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クラマル先生
くらまる

クラマル先生

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占術

得意分野

不倫・復縁・連絡の有無・転職・同性愛・相手の気持ち・ 年の差恋愛・浮気・三角関係・略奪愛・離婚・結婚・婚活・再婚・ 遠距離恋愛・対人関係・家庭問題・子育て・片想い・仕事・婚外恋愛

ご出演スケジュール

  • 7/30 (金) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/2 (月) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/4 (水) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/6 (金) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/7 (土) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/9 (月) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/11 (水) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/13 (金) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/14 (土) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/16 (月) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/18 (水) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/20 (金) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/21 (土) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/23 (月) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/25 (水) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/27 (金) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/28 (土) 11:00〜20:00
    【岩手 / 盛岡大通店】
  • 8/30 (月) 11:00〜20:00
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    占い師からのメッセージ

    今、あなたを悩ませていることはなんでしょう。
    受け止めてほしい。理解してほしい。
    誰にも言えない本当の想いを聞いてほしい。
    そんなあなたに寄り添える存在であれたらと思っております。
       
    タロットから、目に見える部分と見えない部分を
    洗い出し、お相手のお気持ちやお二人の未来をお伝え致します。
    この世にある愛の形は、無限大です。
    どんな恋愛も、どんな現状も応援します。
      
    「痛み」や「重荷」を一つずつ取り除きながら
    望む未来を手に入れれるように一緒に歩んでいきましょう。

    千里眼からのご紹介

    意中のお相手の本心、性格、おふたりの未来、運命も
    怖いほどに的中させてしまいます。
    そして、ご相談者様が「本当はどうしたいのか」という
    魂の声、心の声に耳を傾け
    世間体や常識に縛られることなくアドバイスを下さいます。
    頭ではわかっていても前に進めなかったり、
    諦めれなかったり、嫉妬に駆られてどうしようもない時
    クラマル先生とカードが一番の味方となってくれるでしょう。

    メディア出演履歴

    ■鑑定風景動画


    クラマル先生 コラム

    神出鬼没コラム1

    これを見た君は多分、ついてるかもしれない。

    まあ、シェフの気まぐれサラダのように、
    俺の気まぐれで表示したり、非表示にしたりするコラム。掲載期間は俺の気まぐれだよ~。
     
     
     
    次回の掲載を待ってくれ。

    真面目な事は良いことなのだが

    真面目に物事を捉えたり、考えたりする事は
    良いことだとは思うのだが、
     
    そこに足を取られると、自分の気持ちを二の次にしてしまう。
     
    真面目というは、常に軸線が自分の外側にあるように思うからだ。
     
    真面目さが誰の幸せを作りだしたり、誰の状態を維持したりするのは、事実のように思うが、
     
    やはりどんな物事には良し悪しというあるように思う。
     
    世の中には人仕事というのは、数多あるけれど、直接的に人の幸せにつながってしまう仕事というのもある。
     
    分かりやすい例で言えば、飲食やマッサージとか、喫茶店とかパン屋、ケーキ屋等だ。
     
    これらの商売は特にも、提供される側には多少の「遊び心」があり、「幸せな時」を作り出す、「直接的な幸せ」が商品や商材、サービスとなっている事の方が多いように思う。
     
    現実問題として、調理場で朝の夫婦喧嘩を思い出して、鬼のような形相で調理人が盛り付けても、チョコレートパフェは、甘く、アイスは冷たいわけで、まあ味や見かけには特には支障はないとは思うけれど、
     
    「直接的な幸せを作り出す商材や方法」という意味合いで、新たな商品を考えたり場面では、かなり問題があるように思う。つまりは、その人の感情が思考を作り出し、それが形にされるわけなのだから。
     
    まあ、現実的に憤懣やるかたない気持ちで、「幸せ」について考えようたって、「今はそんな気分じゃない」となって結局は考えられない。
     
    これは真面目過ぎる姿勢についても言えそうな気がする。綿密に考えられた物は「必然性」や「必要性」を感じる事は出来るが、気の緩んだ「幸せ」というものにはなかなか合致しないような気がする。
     
    むしろ、「自分が素直に感じ取った幸せ」の感覚を形にしほうがダイレクトに「幸せ」な物を作り出せる気がする。
     
    例えれば仕事が終わり、会社の玄関を出る。腹が減ったが、会社の周りは田畑でコンビニの一つも数十キロ先、ここいらにパン屋の一つでもあればなぁ。とか、そのようにふと思う事も「幸せの種」であり、
     
    こういった「幸せの種」というのは、真面目過ぎる思考では、なかなか見えない気がしている。
     
    真面目さをやめろとはまでは言わないが、自分の幸せの感覚を素直に感じ取るのは結構重要な気がしているし、それにそれがより多くの人達の幸せを作り出す事が出来るように思う。
     
    そのように「幸せの感覚を鍛える」には、あれやこれや考える時間を減らし、まずは自分の心や感情を見る事のように思う。さしあたって、「自分はどうしたいのか?」「目の前の状況に自分はどのように感じたのか?」「どうした結果、幸せを感じたか」そこに目を向けるのだが、
     
    これは、自分の生きた感覚が必要となるので、「真面目に捉えて考える」事から解放される時間が必要だ。とりあえず、一人でも気を緩める時間から始めてみるといい。
     
    意外と「人はそれぞれ十人十色」とは言うものの、同じ「不足感」や「不便さ」を感じている事が多く、それを解決するための発明が、多くの人達の困難さを解決していることが多い。
     
    その観点から、「人の幸せを思う」なら「理性」や「理屈」ではない、「理由はよくはわからないが、それがいいように感じる」というのは、「感覚的」な物の見方が必要に思うし、それによって得られたヒントが、多くの人達を幸せに出来るような気がしている。
     
    ちょっとの時間でも、「理論」や「理屈」ではない、自分の感覚を緩めて解放する時間も持ってみてくれ。

    ついている ついていない について

    まず、ついているというのは何かというと、
    「運」だとか、もしかしたら「神様に愛でられている」事を言うのだろう。
     
    当然ながら、ついている人とついていない人ならば、前者のほうに成りたいと思う事の方が多いと思う。
     
    ついている人の日常はどんなものかというと、「なんか上手くいっている人」というのが特徴なのだろう。
      
    反面
     
    ついていない人というのは苦労の絶えないというのが特徴のように思う。
     
    ついている人というのは、何かの力によって守られたり、手伝ってもらっているような感じなのだから、特段に手をかけなくても物事が上手くいく人なのだが、
      
    ついていない人というのは、楽観的な運びになったためしがない。
    だから、物事を綿密に厳正に着実にやっていくしかない。ハードモードな人生を歩んでいる感じだ。
     
    まあ、一応技術の世界に生きた過去を持つ俺の観点からいうと、営業マン等の仕事ならば、ついているタイプに任せるが、技術や技能系統の仕事ならば、ついていないタイプの人間に任せる。
      
    理由はというと、「なんか知らないけれど上手くいく人」に大事な機械や構造物の設計や開発、製造や作業をやらせるという事ほど、怖いことがないからだ。
     
    それは「なんか知らないけれど上手くいった物」はついている人が立ち去ると、故障や不測の事態が起こりやすい。
      
    俺の過去の技術者としての現場でも、こういった事は多かった。
    普段は競馬なんかで良く当たるラッキーな奴だったのだが、彼が作ったものは、「ついている彼」が会社を去った後、そこかしこで不具合が起こりまくった。「その彼」が会社を退職するまでは、つつがなく動いていたものが、彼が去った途端に不具合が起こり、中身を見てみると、「運良くたまたま、エラーを起こさずに動いていただけ」という背筋が凍りつくようなそういったものだったのだ。
     
    その彼がたまたま偶然そうだったのか、というとそうではなく他に同じような事態に結構遭遇したことがある。
      
    あくまでも、「ついている人」がそこにいたからこそ、たまたま不具合が起こらなかったに過ぎないように思う。
      
    逆に「ついていない」タイプの作るものはあまり、そういった不具合などが起こった事がない。
    中身を見ると、神経質なまでに精密に緻密に考えられて作られている事が多かった。
    苦労が多かったのだろう。
      
    こういった所から見えてくるものは、「ついている」タイプには「確実性がない」という事である。
      
    「宝くじ」にしてもそうである。「大金が当たった。」は裏を返すと「あの時買っていなかったら、今の生活はないんだよな」のように「確実性」はかなりぐらついているものだ。
     
    逆に「これをこうして、その結果として大金を得た」というのは、そのプロセスを誰かに教える事も出来るわけだし、「概ね当然の結果として」という「確実性」が強いわけだ。
      
    また、この「ついている人」「ついていな人」を俺の経験から見てみると、大体「ついていない人」には、表目立つ事はないにしても、何かしら卓越した才能や技術や知識を持っている人が多いように思う。
     
    それは否応なしに「ついていない状況」を味わい続けた結果に、「そんなに上手くいくわけがない」と一重二重に対策する事が当たり前の事として、身に染みついているわけだし、多くのトラブルを見てきた経験則も豊富だからである。
     
    逆に「ついている人」に関しては、何人か見たことがあるが、あまりそういったものにこだわりがない人のほうが多いように思う。
     
    「良い時は慎重に、悪い時こそ挫けてはいけない。」の言葉にもあるように、「ついている人」は物事を仔細に見直しをかけるか、誰か他者に確認をしてもらった方が良いかもしれない。
      
    これは「ついている人」というのは、「強い幸運」や「神様から特別な加護」がこの世界を生きていく事が出来ない人で、
     
    逆に「ついていない人」というのは、その人自身に「強い生きる力」が備わっているために「強い幸運」とか「神様からの特別な加護」とか、そんなものがなくても自分の力で生きていける強い人のように思う。
     
    もし自分が「ついていない」と感じたら、大した事がないものと思っても、自分の持つ技術や才能を生かしてみるといい。「ついている人」よりも堅牢で確かな何かに育つ可能がある。
     
    簡単にいうと、「強い運や神様ついていない」代わりに「何かしらの強い力」をそれぞれに持っている事のほうが、経験上多いように感じるから、まだ、気づいていない自分の隠れた才能なんかもあるかもな。
     
    余談ではあるが、いつだったか「ついていない」バンドマンが同僚にいた。俺は何となく直感的に「こいつは人に対するサービス精神が
    旺盛だろうし、作詞なんかもするようだから、ブログのような文章でも人を湧かせるかもしれないな。」と感じ、結構かかったが、ブログを
    書くように説き伏せた。金のなかった彼がものの数ヶ月で、毎日豪勢なランチを食べれるくらいにブログで小遣いを稼げるようになったようで、「ついてない」代わりに「隠れた才能」や「強い力」いうなれば、「生きる強い力」を持っているのはあながち外れてはいないな、といった所である。
     
    「自分の隠れた才能」だとかは、他人から指摘されないと分からない事が多いし、
    指摘されたからといって、素直に応じられるものではない。
    かくいう俺も前述したバンドマンを説得するのに2、3週間かかり、最初は俺にうるさく言われるから渋々といった感じだった。
     
    とはいえ、そうそう自分の「隠れた才能」を指摘してくれる人というのも、かなり珍しいものだろう。もし、周囲にいそうになければ、俺にでも相談してくれ。
    まあ、俺と一緒に見つけようか。
     
    もし、あんたが「自分はついていない事の方が多い」と感じたら、それは「それでも、今まで何とかそれ乗り気って生き抜いてきた」実績があるわけだし、「本人にも自覚できないような、生きる強い力」を持っているわけで、さらに言えば、社会の縁の下の力持ちでもあるという事じゃないかな。「ついていないと感じるあんた」が無意識にでもやってきた着実にして綿密に仕上げた仕事や行動が、今日もこの世を「より確実性のある形」で平常運転させているんだ。
     
    追記:
    昔話として、「福の神に愛でられた人」がある商売屋の所で働き、雇い主が調子に乗って酷使した結果、その「愛でられし者」が去り、後に残った商売屋は没落したというような話をちょくちょく聞くが、これは「人を大事にしないと痛いしっぺ返しが来るぞ」というメッセージの他に、「ついている人」が現実その場にいるからこそ上手くいっている事があり、いなくなった途端に平常時に戻るだけで、当たり前に対応しなかった物事は、正直その通りにトラブルが発生するというメッセージも含まれた寓話のようにも感じる。
     
    「ついている人」のエピソードとして数年前の夜の事、タバコを吸う習慣がなかなかぬけない俺は、家の外に出てタバコを吸っていた。今となっては古い言葉となった「ホタル族」だったのだが、家の前の交差点の向こう側から何かが走って来る音がした。
     
    夜だったので、最初はよく見えなかったがどんどんこちらに近づいて来る。
     
    見えた姿は高校生くらい若い男で、白いスニーカーの他には一糸まとわぬ姿でこちらに走ってきた。
     
    彼はどうも俺の存在には気付いていなかったようだが、
     
    俺は男子校の出身というのもあってか、「バカをやっている場面」を見慣れていたせいで、ついつい笑ってしまった。
     
    彼は俺の笑い声に気付いて、「やべっ!」と呟いて、交差点の向こうにまっちろなお尻を俺に向けて引き返して行き、暫くしてから暗闇の向こうから、複数の若い男達の笑い声がドッと聞こえてきた。
    まあ、若気の至りの罰ゲームか、大人社会への挑戦なのか、良くは分からないが、ただ「バカ」をやりたかっただけなのだなというのは、容易に想像は出来た。
     
    「いやはや、バカやってなんなぁ」と思いながら、家へと入り家の者に先ほどの
    「落書きの教科書と外ばかり見て、服を脱いで走り出す、自由を求め続けた、15なのか、16なのか、18かもしれないけれど、夜」の始終を「さっき面白い事があってよぉ…」ってな具合に話していたら、家の奴が
    「彼はついてる人だね。そういうのを笑って済ませるアンタに見られて。普通なら騒ぎだよ。彼は命拾いできたね。」と言われた。
     
    考えてみれば確かにそうである。実際に「彼に付いているモノ」まで見えたわけで、普通の人なら尋常じゃない騒ぎになっていた可能はかなり高い。
     
    まあ、俺としてはこの若い彼が、その行動力をもっと建設的に人のために奮って、色んな所が元気で、色んな部分がデカイ、デカイ男になって、
     
    そして、交差点を越えて闇の中へと入って行った彼自身の過去に、金色の光と玲瓏玉のような愛を当てて、「ああ、あの時、思い切って、自由への疾走をしたからこそ、今の勇気ある元気でデカイ男になれたのだな」と交差点の先の闇の中で、仲間達に笑われた過去をアセンションしてくれればと思う。
     
    「ついてる人」が「走り出した彼」と同一とは言わないが、似たようにこういう紙一重の所で生きてるかもしれないと思うと、慎重にした方がいいかもな。

    パワハラやいじめの後遺症について

    パワハラやいじめの後遺症に悩まされている人は多いと思う。
     
    理不尽な目に合った上に後遺症にも悩まされる事になるともなると不条理極まれりな所ではあるが、
     
    その後遺症には精神的な後遺症もあることだろう。
     
    それは潜在意識とか無意識とかそういう部分に深く食い込むもので、
     
    表層の意識でそれを癒そうとするのは、ちょっと難しい気がしている。
     
    というのも、潜在意識や無意識というのは「自分の意識を変えよう」という「内的要因」のものではなく、「○✕をしたから、◇△をされた。だから、しないようにする。」という「外的要因」による「体験」に基づくものだからだ。
     
    潜在意識や無意識を変化させようならば、「体験」して「納得」して「実感」するしかないように思う。
     
    具体的には「行動」を変えたり、「時間」を変えたり、「場所」変えたり、とにかく体感で知覚できる物質的な事からアプローチする。
     
    とはいえ、荒療治のように苦手と感じる事に真正面からぶつかっていくのはかえって傷を増やし、得策とは思えない。
     
    だから、無理なく出来る事から始め、ちょっとずつハードルを上げるを繰り返しながら、「癒す」しかないかもしれない。
     
    例えば、対人恐怖のようなものを抱いてしまったなら、急に誰かとコミュニケーションを図るような事はやめて、特に何もしなくても良いから、人通りの多い所を歩いてみる。これに特別な無理を感じないのなら、そこから始め、慣れてきたら、良く行くコンビニとかの店員さんでも良いので、会釈をするという風にハードルをほんの少しだけ上げてみる。また、慣れたら次のステップへ、のように徐々にやっていくのが良いように思う。
     
    他にも関してもこの「慣れたら次のステップ」でやっていく。何を具体的にやっていくかは、それぞれに個性や事情があるため、個別に考えなくてはならないが、それを知るためにカウンセラーなり、占い師なり、
    貴方自身のために俺達を利用してくれれば、と思う。
     
