠天です。
    先日テレビの「逃走中」で桃太郎についてピックアップしていたので、ちょっと 桃太郎のお話をしましょう。

     桃太郎とは??
    いわずと知れた、もっとも有名なおとぎばなしです。

    元々おとぎ話は、実話を元にしたものが多く、桃太郎にしてもその要素を多く含 んでいます。
    桃太郎伝説を表明しているのは、岡山県、奈良県、岐阜・愛知県、香川県などです。

    なかでも一番有力なのは、やはり岡山で、昔は吉備の国(きびのくに)と呼ばれ ていました。
    桃太郎といえば、欠かせないアイテムとして「きびだんご」があります。
    岡山はその名の通り、きびだんご発祥の地なのです。

    しかし色々調べるうちに、わかってきたことがあります。
    それは桃太郎のモデルは、吉備津彦命(キビツヒコノミコト)であり、このこと からも「きびだんご」を使用したのでは?と思われます。

    吉備津彦は孝霊(コウレイ)天皇の3男です。
    古事記にイザナギ♂・イザナミ♀の「黄泉返り伝説」があります。

    イザナミが亡くなったあと、戻ってきてほしいイザナギは、黄泉の世界にむかえ にいきます。
    しかし変わり果てた姿をみたイザナギが逃げだすと、イザナミが醜女軍(しこめ ぐん)という集団をひきいて追いかけます。

    追いつめられたイザナギは、黄泉比良坂(よもつひらさか)に生えていた桃の木 から実を3つちぎって、醜女軍に投げつけて退散させたのです。

    鬼に桃。
    これが桃太郎のはじまりといわれています。

    なぜ桃だったのか?

    当時から桃は、栄養価が高く、風邪などの病気を鬼にたとえれば、それに打ち勝 つ食べ物が桃ということになります。
    それに、中国史記の「桃源郷」に由来したものと思われます。

    ともあれ「鬼」に対し「桃」という構図ができあがりました。

    その後、イザナギはアマテラス、ツクヨミ、スサノオの3皇子をさずかり、アマ テラスは高天原、ツクヨミは月、スサノオは海をそれぞれ統治します。

    スサノオは、鬼と呼ばれる山賊や海賊を討伐し海原を平定したとされ、その名を 若建吉備津彦命(ワカタケキビツヒコノミコト)としており、孝霊天皇をイザナ ギとするならば、吉備津彦=スサノオ=桃太郎という見方ができます。

    しかも桃太郎伝説をあげている岡山~他国は、すべて吉備津彦の伝承をもって、 桃太郎発祥の地とうたっています。

    桃太郎=吉備津彦の方程式は、まず間違いないでしょう。

     調子に乗って続けちゃうぜぇ  詠天

    《この続きは7月14日のコラムでご紹介いたします》

    美への探求

     まいど! 千里眼所属鑑定師の詠天です。

     人間は誰しも美を探求する生き物です。
    美容先進国韓国においても、幼少期から整形することが多々あるそうで、全国民女性の約60%が美容整形をしており、90%強の女性が整形したいと思っているそうです。
     日本においても、整形を題材にした番組が高視聴率を上げてるしね。
    「私、胸を張って生きていきます!」なんて言いながら、すげーブサイクだった人が
    超綺麗に変身するメタモル系の番組ね。
     視聴率がいいってことは、みんなちょっとは興味があったり、憧れてるところがあるはずです。
     私個人の意見としては、「親からもらった顔や体を傷つけてはいかん!!」なんてアナログなことは、言いません。
     綺麗な女性が増えることは、喜ばしいことなんで、どんどん整形して美人になって欲しいと思います。

     というように、古来から人間は美に限らず作り出すことを探求する生き物なのです。
    クローン然り、既に人間までも作り出すことに成功していますからね。
     動物にしてもそうです。
    競走馬で言うところのサラブレットも、いかに速く走らせるかという観点から、様々な馬をかけ合わせ作り上げています。
     その名の通り、血統を作り上げるんですね。
    永遠に終わることのない研究ともいえます。

     最近では、ペット業界でもいろんな種を配合してハイブリットなんて言ってるけど、直訳すれば雑種ってことなんですよね。
     でもやっぱり可愛らしい犬を作ったりするのは、ある意味美への探究心からなんでしょうね。
    花にしても様々な配合が試されていて、現在でも青いバラを何とかして作ろうと研究者達は躍起になっています。

    このように人間は日々新しいものや美しいものを作り出そうとしています。
     それは自然の法則に逆らうことなのかもしれませんが、美しいものや便利なもので世界があふれるなら、すごくいいことですよね。

     余談ですが、豚のシッポも人間が作ったんです。
    もともと豚は、シッポのない動物だったんです。
     ではなぜシッポを作ったのか?

     答えは、可愛いからだそうです。

    豚は飼うより食べるのが好き  詠天

    名将に見る自由な発想

     毎度、詠天です。
    以前広島カープにマーティン・ブラウンという監督がいました。
    2009年6月14日に行われたセパ交流戦、西部対広島で前代未聞な珍事が起きました。

    その日、広島は是が非でも負けられない理由があったのです。
    なぜなら交流戦折り返しの日で、この試合を落としたら負け越しが決まってしま い、ペナントにも影響する大事な試合だったのです。

    試合は拮抗し、12回裏、同点で最後のイニングを迎えました。
    この回を抑えれば、引き分けで交流戦を勝ち越しで終えることができる。
    しかし一死満塁の大ピンチを招いてしまいます。

    このままでは、バントひとつでサヨナラ負けしてしまう。
    何としても引き分けにしなければならなかった広島のブラウン監督は、ここで前 代未聞の奇策にでます。

    レフトの末永を下げ、内野手の小窪を入れて、外野を2人・内野を5人という策 にでたのです。
    この結果、記録上レフトゴロという珍しい記述でダブルプレーに打ち取り、見事 引き分けに持ち込んだのです。

    苦肉の策にも思える奇策なのですが、実はこれはマーティシフトと呼ばれてお り、実践で使ったのは初めてですが、練習はしていたようです。
    しかしこれまでのセオリーを覆すこのシフトは、外国人監督ならではのアイデア と言えるのではないでしょうか?