    もし、自分一人でトライしてみよう思うなら、段階を細かくして、その目標が今の自分に無理のないものかどうか注意してくれ。
    そして、失敗したとしても挫折はしないでくれ。それは高望みではなく、ただ今の現状ではちょっとハードルが高すぎただけの事なのだから。

    パワハラについての考察2 解放のお手伝い編 加筆

    クラマルの過去なのですが、相手の「パワハラ」行為に煩わされなくなった理由としては、20代後半に命に関わる危険な仕事の経験や、危険な薬品や化学物質を扱う仕事についていた経験があったからのように思います。簡単に言えば、「一つではなく、色々な世界を見た経験があったから」という経験に助けられたのだと思います。他には、「科学的合理」や「哲学」に触れた事もあると思いますが、「パワハラ」に悩まされる「意識」の解放の一助となればと思います。
     
     
    1.「労働」と「お金を稼ぐ」はイコールではない。
    「労働」や「仕事」が「お金を稼ぐ」と本当に同義語ならば、「無償の慈善事業や活動をしている人」は「仕事をしていない」事になります。逆に「仕事」をせずに「ギャンブル」で手に入れた「お金」についてはどうでしょうか?
    お勧め出来る生き方とは言えませんが、毎日毎日「ギャンブル」で大金を持ってきていたら、「お金を稼いでいる」はクリアされているハズです。「悪銭身に付かず」とは言いますが、それらは現実的に「使い方による」といった感じはします。「労働」を「お金」に変換しているだけであって、「労働」は「お金を稼ぐ」事とはイコールしないような気がします。
    「労働」とは「モノの生産」や「サービス」を提供する事です。
     
     
    2.「能力」「成績」と「人格」はイコールではない。
    これはクラマルがくだくだしい説明をするまでもないでしょう。逆に「能力」「成績」と「人格」はイコールと考えている人は「実はあまり、自分の頭で深く考えるのが苦手」な人が多いかもしれません。人間というのは「多面的で多様で明確には理解が難しい」存在です。その一部を切り取って、全体と捉えるのはきっとその方が「判断が楽」だからでしょう。こう言った人は物事を見誤りやすく、騙されやすいかもしれません。過去、クラマルの知人にこれを地で行って、騙されたりトラブルに巻き込まれた人も実際にいます。
     
     
    3.「その人が持っている金額」は「その人格」を保証しない。
    一見当たり前なのですが、残念ながら「金額」と「人格」を同一に考える人というのも、世の中に少なからずいます。「お金の数」と「信用や信頼の数」を同一に考えているのかもしれません。「このくらいの金額は、多くの人との信頼関係の上に成り立っているハズ、故にこの人は誠実な人」という思考が働いている可能性もありますが、これは結構、危険な考え方のように思います。人から10億円を奪った強盗が、自分は強盗であると言って人に近づくものでしょうか?
    どうせ「持っている金額」に絡んだ関心を持つなら「その人がどのような手段でそれを手に入れたのか?」に注目したほうが、余程良い発見があるように思います。
     
     
    4.「仕事の成績」は「人格」を保証しない。
    まずは、世の中の仕事というのは教科書さえ読んで入れば結果が出せるものなのでしょうか?という所ですが、これは違いますね。
    努力していれば必ず良い結果が得られるとは限らないのが、この現状ですね。
    そういった不確実な中でも結果を出した、ということはその部分ではすごいと思いますが、やはり時の運というものはあるものです。
    人間は多様なものですが、合致しているかはやってみないと分からないというブラックボックスの中にあるものです。サイコロを転がすような運任せな部分が大きい現状はあるように思いますし、「人格」の良さが「成績」ならば、「成績」を良くするために「人格」を磨き、その結果として、世の中はかなりの数の善人で溢れていなくてはいけない事になりますが、そうではないのは、結局そういう事です。
     
     
    5.そのパワハラは今に始まった事ではない。
    パワハラを行う前提として、そのパワハラを行う人物は上位の人物でしょう。という事はその人は何とかその場所に居続ける事が出来たわけです。その場所がパワハラを良しとしない場所ならば、その人は去っているか、その姿勢を改めていなくてはならないのですが、パワハラ姿勢を継続させていられているという事は、その場所はそれを実質的に容認しているパワハラ体質という事になります。そこではパワハラが伝統的慣例となっている事が考えられます。そういった場所では、パワハラに耐えかねた人から脱落していくという「パワハラ耐久レース」が実質的に行われているように思います。その場所では「仕事の能力」ではなく「パワハラに対する耐久性」が実質的な評価基準となっているというトンチンカンな場所となっている可能性があります。そのような事が実質的な評価基準の場所の末路というのは火を見るよりも明らかですね。氷山に突撃しようしている脆い船に乗っていると思った方が良いでしょう。
     
     
    6.「行きたくない」は「課題」ではなく、「結果」である。
    何でも嫌な事を否定すれば良いというわけでもありませんが、慢性的に「行きたくない」という風に感じている場合は、それ自体を「解決すべき課題」と考える事が多いかもしれませんが、それは「結果」です。これを言い換えると「状態のバロメーター」とも言えます。
    通常多く見られるのが「嫌だと思う自分の心を、嫌ではないという風に思えるように矯正しよう」と行動しますが、これは体に重傷を負って傷が痛むのに「痛いと感じふ感覚を超越しよう」と行動し、肝心要の傷の手当てしようとしない事と同じように感じます。
    「行きたくない」と感じるのは、サイズの合わない服を無理矢理に着続ける事と一緒で、その結果として体をおかしくします。
    これは心のメッセージとして素直に受け止め、その場を離れる行動をとった方が得策でしょう。
     
     
    7.いじめを行う側とされた側の事を分析すると。
    40人の人間が3ヶ月かけて1人の人間をいじめぬいて、ターゲットとされた人が結果的にその場所から去ったと過程します。
    それは40人対1人と見ることも出来ますが、計算してみると、
     
    40人 × 約90日で総数、約3600人かけて、1人を追い出したという計算になるかもしれません。
     
    つまりは行う方は、3600人も掛けないと人一人満足に追い出す事の出来ない大した事のないもの達であり、
      
    逆にされた方は1人で3600人を相手にして、戦略的撤退を余儀なくされた強者と考える事も出来ます。近代最強と言われた兵士シモ・ヘイヘもビックリな人ということになります。

    これからの全体の金運と仕事運を少しでも上げる

    テレビやラジオ、ネットなんかを見ていると経済的に厳しい状況は続きそうだね。
     
    そして、この時期は今までの「仕事や商売」のあり方が段々と変化してきている所だと思う。
     
    この時期に転職に踏み切ったりする人もいたり、逆に漠然と「どうしたものか」と悩んでいる人も多いのは想像に難くないかな。
     
    時代の流れや目の前の環境は刻一刻と変化している。適度にバランス良く変化しなくてはいけないだろうし、今まであり方をどこかで変えなくてはならない部分もあるだろう。
     
    昨今では雇われているだけではなく、個人単位で商売を始める「個人事業主」というワードが盛んに聞くようになり、この時期を機会に始める人もいるかもしれない。
     
    転職にしても、個人事業にしても漠然とどうしていいのか分からない。
     
    自分は何に向いているのか分からない。自分自身では気づかずに見過ごしてしまっている才能があるかもしれない。
     
    または、自分はどのようにすればあまり無理なく仕事が出来るか見直したい。
     
    はたまた、個人事業を始めようとは思うが、さしあたり何から始めようか迷っている、現状の自分はどのような商材やサービスを提供できるだろうか?
     
    そういった事を思う人もいるだろうと思う。
      
    自分の特性を知る事で、あまり無理のない転職先や個人事業のヒントや自分だけのガイドラインが見えてくると思う。
     
    もちろん、自身がその目で見た現状を受けての工夫というのも必要なのだが、
     
    「概ねこれでやってみよう」
    「ここを修正してみよう」
     
    それを一緒に探せたらと思う。
     
    スピリチュアルな世界では、金運や仕事運はエネルギーの流れというような記述が多い。
     
    確かにそういう部分はあるのだが、「金運」や「仕事運」というのは「人間」に属するものであり、「モノ」や「行動」なのである。
     
    つまりはこの物質世界では、「やること」、「時間」、「場所」によるのである。
     
    とはいえ、それぞれに個人には個性があり、得意な分野や生かせる場所や時間も細々と多種多様である。
     
    それぞれに合ったやり方を、例え「叩き台」であったとしても、提案出来ればと思う。 
     
    自分に無理のないペースとやり方で、金運と仕事運を待つのではなく、自身の行動によって上げられる人間になろうぜ。

    「お前には、もっとふさわしい男がいる」と言われたら

    別段ケンカだとか、嫌だと思う点を指摘されたわけでもなく、別れ話になったり距離をおいたりされる事は結構あるような気がしている。
     
    「お前の事は好きだけど、お前にはもっとふさわしい男がいるはずだ。俺は身を引く」何て事を唐突に言い出す事について、ちょっと語ってみようかね。
     
    まあ、勘繰りいれれば、他に女でもできたのでは?なんてそういう場合もあるかもしれないが、今回はそれは度外視しておく。
     
    もう一つ、「男」を「女」に逆にしても当てはまる所があるかもしれない。
     
    まあ、そんな感じで見てくれ。
     
    「お前にはもっとふさわしい奴がいる」という発言に至るには、あくまでも俺の経験的には3つの条件があるように思う。
     
    条件1:
    そう言っている本人の自分自身に対する自己評価は低く、自分を卑下している。
     
    これは普段の会話や態度の中に「どうせ自分なんて」みたいな姿勢や言動が多少ある可能性がある。
     
    条件2:
    そう言っている本人は、世の中すべからく物質的ギブアンドテイクで成り立っているという考え方が心の奥底に根付いて離れない。そのくせ、当の本人はそのビジネスライク的なギブアンドテイクの原理に徹する事が実は出来ていない。
     
    物質的ギブアンドテイクとは簡単には言えば「目に見える物や行為でのみ、交換がなされる。」という感じかな。
    こういうタイプには「私は貴男以外の人と一緒にいる事が考えられない」という情緒的な言葉や事実が心の奥底まではなかなか響かない可能性がある。そういった事は「お世辞」や「社交辞令」のよう聞こえている可能性、または「そう言ってくれるが、それは相手はまだそういった世の中の本質を純真無垢が故に、知らないからそう言うのだ。」という心の処理が働いている可能性もある。
    もっとまとめると、「自分はそんな風には接したりしないのだが、この世の中は物質的ギブアンドテイクを自分に求める。」そう言う意識が強いかもな。
     
    条件3:
    そう言っている本人にとって現状や過去の人間関係はかなり辛いものだった。
     
    俺の周囲の男達にもこういった事を言うタイプが数人いたが、彼らを注意深く見ていると、大体が人生で初めてお付き合いをした相手に、「もっと良い男がいるはず」という事を言い出したパターンは多い。
    彼らに共通しているのは、仕事や肩書きだけを見ても、何の遜色もないような者だったり、まま充分な生活力があるなど、いわゆるお付き合いや結婚後の生活に支障がなさそうにも関わらず、どこか自己卑下が漂っている。
    そして、こう言ってはナンだが、「他者から幸福を与えられた経験」がかなり乏しい感じがある。第三者的にはどうかは分からないが、彼らの言動を見ると「自分は極端に幸せではなかった。それは自分が人間として劣っているから」そういった所が目立つ。
     
    また、そう言い出す以前に「お付き合い」の経験があった場合はどうかと言うと、これは結局は「辛い恋愛関係」だった場合が多いように感じる。具体的には「相手から様々なことを求められ過ぎた。」とか、「とりあえず付き合ってはいるが、相手が自分を愛してくれている実感がない。」
    そして、始末の悪い事にこれを「普通」と感じていた事が多いために、「私は貴方を愛しています。」というような事を感じる場面では、自分の中にあった現実と、目の前の現実にかなり大きなギャップを感じ、それを素直に受け取ってスムーズに処理出来るような心の構造なぞ、持ち合わせては無いのもあって「俺にはもったいない、他にいい奴がいるはず」という独善的結論に行きつく、そんな感じだろうか。
     
    まあ、単的に言えば1+1を素直に2とせずに、1とか-1を書く事を断固として譲らないような「面倒くさい構造をしている奴」であり、「目の前の幸せを信じる事が出来ずに混乱している。」という風には見ると良いかもしれない。
     
    また、こういったタイプは「恋愛関係において、全てを自分が背負う」癖がある。これは先程の条件にもあった「物質的ギブアンドテイクの原理」が身に染み付いているためのように思う。これは行動や思考パターンの癖がついてしまっているのかもしれない。
     
    こういった事態に対応する場面、目指す所は「相手を安心させる」言葉にすれば「背負う物を二人分かつ」、「貴方は目の前の幸せを受け取って良い」等の事を実感させる事のように思う。これはこれでなかなかに骨の折れる事ではあるが、「君はもっとふさわしい人がいる。別れよう」、「ガーン、フラれた…」と感じても、ちょっとこれらの事を意識してみてくれ。それだけで、対応もかなりしやすくなると思う。
     
    オマケというわけではないが、「もっとふさわしい人」発言から見えてくるものを書いておくよ。
     
    ・相手は「目の前の幸せに混乱」している可能性があるということは、言われた自分は相手に幸せを与えていた証と考えられる。
     
    ・相手が「君にはもっとふさわしい人がいるはず」という言葉は、一見相手の事を考えているようで、実はあまり考えてはいない。「深く考えてみた結果なんだ」という言葉が前後にあったとしても結局それは、自分の中だけで自分の事を深く考えただけであって、相手の現状の気持ちやこの先を深く考える事は出来ていない場合が多い。つまりは独善的。
     
    ・「もっとふさわしい人」の定義について聞いても、霧や雲のように抽象的な場合も多く、森羅万象には長所短所がある事を考えてはいないし、人がそれぞれに持つ個性を考慮に入れていない。それは極端に暑がりな人間に、「あらゆる物が豊かだから、南の密林に行くべきだ」と言うのと同じような事をしている事に気づいていない場合もある。
    もっと具体的には「ざっくばらん」が楽で安定する性格の人間に、「お金に困らないから」という理由で厳格な雰囲気の場所に行かせたら、その人はその後どうなるか?金には困らないかもしれないが、逆に心身を疲弊させて病気になったら元も子もない。
    こういう例えもなんだが、清水ばかりに全ての魚が住めるのではなく、多少の濁りがないと生きてはいけない魚だって世の中にはいる。ヤマメとかね。
     
    ・「もっとふさわしい人がいるはず」と言われたら、「いいの?じゃあ、明日にでも貴方と私で婚姻届けを出しましょう。私にとって最もふさわしいのは貴方です。」と巻き返してみるといい。語るに落ちる、まあそんな感じか。
     
    ・相手が全てを一人で背負ったような感じで、「疲れた」ような感じならば、単純な事からでいい「与える」をやってみる。それは、「言葉」でもいいし、「食べ物」でもいい。「今スーパーマーケットにいるのだけれど、何か必要な物がある?」のように小さな事でも、何かを「担う事」もかなり効果があるかもしれない。
    こういった「互いに担う」はこういうタイプにとっては良いような気がする。
     
    ・「一人で全てを背負って疲れてしまうタイプ」は、自身の姿勢がかなりアンバランスである事があまり自覚できていない。
    そしてそれは、「相手の自分への、愛情を示す行動の機会を奪っている」事をしている事に気づいていない。
    「稼ぎも良く、料理や家事をこなす旦那」というのは、理想的イメージとして語られるが、実はそれと一緒にいる事は結構きつい側面もあるようだ。それは「全てをしてもらう側の人間の存在価値を問う」というかなりシビアな自己批判に繋がる。
    分かりやすい例としては、会社に出勤しても、「座ってて。君は何もしなくていいから」を言葉にせずに実効的な行動で示される日々が私生活の中で連続してしまう事でもある。
     
    ・「全てを背負う」人間は「私を必要としてくれる人を探す」人間を生み出しかねない。やっぱり、持ちつ持たれつだ。
     
    相手が「もっとふさわしい人がいるはず」とか「全てを背負って疲れた」と言い出したら、これらを参考にして対応や会話するヒントとしてくれれば

    学校などでのいじめについて その6

    長々と「いじめについて」書いたが、一応俺も占い師なんで、少しスピリチュアル的な話もしつつ、一旦終わりしようかね。
     
    とりあえず、この「いじめ」先々について、タロットで占ってみた。質問者の仕方としては「全般的にいじめを行う人間がどようになっていくか?」という感じだ。
     
    勿論個々に色々な人間がいるものだから、十人十色の未来はあるので、最小公約数のような見通しとなるが、
     
    現在から見てみると、「スピーディーな変化」そして未来は「力の喪失」また「別離」、キーワードとなるのは「静寂」「口を閉ざす」そういったカードが展開されている。
     
    「スピーディーな変化」について、ニュースなんかも見ると俺は、肌でそれを感じる。「差別」や「暴力」、「理不尽な排斥行為」「少数派への理不尽な攻撃」など「いじめ」に関わりある問題が目立っている。
     
    世界で起こっている事もやはり「いじめ」に関わる事が目立って来ている。いや、むしろようやっと明るみになってきたという所か、
     
    しかも、「いじめ」を行う方も暴走気味だ。「あからさま」になってきたという感じでもある。
     
    確かに「いじめ」というものをこの地球上から根絶する事は俺もなかなか、今の段階では無理のある話なようは思ってはいるが、少しずつ「無くしていこう」の方向には進んでいるのでは?と思う。
     
    概ねの所、「差別を無くそう」とか「理不尽な排斥」、「少数派への理不尽な攻撃」を無くしていこうとする世界の動きはあるようだ。
     
    でも、それは経済活動の観点からいっても、合理的なことかもしれない。
     
    例えれば、俺のように人と人、顔を付き合わして仕事するような人間だと、なおのこと
     
    「自分は差別主義者だ。」とかそういう人と取引したいと思うだろうか?という事だ。
     
    そういう人は相手から「実害」を想像される人物として判断されるだろう。
     
    簡単に言えば、「この人は自分を差別しないが、ある特定の人を差別している人だ。もし、この人が差別している対象の人と自分が繋がりを持った時には、どんな反応をしてくるか分からない。」というリスクの高い人として見られる。
     
    今後の予想として国と国がネットワークや技術で繋がる時代となり、商業や一般的な交流も多様性の中に突入していくだろうね。
     
    やはりそういった中で「いじめ」だとか「差別」の意識があると、取り残されていくように思う。
     
    一旦、占い結果をまとめてから、次、行ってみよう。
     
    「静寂」も意味する「女司祭」のカードなのだが、「情報」というキーワードもある。
     
    予想される結果結論として、「いじめを行っていた事をひた隠しにして生きる」という感じだし、「情報によって力を失う」という意味ともなる。
     
    「情報」というのが結構キツイかな。昨今、「デジタルタトゥー」という、「SNSへの書き込みは永劫残るので、発言には注意しましょう。」というもののようだが、「じゃあ、かきこみしなきゃいいのか?」というとそう楽観視もしてられない。
     
    マーケティングやデザインというのは、「消費者の血の通った生の声」を集め、そこから「概ね需要や、全体的な要望」を汲み取ろうする試みがある、
     
    そして情報収集のやり方には「オシント」「シギント」「ヒューミント」というものがある。特にも「ヒューミント」というのは俺たち最も馴染みの深い「人からの話」という事なのだが、ここ数年間で「ヒューミントによる情報」を集める方向に回っているし、これは既に定番のセオリーと化しているかもしれない。しかも、そこにネットワークがかなりのサポートをしている。
     
    具体的に言うと
    採用担当者が「この人物なのだが、君は知っているか?昨日面接に来たんだ。」
    といってSNSなんかのプロフィール画像を見せる。
    「この人は…知ってますよ。」
    「どんな人物だろうか?」
    「そうですね。学生時代にいじめをやっていた中心人物です。」
    「そうか、人間は変化するものかもしれないが、リスクヘッジしておかないとな。別な人間を採用しよう。」
    これは社内のたまたま、その人物を知る人間に聞くという範囲の事ではあるが、採用の際にそういった過去の情報をネットワークで「ヒューミント」する可能性もこれからはあるなと感じる。現にもう、天気予報がそうだ。「あなたの周辺の今の天気を教えて下さい。」というようなウェブシステムなんかが、良い例だろう。

    人のデジタルではない経歴をシステム化するには、まだまだ慎重にしなくてはならない点はあるだろうけれど、現行では「テロリズムの抑止」にこのシステムが使われている一面もあるので、先を考えればあまり楽観視はできないかな。
     
    ただ、表立った公的なシステムとしては使われなくても、企業だとか組織の裏側では、実質的にして合理的なやり方を求めるので、現実的にはかなり早い段階で密かに行われている可能性もありそうだね。
    現に昔、そういった「採用にさしあたっての素行調査」というのは、あったようだしな。
     
    「デジタル・タトゥー」を通りこして、「インフォメーション・タトゥー」または「キャリア・タトゥー」というのは、デジタル化はされていないだけで、俺たちの周囲にはすでにある。場合によっては「レッテル」とも言えるが。
     
    過去の経歴が未来に影響を及ぼす、というのは現状もあるが、今後はそれがより明るみになりやすく、それは共有され、そしてよりシビアになるかもしれない。
     
    「いじめ」というのはやめるべきだが、自分の未来のためにも、この今の選択を軽んじない方が良いだろうね。
     
    逆に「いじめを受けていた側」について占ってみると、「変化」や「立場の逆転」というのがでた。アドバイスの位置には「皇帝」が出ていた。
     
    去年の辺りから、機運は「優しさ」や「道徳」の流れにもなっているので、「いじめ受けている人」もしくは「受けていた人」があらゆる形で、リーダーとなって牽引したり、多数派ではない視点から何かを行ったり、場合によっては「起業」したりする人達も出るのかな。
     
    本人達の意識のところに「女司祭」のカードが出ていたので、「静寂」とやはり「情報」となる。
     
    「道徳」や「モラル」を意味する「法王」のカードが「チェンジ」というカードを挟んで「女司祭」があるので、「今まで黙ってはいたが、モラルのために過去を開示する」しかしながら、その使い方は「モラルに反しない」が最終的な位置に出ているので、先に述べた「経歴」と「素行調査」「情報共有」という流れはあるかもしれないね。そしてそれが、そういう使いだったら、モラルに反していないと受け入れられる可能性もある。
     
    また、「外側の世界と繋がる」がアドバイスの所に出ているので、今いじめを受けている側の人は、ちょっとしんどいかも知れないが、学校だとか組織だとかそういう目の前の世界だけではなく、それ以外の外側の世界の人達との繋がりや、外側の世界の価値観にも振れてみるといい。ネットワークを使ってそれをやるのもいいだろう。

    学校などでのいじめについて その5

    まあ、俺自身も正直辛い事として、
     
    実は俺は「いじめられていた過去」について他者にはあまり話たくない、そんな感情がある。
     
    それはどこかで、「いじめられていた自分自身」を否定したい気持ちがあったり、
     
    何よりもその話を相手に聞かせている自分は何だか「みじめ」なもんだし、
     
    「こんな話を聞いて、この人は内心では俺を遠ざけたり、特異な人間と思ったりしないだろうか?」そんな風に思う。
     
    ひどい場合だと、
    「そんなお涙頂戴な話をして同情してほしいのか?苦労なんて皆している。自分を美しい犠牲者や被害者のように語るな」とか思っているのではないか?
     
    もしくは、
    「いつまでも、自分の辛い過去にこだわり続ける奴」という風に思ってはいないか?
     
    そう思う事があるし、
     
    もっと若かりし日の時は、一切その事に触れなかった。老若男女関係なく
    「暗い少年時代を過ごした難儀な人。」という風に思われるのも嫌だった。
     
    別に多くの人間から愛されたかった過去が欲しかったわけでもなく、自分の過去として俺自身は否定はしていないが、進んで口に出す気にもなれなかったし、いい歳こいた今でも「いじめの過去」について話す事には抵抗がある。
     
    ま、俺は自分自身は変わり者だと言う、何となくの自覚があると尚更で、今の自分を過去と関連づけられるのは、他にいじめを受けた人、現状受けている人への偏見に繋がりはしないかという懸念も感じている。だが、俺も俺で自分の人生は自分のものとして自由に謳歌したい気持ちもある。困ったものだ。

    「過去にいじめられたから、歪んだ人格になった」というような言葉がネットでも散見されるようになって更に心配になってきた。
     
    ま、確かに今の俺の人格を形成しているのは、過去の体験が要素となっているのだから、それは否定出来ない事実かもしれないが、「過去のいじめを受けた経験」成分100%ではないと思う。
     
    だが、なぜそういう攻撃的な事を言うのかについて、突き詰めて考えてみた。
     
    もしそう言うなら、逆に言うと
    「いじめ」という歪んだ言動を取っている人間達にも当てはまってしまう。つまりは、
    「いじめという歪んだ言動に出ている人物の過去は、暗く辛いものだった。」という事である。
    確かにそういったこともあるとは思うが、「いじめられた過去が歪んだ人格を作る」と言う人間は「いじめという歪んだ言動に出る人物の過去は、暗くて辛い」という事には言及しないような気がする。むしろ、攻撃対象は「いじめを受けた過去を持つ人」だ。
    まあ、「いじめ」なんてものは「陰湿で暗い」事には変わりはないし、そう言って攻撃的な事を言う本人は「過去に誰かいじめた経験のある人間」であり、その後ろめたさが理由となっている発言、というのも想像に難くない。
     
    また、「歪んだ」とかそういう言葉というのは「いじめられた人間」は「問題のある人間となる」というレッテルを張りたい意識があるのかもしれないが、そういう言葉には「相対的比較対象」があっての事のように感じる。それは簡単に「歪んでいない」のと比べて「歪んだ」、とか「正常である」のと比べて「問題のある」というそういう比較対象があるからこそだろう。
     
    大体の所で、多数派ではない少数派を排斥する時に何かに関連付けて、悪とするレッテルを張るやり方があるが、概ねそれ故に発した言葉のようにも思う。
     
    「自分の生きる世界には何も問題がない」と思いたい意図があるのかもしれない。
     
    確かに少数派の問題に向き合う苦労を考えれば、無いことにしてしまう方が楽で仕方がないだろう。
     
    「いじめられた側」をそのように攻撃するが、「いじめを行った側の因果」についてあまり言及しない所を見ると「いじめのある社会を守りたい」という本音がそこにあるかもしれないね。
     
    もしくは、「世の中には苦しんでいる人がいる、しかし自分は楽に生きているのかもしれない…そうだったにしても、そんな自分を認めたくない。」そういった劣等感コンプレックスの現れかもしれない。
     
    とはいえ、なかなか「いじめ」というのは無くならないし、本腰いれてこの問題に取り組む動きも実は今のところ無いように思える。形骸的なものは今まであったがね。
     
    「いじめはいけない」と言っておきながら、この現状をみると、前の章のように「前提」そのものが間違っているかもしれないね。
     
    それは「実はそう言いながら、いじめを必要としている」それが前提なのかもな。
     
    そう考えると、「いじめ問題」も「パワハラ」もなかなか無くならない事に説明がつきそうだな。
     
    まあ、こういう指摘をされても認めたがる人はいないとは思うが、まるで「大事の前の小事」のように「いじめを黙認」する事で、全体の秩序を保っている組織なんかもありそうだね。
     
    でも、それってかなり脆弱な基盤の上に成り立っているもののように思うし、何かをきっかけにドカンと根幹から崩れそうだよね。
     
    それがどこかで、分かっているから必死なって隠そうとするのかもしれない。
     
    仮に本当の本音は「いじめを必要としている」だったとしても、君は別に重圧を感じる必要はないよ。
     
    むしろ、その程度の社会に屈服する必要もないだろう。
     
    例えれば、毎日会社に来て「相手をいじめる千の方法」を四六時中考えているような人に、大した仕事が出来ると思うだろうか?
    そんな人間の沢山いる会社で、いじめている本人のターゲットとならないために、業務においても気を遣うような会社に未来はあると思うだろうか?
     
    毎日学校に来て「相手をいじめる千の方法」に四六時中心血を注いで、学業成績が上がるだろうか?その時間と精神力を勉強に向ければいいよな?でも、そいつは気づいていないし、向けられないんだよ。
     
    散々努力して自分よりも下の人間を作り出す事にも終始して、自分の向上には尽力してないんだよね。「いじめの能力」なんて履歴書に書けるかい?
     
    これから多様化はもっと進んで行くなかで、「いじめること」に執念燃やしている人に未来はあるのだろうか?と感じる。
     
     
     
    まあ、「いじめのある場所」というのは俺としては、「どうしようもない火事場」のようなものだから、さっさと避難してしまったほうがいいと言ったが、それは「いじめたい側」と「いじめられたくない側」の双方のためにもなりそうな気がする。
     
    「いじめたい側」の表層の意識では「相手が気に食わん」のだから、仰せの通りになるわけだし、君もストレスから解放される。
     
    そして君は自分の人生に集中出来るわけだ。
     
    こういった「学校に行かない選択」が「いじめの減少」に寄与する可能性もある。
     
    「学校に行かない事」により「卒業資格も合理化できた上で、早々の段階から自分の人生に集中できる。自分のペースでしたい勉強が出来る。」そして、今はネットワークの世の中だ、余暇を生かして友達だって出来るかもしれない。
     
    逆に「友達と言えば一緒にいじめを行う仲間」、「誰かをいじめないと今度は自分がターゲットとなる不安」を常に感じ、そんなストレスの中でも、強いられた勉強の中である程度の成績を残さないと将来に響く不安がある。場合によっては成績が上がったら、それこそ悪目立ちして、それが原因となって次のターゲットとなる可能性もある。余暇の時間は「自分がターゲットとならないために、不本意ではあるがいじめに参加」または、「中心的な人物となって他人を貶める事に時間を費やす」
     
    どちらを選ぶだろうか?という事である。そういった場所に行って、ストレスを感じながら日々を過ごしたがる人間はいるだろうか?
     
    そうすれば、次第にそういった場所は自然淘汰されてしまうと思う。
     
    多様性、広大なネットワークの時代だ、そして学校を卒業してからの人生の方が長い。そして良くも悪くも、人間の持てる人間関係の範囲は実はそこまで広いわけではない。いつも、目の前にいる人とのコミュニケーションが原則であり、学生時代の友達に価値がないとは言わないが、そこまで重大な問題でもない。
     
    君は君の自由に生きて欲しいし、悲喜こもごも人生は色々とあるだろうし、今の俺のようになかなか消えてはくれない心の傷というものもあるだろう。無理にでも、前を向けとはいわないが、離れる事で掴める希望もある。結果や結論というのは普遍的ではなく、常に変わるものだから、君は君の思う所を、より心地よく生きてくれればと俺は願う。
     
    いじめの中心人物というのは、なかなか手のつけられないものだが、「自分は同調して、いじめている」人はよく考えた方がいい。
    直接的ではないが「凡庸な悪」という言葉だけ末路のヒントとして与えておくよ。
    彼らは最後に「仕方がなかった」「求められていた事をやっていただけ」「自分は悪くない、指示した彼が悪い」に終始し続けた。
    考えた方がいい。

    学校などでのいじめについて その4

    まあ、こう言うと卑怯かもしれないが、「学校に行くべき」とも「行かないべき」とも言わない。どちらにも等しく一長一短はあるし俺自身にだって、その現実分からない事ってのはある。
     
    とはいえ、「学校に行かない」選択をしようとすると、踏ん切りがつかないという事はあると思う。それをいくつか挙げて、それについて解決策ではないが、経験的事実を書いておく。参考になれば幸いだ。
     
    ・人間関係について
    まず、学校の時代から長い付き合いが出来ている友人ってのは極めて稀なことだ。そして、その関係が良い場合もあれば、悪い場合もある。
    付き合いが長い事自体が良いわけではない。
    俺には付き合いの長かった友人が二人いた。一人は高校の時からの付き合いで、もう一人は保育園の時からの付き合いだ。
     
    仮にA君としておく。彼は心根そのものは決して悪くなく、純粋な奴だったのだが、行きすぎた純粋故に直情型でもあった。彼はとにかくトラブルが多かった。発端となった原因が彼にはない事は分かるのだが、事の後の事について考える事は不得手のようで、激昂する事が多かった。俺もそんな彼には何度か巻き込まれた事もあり、正直日常的に付き合うのが困難な人物でもあったために、彼から離れて今に至る。彼との付き合いが無くなって正直ホッとしている。
    人はこれを悪縁とか言うのかもしれないが、古い友人だからといって良好な付き合いとは限らないという良い例である。
    付き合いが長かったハズなのに、当時の俺自身は、彼が激昂しやすい性格だったので「危ない瞬間湯沸し器」と付き合う細心の注意を払っていた。ある意味、「互いに理解していた」とも言えるが、どうだろうか?という所であった。
     
    もう一人の友人はこれと言って問題はないが、互いに仕事が忙しくなったり、それぞれに家庭を持つとやはり自然と疎遠になってくる。世の常と言えばそうなのだが、今は殆ど会う事もなくなった。それでも、俺は彼がいない事で人生が上手く行っていない感じはないし、俺がいない事で彼が不幸になったという報せを、彼のおかみさんから聞いてはいないから、そんなもんだ。つまりは、「付き合いが長い。」「だから、何なのだ?」という所である。
     