    私たち日本人の脳は、勤勉ですが凝り固まった常識という概念が強く、結果を重 視する国民性がありますから、こんな奇策を使用して、もし失敗したら?なんて ナーバスな思考が優先する傾向があります。
    現に、ブラウン監督も成功したから賞賛されましたが、これがもし外野に抜けて いたら、歴史的な大馬鹿者として野球史に名を残したことでしょう。

    やはりトライすることに意味があり、結果を得るためには行動が必要であるとい うことを体現したエピソードではないでしょうか。
    時には、常識にとらわれない奇抜なアイデアが必要なのですね。
    思考に枠を設けないことが、自由な発想ということなのです。

     恋愛にも自由な発想を!    詠天

    日本三大怨霊 其の三 崇徳天皇

     毎度、千里眼の詠天です。
    三大怨霊の最後は、「雨月物語」で知られる崇徳(すとく)天皇(崇徳院)です。

     この人は、悲運の上皇とされており、鳥羽天皇と藤原璋子(しょうし)の第一
    皇子として生を受けているにもかかわらず、璋子が白河法皇と浮気してできた皇
    子とみられており、鳥羽天皇は生涯疎んじていたと記されています。

     幼少期から皇子であるにかかわらず、養子に出され皇太子から皇太弟と改めら
    た経緯もあり、上皇になってからも実権を与えられることなく、天皇がないがし
    ろにすることから摂生からも疎まれる、いわゆるやっかい者となってしまうのです。
     崇徳についてあれこれ説明しても、やはり先の2名(道真、将門)よりもマイ
    ナーですからこれくらいにしておきます。
     ではなぜ、マイナーになったか?

     それは、時の権力者後白河(ごしらかわ)法皇や平清盛といった有名人が深く
    関わり、しかも政治の深部にも関わっていたため、詳しくは隠蔽されたという感
    があります。
     崇徳が崩御した後、やはり後白河のまわりで関係者が相次いで亡くなり、その
    後の連発した大事件が崇徳の怨霊を実しやかに語られるに至ったのです。

     江戸になり、「雨月物語」が刊行され、月亭馬琴&葛飾北斎の強力コラボで
    「椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)」で崇徳の怨霊がクローズアップされ
    たことから、一躍脚光をあびることになったのです。
    そしてこれらのお話は、過去のことと思われがちですが、明治天皇は1868年即位
    の礼の際、崇徳の御霊を京に帰還させて、その怨霊を鎮めるために白峰神社を創
    設します。
     昭和天皇は、1964年香川県にある崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行
    わせており、現代においてもその御霊を鎮めるための儀式や、式典が執り行われ
    ているのです。

     ざっと割愛して、日本三大悪霊を紹介いたしましたが、全てが過去のお話では
    なく、現在もその怨念を鎮めるため全国に天満宮があり、東京には首塚しかり、
    山手線をはじめとする結界が張られているのです。
     今もなおその怨霊を恐れている人がいるということです。
    どこにいるとは言いませんがね……。
     くわばらくわばら……。

     なぜかおねえにモテる鑑定師  詠天

    日本三大怨霊 其ノ二 平将門

     毎度、千里眼の詠天です。前回に引き続き第2談となりました。
     帝都物語でも有名になった平将門(たいらのまさかど)様です。

     何を隠そう私は将門様の大ファンで、数年前よりいろいろと研究しております。
     話せばキリがないので、簡素化しますね。

     怨霊悪霊として名高い平将門ですが、元は板東の地(千葉茨城地方)を治める
    豪族でした。
     当時の板東は、農作物が豊富でしかも先見の明のあった将門は、いち早く外国
    (おそらく韓国)と国交を深め製鉄技術を取り入れたため、失業者が多い他の国
    に比べて坂東では皆が裕福に暮らしていたそうです。
     これもひとえに民を一番に思った将門が、引いた政策だったのです。

     そこに朝廷が、やたらめったらな税をかけたものですから、民を守るために将
    門は立ち上がります。
     民を泣かせるのが朝廷ならば、そんな朝廷はこちらから願い下げだ!てな感じ
    で、将門は坂東において親王を名乗ります。
     これを良しとしなかった朝廷が将門を、朝敵と定めて、今でいうクーデターの
    首領として首を撥ねます。(メチャはしょってます)
     それも兄弟や親族を使って将門を罠に嵌めたんですね。
     切られた首は京の都に晒されますが、その間も「体を返せ!」とその首はわめ
    いていたそうです。

     そしてその首が、坂東に戻るため空を飛んでいったという逸話があります。
     この首が飛び越えていったことから、東京の鳥越神社ができたと言われています。
     
     その後、千代田区に首塚が設置されますが、ビル建設の際、その首塚を取り壊
    そうとすれば、関係者が怪我したり亡くなるという事が相次いだため、現代でも
    将門の呪いと言われているのです。
     山手線は、将門の霊を鎮めるための結界といわており、将門ラインというもの
    が存在します。
     それは、将門にまつわる7つの神社が北斗七星の型に並んでおり、鎧神社と兜
    神社を区切るように山手線は走っている。
     これにより頭と首を切り離しているので、将門の負のパワーが弱まっていると
    言われています。
     しかし本来の将門公は、正義の味方であり民のために戦った英雄なのです。

     水商売は人生の基本です。   詠天

    日本三大怨霊 其ノ一 菅原道真

     毎度、千里眼の詠天です。
     さて今回は、菅原道真(すがわらのみちざね)のお話です。
     
     学問の神様として有名な人なので、みなさんご存知かと思いますが、実はコノ
    人、日本で初めての怨霊(悪霊)としても有名なのです。
     日本各地にある天満宮の祭神であり、もちろん実在の人間です。
    ではなぜ人間の道真が、神様になったかというお話です。
    (非常に簡単に説明します)

     学問の神と言われる通り、当時はものすごい学者さんで、その才覚から深く政
    治に関わり、醍醐(だいご)天皇期には右大臣にまで上り詰めた人です。
     しかし時の権力者、左大臣藤原時平(ときひら)の陰謀により、数多の罪(濡れ衣)を
    着せられ、大宰府に左遷させられます。
     しかも菅原一家は離散、子供4人は流罪に処されます。
    そして道真は、無念を胸に太宰府でその生涯を閉じます。
    結局は、朝廷内の権力闘争や派閥争いに巻き込まれて、その犠牲になったんですね。
     
     道真の死後、忌まわしいことが京の都でおこります。

     まず、道真排除の張本人、藤原時平が39歳の若さで急死します。
     醍醐天皇の皇子、保明(ほめい)親王、慶頼(けいらい)王と次々に病死し、
    しまいには会議中の清涼殿に落雷して大納言藤原清貫(きよつら)をはじめ、多
    数の死傷者を出します。
     その事件に衝撃を受けた醍醐天皇も、その三ヶ月後に崩御され、その一連の事
    件は道真の祟だという噂が実しやかに流れます。
     それを鵜呑みにした朝廷は、道真の罪を赦し、子供たちも流罪を取り消され今
    日に戻ります。