    付き合いの長さを軽んじるのでもないが、長さそのものが何かを保証するものでもない。
     
    それと、大体の所身近な例で言えば「高校卒業」をすれば、大概のクラスの連中とは散り散りになるもんだ。「大学卒業」の場合もそういった感じだろうか?
    地元に残った連中もいるが、殆ど会う事がない。ハリケーンが空中に鉄資材を舞い上げて、ジャンボジェットを組み立てる確率よりは、可能性は高いかもしれないが、つい立ちよったコンビニの入り口でばったり出くわす「奇跡」とおぼしきケースぐらいでしか会う事がない。
    「他のクラスメートと会っているか?」なんて聞いても、「全然、会う事がない」と皆、異口同音に言う。それでも鏡を見れば、今日もとりあえず自分は生きていると納得できるのだから、別に会わなくてもその通りといった所だ。
     
    逆にしょっちゅう顔付き合わしたり、関わる回数が多いのは、俺自身の個人的歴史を振り返ってみても、ほぼ全員が「家族」か「ここ数年で出会った人達」だ。
     
    学生時代とか仕事とかが関係のない所で、しょっちゅう付き合いのある人を一人上げてみれば、かつて俺が働いていた所の元上司くらいなもので、その会社はもう無くなっているので、取引もなければ、本当に個人レベルの付き合いだ。彼も俺も酒は飲まない。酒は飲まずウィスキー派というのでもなく、アルコール飲料を口にしないが、あれやこれや友人の付き合いがある。つまりは、学生時代や学校で出来た友人でもなく、元々は俺の上司だったのだから、友人という関係ではなかったのだが、気が付けばこんな感じだ。 
    まあ、君の親御さんはどうだろうか?家にいる時間と学生時代の旧友と過ごしている時間を計ってみるといい。火を見るよりも明らかだろう。そして、良き友、悪い友というのもあるものだ。
    実質的な利益の観点から言うと、これから君にお金をくれるのは、「友人」よりも「その他の人達」のほうがダントツに多い事だろう。
     
    学生時代の友人が一生の友人となるのは稀なケースであり、濃密な人間関係は目の前の現実にこそ否応なしにあるということだな。
     
     
     
    ・立場で人を見ない方が良いという事
    君がまだ未成年であり、いわゆる大人社会というものにまだ触れた事がなければ、言葉では分かっていても、実感としてはピンと来ない所かもしれない。「その人の職業や立場が、その人の人格や知性を保証しない。」というものだ。
    別に先生や周りの大人に反抗しろ、というのでもないが、君が「学校に行かない」という選択を選ぼうとすると、少なくとも先生はそれを引き留めるだろう。先生も様々だから、その先生個人の能力や立場で、精一杯君の事を案じているのなら、少し話は変わるかもしれないが、いわゆる「事なかれ」に納めたいだけというのも考えられる。その時にあれやこれや君を不安たらしめるような「学校に来た方が良い理由」を並べて来るとは思うが、それは話半分にしておけ、という所だ。
     
    まず、君が学校に行かない、という選択を取ったが故に生じてきた問題は、その選択をした君自身の責任という事にはなるのだが、世の中の殆どの事が互いにそうなのだから、自分の選択と結果には自分で責任を負う、というのは何も君に限った話ではない。
     
    逆に「学校に来なさい」と言われて、それに従ったが故に生じてきた問題について、それを言った相手はその責任を負うかというとこれは、「従うという選択をした君の責任」と言われるだろうし、「来なさい」と言っておきながら、その責任を相手が負う事はしないだろう。
     
    つまりはどっちも一緒という事だ。
     
    民間企業や団体なんかで、社会人経験を積んだ上で教師をしているのなら、それなりに社会的現実を知っているかもしれないが、学校の他の社会を知らない人間の限界というのは現実にある。まあ、人は体験に基づいて語るしかないのだが、「聞くな」とも言わない代わりに、あまり鵜呑みにもしない方がいい。
     
    一応、参考になればと思い、過去の出来事について話しておく。
    俺のかつての職場に、新たな部門の責任者として、再就職してきた元教師の人がいたのだが、雑談として「人間は目を通して、その情報を脳で処理したり理解しているのだから、人間は脳で周りの世界を見ていると言えそうですね。」と言ったら彼は「そんなハズはない!!それはない!!」と断固として否定的だった。俺は「へ!?」とか「そんなにトンデモで非科学的な事言ったか?」とか思った。勿論そこから話も弾まずだった。暫くして、ちょっとしたきっかけがあって個人的に付き合いのある生物学の学者さんに、同じ話をしたら「そのように考えられるね。」と言われ、さらに「錯覚」や「錯視」という発展した話を聞くことが出来た。
     
    どうも俺自身に、前者の「元教師」の彼は「知的な人」という「錯視、錯覚」があったようだ。ま、本当に個人によりけり、ってなとこだな。
     
    そんなモンなので、教科書のプロではあるのだから教科書の事は「餅は餅屋」で聞けばいいだろうが、他の事はあんまりアテになりそうにないかな。

    学校などでのいじめについて その3

    前の章で触れた、
    「よろしくない場所からは離れて近づかない」のは、心霊関係やビジネスのシーンでも良くある話のように思う。
     
    「心霊スポットには近づくな」というのは君も良く聞く話だと思うし、妥当性もあるだろう。
    簡単に言えばそこは「どうにもならない危険地帯だから近づかないに限る」と言うことだな。
     
    ビジネスにも「レッドオーシャン」「ブルーオーシャン」と言って「行けば得な場所」「行っても得にならない場所」「損害になるからむしろ、近づかない方が良い場所」そういうものがある。具体的には、
    「弁当屋の少ないところで、弁当屋をすると儲かるかも。」
    「他の弁当屋がいる所に店を出すと、競合状態となってコストがかかりやすい。」
    「強盗がウロウロ歩き回っている所に店を出すのは色んな部分で損害だ。」
    そういった感じだ。
     
    魚のいない池に釣糸を垂らしても、魚は釣れまいよ。加えてそこにヒグマなんかの猛獣がいる場所ならば、どうだろうか?君はそこで釣りをする気になれるだろうか?
     
    「いじめ」っていう深刻なテーマで語りながら、こんな事言うのは不謹慎な事かもしれないが、いわゆる「登校拒否」とか「学校に行かない」というのは、ビジネス的に言えば「レッドオーシャン」つまりは「避けるべき場所」から離れている合理的な行動のように感じる。
    こういった「目の前の物事を判断し、自分の思う所を行う意思」は先々、「無駄なしがらみ」「時代遅れとなった慣例」から脱却して、合理的な行動が出来る「意識習慣」となりそうだな。これを経験的に持っている奴は、かなり強くなれると思うぞ。
     
    さて、「学校に行かない」という行動から時代の流れを踏まえて、近い未来を考えてみると、
    まずは、今は「ネットワークと情報」の社会だ。簡単に言えば、「必要な情報はネットでも見られる」という事だ。「氾濫しているネットの情報の問題点」なんてのもあるにはあるが、それは何も君に限った問題ではない。この問題は今を生きる全ての人の課題だ。
     
    また、地理的な問題で学校に通うことが困難な子供に「ネットワーク」を使って「知識」を届ける取り組みも実際に行われている。
    これは「学校に行かなくても勉強は出来るだろう」という事で、それに関わる企業や世界の概ねの流れがあるのだろう。
     
    それと今は「資格試験」なんて物もある。高校卒業の資格試験や、確か中学もあったかな?すまん、調べてくれという所だが、これも「効率化」と「合理性」、「経済」の観点から見ても良い選択かもしれない。
     
    まあ、言ってしまえば
    自分の努力だけでどうにかなるものでもない「偏差値」を気にする必要もなく、ちょっとの期間を勉強して「高校卒業」はたまた、「中学卒業」がとれるならば、学校に通う三年間ないし六年間を本当にやりたい事や、将来に向けた実質的な勉強に使った方が得策ではないだろうか?
    親御さんも高い授業料払うよりも、その子の実質的な将来への投資にした時、
     
    もしかしたら、「今度はうちの子供は大学を卒業なんだよ。就職が心配だ。」と他の人が不安がっている時期に、「まあ、うちの子供は早い段階から独立して営業してるしな。大変ではあるだろうけれど、あいつなら、ま、大丈夫だろう。」と構えていられるかもしれない。
     
    色々と事情はあるだろうけれど、「学校に行かない選択肢」もそれなり望みがあるかもしれない。
     
    実例を挙げると、俺の周囲にも数人いる。学校に行く時間を惜しんで、高卒の資格試験を取って、残りの時間は自分の志す道への勉強をして、イラストレーターや設計士になって早い段階で事務所を構えて「経営者」になっている奴らもいる。
     
    俺も高校卒業後はほぼ、社会人だったせいか大学に行った同級生が幼く見えたものだし、彼らが「就職先を探さないと」とあたふたしていた時期は、すでに俺はデザイン事務所でその道の業界人だったしな。
     
    学校を卒業した後の人生の方が長いし、良きにつけ悪きにつけ、そっちのほうが本番なんだ。その本番までにどんな部分をどれだけ積むことが出来るだろうか?って所じゃないかな。
     
    人間関係に関してもそうだ。何も世代による価値の高低差を言うつもりもないが、同級生達がそれぞれの大学のクラスメートや、サークル仲間と遊んでいる間、俺は職場の関係もあってか、やはり年上の人達との関係が濃密だった。
    そして、年上の人達は俺が若い世代だったせいか、本当に色んな事を教えてくれた。
    教科書にはない実質的なデザインのテクニックや仕事の作法、そういった事を現場の現実的な技能を教えてくれた。そういう事だってある。
     
    まあ、大学行っているからダメだとか、そういう話ではないのだが、どんな選択にもデメリットがあるように、メリットもあるものだ。
     
    今の時代だと、聞いたところによると、学校に行かずに自分でビジネスを始めた子供も少なくないとか。
     
    よく言う事に「子供は未熟でビジネスをやらせるのはどうか?殆ど上手く行かないだろう。」という考え方があるようだが、
    「大人でも上手く行ってない奴」もいるし、戦後の闇市には両親を無くした子供が生きるために商売をして、大人になったあたりには百戦錬磨のスーパービジネスマンとなって高度成長を支えた企業戦士、いや企業ランボーが多いと聞く。その辺りも無視が出来ない事実だ。
     
    そりゃ、戦後の苛烈な状況の中にいて、シビアなんてレベルすら生易しく感じるような厄介な大人達を相手に子供の時から、海千山千やってたらそうもなるだろう。
     
    俺の話は横道にそれまくっていけないな。
     
    ネットワークが充実し、「どこでも、誰でも、何でも」が拡大していく流れの中で、その時代をこれから生きていくのは、俺もそうだが君もそうで、今までの当たり前があれよあれよ古い物に移り変わる。そして多様性を意識せざるおえない現状もある。
    そんな中で、一つのやり方だけが正しいわけでもなく、また一つのやり方縛られる必要もない。
     
    君は君の選択を信じるといい。それが正しいかどうかは君も含めた誰も決める事は出来ないし、結局人間って奴は「間違っているかもしれない」無数の選択肢の中から、「きっと自分の選択は自分にとって最適だったのだ。」と自分自身に去勢を張るのが関の山で、そんな中で泣いたり笑ったりを繰り返す。そんなモンなんだから。
     
    まとめるとだな、「学校に行く」だけが選択肢ではないということ、
     
    そして俺は後悔している。結局はあの時、学校に戻った事を。
    担任達は「他の生徒にはいじめをやめるように話した」とは言うものの、改善はなされていなかった。
    そんなんだったら、あの時、小学生の勉強そこそこにして、あの時なりたかった映画監督か漫画家の勉強をしていれば良かったな。
    そうしていれば、この今、比較的稼いでいる方のユーチューバーくらいにはなっていたかもな。学校に戻ったが故に結果的につぶれた可能性の一つとして参考にして貰えれば。
     
    もう一つ言うと、今の俺がやっている占いのやり方は学校で習ったものではないということ、それも加えておく。
     
    とはいえ、「学校に必ずしも行く必要ない」とは言うが、どんな事でもいいから
    勉強はしろよ!!

    学校などでのいじめについて その2

    その1からの続きなんだが、この章は「その場所からの脱却」となるかな。

    まあ、あんまりにもひどいモンだったんで、いつだったか、学校を飛び出してそのまま暫くの登校拒否の流れとなったのだが、すると今度は「学校に来なさい」と担任だとか校長だとかが家庭訪問にしょっちゅう来るようになった。
     
    あの時は、ピンと来なかったのだが、今にして思うと変な話だなと思う。
     
    「学校は子供のためにある」という前提ならば、その「子供」が学校に来たくないのなら、それを強要したり、強く求めるのはちょいと違う気がする。
     
    となると、本当はその「前提」が自体が間違っているかも知れないと考えると、見えて来るものがあった。
     
    この人達の無意識は「それが子供のため」と表面上では言うが、内実は「我々のために子供がいる。」という逆の考えなのではないか?
     
    正直、「いじめ」というのは個々に意識のある人間の間で起こる問題なのだから、他者の働きによって改善できる点というのには限界がある。
     
    例えれば火山が噴火し、溶けた灼熱の溶岩が街に流れ込んだ時はどうだろうか?
    避難せずにそこに居続けたところで、どうにかなる問題なのだろうか?
     
    これは「溶岩に冷えるように言っておいたから、街に居なさい」というのと同じように無理のある話のように思うのだ。
     
    俺の人生経験として「パワハラの行われている現場」もそうだが、「いじめのある場所」というのは、「消火や鎮火が極めて困難な火事場」と一緒だと感じている。
    「相手の意識や感情を変える事は困難である」の原則に基づいて考えると、「いじめる者」の意識改革は可能だと考えるのはあまりも楽観的なもののように思うし、人には良かれ悪かれ「相性」というものもある。「互いに相容れぬ」はあるものだ。
    もし、そこに疑問があるなら、今すぐにでも自分が嫌悪する人物の側に行ってみるといい。かなりのストレスを感じると思う。
    まあ、結局はそういうもののように思う。
     
    話は横道にそれたが、根本的なところで「我々のために子供がいる」事が前提となると、そりゃ、あの時、しつこく家に来て親に「お子さんを学校に来るように説得してください。」とか言ったり、実際にあった事実として、それを俺の親が断ると校長が憤懣やる方ないといった表情で「あんたは、黙って子供を学校に寄越せば良いのだ!!」と怒鳴り出したわけだ。
     
    勿論、彼らは「我々のために子供がいる。」なんて事が実は前提となっているかもしれない、なんて露ほどにも疑う事もないだろうがね。
     
    何が言いたいのかというと、実は前提がまるで倒置法のように逆になっている可能性が高いと感じるということ。
    「子供のための我々がいる」ではなく、
    「我々のために子供がいる」という風に。
    そこでは、結局「ここにいじめなどない。」「いじめられていると感じる、お前に問題がある」という風にもなりかねない。
     
    だから、「いじめ」のある場所からは出来るなら早々に離れた方がいいし、「人の意識を変える事は困難」の前提に基づくと、そっちのほうが合理的な気がしている。
     
    まあ、言うと
    君がそこに行きたくない、もしくは行くことをやめた事は「負けた」のではなく、合理的なやり方をしているのであって、「いじめている者」は「実は自分たちの方が、避けられるべき災難の元凶となっている」事に気づくことが出来ていない。目に見える形で、自分たちの人数が多ければ多い程、なおのことだ。
     
    付け加えて言うと、「いじめ」ってのは負のスパイラルや、様々な悪循環を生む。
    「いじめを受けていた」人物がそこを去ると、今度は「いじめていたグループ」の中で次の生け贄を探すなんて事は良くある話だ。
    「お前をいじめなければ、今度は自分がターゲットとなってしまう…」という言葉を挙げれば分かりやすいかな。
    つまりは「いじめのある場所」は「有害で解決が困難な蓄積毒による汚染地域」と同じようなもの位に考えておいた方がいいだろうね。
     
    つまりは「離れる事」が理性的な考え方だろう。

    学校などでのいじめについて その1

    包み隠さず話すなら、俺も過去、そうな、子供の時には「いじめ」というやつを受けていた。
     
    「いじめ」を受けた過去の経験については我ながら残念ではあったが、結果的には恐らく、世の中を見る別な角度を与えてくれたように思う。
     
    まあ、人によっては「いじめを受けて、世の中を歪んだ見方をしている奴」なんて評価もあるかもしれないが、まあ、感じ方はそれぞれにお任せするってとこだな。
     
    まあ、俺の場合は幸か不幸か、学校でいじめを受けていた時期に、担任が社会科の授業の中で、「中東の子供たちは国のために戦っている立派な子供なのです。」なんて言葉を聞いて、俺は「では、俺達も銃を持って戦う子供となれば人間として立派であり、この人はそういう世界を望んでいるのだろうか?それは悲惨な世界なのではないか?」そのように疑問に感じた。
     