     その清涼殿の事件から雷神様の怒りだとして、火雷天神(からいてんじん)を
    祀っていた京都の北野に天満宮を建て、道真の怨念を納めるために天神信仰が始
    まり、道真を天神として崇めるようになったのです。

    こうして菅原道真は、学者から政治家になり、悪霊になったあと神様になるとい
    う異例の経歴を持っているのです。
    大阪に淡路という街があるのですが、これは京都から船で旅をしていた道真が、
    大阪の中洲に停留した時、そこを淡路島と間違ったことから、その地名がついた
    そうです。

     人には言えない経歴を多数持つ鑑定師 詠天

    「地軸移動説」 最終章

     毎度!千里眼の詠天です。
    氷漬けのマンモスのお話、そして洪水伝説と紹介してきましたが、ようやく最終
    章となります。
    実際のところは、もっと大変な量の原稿になるのですが、駆け足でご紹介いたし
    ます。
     さてなぜ洪水が地軸移動につながるのか?
    これには地質学者ミランコビッチ博士の説が有力なのです。
    まず地球の地軸は、23.5度に傾いています。
    これは太陽を基点として周回するのに必要な角度と言われています。
     しかしたび重なる地震や天変地異により、この地軸が少しずつズレてきている
    のです。
    大きな地震等が起こると、磁気に変化が起こり地軸がズレるのです。
    これを磁気の逆転現象といいます。
    最近の研究では、7600万年のあいだに171回磁気の逆転があったということがわ
    かっています。
    これによっても、地軸が移動しているということがわかります。
    ミランコビッチ説に戻りましょう。
    彼が地球のミニチュアを作り、実験したところによると、北極と南極の氷を意図
    的にとかした時、地球の地軸がグルンっと、90度回転して新たに地軸となった箇
    所が凍りつき北極や南極のような形を形成したそうです。
     では想像してみてください。
    これを地球に置き換えた場合、現在の赤道直下といういわれる地域・国が約3日
    からい週間で北極や南極になるということです。
    今、現在それが行われたとしましょう。
    そうすれば、人間や動物は逃げるまもなく水没し、そのまま氷漬けになることで
    しょう。
    これならば、シベリアでマンモスがそのままの姿で氷漬けになっていることも納
    得できるのではありませんか?
    これらのことから、温暖化により洪水が起こり地軸が移動したのではないか?と
    考えられるのです。
    ならば、マンモスばかりが出土して人間が出土しないのはなぜか?
    人間は生息していなかったのか?
    恐竜はいなかったのか?
    まだまだ謎は解明されていません。
    そう、全てはまだ謎のままなのです。
    だって洪水伝説をも立証できる生き証人はいないのですからね。

     それでも人はミステリー好き   詠天

    地軸移動説2「洪水伝説」

    毎度!千里眼の詠天です。
    以前、地軸移動説を紹介いたしましたが、それを語る前に洪水伝説をご紹介せね
    ばなりません。
    洪水伝説とは、一番有名なお話は「ノアの方舟伝説」です。
    旧約聖書に書かれているお話で、神の使徒ノアは洪水が起こるという啓示を神か
    ら受け、一族と共に方舟を作り、内側からタールを塗って海水が入らないように
    工夫し、あらゆる動物を一対ずつ船に乗せて、洪水を乗り切りアララト山にたど
    り着いたというお話です。
     実はこの洪水伝説は、ノアだけではないのです。
    ギリシャ神話にも洪水伝説があり、プロメテウスは、息子のデュカリオーンに
    「ゼウスが人間に腹を立てて、もうすぐ大洪水が起こる。お前は、方舟を作り生
    き延びるのだ」という指示を与えるというお話なのですが、後年は「パンドラの
    箱」という話に変更されて公開されています。
     元々の洪水お伝説は、チグリスユーフラテスに起源を持つ「ギルガメッシュ叙
    事詩」に書かれており、これがすべての歴史書の元になっていると言われています。
    それだけではなく、中国の史記、ヒンドゥーバラモンの聖典リヴ・ヴェーダなど
    あらゆる歴史書に洪水伝説はあります。
    もちろん日本書記にも書かれており、方舟伝説こそありませんが、イザナギ・イ
    ザナミの2柱の神が遣わされた時、地上は水浸しでした。そこに天の逆鉾(アメ
    ノサカホコ)を差し入れるとオノゴロという島が生まれたという下りがあります。
    これこそが日本における洪水伝説ではないでしょうか?
    といことは、洪水伝説は世界共通にある歴史ということになります。
    なぜ洪水は起こったのか?
    答えは簡単です。
    地球温暖化による北極と南極の崩壊です。
    地球上の氷が全て溶けることにより、地表の80%が水没したということです。
    これだけの歴史書に様々な形で書かれているということは、歴史上の事実だった
    のではないでしょうか。
     そしてその水没(洪水伝説)は、地軸移動説へとつながるのです。

     まだ引っ張る…ええ引っ張るさ~ 詠天

    本田圭佑に見るビッグマウスの法則

     毎度、千里眼の詠天です。
    W杯最終予選が始まり、既に3戦が終わりましたが、特筆すべきは本田圭佑の活
    躍でしょう。
     まごうことなき日本のエースと言える働きをしていますよね。
    彼はビッグマウスとしても有名です。
    中でも「持っている」というセリフは、彼の自信とプライドの高さを表している
    のではないでしょうか?
     では、占い師らしく彼を分析してみましょう。
     1986年6月13日生まれ
    数秘術で計算すると、誕生数は7。
     非常に繊細で個性的、周囲に理解されにくい性格。
    いつも心の中に矛盾を持っていて、周りに溶け込みたいという意思とは逆に孤高
    を求めるところがある。
    ともすれば、自分でも何がしたいのかわからなくなることがあるほど、感情の起
    伏が激しくて気分屋といえます。
    孤独を愛するが、実は寂しがり屋という両極端な思考や性格がいつも葛藤してい
    る、気難しいキャラクターをしているといえます。
     本来、本田圭佑という人間は、非常にネガティブに物事を捉える性格であり、
    ともすれば心の病気ともいえるほど深い闇に落ちかねない繊細な性格なのです。
    その彼のモチベーションを支えているのが、ビッグマウスなのです。
     彼のこれまでの言動には「優勝? それは自分との格闘でしょう。優勝は無理
    と思っている弱い自分もいるし、でも行けると思っている自分もいる。いつもそ
    のせめぎ合いです。でも、公言しないと、弱い自分がどんどん大きくなってしまう」
     この言葉からも彼の不安定だが、奮起するための起爆剤が見受けられるでしょう。
    ビッグマウスを言うことで、わざと自分にプレッシャーをかけて、それをバネに
    ポジティブシンキングに変えていく。
    それは怪我をして260日間代表から離れたことさえも「怪我をして本当によかっ
    た。自分に足りないものが見えたし、これからまた本田圭佑は強くなれる。
    元(怪我をする前)に戻ろうとは思わない」
    怪我すらも自分を成長させるための通過点だと落とし込むことで前向きな力に変
    えているのです。
     これからも彼のビッグマウスに期待しましょう。

     夜の日本代表選手    詠天

    手相の由来

     毎度、千里眼の詠天です。
    毎回このコラムでは、占いに関係ないことを綴っていますが、今回は占い師らしく(笑)手相についてご紹介します。
     手相と聞くと、ほとんどの人が東洋占術だと思われがちです。
    顔相や易と同じように手相も東洋系の匂いがプンプンしますものね。
    確かに中国でも発祥している説はあるのですが、それは掌紋医学として発達しているものであり、病気や障害について診る学問として成り立っています。
     手相占い・鑑定の元祖は実は西洋占術で、占星術・星占いが元になっています。
    ですから、手の平には全て星の名前が記されているのです。
     元々は、インドで生まれてヨーロッパに伝来し、スペインのジプシーが熟成させたと言われています。
     手相に関する記述は、かなり古くから有り、紀元前423年に哲学者アナクサゴラスが活用したとあり、またアリストテレスも手相に関する記述を残しています。
     日本には、平安時代に中国から手相は伝わります。
    それは前述したとおり、掌紋医学につながる医療用の学問としてですから、一般に広く知られるには至りませんでした。
    当時の人たちには、かなり眉唾だったのでしょうね。
    20世紀の初め、大正時代に大和田斎眼がイギリスの手相家キロが書いた本を元に世に広めました。
     その本には、手の線(掌紋)だけではなく形や指の長さ等が細かく解説されており、それらが現在手相鑑定の基礎となっています。
    キロ自身、この本の完成により手相の大家、始祖と呼ばれているのです。
    そしてこの手相という占術は永遠に完成することのない占術とも言えます。
     なぜならまだまだ解明されていない線や解釈があるからです。
     人間は、いつの時代も変化しています。
    それは食生活や文化の移り変わり等から新しい線が日々生まれているからなのです。
     もちろんそれは手相に限ってのことではありません。
     人が次々に生まれてくるように、占術もその時代に合わせて変化していくものなのです。
     だから私たち占い師は、つけに新しい情報を取り入れて精進しなければならないのです。

     一生半人前・一生修行僧    詠天

    ウィスキーの起源

     毎度、千里眼の詠天です。
    私は以前、バーテンダーをしていたこともあってお酒には少々詳しいです。
     特にバーテンダーは、ウィスキーに詳しくないと出来ません。
     そこで面白いお話を致しましょう。
     イギリスにコリン・ウィルソンというノンフィクション作家がおります。
     この方は世界の七不思議とか重大犯罪ファイル等を執筆された偉大な文豪さんですが、この方の手記に「ウィスキーの起源」というお話があります。
    12世紀にジョハネス・カミニウスという人が残した原稿で、証明するものは何もないのであくまで推論ということになります。
     この人は、王家の親戚で由緒正しい出、パリの大学にも籍を置く学者でした。
     1295年9月にヴェニスの港街である一人の男と仲良くなります。
    意気投合した二人は、友人となりその証にとカミニウスにビンを一本与えます。
    「それはジパングという東国で作られたアムリタ(長寿の薬)だ。友情の印に君にあげよう」
    そう!その男こそ、あのマルコ・ポーロだったのです。
    彼がカミニウスに渡したビンは、日本の清酒だったのです。
     その後カミニウスは、スコットランドに戻り錬金術の研究者となり、マルコ・ポーロから貰った清酒をもとに蒸溜を繰り返します。
    しかしスコットランドには、米がないので大麦を代用し作り出したのが、初めてのウィスキーということです。
     この逸話には、賛否両論が多くあります。
    なぜならカミニウスは、その後詐欺師として名を馳せるからです。
     しかし彼のやった詐欺は、出版されている本をコピーして販売したという罪なので、まるっきり騙したのではなく、既存のものを複製して売りつけたということなので、彼の原稿には信用性があるとコリン・ウィルソンは語っています。
     イギリスで生まれたウィスキーが元は日本酒だったとイギリス人のコリン・ウィルソンが言ってるんです。 
     本当かどうか??ってより、日本人としてものすごくロマンを感じますよね。

     弱いくせに酒は好き!    詠天

    地軸移動説

     毎度、千里眼の詠天です。
     私の得意なミステリーのお話です。
    地軸移動説と聞いて、ピンと来る方は少ないかと思います。
    これを語る前に永久凍土のマンモスのお話をしましょう。
    原始時代にマンモスがいた頃は、皆さんご存知でしょう。
    現在でもシベリアの永久凍土では、マンモスや原始生物の発掘工事がされています。
    最近出回っている象牙の印鑑等は、ほとんどがマンモスの牙なのです。
    そしてご存知の人も多いかと思うのですが、そのマンモスは、生きていた頃そのままの姿で凍っているんです。
    そんなことが当たり前になっているので、そこに隠されたミステリーに気づかないんですね。
    「なぜ?マンモスは、そのままの姿で凍っているのか??」ってこと
    「それは氷河期だから」それも答えになるでしょう。
    しかし解せないのは、なぜそのままの姿なのか?ってことです。
    皆さんは、氷河期が来るとなったらどうしますか?
     逃げ惑うでしょう。
    んじゃなぜ、南極や北極といったクソ寒いところに逃げたのか?
    そして骨ではなく、しかも腐っているのでもなくなぜそのままの姿なのか?ってことなんです。
    学説的には、3日から一週間で凍らされたということです。
    その謎を解くのが、”地軸移動説”なんです。
    1970年代後半にシベリアで子供のマンモスが発掘されました。
    非常に綺麗な状態で発掘された子供マンモスのお腹の中からは、消化されていない草が出てきました。
    このことから草食動物だったということが分かり、しかもその草は赤道直下でしか生えていない夏草だったのです。
    マンモスは、体を毛で覆われているので、寒い国の動物と思われがちですが、実は南国の動物だったんですね。
     では、どうやってマンモスは赤道直下の国から南極シベリアに行ったのでしょう?
     そうして考えられた説が、マンモスや野生動物が移動したのではなく、地軸が移動したという説なのです。
    北極と南極が昔は赤道直下だったということです。
     まだ実証はされていませんが、研究や実験によって十分にありえる話なのです。
     また機会があれば、詳しく掘り下げてご紹介しますね。
     