    そう感じた間もなく、テレビか何かの特集で当該の地域で、「子供を戦闘させない運動」をしていた現地の人が「彼らは大人に誉められるから、戦っているだけ。本当はこんな事はあってはならない。」と話していたのを見て、その現実を知らない担任は彼らを「戦う立派な子供」と称え、その現実を生きている人達は「こんなことは悲惨だ。」と言っているギャップを見て、自分の通っている場所に対する「違和感」を感じた。その担任と俺をいじめていた子達は、同一と語る事は出来ないが、「俺の周りは、何なのだろうか?」という疑問を感じていた。
     
    ちなみにその担任は宿題を忘れた俺を冬場の寒い廊下に放課後遅くまで、一日中正座させ、授業を受けさせないという体罰も受けさせた人物でもある。
     
    余談ではあるが思い出すと、保育園の時分の時には、泣き止まなかった俺に業を煮やした保母さんに急に持ち上げられ、床に叩きつけられた事もある。幼い時から、大人の暴力に晒されやすかったそんな「さだめ」があったのかもしれない。
     
    付け加えて言うと、俺は小学校の1年生の後半から4年生の終わりまで、持病が故に養護学校に親元を離れて入院生活していたのだが、そこの教師の人達は、厳しい一面もあったが良い先生達だったし、子供同士での言い争いなんかもしょっちゅうあったが、比較的体の強い子が弱い子を気遣ったり、ガキ大将的なポジションの子は常に体の弱い子を「まだ、遊んでても大丈夫か?具合悪くないか?」と気遣いもしていた。俺もまた、年上の子には気を使ってもらっていた記憶がある。
     
    さて、養護学校から一般的な学校に戻ってきた時に、俺は普通に教室にいただけなのだが、彼らが開口一番に俺に言ってきた言葉と言えば、「養護学校から来た奴は、養護学校に帰れ」であった。ま、実際はもっとグロテスクな言葉だったが、まあオブラートに包んでおく。
    その後も「帰れ」と連日のように言われ、俺も正直嫌気がさしてきて、「できれば、俺もそうしたい」と返事をしたなら、今度はそれに立腹したらしく複数人にリンチにもあった。
     
    否定しても殴られ、同意しても殴られる。
    ああ、ひでぇ目にあったもんだぜ。
     
    まあ、俺がこれについて話したのは、いじめを受けている、もしくは受けていた、人それぞれの事情やケースもあるだろうが、その一つの例として挙げたのもあるし、今、現状苦しんでいる子がいたなら、俺もまた似たようなモンだったんだ、「過去にいじめを受けていた者が、模索した結果としての提案」として次に書くコラムを参考にして貰えればと思う。

    何かにバカバカしさを感じたなら

    生活の上で、特にも分かりやすいのは仕事の中でかな、
     
    バカバカしさを感じたなら、それは解放の第一歩だと思う。
    そう思う事を「良からぬ事」と考えずに、「正直な自分の感覚」として受け入れるといい。
     
    「そのように感じた」というのは、正直な事実なのだから、その感覚は案外大事にしたほうがいい。
     
    それは「ここでこうしている事への違和感」だったりするのだから、そこから実質的な行動に移る事が、あんたをより自由にするだろうぜ。

    変化の時期について

    まあ、この変動している宇宙の中にいて、「変化の時期」なんて言葉は毎日、毎秒の事で今さら何を言うか、ってな感じかもしれないが、最近はどうもそれが増しているように思う。
    とはいえ、目の前の物事が変形ロボみたいにトランスフォームしたり、サナギが変態するようにメタモルフォーゼするような感じはあまり多くはないとはと思うのだが、何の気なしにやった事が意外な方向に発展したり、そういった感じはある。
    言い換えれば、新しいステージだとか、新しい自分だとか、開拓ってな言葉がしっくり来るかもしれない。
    この時期はそうな…
    ちょっとでも思い付いた事は実際にやってみるといい。考えているよりもスムーズに事は進みそうだし、それが今後の先を生きる智恵になりそうだな。
    かくいう俺も、最近、ふとやってみようかと「手話」の「ひらがな」を覚えたら、今までコミュニケーションを取った事がない人達との新しい人間関係が生まれた。きっと自分はこうやって、色んな人達とコミュニケートしていくのだなぁ、と自分の未来の形の一旦が見えた気もした。
    ちょっとした事が、きっとあんたの目の前の世界を広げたり変えてくれるかもな。

    漫画家になりたいのだけれど…という君へ

    まあ、今回の話は特定の職業名を挙げてはいるが、他の分野でも参考してもらえればと思う。
     
    まず、結論からいうと
    なれるかなれないかを心配するより、もうなっちまえよ!!

    という事なんだが、
     
    まあ、これが特別な国家資格とが必要ならば

    なれるかなれないかの心配するより、それになるプロセスに入っちまえよ!!
     
    という、言い変えになるかな。
     
    漫画家だとかを志すと、通常はグローバル視点で物事を見ちまうだろう。
     
    つまりは、有名な出版社から漫画を出す、
    とかそういうやり方を思い浮かべるだろうが、
     
    そういう方向を目指すと、
    「どうも、そういう漫画家になれそうもないな」と落胆してしまう人もいるだろう。
     
    まあ、こういう大きな所とか有名な場所ってのを見る時には、その表面だけで考えがちだが、
     
    「既得権益」「ある種の利権」「構造」「ブルーオーシャン」「レッドオーシャン」「物量」「表面イメージ」「宣伝効果」
    のキーワードを念頭にものを見てみるといいだろう。
     
    元来、絵や芸術というのは人の趣味趣向、感覚的の世界である。つまりは、あやふやな世界であるということ。
     
    そして、いくら大きな所であったとしても、売り上げに腐心しているのは、それだけ完全確実なセオリーなんてどこも見つけ出してなどいないということ、
     
    つまりは「うちの判断基準はこうだ」と各々が決めているだけであって、それは世界の絶対基準ではないということ、
     
    世界の絶対基準ではない独自「判断基準」を基に作り上げられた組織構造でしかないということ、
     
    どうしても、その場所に入りたいのならそこを目指す以外にないが、
     
    冷静に今一度、考えてみてくれ。
     
    何故に君が漫画を描くのか?誰に向けて提供し、自分の何を満たすためなのか?
     
    ちょっと考えてみてくれ。
     
    漫画なら「読者」に向けて提供し、
    「お金を稼ぐ」「楽しさを提供する」「自分の考え方や世界観を提案する」
     
    それがもし目的ならば、
    大きな所に行くのは「手段の一つ」に過ぎなく、「目的」ではない
     
    そしてそれらの場所は、
    「本人」と「読者」の間に介在する物でしかなく、肝心なのは「読者」に届けることなわけだ。
     
    今はインターネットのようなある程度は公共に開かれた疑似空間もあるわけで、昔に比べていくらかは自由にもなっただろうし、
     
    例えれば、自分の作品を読者に直接手渡しする売り方だってあるように思う。
     
    これは場合によっては読者との直接的なコミュニケーションも生み出しそうだ。
    このコミュニケーションで得られたものが作品に反映されると、もっと喜ばれる可能だってある。
     
    相互にコミュニケーションで練り上げられる漫画のチャンスのようにも思う。
     
    さて、
    大きな所というのは「独特な基準」もあり、「新たな人が入りずらい」困難な構造であるということは、見ての通りのように思う。
     
    特にもこの状態は弁当や凌ぎを削るエリアに、弁当を売りに行くような「レッドオーシャン」であり、この手の「レッドオーシャン」は物量が大体の勝負の要となるだろう。
     
    やはり単純に言えば、弁当屋に事欠いているエリアに店を出した方がいいわけで、
     
    ましてや、元々そこにいた古参の弁当屋が、新参者の弁当屋を心から歓迎するだろうか?
    ここについては説明はいらないだろう。
     
    もっと早く目的に近づけるのなら、何もこの「困難な構造」に挑むのは、かえって時間とエネルギーの浪費かもしれない。
     
    直接君と顔を付き合わせて、
    もっとダイレクトな言葉で説明すれば、より理解してもらえるだろうし、君がどのようにしていこうかの具体的な指針も見えてくるかもしれないが、
     
    かいつまんで言えば、
    「この町の豆腐屋さん」のように「この町の漫画家さん」という生き方もあるってこと。
     
    まあ、笑ったり、侮る奴もいるかもしれないが、栄枯盛衰ってのはあるもんだし、やり続けていれば、思いのほか結構良い形になるもんだ。
     
    だから、今の瞬間から「漫画家を目指している自分」から抜けて「とりあえず、自分は漫画家」と言ってくれ。
     
    もし、作品を出す事に躊躇しているなら、「評価は二の次、出す事を習慣化する」この姿勢をもってみてくれ

    勝ち組、負け組と自由について

    まずは、「自由」という言葉を英語にすると、意味合い的には「フリーダム」と「リバティ」となるようだ。
     
    「サンズ オブ リバティ」の「リバティ」だ。
    自立とかそういう言葉となる。「自らを由す」ということか
     
    随分前から、「勝ち組」「負け組」なんて言葉があるが、俺の記憶では「負け犬の~」なんとやらという本が世に出た事が、皮切りとなったような、そんな感じだったよう思う。
     
    今に至っては、「経済的な豊かさ」が大筋の基準であり、そこにまた「結婚しているか独身か?」だとか
     
    そう言った細かな基準もあるようだ。
     
    まあ、この社会の風潮の中で敢えて「勝ち組」に分類される人間の基準を俺なりに出すならば、概ね「誰からの抑圧や抑制を受けず、労せずとも豊かに暮らしていける人間」に該当する人のような気がしている。
     
    そんな人間がこの国に果たして何人いるだろうか?地政学だとか現実的な現状を踏まえて考えてみても、本当に少ないのではないか?そのように思う。
     
    あくまでも、先に挙げた基準から考えれば「毎日決まった時間に出社している」時点で、該当しないし、
    細かな点をいえば
    「お金で物を買いに行っている」時点で「抑制抑圧」の構造に否応なしに入っているという事になる。
     
    「貴方に電力を供給する技術や設備があるだろうか?」
    「貴方に食料生産能力があるだろうか?」
    挙げ出したら切りがないが、そういった質問を投げ掛けた時に
     
    「それを交換性が高いお金で贖っている」という答えが返ってくるかもしれないが、
     
    それは「相手がそれで交換や取引に応じてくれる事が前提」なのである。
     
    東日本大震災の時、物資の滞ったあの期間は、どこへ行っても「買える物」がなかった。あの時は「お金の本質」が見えた気がしたし、「正常な社会システムが機能している内ならば」という前提を身に染みて感じた。
     
    あの状態がたった数ヶ月続いただけで、片手に紙幣を沢山握りしめたまま餓死や病死してしまうような「お金はあったはずなのに…」の皮肉な事態が続出したかもな、と思う事もある。
     
    そういった経験から、欧米の富豪が田舎に広大な農園を持つ理由が分かった気がしている。
    平常時はそこの農産物を売ってお金にしているかもしれないが、いざとなればその供給をストップして自家消費や実質的な必要物資と交換としたりするのかもしれない。
     
    俺自身、あの時に「絆創膏」と「食べ物
    」、「電池」と「燃料」に奔走して右往左往したのだから、「勝ち組」ではないな。
     
    余談が長くなったが、
    これらに該当しない人間の方が殆どなのだと考えると、いわゆる「勝ち組」はいないとまでは言わないが、そんじょそこらにいる人間だとは思わない。
     
    ここからが本題なのだが「勝ち負け」というのは、「それを分けるための基準」というのがあるわけで、「基準」がなければ成立しない。
    サッカーはゴールを決めた点数の多さで競うという基準やルールの元に成り立つゲームであって、「点数の多さが判定の基準とならない」のであれば、延々と試合は決まらない。
     
    とするなら、
     
    もし「自分は負け組」だと感じたなら、それはあんたが何かの「基準」に心まで支配されている事だと思う。
     
    俺の震災で味わった困難のように「所変われば品変わる」で、「基準」は多様だし、そもそも甲乙なんかつけられない。
     
    だったら自分の価値観を見つめて、それを信じた方が余程、気分良く生きられると思う。
     
    それと、
    「勝ち」というのは「負け」と相対的な関係があって、まさに「敗者いての勝者」なわけだ。
    「負け」によって「勝ち」の意義は担保されているということ
     
    つまりは「誰かに敗北感を味わってもらうことで、自分の意義を感じていられる」という事なのだから、
     
    「負けた」という気分から脱却されると「勝ち」そのものは意味がなくなる。
     
    まあ、「勝ち組」と言われようが「負け組」と言われようが、それはあんた自身が「負けた」と感じてなければ、意味のない事だ。
     
    それと「自分は勝っている側」「自分は負けた側」と感じる事でそれを利用する第三者ってのもいるもので、
     
    「勝ち組、負け組」の考え方に安易に乗らない方がいい。
     
    この世界には、人間の一生では数えきれない程の基準があり、
     
    基準が良い将来を保証する程、単純なものでもなく、
     
    そもそも「基準」ってやつは不完全な存在である「人間」に寄る指標に過ぎない。
     
    突き詰めてくと、そういう事で
    どうせそうなら、自分の思う価値観を自身の基準にして生きるしかないんじゃないかな。
    つまりは「リバティ」する事。
     
    その先に「フリーダム」もあるってもんで、
     
    「自分は負け組」とか感じたなら、「勝ち組、負け組」という考え方から自由にならないとな
     
    まあ、小銭にもならない「勝ち組、負け組」とかよりも、今飯が食えるかどうかのほうが余程大事だと思わないかい?

    マヤ暦とタロットで見るXを名乗る人物

    Xを名乗る人、と聞いてピンと来た人は何となくその人柄や人生が想像がつくだろう。
     
    さりとて、深い意味もないが、
    若い時、ファンだったんで
    歴史上の人物 マルコムXについて、マヤ暦とタロットの観点から見てみようと思う。
     
    マヤ暦から見てみると、彼のタイプは
     
    「赤い月」「預言者」「第五の城」「白い風」「黄色い戦士」となる。
     
    彼はキング牧師のやり方とは別のやり方で、当時の黒人差別と戦った大人物で、青年時代は犯罪に手を染めたが、出所後はとある団体に身を置いて活動した。また、彼は「言葉」を使う事にこだわった。
     
    「赤い月」は、使命感や頭の回転の早さなどの紋章で、人前で言葉を繰り出す、彼の頭の良さがここに現れている。また「白い風」はメッセンジャーや発信者の紋章でもあり、彼の人生の仕事の様子がこれらの紋章に現れているようだ。
     
    それと、「第五の城」は「中央」や「自己」の位置であり、彼の名字「X」にそれが現れている。彼が「X」を名乗った理由は、「自分の名字は白人達から付けられたものだ。」という自分のルーツや本質とは合わないとして、「未知数X」を付けたようだ。彼の人生は自分を取り戻す人生でもあったようだ。
     
    「黄色い戦士」はチャレンジや行動派の紋章であり、彼の活発な行動に見て取れる。また、「黄色い戦士」の恋愛タイプは「仲間や友達から発展する恋愛」で、彼の奥さんは彼と同じような激しさはないが、同じ団体で栄養学の研究をしていた。
     
    彼の生まれた期間は「預言者」の意味合いのある時期でもあり、カリスマ性はかなりあったようだ。
     
    タロットカードを見てみると、
    「法王」「力」「悪魔」「恋人」のカードとなる。彼は熱心な信仰者であり「法王」にこれが現れている。内的求めとして「力」のカードがあり、差別を受け押さえつけられている自分達を解放したい。または、過激な言動とは裏腹に人類の愛に基づいた調和を胸に秘めていたようだ。現に彼は、彼は信仰の聖地で見た「肌色や出自による差別のない様子」を見て感激したことを手紙に書いている。
    「悪魔」と「恋人」は真逆の二面性のように見えるが、「崇高な目的の達成のためには、暴力も辞さない」という彼の性格的な一面も出ているようだ。
     
    「赤い月」というのは、実は彼の信仰や活動の基盤のシンボルでもあり、まるでそれをやるために生まれてきたような、そんな気がする。

    ホワイトデーのお日柄について

    今年のホワイトデーは日曜日のようだ。
     
    この日をマヤ暦の観点から見ると、青い嵐、白い犬、そしてワニの重なる日のようだ。
     
    日柄としては、ウォームな家庭的なエネルギーに、「親しみ」のエネルギーが重なって、
     
    まあ、結論言えば「絆」とか「温かな関係」という意味合いの強い「愛のエネルギー」が降り注ぐ、まさに持って来いなお日柄のようだ。
     
    この日のデートは、分かりやすい所では二人の温かく明るい将来についての語らいとか、結婚への決心とか、そういう雰囲気になりそうだ。
     
    青い嵐は「かまどの神様」と関連するから、ホワイトデーという男性からのアプローチの日でありながら、今回は女性の方に利がありそうだな。女性からのプロポーズなんか上手くいくんじゃないかな。
     
    男性の場合は、この日に女性から伴侶として認められた場合は、その価値は一層高い物となるだろう。「自分の男として、高い価値を認められている。」そう考えていいかもしれない。
     
    シングルの場合は、誰か気になる異性と遊びに行くといいかもな。この日の事が意外な展開になりそうだ。
     
    男性のシングルの場合は相手から優しくされる可能性はあるし、女性のシングルの場合は相手から「この人と一緒にいたい。」と思われる可能性があるな。それは単なる惚れたはれたではなく、「この笑顔を守りたい」とかそういうヒューマニズムな愛情からの感情が強そうだ。
     
    家庭のある人や特にデートの約束がない人も、この日は何か「ソフトでウォームな日曜日」になるようだ。仕事の人も仕事仲間との肩の力を抜いたくだけた空気とか、接客の人ならついつい小さな子供に優しくしたくなる、とか。
    仕事場のシーンでは「仲間意識」ってのがそれらしい言葉かな。
     
    今年のホワイトデーは、そうな、
    「絆」「深い愛情」「向こう三軒両隣」がキーワードかな。

    2021年3月の運勢

    ◎・・・大変良い
    〇・・・良い
    △・・・悪い
    ×・・・大変悪い
    1月生まれ 恋愛:△ 仕事:× 金運:△

    この時期は物事の停滞や意気消沈してしまうような出来事があり、中旬は心身共に疲弊する可能性があるが、後半は「生き方を変えよう」という考え方が沸き上がって再び前に進める。
     
    2月生まれ 恋愛:〇 仕事:× 金運:〇

    すでに厳しい状況にある人もいるかも知れないが、この時期は仕切り直して、この先の事を建設的に考えたり、状況分析をしたり、必要な技能を磨くといった時期になりそうだ。中ごろから人その考えやインプットした物事を基に人で会って、発展させたり協調したりして具体的な形にしていく、そんな時期ようだ。
     
    3月生まれ 恋愛:〇 仕事:△ 金運:◎

    この時期は仕事の金運関係についての変化が目立つかな。矢継ぎ早に変化する状況を見定めようとして、かえって身動きができない状況が前半にありそうなんだが、よい風が吹き込むようにいい話が舞い込んできそうだ。
     
    4月生まれ 恋愛:△ 仕事:△ 金運:△

    この時期は転職や引っ越しを考える人もいるかもな。新天地への旅立ちとか、自分の新たな可能性の探求のように、遠方へ旅へ出るというような雰囲気がある。この時期はとても良い場所へ到着しそうだ。
     
    5月生まれ 恋愛:△ 仕事:△ 金運:△

    この時期は「無駄を省く」というのが色々な面で出てきそうな感じだ。仕事に関しては「合理化」を自然としていく、そんな雰囲気だが、金運に関しては「節約意識」に囚われて、自分自身の自由を奪う可能性もあるので、節約もまあ適度にってな所だな。
     
    6月生まれ 恋愛:× 仕事:〇 金運:◎

    恋愛関係には注意が必要だな。この時期は妙に何かが見えたような感じがして、相手の前から去ってしまうとか、シングルの場合は別に恋愛はいいかな…、みたいに冷めてしまう可能性がある。恋愛に関しての決定的な判断はこの時期は避けたほうがいいだろう。
     
    7月生まれ 恋愛:△ 仕事:◎ 金運:◎

    この時期はやりたい事に前進したり、「我が道を行く」という雰囲気がある。恋愛に関しては、「自分のやりたい事」を優先するか、「恋人」を優先するかの選択を迫られる場合もある。失恋を経験した人はその時の思い出に囚われる可能性があるので、目の前のことに集中したほうがいい。
     
    8月生まれ 恋愛:× 仕事:× 金運:〇

    考えている暇もなく忙しい時期になりそうだ。とはいえ、それを独りでもこなしていくエネルギーも技量もあるから失敗する心配ってのは無さそうだが、どんどん仕事を丸投げされる可能性もあるので、安請け合いは禁物だな。
     
    9月生まれ 恋愛:× 仕事:× 金運:◎

    躍動するエネルギーを持て余しそうだ、この時期はちょっとしたことでも体を使うといいだろう。歩く時間を多めに取るとかね。恋愛に関しては気持ちが冷めてしまう可能性もあるが、これは新たな展開への旅立ちのようだ。仕事に関しては停滞の様相があるが、これは自分の技量のアップにつながるので、状況の悪さに心を囚われないほうがいい。
     
    10月生まれ 恋愛:△ 仕事:× 金運:△

    恋愛に関しては愛情が束縛に変わる可能性があるな。シングルの場合は、理想とする相手に囚われ過ぎて、ついついチャンスを逃す可能性がある。仕事も心身の疲れから意識が落ち込み気味になるかも知れない。この時期は、何でも割り引いて考えておくと楽かもな。
     
    11月生まれ 恋愛:〇 仕事:× 金運:〇

    恋愛に関しては、満たされるというような展開がありそうだ、シングルの場合は相手が見つかる可能性も高い。金運に関しても良好だ。評価を受けたり、今後の収入につながる技能を身に付けるとかそういったことがありそうだ。仕事に関しては「力で縛る付けられる」という状況もありそうだから、そこは意識しすぎない方がいい。
     
    12月生まれ 恋愛:◎ 仕事:◎ 金運:〇

    「明るい見通し」や「実は明るかったと知る」という感じの時期のようだ。仕事面では楽にこなす手段を見つけたり、金運に関しても楽しみながら副収入を得るというような道を見つけたり、目から鱗が落ちるような展開がありそうだ。

    いたたまれないカボチャのスープ

    日々の社会生活に緊張を覚えたり、自分は「能力不足」なのではないか?と感じる人のヒントにでもなればな、という事で書くよ。
     
    ま、「魂の解放」に通じるかなと思う。
     
    子供の時の話、俺の親父がなけなし金をはたいて、ちょっと高めのレストランに連れていってくれた事があるんだけれど、
     
    まあ、周囲を見ると結構お金を持っていそうな人達が食事していた。
     
    だが、不味かった。
     
    味ってのは個人的感覚の問題だから、感じかたそれぞれだろうから、評価は好き好きといった所かもしれない。
     
    だが、当時の俺としてはこの味の良さが全く分からない、俺の舌に多大な問題があるのだと思っていた。
     
    その証拠に目の前に座っている親父は、普段通りの、機嫌が良いのか悪いのか息子の俺ですら分からない、苦虫を噛み潰したような顔で食っているじゃないか、そう思っていた。
     
    ほら、やっぱりこの味が分からない俺に問題があるらしい。
     
    そう思って我慢して食べていた。
    取り分け、カボチャのスープがつらく不味かった。
     
    きっと、このレストランは舌の確かな人達が高い料金を払って、食べに来ているのだから、この味を良いと感じる事の出来ない俺に問題があるのだと、自分に言い聞かせ、我慢してカボチャのスープを飲んでいた。
     
    あれ以来、俺はカボチャのスープを見るとあのレストランの不味かったカボチャのスープの味が舌の中に甦り、ジュースか何かを飲んで口直ししたい気持ちになってしまった。
     
    かいつまんで言うと、とある子供が、不味いと感じるものを我慢して食べるという苦痛を感じながら、きっとこれは自分に問題があるのだ、と自分を騙しながら、世のある種の不条理と対峙する不幸な時間を過ごした、という事になるのだが、
     
    もしも俺が、俺が作ったカボチャのスープで、不幸な子供を作ってしまったなら、これはいたたまれない気持ちになるだろう。
     
    帰りの道中、親父は相変わらすの苦虫を噛み潰したような顔で、
    「まずかったな。」
    とボソリと言った。その言葉で俺は、
    ああ、今の親父の苦虫を噛み潰したような顔は機嫌が悪い方の顔だったんだな、と理解できた。

    その次に俺と、その「不味い」と感じた、その感覚を同じくする親父も、一般的な感覚とは別なのだろうか?俺達は親子そろって変わり者なのだろうか?ま、変わり者かもしれないが、そう思った。
     
    別にこの場で、不味いレストランの恨み言をたて並べたり断罪したいわけではない。
     
    あの時のあのレストランの内装なんかも、高そうな調度品などが結構飾ってあって、子供心に「人気がなければ、このような高い調度品が買えるわけがない。」と感じていたのだが、
     
    最近、知り合いが行ったとりあえず高級らしいレストラン、
     
    俺が子供の時に不幸な時間を過ごしたレストランはもうないので、勿論別な所の、
     
    そこの料理が「不味かった」と言うのを聞いた。そこは俺は入った事はないが、近くを通った事は何度もあるので、高級そうな内装があったり調度品が置いてあるのも知っていた。
     
    過去の経験から考えてみると、「不味い」というのは個性感覚的な問題だから何とも言えないが、
     
    実は
    「儲けてるから高い内装や調度品が置ける」のではなく、
    「高い内装や調度品があるから、儲けられる」のではないか?
    いわゆるそこは「美味しい料理」ではなく、「雰囲気」を売り物としている。そういう事なのではないか?
    そう考えてみた。
     
    味というのは個人の感覚的問題なのだから、コントロールが出来ない。とすると、「値段として内装」や 「値段として高い調度品」、「厳選されたらしい高い食材」という「数字的にも目に分かりやすい物」をしっかり担保して固めていれば、味はさしたる問題ではないのかもしれない。
     
    「人気の店」が「旨く感じる」とは限らず、「世間の話題に上らない」とて「不味い」とは限らない。これは事実だ。
     
    実は子供の時の俺が不幸な時間を過ごしたレストランなのだが、
     
    色々と知人に話すと「俺、若い時さあ、デートで彼女と行ったんだけど、不味かったなあ。」とか「女房と行った事があるが、不味いし高いし、女房と二人でキレて帰ったんだが、不思議と客入ってんだよなぁ。」とか、そう聞いて、どうやらあの「不味い」と感じた感覚は、俺と親父が変わり者である証拠足り得ない事が分かり、少し安堵したのだが、
     
    結論言えば、「見かけ」と「内実」は違う事もあるし、実は「見かけ」だけ整えて置けば、上手く渡っていけるという事もある。
     
    得てして、結構いい加減な事で世の中はなりたっている事もあるのだ、という一例である。
     
    これを発展的に使えば、案外成功できるかもね。
     
    まあ、親父とあのレストランに行って、数年後、あのレストランはなくなり、きっとあそこで働いていた人達も、それぞれの道に進んだのは想像には難くない。
     
    しかし、あんた。油断ならないぜ。
     
    あのいたたまれないシェフは、あんたの街のどこかのレストランの、調理場の仄暗い片隅で、今日もあのいたたまれないカボチャのスープを温めながら、かき混ぜているかもしれないぜ。

    「やりたい事」や「夢」とは

    受験シーズンにもさしかかっているようだな。とはいえ、受験生や若い人に限らず、「やりたい事」や「夢」の事で色んな角度から悩んでいる人もいるだろうが、
     
    ま、いってみれば「やりたい事」と「夢」ってのは「指標」や「目的」「目標」っていう見方が出来るかな。
     
    ただ、じゃあ努力して適正な行動をしていればいいのか?ってえと、そう単純でもねえってのが、別に俺が言わなくてもご覧の通りってなとこだな。
     
    ま、「計画」して「努力」すれば必ず「良い結果」になるなら、世の中の「勝負ごと」の大体はとっくの昔に成り立たない事になっているわけだし、それなら「計画」して「努力」すれば「宝くじ」のハズレだって引かずに済む。
     
    つまりはそうそう「予定管理」なんて、言うほど簡単には出来ねえってこと。
     
    これがこの変動する宇宙の中に生きる、俺らの前提なわけだ。
     
    んで、「どうなるかは分からない」っていう基盤に生きる俺らにとって「やりたい事」とか「夢」ってのは、「人生の歩き方を決める指標」ってなもんで、
     
    こういうとスピリチュアル的な言い方になるが、「その道程での経験ややった事」ってのが「魂の目的」なんじゃないか?
     
    人の「夢」といっても、必ずしも徹頭徹尾、首尾一貫してる訳でもなく、
     
    例えば最初は「プロ野球選手を目指す」って息巻いてた奴が、人生の途中で「貧しい子供達」の現状を目の辺りにして、「プロでもアマでも関係ねえ、自分の出来る野球でチャリティー試合やって収益を寄付しねえと、子供助けねえと」って「プロ野球選手」から「慈善活動家」に舵切りして、自分の身に付けてきた事を生かす生き方に切り替える場合だってある。
     
    それに逆に結構あるのは、「なった途端に意欲を失う」って場合もある。
     
    あれほど憧れたはずだったのに、実際に叶った途端に情熱が消え失せるというのもある。結構これはきつい。
     
    これは「叶った」時点で「生きる目的を達成した」わけで、後は脱け殻のように「生きる目的を失った人生」になってしまう場合も結構ある。
     
    それに「諸行無常」で「叶った」としても永遠にそれをやり続けられるかは分からない。
    「叶った」後に状況が悪くなって、変えざる終えないという事だってある。
     
    そんな感じで「行き着く結果」ってのは、ブラックボックスの中でしかなく、「希望」や「幸せ」ってのは「夢」や「やりたい事」の乗せられるものではないと感じる。
     
    まあ、だからといって強いて「夢」や「やりたい事」を見つけろとは言わないが、
     
    「やりたい事」や「夢」ってのは、今のこの瞬間を生きる「活力」を与えてくれるものであって、「結果」の「良し悪し」ではないと感じる。
     
    「夢を持ってる輝く人」ってのは、「夢」があるから輝いているのではなく、「生きる意味や希望の幸福」があるからだと思う。
     
    逆に「夢破れて挫折している人」の「暗さ」は凄まじい。納得したり諦め切れぬ「夢」を抱え、「今、生きている事が苦痛だが、それでも生きなければならない苦しみ」の塊みたいなもんだからな。
     
    物事には何でも一長一短あるからな。
     
    やりたい事が見つからないって人は、「今やっている事や日々の生活」から「生きる希望や喜び」を得て、それは別に無理に「やりたい事」や「夢」を持つ必要もなく「魂の目的」を果たしている人の可能性もあるし、
     
    「夢ややりたい事を見つけないと、どうもまずい気がしている」という人は、「自分探しコース」という道を歩み、その道程で図らずも果たす事があるのかもしれない。
     
    「夢破れた」と思うなら、一休みして「さて、これを基盤に何をしようか?」でも良いし、「同じ道だが今度は、別な見方で再チャレンジ」してみると良いんじゃないかな。
     
    俺もさ「再チャレンジ」の連続みてえな人生だもの。

    夢破れたと感じる人へ

    まず俺の前職は「デザイナー」と「プログラマー」だった。
     
    まあ、世間一般的には「やりたい仕事を叶えた人、夢を叶えた人」という風に見える場合もあるかもしれないが、クラマルの個人的に本当にやりたい事、いってしまえば「夢」であったかというと、そういう訳でもなかった。
     
    「デザイナー」という仕事は、本当は「絵描き」や「イラストレーター」になりたかったが、妥協した結果だし、
     
    「プログラマー」については、本来は仕事にする気もない趣味の範囲だったはずなのだが、「ペーパーレス」が言われるこの時代にいて、「印刷物デザイン」だと食い積めるかなと、感じた故に、たまたま出来たからだった。
     
    実際は俺の本当にやりたい、いわゆる「夢」とはほど遠いものだったし、一時は「夢破れた」と挫折状態にもなったのだが、「夢」に対する行動はとりあえず「復活」を遂げた。
     
    俺の「夢」は終わってはいない。
     
    ただ、いつも「自分のやりたい事からの視点」で目の前の仕事や周囲の状況を見つめていたせいもあってか、今まで経験した仕事によって「夢」を叶えるため必要な事ややるべき事も見えてきた気がしている。
     
    それらが「病むに止まれず」であの回り道を通らなければ、得られなかったのは事実だと思っている。

    色々とありすぎて、何を見つけたのかは書けば膨大な字数になるんで、聞きたいことは俺に直接聞いてくれればいいが、「本当の意味で自分の至らなさを感じての挫折」ではなく、「人から与えられた評価による挫折」ならあんたはそれに耳を傾けるべきではない。
     
    それは「人の求め」に応じ過ぎていたら、「新しいもの」は生まれないって事だ。
     
    世の中の新しいものってのは、「人の求め」に応じなくっても「提案」されたものが殆ど。
    「こんなに良いとは気付かなかった」ってもので溢れている。そういうもの提供している人間が「革新者」となっているのだから。
     
    気付いてくれ。
     
    そして、ちっとは重い腰上げてみる気になったら、まずは「自分から他者へ、こんなの、どうよ?」の意識でやってみてくれ。
     
    俺はあんたが何かに押さえ込まれて、やる気なくしてんのは勿体無く感じてるんだ。
     
    そして、あんたが立ってくれれば、それは誰かの希望にもなる。
     
    あんたが再び立ち上がるのは、あんたのためだけじゃない。

    何をしたら良いのか分からない場合

    将来何をしたらいいのか分からない。そう思う人は結構いると思う。
     
    世には「将来の夢や目標を持ち、邁進している人は輝いていて、立派」という風潮はあるけれど、俺としては「ある」とか「ない」ってのがその人の「資質」や「魅力」にはあまり関係はないように思う。
     
    もし「あること」が「立派で人間的魅力」が「ある」なら、
     
    「ない」人は「劣っていてつまらない人間」って事になるのではないだろうか?
     