    もったいぶるの大好き ちょいS 詠天

    死ぬより簡単

    千里眼所属鑑定師の詠天です。
     毎日皆さんのご相談を聞かせていただいてますが、やはり多いのは恋愛に関する相談、そして健康、金銭に関するご相談です。
     中でも借金や金銭に関する相談は、かなり深刻です。
    そんな方の精神状況や先行き不安な思いは、よおくわかります。
     なぜなら私も以前、ン千万単位の借金を抱えていたことがあったからです。
     私は自分でもかなりポジティブな人間だと自負していますが、そんな私でもその当時はかなり精神的にやられたものです。
     ケータイが鳴るたび借金取りではないかとドキドキし、明日までに10万月までに20万と、頭の中は返済のことばかりで、いっそ首でも吊ったら楽になれるかな?なんて毎日考えていました。
     その経験があるから、金銭問題で悩む人にアドバイスが出来るのだと思っています。
     どれだけの人が、このコラムを読んでくれるのかわかりませんが、借金問題で死ぬなんてナンセンスの極みです。
     確かに催促の電話や期日が近づくと逃げ出したくなりますし、死んでしまおうと考えることもあるでしょう。
     でも忘れてはなりませんよ。
    いくら借金をしても、命までは取らないということです。
     だって返済する人が死んでしまったら、借金取りだって苦労するんですからね。
    「生命保険で補填する」なんて話は、昭和の三文芝居です。
     裏社会では、臓器を売買して…とか言いますが、それもドラマの話です。
     実際には、そんなややこしいことしませんよ(笑)
     返済する気持ちと少額でも返済するプランがあれば、乗り越えることは可能ですし、破産宣告や個人再生制度っていう最終手段もありますからね。
     人生なんて山があって谷があるのは、当たり前です。
    生きることが苦しいなんてのも当たり前。
    借金背負って逃げ回るより、開き直って返済する方がよっぽど楽です。
     もし金銭問題で悩んでいる人がいるなら、いつでもご相談ください。
     だって生きて行く方が、死ぬより簡単ですからね。

     できれば仙人になりたい    詠天

    死ぬということ 生きる覚悟

    人は誰しも強くありたいと願います。
    人は誰しも幸せになりたいと願います。
    平穏で、少しだけ裕福な生活を望みます。
    時には贅沢な時間も必要でしょう。
    おいしいものを食べることが贅沢な人もいれば、一晩中お酒を飲む人や、中にはフィギュアに囲まれるコトが贅沢というマニアも方もおられます。
    それは、人ぞれぞれの価値観の違いですよね。
    時にそれはささやかな願いから欲望となり、度が過ぎるとそれを求めるがあまり、人を騙して金儲けに走ったり、人を殺めたりして鬼畜道へと向かう人も居るでしょう。
    多くの人は、生きるため、ささやかな贅沢のために借金をします。
    それ自体悪いことではありません。
    しかし立ち行かなくなった人間は、自ら死ぬことが最善の策であると選択することもあるでしょう。
    その選択をするのに、意志の強い人弱い人なんて関係ありません。
    どんなに前向きで強い人でも、死を選ぶことがあるのです。
    どんな理由があるにせよ、それを選ぶことがあるのです。
    すごく悲しいことですが、全国的に自殺者が増加していることが、それを物語っています。
    私自身、何度か死を考えたことがあります。
    そのたびに、いろんな人に助けていただき、今の私があるのだと自負しています。
    「死んで花実が咲くものか……」
    生きていてこその人生であり、生きているからこそ絶望することもあれば、笑うことも出来るのです。
    生きているからこそ、色んな選択が出来るのです。
    死んだ人間は、何も選ぶことは出来ないのです。
    それが自由なんでしょうか?
    それが解放されるということなんでしょうか?
    生きているからこそ自由を満喫できるのではないでしょうか?
    このコラムは、私の新しい決意表明なのかもしれません。
    これからもそんな悩める人のために自分は存在していきたいと思います。

    一生半人前、だから成長できる 詠天

    語源の雑学

    まいど! 千里眼所属鑑定師の詠天です。
     今回は語源についてのお話です。
    言葉には語源があり、それは時代や情勢、風刺を用いたものが多くあります。
    いわゆるヤクザや組織等で使われる隠語(スラング)が多く、一般には聞きなれない暗号的な要素を持っているんです。
     ここでは、現代でも使われている言葉(単語)について、少し解説してみましょう。
     「警察」
     この警察にも様々な呼び名があります。
    少し前までは「デコスケ」なんて呼んでました。
    その他には、「デカ」「マッポ」など呼ばれていますよね。
    「デコスケ」はそのまんま、帽子についてる警察章を指しています。
    「デカ」は、明治期の警察官は角袖(かくそで)と呼ばれる服を着ていたことから、カクソデ→ソデカク→デカとなったのです。
    着ている制服が語源になっているんですね。
    「マッポ」については、諸説あるのですが、有力なのが、明治維新の際、警察ができた頃薩摩藩が管轄していたことから、警察のことを薩摩っぽと呼んでいたそうです。
     それが簡素化されて「マッポ」になったということです。
    次に「ヤバイ」です。
    最近では、美味しいものを食べた時にも「ヤバイ」という表現をしていますよね。
    もちろん「危ない」から出来た言葉なのですが江戸時代、牢獄のことを「ヤクバ」と呼んだそうです。
    それが「ヤバ」と言葉を変え、ヤクバに入れられることを「ヤバイ」と呼んだそうです。「くだらない」という言葉も江戸時代の言葉で、お酒に由来しています。
    当時から旨い酒は灘で作られており、関西から江戸に送られる上等なものを「下りモノ」と呼んでいました。
    上等でないものは、江戸に「下らない」ため良くない事やつまらないものを「下らない」と呼ぶようになったのです。
    最後に「シカト」です。
    これは、博徒の言葉で花札の鹿に由来しています。
    鹿といえば、かえで(十月)の札で体と逆方向に首がむいていることから、鹿十(シカト)と呼ばれるのです。
     皆さんも、なにか面白い語源をご存知でしたら、教えてくださいね(*´∀`*)

    言葉の魔術師 詠天

    恋をすると女はキレイになる??

    まいど! 千里眼所属の鑑定師、詠天です。
     昔から女性は恋をするとキレイになると言われています。
    ほとんどの方がそれは迷信だと思っているでしょう。
     迷信だと思わなくとも、恋をしていると何かしら明るく、ほがらかになるからキレイに見えるんじゃない?程度の感覚だと思います。
    しかし、この問題は科学的に解明されているんです。
    その正体は、女性ホルモンです。
    女性は、子宮からエストロゲン、オキシトシン、PDA等の女性ホルモンが分泌されています。
    これらの女性ホルモンは、その時々の精神状態により分泌量が異なり、バランスの悪い状況の方が多いのです。
    ですが、不思議なことに恋愛感情が芽生えると、その女性ホルモンの分泌量が非常によい状態になり、バランスがよくなるのです。
    これにより、どのような効果が生まれるかってーと、お肌の再生が活性化するんです。

    「?」って思う方が多いでしょう。

    詳しく説明すると、人間のお肌は再生を繰り返しています。
    それにかかる日数は、約28日+実年齢です。
    28日というのは、新月に由来しています。
    やはり人間と月には密接な関わりがあるのですね。
    「最近、肌の艶がない……」
    「若い子はいいわねぇ、水をはじいて(´・ω・`)」
    なんていったことがないですか?
    それは大間違いで、若い子は約1ヶ月半位で肌の再生を繰り返しているので、水をはじく期間が長く、中高年になると3ヶ月以上かかるため、水をはじく期間が短くなるのです。

    しかし恋愛をすることで分泌される女性ホルモンの働きにより、肌がきめ細かくなり、かつ再生が活発化するため、お肌がキレイになるのです。
    あわせてヒアルロン酸の分泌量も増えるので、目が潤みがちになり、外見からフェロモンが発生されるのです。
    したがって恋愛するとキレイになると言われてるんです。

     え! 恋愛したくても相手がいない?
    関係ありません。片想いで十分!!
    有名なお話ですが、「冬のソナタ」をみてヨン様に恋をして、もう一度女性として復活したおばあちゃんのお話があります。
    とくに女性の体は、神秘に包まれているのです。
    年齢なんて関係ありません! どんどん恋愛しましょう。

    全国100万人の女性のミカタ 詠天

    心の音

    千里眼所属鑑定師の詠天です。
     仏教の教えに「身、口、意」という教えがあります。、
    行動、言動、意識(精神)が伴えば、そこから因果が生じ、ご縁が生まれるという教えです。
    因果は、私たちの行為に関するものであり。自分のやった善は善果を生み、また悪を行えば悪果が返ってくる。
    これを因果応報といいます。
    てことは、悪い意味だけではないということ。
    そして良しにつけ悪しきにつけ因果が生まれれば、ご縁が生まれるということです。
    私は、少々武道の心得がありまして、どの武道にも共通する修行が、「黙想」です。
    これは、精神修養鍛錬の一つであり、元々は仏門で行われているものです。
     精神を鍛錬するのは、いかなる時にもブレない精神力と、会得した技術をむやみにひけらかさない強さを養うのです。
     実のところ、若い時はまだガキだったこともあり、この「黙想」の重要性も知らず、適当にしていました。
     しかしこれまでの人生で、辛い現実に悩まされたり、経験をする上で35歳を過ぎたくらいから、よく「黙想」をするようになりました。
     落ち着いていろんなことを冷静に考える時間を「黙想」に求めたのですが、ある時まったく「無」の状態の時に「キィーーーン」ていうか「クコオ~~ン」みたいな音が聞こえたんです。 
    聞こえたというか、感じたんですね。
    なんか心の中で音が鳴った感じだったんです。
     それからは、「黙想」のたびにその音が鳴るまで続けるようになりました。
     ほんの5分で聞こえることもあれば、2時間経っても聞こえないこともあります。
     そんな話を知り合いの住職にしたところ、こう言われました。
    「その音こそが、お前の求めた答えの音なんやろうな、“意”という文字は、心の音って書くやろ」
    そう言われた時に目からウロコが落ちたような気がしました。
     迷ったり焦ったりした時に「黙想」することにより自分の意識が固まる(生まれる)のだと、ちょっとだけ悟った感じです。
     皆さんはどんな心の音がするんでしょうね

     一生修行、一生成長     詠天

    ありがとうのお話

    千里眼所属の鑑定師、詠天です。
    今回は、「ありがとう」についてのお話です。
    私はセミナーなどを行うときに、決まって言霊(ことだま)についてお話をさせていただきます。
     言霊とは、言葉に秘められた魂(パワー)のことです。
    私たち人間は、言葉という便利なアイテムを授けられた唯一の動物です。
    自分の意思を伝えたり、相手の気持ちを引き出したりするのに言葉というアイテムは非常に便利です。
     私たちの世界は、原子で構成されています。
    手に触れるもの、紙コップやテーブル、私たちの身体さえも、すべて原子で構成されています。
    触れられるものだけが原始ではありません。
    音も原始なのです。
    あまりピンときませんよね。
    大きなスピーカーの前に立って、大音量をかけたなら、その音で身体が飛ばされるような感覚を味わうでしょう。
    それは音の衝撃波が身体に当たるからです。
    それだけではなく、宇多田ヒカルや徳永英明に見られる「f/1(エフ分の1)ゆらぎ」という音域は、心地よい響きを与えヒーリング効果があると言われています。
     話がそれましたが、要は音も原子であり、言葉も原子なのだということです。
    言葉もたくさんかたまれば、形を作るということです。
    悪意のある言葉「死ね」「殺してやる」などを多く口にすれば、それは悪意のある形になり自分に帰ってきます。
    それよりも「ありがとう」や「愛してる」という美しい言葉を多く口にすれば、それは美しいものとなって自分に帰ってくるということです。
    そして「ありがとう」という言葉は、「災難」「苦難」「困難」等の難が有るからこそ生まれた美しい言葉なのです。
    今現在、いろんな困難に悩んでいるあなたも、決して自棄にならずに、辛い時こそ美しい言葉を使って、いつか訪れるであろう幸せに期待しましょう。
     難が有るから「有難う」
          