    俺にも占い師の他に個人的に「人生を通してやりたい」事ってのはあるんだけれど、「やりたい事がある」こと事態が「人より秀でている」と思った事はない。
     
    ただ、俺の好きでやり続けているだけだからな。
     
    逆に「やりたい事がない」人にもそれぞれの「人間的魅力」や「能力的な魅力」ってのは実際あるし、俺自身は人との付き合いにそういった基準を持ち込んだ事はないな。持ち込む発想すらない。
     
    「やりたい事がない」って事で悩んだり、焦ったりしている人はちょいと落ち着いて、細かく考えてみてくれ。
     
    「立派な生き方」と「やりたい事がある」ってのはイコールじゃないってこと。
     
    第一、俺の個人的に「人生通してやりたい事」が「社会問題の解決」を目指したものでもなければ、関連しそうにもない事だ。
     
    「夢を持っている輝く人」ってのもあるが、その「夢」ってのが、「世界を征服して、人類を支配する圧制独裁の世界王となる」ってなもんで、目をギラギラさせてたら、どうよ?
     
    「輝く人」か?
     
    「異様な執念に燃えるギラギラの不気味な輝き」ではあるかもしれないが。
     
    それと、
     
    「歴史的偉人の功績」ってのを全てある意味「先に意志ありき」であったとは限らない。
     
    「普通に生きようと思っていたら、難点や困難にぶつかって、それを解決の結果。」というのは結構多い。
     
    例えていうなら、「とりあえず、仕事をせにゃいかんから、野菜を運搬する仕事をしていたら、着いた先の小売り店で、近隣に販売店が無いものだから、遠方から一日がかりで野菜を買いに着ていた人を見た。それならと、自分の運搬能力や機動性を生かして、遠方に行って行商したら、不便を解決出来た。」

    というように、「最初はただ何となく」歩いていたらそこで出くわした「問題」に取り組んだり、「目の前」の事をひたむきにやった結果であって、最初から「その志」があったわけではないという事。
     
    逆に言うとスポットが当てられていないだけで、「困難」や「不便」の現状を目の当たりにして、その解決に勤しんでいる人は沢山いるわけで、「立派な功績のある人間」や「魅力」と「将来の夢ややりたい事」の有無は必ずしも関係するようには思えない。それに真剣に取り組む人に「解決せねば」の意志があったとしても「立派にならねば」という意識はないように思う。本人にしてみれば「それどころじゃない」場合も多い。
     
    それに「やりたい事」のある俺としては、「そんな今の自分、輝いている」と思った事もない。「やりたい事をただやっていて楽しい」ただ、それだけ。
     
    だから、これといって思い付かなければ、無理をして探す必要もないように思うし、それでも、なんか自分に納得できないなら、当面の行動目的は「やりたい事を探す」とか「夢を探す」でもいいんじゃないかなと思う。
     
    何から手を着けていこうか分からない場合は、誰かに相談してみて、そこから試してみるのもいいだろう。
     
    究極的に言えば、そんな自分に納得できるかどうか?じゃないかな。
     
    まあ、書く言うこの俺だって「やりたい事」はあるはずなんだが、本当はその実「納得できる自分」を探して彷徨っているだけかもしれないしね。

    パワハラについての考察

    世代的に言えば、クラマルも社会に出た時は、「パワーハラスメント」という言葉が世に広く知られる前の時代の人間でした。「サービス残業」あたり前の末期の世代と言えば、より分かりやすいでしょうか。
    まあ、ちょっとした世の中の転換期がクラマルの20代でした。
     
    パワハラを受けた事があるかと問われますと、クラマルも受けましたね。若年の時代は盛んでした。その他にもその当時の世を見渡せば、「あの時代の中にいて、よくまあ自分は今、生きていたな。」と感じる程です。
     
    さて、今の時代はと言うと、まだまだパワハラやいじめというものは無くならない。そういった感じです。
     
    まあ、書く言う私、クラマルも近い所では、5年前まで受けておりました。
    まあ、とはいえ、その時はすでにパワハラに悩まされる自分というのは無かった気がします。
    20代の時は、体調不良起こすほど悩まされたものですが、30過ぎるあたりにはあまり無かった気がします。
     
    まあ、これはクラマルの性格的なものかもしれませんが、こうして見ていると何となく、パワハラの色んな部分が見えて来る気がします。
     
    今パワハラに悩まされているのなら、そんなもんかねえ、の程度に参考にしていただければと思います。
     
    まず、「パワハラ」が行われている場所と「パワハラ」を行っている人の「年齢」と「勤続年数」を見てみると、その「人」が危険なのか「場所」が危険なのか分かると思います。
    「パワハラ」を行っている人のその場所での勤続年数が長い程、その「場所」が危険であり問題を抱えた所のように思います。つまりは「パワハラが伝統的に継承されている可能が高く、実効的是正が行われた事のない危険地帯」と見ることが出来るように思います。
    その場所からは離れた方が懸命のように思います。世の中には「戦略的撤退」という言葉もありますので。
     
    また、それは次の事も示唆されているような気がします。それは「そこでは苛烈なパワハラを生き残れる人でないと、居続ける事が出来ない。」という事です。これは仕事の能力には関係しない事です。それは「ワイルドグース」の状態です。どんどん脱落して、最後に残った者がそこに居続ける、という構図です。
    「仕事の能力」と「理不尽に対する耐性」はイコールではありませんので。
    話を戻しますと、それはあるべき形として、「仕事をこなす能力によって」判断されるべき物事のはずが「暴言あるいは暴力や理不尽に耐え得る力」が実質的基準となっているトンチンカンな状態になっていると考えた方が良いのでしょう。最終的にその仕事場はどうなるか?火を見るよりも明らかなような気がします。やっぱりそこからは避難するべきだと考えます。
     
    「パワハラ」を行う人なのですが、確かに最初からそういった性格的性質を持っている人もいるかと思いますが、後天的にそうなってしまった場合というのが考えられます。
    先程は書いたように「パワハラ ワイルドグース」競争がその「場所」では展開されているわけです。最初のふるいとして「嫌だと思ってその場から去るか、我慢して居続ける」という選択を迫られる事となりますが、「パワハラ」を行う側になってしまった人は、まずは「後者」を選んだのでしょう。次なる関門は「その状況と一体化出来るか?どうか?」という事なのですが、行う人は「一体化」してしまったのでしょう。その過程の中には、「自分の本来の感覚を捨てる」というのものもあったでしょう。
     
    「主体性を捨て去った」とも言えるでしょうか。そこには「認知不協和」などの理由もあったかもしれません。意識の深い深い所で「自分の感覚では正しいと思えないのだが、正しい事なのだ」と無理矢理自分を納得させる事から始まりそれが常態化したようにも思います。
    そこに「ある程度の長さの勤続年数」だとか、「数値化された成績」という見やすい一部の数字なんかが絡みますと、元来「仕事の能力」と「人格」は別物のハズなのに、「自分の全ては正しかった。人格的にも優れていたから結果が出せた。」という「確信」を担保するに至り「パワハラ姿勢」に磨きがかかる悪循環を生み出す、そういったスパイラルにはまっている可能性があります。こういった感じに揺るがぬ「確信」があるので、こういった人との話し合いというのは困難なもののように思います。
     
    まあ、結論を言えばそういった場所や人に、自分の人生の時間を費やす必要はなく、今一度、自分の感覚を本当の意味で「大事」と見直し、自分に心地良い生き方に変化してほしいと、クラマルはパワハラに悩まされる人達に祈ります。

    今月のカードは「戦車」 豊かさに関して

    今月のカードである「戦場」と今年のカードである「法王」のカードを基に今月のや豊かさを見ていきます。
     
    環境の様子:
    仕事運と重複するところがありますが、「奪い合い合戦」と「ずるさ」が環境的な要因として目立ちます。「物を持って戦線離脱」という雰囲気もありますので、経済関係の「話題」はその表面だけではなく、誰が何のために「話題」としているのか?という舞台裏や、自分の欲求や思いとは逆の生き方をしている人にヒントがありそうです。また、「豊かさ」に関する「価値観」は変化しそうです。
    また、実態のあるような無いようなものにすがる様子もありそうです。
     
    自身の様子:
    喪失感を感じるかもしれませんが、その先に「腐ることの無い種」を見つける可能性があります。そしてその「種」を一から育ててみる。そういった取り組みに意識が向きそうです。
    「実際、食える魚じゃなきゃ意味ないし、要は魚を食えば済むわけだ」というような考えに行き着く人もいそうです。「手入れして育てる」という事を始めそうです。それは今後の貴方の生活を支える要となりそうです。注意点としては、実態の見えないものには細心の注意を払って下さいます。顔が見える、物が見える、を念頭に。

    今月のカードは「戦車」 仕事運に関して

    今月のカードである「戦車」と、今年の全体を表す「法王」を基盤に今月の仕事運の様子を見てみます。
     
    環境の様子:
    ちょっと厳しい感じがあります。「卑劣な手段の応酬合戦」とかそういった感じがあります。「奪い合い」「狡猾さ」が目立ちます。「戦い」の様相を呈していますが、普段の「戦い」とはちょっと違う感じがあります。
    「後方に注意せよ!!」というのがアドバイスです。前を向いてる自分の後ろで、一体何が成されているか注意してください。知らないウチに多くを持っていかれ、残り少ないものをめぐって争う状況になっているかもしれません。
     
    自身の様子:
    先に触れた「環境的要因」もあってか、自身の仕事の仕方や収入を得る方法を本格的に見直す時期となりそうです。「今まで疑いもせずにやってきたけれど、よくよく考えてみたらダメじゃん!!」となり、別な方法を探し始める場面もありそうです。また、「戦いの後」もしくは「戦いの跡」に吉がありそうです。
    自身は「戦い」に巻き込まれることが無いように高い所に行き、「戦い」が終わった後に戦場跡に落ちていた「剣」や「鎧」を拾い集めて、それを元手に商売をする、というような「ぼた餅を拾いに行く」というような事もありそうです。先ずは、自分の戦場から見直してみましょう。

    今月のカードは「戦車」 恋愛に関して

    2月に入りましたね。
    今月のタロットカードは「戦車」となります。
    この「戦車」と今年のカードである「法王」を基に今月の恋愛の様子を見てみましょう。
     
    既に相手のいる人:
    時節柄もあり将来的な不安感は否めない所ではありますが、今月の二人の関係性を言葉にしますと「固まってくる」という雰囲気があります。漠然とした不安感から「困難は先々あるものだ、だから二人で乗り越えよう」とか、「自分はともかくとしても、相手を守らなきゃ」というようなそういう展開になりそうです。また、逆に「この人とは根本的に考えが合わない」と感じ、別なパートナーを探す人もいるかもしれません。
    しかし、「病める時も」のようなエネルギーが強いので、「この人が怪我をしたら、自分が担いで行くし、逆にこの人は自分を見捨てない」という信頼関係に基づいた関係となりそうです。「遊牧民の夫婦」のような感じがします。前途は多難であるだろうが、互いがいれば何とかなるし、何とかしていこう。そんな深く強固な関係になりそうです。また、「こんな状態だが、君さえ良ければ自分は特に問題ない。まあ、お互いどう感じるかが重要だ。」という世間体に囚われず、「とりあえず、自分達がOKならOKなのだ。」という考え方にもなりそうです。
     
    シングルの人:
    この時期に出会う人はこの先も長く付き合う事になりそうですが、相手が「持っている物」は判断材料にしないほうがいいようです。それよりも相手の「考え方」や「信頼性」について注意深く見てみたほうが良さそうです。
    婚活などしている場合は、婚活しつつも自分の棚卸しをしてみると良いでしょう。どのように「棚卸し」するかというと、趣味でも、習慣でも、資格でも、技能でも、自分のマイナス面ではなく、プラス面を探って具体的に意識してみてください。「やってるけれど、自信ないな」というような感情的な部分は気にしないでください。「自分は上手だとは思わないけれど、編み物やってます。」端的にこんな感じでいいです。「お互いの良さを生かせる関係」を見つけるための材料となります。

    停滞した運を回す方法

    結論から言いましょう。
    運が停滞しているとか、最近ついていないなと感じた時は、何でも良いので行動をしましょう。
     
    手芸とか何か作る事が出来る人は、作った物を誰かにプレゼントしたり
     
    それ以外の人は、体を動かしてみましょう。出来れば、散歩しながらゴミ拾いでもいいですし、この時期ですと家の周囲の雪かきでも良いでしょう。
     
    「行為」や「動作」を通して、自分から外側にエネルギーを押し出すことです。
     
    ダンスでもジョギングでも構いません。「行為」や「動作」を連続的に、もしくは習慣的に行っているとエネルギーの循環が活発になりますので、運気もより活発に回転します。

    金運と恋愛運の共通点

    金運と恋愛運には共通点があります。
    恋愛の場合は、まず人と人との出会いですね。そしてそれは、人の交流や生活の営みの中にあります。
     
    お金を使うのは人間ですね。今は通販やネットショップなどがありますが、最終的に売り買いを決めているのは今のところ人間ですね。
     
    共通点は人と人との接触です。交流とも言えます。
     
    そこから見ますに、「金運アップ」も「恋愛運アップ」も人と繋がる事が基本です。
     
    そうすると、お金の使い方も少し変わるのではないでしょうか?
    お金は「初期の接触を円滑にする」ドアノックツールの一面もあるように思います。
    よくある手として、気になる人が働いている店で、お金を使います。ここでお客さんと店員さんという人間関係が生まれるのです。そこから会話だって始まります。
     
    金運や仕事運に関してだってそうです。何の気なしに昼飯を食いに寄った食堂で、お客さんと店主の関係が、逆転して売り手と顧客、またはビジネスパートナーとなった話なども珍しい話ではありません。
     
    別段、大金を使う必要もありません。コーヒー一杯分でも構わないのです。お金というのは時に人と人との間にある壁を取り払うきっかけを作るツールになりますし、「金運」も「恋愛運」も相手との信頼関係をどこまで築けるか、そこにあるように感じます。
     
    いずれにせよ、どちらの運も人間関係が基盤となりますが、一緒に仕事がしたい、一緒にいたい人との交流のために少額でもお金を使うのは有益に思います。
     
    日常よくある事として、貴方の家の近所にコンビニが乱立していたとします。その中の一つに、たまたまでもよく話をする店員さんがいたなら、貴方はどちらに行くでしょうか?
    ま、特別な理由がなければ、馴染みの店員さんがいるお店に買いに行きますね。そのように、親しみや信頼はやはり金運に繋がりますし、恋愛運もこれに尽きるように思います。

    金運についての考察

    金運アップ法など世には色々あるようですが、金運アップ法に触れる前に、お金とは一体何物なのか、「あたり前だろ」と思う部分から整理してみましょう。
     
    お金とは紙幣と貨幣に分けられます。
    日本の場合は貨幣は「銅」「白銅」「黄銅」そして、「アルミ」です。金属ですね。金属ですので、金属資源として流用もできそうですが、貨幣を壊したりするのは確か「通貨変造罪」といって罪になってしまいます。
    紙幣の場合は、専用の紙に専用のインクで印刷されたものですね。言わばチケットです。これは「兌換紙幣」ですね。紙幣を見てみると分かると思います。日本の紙幣には「日本銀行券」と書かれています。
    物質的にはそんな感じです。
     
    貨幣の所で「変造罪」に触れましたが、自分の所有物なら、壊すも壊さぬも自由なはずですが、壊すと罪に問われる理由としてはお金の価値の信用を落としたり、お金が壊されてしまったら、それはお金として流通できなくなり、国が定めた流通量をみだりに減らす事に繋がるという理由があるそうです。
    そこを考えるとどうも「お金」という奴は「完全に個人の物」ではなく、「皆で共有する公共の物」という風に見えて来ます。
     