    詠天

    競走馬キーストン

    千里眼所属鑑定師の詠天です。
    「競馬にはロマンがある」
    ギャンブラーの言い訳の代名詞ですが、本当にロマンがあるんです。
    1967年キーストンという競走馬が、この世を去りました。
     彼の競走馬としての生涯は、騎手の山本正司と共にありました。
     デビュー前は、小さくておとなしくて取り柄のない馬だったんですが、デビュー後5連勝と一躍スター候補となったのです。

     山本自身イマイチの成績だったのですが、初めて“強い”と言われる馬の騎手となり、重賞を制覇したのです。
    しかし7戦目で2着に敗れます。

    次の皐月賞では14着と大敗し、馬主はダービーでは、山本を乗り換えろという指示を出しますが、調教師の武田は、「キーストンをうまく走らせるのは山本だけ」と、土下座をして山本を乗せ続けたのです。
    これで奮起した山本は、ダービーでも騎乗し、優勝するのです。
     そして秋の菊花賞3000mでも2着と好走し、長距離でも走れることを証明して見せました。
     そして春の天皇賞の後、足を痛めて1年3ヶ月休養します。
    山本は、休みの度にキーストンにつきっきりで、時には一緒に寝るなどして絆を深めていったのです。

     復帰後4連勝を収め、6戦目の阪神大賞典で事件は起こりました。
     最後のコーナーを周りゴールまであと300mで、キーストンは転倒!
     投げ出された山本は脳震盪を起こし気絶します。
     その時、信じられない光景がテレビでも映し出されました。

     転倒したキーストンは、自力で立ち上がり足を引き擦りながら倒れている山本に近寄り 、心配そうに鼻先で山本の腹部を優しくさすったのです。
     一瞬気がついた山本は、その大きな顔を抱きしめて再び気を失います。

     そのままキーストンは再起不能という診断で即時薬殺され、この世を去ったのです。
    競走馬は、複雑骨折すると交尾もできないため薬殺されるのです。
    獣医は「あの足で自力で立つことは信じられない、痛みで立つこともできないはず」
    なのにキーストンは、立ち上がり山本を心配して気遣ったのです。
    競走馬と人間とはいえ、これだけ強い絆が二人の間にはあったのでしょう。
     馬ですら心が通うのですから、犬や猫とはそれ以上の絆を作ることができるのではないでしょうか?

    動物だいすき!北河内のムツゴロウ 詠天

    霊感の話

    千里眼所属鑑定師の詠天です。
     今回は、私自身のお話を致しましょう。
     プロフィールにもあります通り、幼少期より霊感が強く…なんて書かれていると、胡散臭くてしょうがありませんよね。
     でも事実なんで仕方がないってことなんですが、私の場合、幼いころから両親は共働きでしたので、一人で遊ばされている時間が多かったそうです。
     母が言っていたのですが、2~3歳の頃から私は一人で遊んでいる子供だったそうです。
     ある日、ひとりの部屋で私が「キャッキャ」言って笑ってうたので、「誰と話してた?」と母が問うと、私はおじいちゃんとお姉ちゃんと言って、壁をバンバン叩き「おじいちゃん出て来て!」と壁を叩き続けたそうです。
     もちろん私は、覚えていませんけどね。
     その後、小学校に上がった頃、やはり皆に見えないものが見える私は、変なことを言う気持ち悪い子としていじめられることになり、それからは、人ではないものが見えても言ってはいけないということを覚えたのです。
     中学生になり不良少年としてグレてきた頃、正比例するかのように、やたらと霊感が強くなり、普通に交差点に立っていても、そこで死んだ人が見えたり血だらけのお姉さんが付いてきたりと非常に怖い体験をしました。
     その話を聞いた母が、私をお寺さんに連れて行き、約1ヶ月間修行をさせられることになります。
     反抗期だった私も、その恐怖から逃れるのならと坊主頭にして朝5時に起床しては、境内の掃除をし経を読むという日々を過ごしたのです。
    そのおかげで、心の中にスイッチを作り、怖いものを見ないようにすることができたのです。
     しかしそれも、32歳の頃父が亡くなると同時にまた霊感が強くなり、これも何かの啓示だろうと思い、それまでは副業で占い師をしていましたが、もっと多くの人を救えるようにと現在の道に入ったのです。
    幽霊など目に見えないものは怖いですが、やはり一番怖いのは、目に見える人間だということを忘れないでくださいね(*´∀`*)

    謎の占い師 詠天(えいてん)

    呪いの話

    千里眼所属の鑑定師、詠天です。
     占い師という商売をしていると、たまに恐ろしい依頼を受けることがあります。
    「呪いをかけて殺すことはできますか?」
    これまでに何度かこのような依頼をされたことがあります。
     もちろんすべてお断りさせていただいております。
    では呪いをかけることができるのか?
    答えはできます!
     古来から呪術、呪詛(じゅそ)というものが存在しており。映画やドラマなどでも度々ピックアップされています。
     昔から「おまじない」という文化が根付いており「痛いの痛いの飛んでけ~」なんて一度は言ったことがあるでしょう?
     呪詛とはおまじないと同意語であり、善にも悪にもなるとういうことなのです。
     呪いの中でも有名なのは、丑の刻参りですね。
    私はこれまでに2度、目撃したことがあります。
    わからない方のために簡単に説明すると、ワラ人形を作り、丑の刻(午前2時頃)に神社やお寺等霊格のある場所で、木に五寸釘で打ち付ける呪いの儀式です。
     以前お世話になっていた住職に呪いは効くのか?と、聞いたことがあります。
    、住職はゆっくりと頷き、
    「人を呪わば穴ふたつ」
    そうおっしゃいました。
    要するに、呪いはたしかに効くが、相手にかけた呪いは必ず自分に返ってくる。
    ということです。
     因果応報は必ずあり、たとえ自分に返らなくとも、次の代、また次の代と因果はめぐるということです。
     最近ネット上では、呪いの代行業があるそうです。
    まったく罰当たりなお話です。
    皆さんも、いくら憎くても呪いなんぞかけようとせずに、可愛らしくおまじないでストレス発散しましょう。
    ガンバッテルは、頑張ってない証拠!

    詠天(えいてん)

    陰のお話

    千里眼所属の鑑定師、詠天(えいてん)です。
    このコラムでは、占いはもとよりミステリーや雑学等、くだらない話から、ちょっとためになるお話をいたします。

    皆さんは、陰の力というものをご存知でしょうか?
    陰の力というのは、見えない力のことであり、知らぬまに口にしていたり、それにすがりついていたりしているものです。
    陰陽道に見るように、この世は光と影に分類されています。
    時にそれは、善と悪、正と逆のように表され、表裏一体の理(ことわり)を表すために用いられます。
    往々にして、陰(影)は悪のように形容され、ネガティブな意識を与えがちです。
    それは光は世を照らし見えるもので、影は見えないものだからです。
    誰だって暗闇には怖いという感覚を持ち、昔から恐怖を植えつける比喩として使われてきましたからね。
    忌み嫌うものの上位に位置される存在が陰(影)なのです。
    ですが、本来私たちは、この陰の力によって何かと助けられています。
    では、陰とは、なんなのか??

    昔から『故人は草葉の陰で見守ってくれている』といいます。
    亡くなった方は、幽霊とかでないかぎり目に見えるものではありません。
    だから陰となり、見えない世界から私たちを支えてくれているのです。
    そして、誰だって口にする言葉
    「おかげさまです」
    これは、お陰様という漢字があてはまり、周囲の人たちの支援や援助、見えない力によって、今の自分が成り立っているという意味なのです。
    皆さんの陰の力によって支えられているということなんですね。
    だから陰の力に支えられている私たちは、光の指す道を歩まなければならないのです。
    自らが陰を選ぶと、それは暗い人生を歩まなければならないということなのです。
    できれば、暗い道よりも、明るい道を歩きたいですよね。

     余談ですが、陰(イン)は別の読み方にすると、女性に深い関わりのある言葉になります。ちょっと謎かけになりますが『女は怖い』という言葉は、そこから来てるのかもしれませんね。ご興味のある方は、ぜひ調べてみてください。

    詠天

    詠天先生 クチコミ情報

    ものすごく当たってました

    早々の鑑定ありがとうございました。私の性格はものすごく当たってました。今後の目指すべき道も自分が考えていた道と合っていて安心しました。利益ばかりを追い求めないで楽しく穏やかな毎日を送っていきたいと思います。

    ここまでわかりやすく説明してもらって、しかも恐ろしいほど当たっていたので終始笑うしかなかったです

    自分でも説明できない性格をスラスラ解説してもらってスカッとしました。笑ここまでわかりやすく説明してもらって、しかも恐ろしいほど当たっていたので終始笑うしかなかったです。仕事について、すごく後押ししていただいて、勇気をいただきました。帰ってすぐにトレーナーの先生にコース変えお願いしました。自分にどんどん投資したいと思います。恋愛については残念でしたが、どこかでもっと良い人いるよって言ってもらいたい気持ちも少しあった気がします。恋愛に逃げたいとか、でもしんどいなという気持ちもあり、、恋愛感情が自分をネガティブにしてる要因でもありましたし、スパッと言っていただいて良かったなと思います。本当に自分にとって無駄な時間のない鑑定でした、本当にありがとうございました。

    【女性 25歳】

    人生、仕事、勉強、恋愛、とにかく、不安や悩みがある人は是非、オススメします。

    初めて、鑑定して頂きましたが、当たりすぎて、ずーっとうなずいて、ました。先生の人生経験と力強い声、ズバッと真意や本音を、いい当てられると。感服します。自分は仕事の鑑定をして、頂きましたが、人生、仕事、勉強、恋愛、とにかく、不安や悩みがある人は是非、オススメします。先生の力強い言霊で、帰り道の足取りは軽いですよ。

    【男性 42歳】

    私の些細な不安や悩みにも優しく的確に答えてくれる詠天先生、本当に感謝してます

    詠天先生、昨日は鑑定有難うございました。私の些細な不安や悩みにも優しく的確に答えてくれる詠天先生、本当に感謝してます。詠天先生の言葉はいつも後押ししてくれるので、心強いです。まだまだ乗り越える壁はありますが、1個づつ片付けて行きたいと思います。また鑑定に伺いますので、これからも宜しくお願いいたします。

    【女性】

    パワフルな詠天先生の言霊を頂いて本当に良かったと実感してます

    詠天先生 本日は鑑定ありがとうございました(転職について)H です。この年齢で まだ自分の足元がぐらついている事が情けないです…………でも今日はパワフルな詠天先生の言霊を頂いて本当に良かったと実感してます。仕切り直してまた色んな事におもいっきり体当たりして頑張ってみます。 対面の生の詠天先生は なんかダンディで色っぽかったですよ。(^^)

    【女性 42歳】

    初めてメール鑑定をお願いしたところ、迅速に鑑定いただき、とっても助かりました

    御待機日ではなかったため、初めてメール鑑定をお願いしたところ、迅速に鑑定いただき、とっても助かりました。ありがとうございます。詠天先生からいただいたアドバイスを実行し、彼の力になれたらいいなと思っています。

    先生の言葉は凄く納得出来て、安心感をくれるので

    詠天先生、本日もありがとうございました。先生の言葉は凄く納得出来て、安心感をくれるので、今回の鑑定もしっかり受け止めて、新しい道に進んで行こうと思います。彼の事もアドバイス通りに進めて行きますね。また次回も鑑定宜しくお願い致します。

    見てたかのように次々に当てられて、びっくりしました。

    本日は初めての鑑定ありがとうございました。見てたかのように次々に当てられて、びっくりしました。先生のアドバイスをしっかり受け止めて、彼とも関わって行こうと思います。また鑑定宜しくお願い致します。ありがとうございました。

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    先生の言葉を忘れず、焦らずうまく誘導(笑)していきたいと思います。

    先日初めて鑑定いただきました。ありがとうございます。サクサクと霊視していただき、不安に思っていることを解決していただきました。先生の言葉を忘れず、焦らずうまく誘導(笑)していきたいと思います。いつか対面鑑定で手相を見ていただきたいなと思っていますので、そのときはよろしくお願いいたします。

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    メール占いは、千里眼の店舗へのご来店が難しい、または文章で鑑定結果を知りたいといったお客様がメールを使って鑑定を依頼できるサービスです。
    想いを文字にして送信するだけで、返信メール内でご相談いただいた内容についての鑑定結果をお伝えいたします。

    メール占い 料金システムのご案内

    メール占いは、1通につき3,000円の鑑定料が必要です

    • ※鑑定料金は一人の占い師からの返信あたり3,000円です。
    • ※料金は前払い制で頂戴しております。
    • ※当社にてお客様のご入金確認後、鑑定が開始されます。

    お支払いは、お悩みを送信頂いた後、占い師のスケジュールを調整させていただき、 鑑定人数×3,000円のご請求書を送信致します。


    千里眼の各占い料金についてのご案内は、占い料金ページに記載してあります。

    占い料金ページへ