    では、「お金」の機能は何か?というと、一番に来るのが「多くの物と交換出来る。」いわゆる物々交換よりも「選択の自由」が広がるわけです。また、価値を数値化するという機能もありそうですね。また、「お金」は腐らないので、保存性がきくという点があります。
     
    とりわけ、物々交換よりも物やサービスの流通を円滑にするための道具と言えそうですね。
    でも、これは交換できる物やサービスがあることが前提ですね。
     
    お金というのは決まった量が世に流れています。つまりは数が決まっているということです。むやみやたらにお金を流しまくったら、お金の価値が下がり、インフレ、もっと酷ければハイパーインフレを引き起こしかねません。
     
    さて、ここからが金運に関わる話となるのですが、この「お金」というのはちょっと妙な性質を持っています。
     
    もし、仮に貴方が「沢山のお金がほしい」として、その結果世の中の全ての「お金」を掌握したとしましょう。目の前にある物としては「大金持ち」となりますし、世の中に流通していた「お金」の量がない状態なのですから、貴方の持つお金の価値も相当に高くなるでしょう。
    しかし、それは次の日までの話のように思います。
    人間というのは獲得が極めて困難なものに依存する事はしないからです。恐らく「世にお金がないのなら、別なやり方を模索しよう。」となるでしょう。そもそも、使いたくても手元にないものに依存のしようがないからです。貴方の持つお金は価値は急激に暴落し、下手をすると「金?ウチはもう、そんな使えないもので取引はしないよ。」となり、メモ帳よりも価値のないものになりかねません。
    突飛な絵空事のように思うかもしれませんが、歴史上、こういった事は結構あります。お金の価値の信用がなく、砂金や現物取引しかしなかったエリアもありますし、何よりも「貨幣」でないもので支払いがされていた事もあります。
    それは身近な言葉である「サラリー」です。元々「サラリーマン」の「サラリー」は「塩」を意味していました。「月給取り」の意味合いとなっていますが、それは「月給」を「塩」でもらっていた事に起因します。
    ちなみに最初は「月給取り」は「塩」を意味する「ソリダス」となり、それが「ソルジャー」の言葉となったようです。「兵士」ですね。「国の兵士」は「月給取り」だったようですので。
    まあ、こういった感じで、「貨幣以外の物」での取引というのは歴史上そう珍しく無いようです。
     
    「少ないと苦しいが、独占すると苦しくなる」という何とも、ままならぬ性質を持っている物が「お金」のようですね。
     
    とすると、「金運アップ」というのは、個人一人の「金運アップ」よりも、周囲の皆と共に「豊かになる」を目指したほうが得策のように思います。転じてやはり、「金運アップ」の要というのは、他者と交わり、人を大切にする所から始まるように思います。
    そこで交わされる話は「うまい儲け話」ではなく、「無理のない良い話」のように思います。

    古代バレンタインの知恵の応用

    バレンタインの日が近づいていますですね。
    バレンタインデーとは何でしょうか。
    「バテレン」と呼ばれたポルトガル人の神父さんの日でもなく、ましてや
    「ばれん」という版画をスリスリするあの道具の日でもないようです。
    クラマルが敢えて口に出す事でもないのですが、ホオジロザメの日でもありません。周知の事実のように思います。
     
    バレンタインの起源というと、聖ヴァレンチノに由来する説が有名ですが、もうひとつの面白い説があります。
     
    古代ローマでは結婚や家庭の女神、ユーノー神の日とされ、その確か…、確か…、前日の昼なのか夜なのか、それともあまり時間帯は関係なかったか、まあ、前日に独身男女が桶に自分の名前が書いた紙を、男性は男性用の桶に、女性は女性用の桶に入れてくじ引きの要領で、婚姻のパートナーを決めたとか、そんな話があります。こうしてみると婚活というのは古代の時代でもやっていたようですね。
    ただ、これをこのまま行ったなら、それはそれで諸々の問題や悲劇を引き起こしかねない部分はありますが、参考程度の応用は出来そうですね。
     
    特に気になる人もいないが、恋人がほしいと思っている人は身近にいる男性をリストアップして、鉛筆転がしの要領で相手を決めて、少しだけグレードの高い、もしくは見映えの良いチョコレートでも送ってみると良いかもしれません。
     
    また、この方法は社内で渡す「義理チョコ」にかかる費用も合理化出来るかもしれません。女性社員がみんなで集まってくじ引きをして、今年はこの人へ、というように「義理チョコ」を分担する方法にもなりそうですね。

    2021年2月の運勢

    来月2021年2月の運勢を載せます。参考にどうぞ
     
    記号の見方
    ◎ かなり良い
    〇 良い
    △ 悪い
    × かなり悪い
     
    1月
    抑圧からの脱却と、新たな自分
    恋愛運 ×
    金 運 ×
    仕事運 △
    気づきのプロセス。今までの固定概念を捨て、新たな自分になるチャンス。これは今後にもつながっていく。
     
    2月
    自分は自分という確かな自信
    恋愛運 △
    金 運 ◎
    仕事運 ◎
    見方を変える努力をすると思わぬ発見あり。これは今後の金運や豊かさを改善のヒントになる。
     
    3月
    原因は貴方ばかりでない
    恋愛運 ×
    金 運 ×
    仕事運 ×
    恋愛では心配事や不安が多く、金運も出費がかさみそう。家庭内トラブルにも注意が必要。自分にばかり原因があると思わないで。
     
    4月
    自分の判断や考えの正しさ
    恋愛運 〇
    金 運 ◎
    仕事運 ◎
    自分の努力が実り、自分自身の過去や今の頑張りが確かな形となって現れる時。恋愛においても自信を持って判断できる。
     
    5月
    他者に意識が自然と向く時
    恋愛運 〇
    金 運 〇
    仕事運 ◎
    外側の変化や情報に敏感に反応する時。仕事も恋愛もお金も現実に適した動き方が出来る。この時期は勉強も捗る。
     
    6月
    行動も心も整理しやすい
    恋愛運 〇
    金 運 〇
    仕事運 〇
    今後の自分も含めて、自分のためになる事とならない事を整理できる時。この時期の部屋ややり残しの整理はさらに幸運を呼ぶ。
     
    7月
    周囲にもさらに気配りを
    恋愛運 △
    金 運 △
    仕事運 ×
    自分の想いや自分の考えにこだわり過ぎて、周囲が見えなくなるので注意が必要。今月は周囲の人の言う事に落ち着いて耳を傾けて。
     
    8月
    悪い状況からの解放の時
    恋愛運 〇
    金 運 ◎
    仕事運 〇
    仕事で評価を受けたり、独りで抱えていた問題も皆からの助力がありそう。恋愛も良い流れあり。
     
    9月
    想定外のハプニングあり
    恋愛運 △
    金 運 △
    仕事運 ×
    予想外なトラブルが起こりそう。トラブルにつながる種がないか今一度見直して。恋愛は相手の気持ちを再確認して。
     
    10月
    追い風あり。この風に乗って
    恋愛運 △
    金 運 〇
    仕事運 ◎
    仕事が捗り、金運も思いがけない収入がありそう。恋愛に関する不安は自分の思い込みの可能性あり。
     
    11月
    曖昧な事はしっかりと
    恋愛運 ◎
    金 運 〇
    仕事運 ×
    仕事上で起こったトラブルなどの責任転嫁を受ける可能性あり、他者に何かを任せるなら、いつも以上に仔細な説明を。反面、恋愛や金運は良い流れ。
     
    12月
    エネルギー不足気味、急速を意識
    恋愛運 ×
    金 運 ×
    仕事運 ×
    仕事、恋愛の運が停滞し、意気消沈の兆しあり。今月の後半は仕事ほどほど、遊びもほどほど、心身の癒しに集中。

    天使のアーキタイプについて

    ちょっと、脇道にそれた話になるかと思いますが「天使」が主題となった絵画は古来より多く存在します。中世から現代までに描かれた天使の像は絵画的イメージが定着した時代からあまり大きな変化はないように見えます。具体的に言えば、「剣」を持った天使が絵画として描かれる事はあっても「マシンガン」を持った天使の絵画というのはあまり見る事はありません。スカムカルチャーやサブカルチャーの中では見る事はありますが、スピリチュアル的なカードの絵などにはこういった描写はありません。
    個人的にはクラマルは「刃物の武器」は出来れば見たくない程、怖い感じがします。
     
    それはさておき、天使の持つ武器と言えば「剣」や「槍」しかもイメージ的には古代ローマの辺りのものでしょうか。鎧もそういった感じです。ギリシア神話やローマ神話にイメージの根元があるような感じです。
    基本的にはこの現代に至っても、あまり変わりがないように思いますが、実は人間が共通して持つ強大な救世主のイメージというのは形を変えて表現されているようにも思います。
     
    例えれば、クラマルの個人的な感覚ではありますが、大天使ミカエルを現代風にすると「マグマ大使」のイメージに近いような気がします。
    また、ウルトラマンに代表されるウルトラ戦士達もこれに類するもののように思います。
     
    一見してスピリチュアルとは関係のないようなキャラクターの中にも人類の持つ「強大な救世主」のイメージの片鱗が無意識に表現されているのかもしれません。
    逆にそういった神性的なイメージからは逃れられないのかもしれません。
    先の未来にはマグマ大使やウルトラマンが天使や神性の偶像として本気で扱われる可能性もゼロとは言い切れないように思います。クラマルの個人的なところでは「マグマ大使」や「ウルトラマン」は強大な守り神として、「アンパンマン」は子供の守り神として、「両津勘吉」さんは賭け事や庶民の神様として有力な候補だなぁ、と思う事があります。
     
    因みに有名な話ではありますが、ウルトラマンのモデルは仏像だそうです。
     
    案外、ウルトラマンやマグマ大使のように創作されたキャラクターにも、天使の姿の一面があるのかもしれません。
     
    なんか、皆で祈ったら本当に来てくれそうな気がしないでもありません。

    既読スルー問題について その6

    とりあえずこの「既読スルー問題について」はこの項で一旦終わりにします。
     
    今回は逆にやらないほうが良い事について、お話します。
     
    それは、既読スルーを受けて、気を遣って「相手が返信してくるまで、連絡を控える」
     
    という事です。これは「ハロー効果」に関わります。
     
    それは親密さは接触をした回数に比例する。というものです。逆説的には接触した回数が減ってくると、溝が深まりかねない。ともいえます。これは血の繋がっているはずの血縁者同士でもあることです。やはり、どこかぎこちないやり取りとなるのです。
     
    「既読スルー」を受けて、それにする相手に準じるのは一見、「そうするべき」事のように思うかもしれませんが、むしろ逆に「別な話題を振る」という事で作戦変更してみてください。
     
    考えられる事として、
    自分「既読スルーを受けたから、連絡するのはよそう。」
    相手「あれ?最近メッセージ来ないな。私に興味がなくなったからかな?仕方がない。相手の反応を待とう。」
     
    となり。
     
    相手「本当、あれほど連絡してきたのに、全くこないな。こりゃ、もう縁がなくなったんだな。」
    自分「やっぱり、連絡来ない。私に興味がなくなったんだ。」
     
    はい、それまで。
     
    という齟齬は結構あるように思います。これは、危険回避のはずが、逆に最悪の事態を招いてしまった、という事にもなりますので「勇気」を出して一歩、自分から展開してみるという事は大事なように思います。
     
    まあ、話題転換といっても
    「ホオジロザメとモズのハヤニエって、厄介ですよね!!(笑)」と唐突に送ってはいけませんよ。まあ、大丈夫だとは思いますが。念のため。

    既読スルー問題について その5

    まず「既読スルー」が不安感情を起こさせるのは「相手の人となりが分かっていない」状態であり、「既読スルー」が「納得出来ていない」状態のように思います。
     
    「付き合いが長いのに、理不尽な既読スルー」の場合は、他の問題が起こっている可能性が高いです。この場合は「既読スルー」よりも「既読スルー」の背後にある問題に注視するべきでしょう。
     
    今回は前者のほうについてお話します。
     
    要点としていえば、「既読スルーを受けて、不安を感じる」 というある種の苦痛を回避できれば良いように思います。
    まずは、「既読スルー」=「自分は拒絶されている」という構図を今すぐぶち壊して
    「既読スルー」=「たまたま、返答出来ないだけ」ぐらいに考え、一部を切り取って、全体の縮図なのだと思わないようにする事のように思います。
     
    もう一つ付け加えますと人間の「脳」は「楽観」や「幸せへの期待」の数倍「不安」や「絶望的予想」を想像する性質がある。ということを覚えておいて下さい。
    他の動物と比較し、身体能力の弱い人間は、「脳」の「危険予測機能」を特化することで生き残ってきた種族ですので、元来「不幸」の想像は得意なのだが、「幸せ」を想像する事は不得意なのだと言うことを知っておいて下さい。
     
    何か不安な感情が起こるのも自然であり、その時は「自分の脳に惑わされているなぁ」くらいに思っておくと良いでしょう。
     
    実質的な会話となりますが、出会って間もない場合は「貴方をもっと知りたい」の姿勢の質問型会話が良いでしょう。
    心理学的な現象として「自分に興味を抱いてくれる相手に好感を持つ」というものがあります。これをやるやらないでは、経験上格段に違います。具体的には「その人自身の事」「その人の趣味に関わる事」「その人のやっている事」など聞くと良いでしょう。
    「趣味」が一番良いのでははいでしょうか。
     
    相手が「釣り」が趣味ならば、「どこで釣りをしているのか?」「何の魚をよく狙うのか?」「どうやって釣るのか?」のような趣味の内容に関わる質問だと、会話が弾むように思います。ともすると、向こうからバンバン積極的に話してくれる展開にもなるでしょう。
     
    それと「ミラーリング」です。「シンクロナイズ」とも言えるでしょうか。本来は、直接対面している相手と行動をさりげなく合わせることなのですが、言葉でも可能な気がします。これをやるともっと好感を持つと言われています。
     
    具体的には
    相手「ホオジロザメは厄介だ。」
    自分「ほおじろ鮫って怖いですね。」
     
    というように相手の言った言葉を真似して使うのですが、これをもっとミラーリングしますと、
     
    相手「ホオジロザメは厄介だ。」
    自分「ホオジロザメって怖いですね。」
     
    のように「ほおじろ鮫」を相手のように「ホオジロザメ」と書くとより良くなるでしょう。
     
    また、
     
    相手「ホオジロザメは厄介だ。」
    自分「ホオジロザメって怖いですね。釣った事ありますか?」
    相手「あるわけないでしょ!!(笑)」
    自分「ですよね!!(笑)。そういえば、厄介な事がありました。家の庭の木にモズのハヤニエがありまして困ってました。」
     
    上記のポイントとしては、カタカナで書かれた「ホオジロザメ」というキーワードの他に「!!(笑)」のキーワード、「百舌鳥の速贄」を相手が「頬白鮫」を「ホオジロザメ」とカタカナで打ったように「モズのハヤニエ」とした点です。
     
    最初は難しいと思うかもしれませんが、回数をこなす内に自然と癖がつくように思います。
     
    こういったちょっとした工夫をこらし、相手との関係に確かなモノを感じ取れたなら、自然と「既読スルー」に不安を感じなくなるかもしれません。

    既読スルー問題について その4

    このようなメールやネットワークシステム、電話を使うよりも直接顔を合わせて話す事を好む人も結構います。人間関係の本質は、何か特別な事情がない限りは、直接会って関係を深めるというもののように思います。
     
    「既読スルー」による不安感の正体について、見てみますと「自分の事が嫌になった」から「既読スルー」するのだという因果構造を自分の意識に作り上げてしまうからのように思います。これは「引き寄せの法則」にも関連し、強烈な不安や絶望的結末を意識のなかに作り出してしまいます。
    ですので、このメールネットワーク上で起こる事のみで相手の意識を判断するのは早計な気もしますし、悪い方向へと事態を向かわせる可能性も多いにあります。
     
    ですので、「質問会話」を意識し、出来るだけ直接会話するという事、「既読スルーはそれ以上でもそれ以下でもない」という姿勢を持つと物質的対応、スピリチュアル的対応双方にとって良いように思います。
     
    蛇足ではありますが、「コミュニケーション能力」という言葉があります。それに付随する資格などもあるようですので、きっと世の中には「素晴らしく最高に良質なコミュニケーション」の定義や、そのモデルがあるのでしょう。多分。
    クラマルが知らないだけで。
     
    しかしながら、必要な事に必要な分だけコミュニケーションするという「合理的に洗練されたコミュニケーション」を想像しますと。
     
    「あれ、やっといてくれた?」
    「はい、やりました。」
    これにてコミュニケーション終了です。
    クラマルはちょっと、息がつまりそうです。
     
    とある人類学の先生の話によると、「言語は良質なコミュニケーション手段として獲得したわけではなく、無駄話やバカ話をするために獲得した機能だ。」という説があります。
     
    確かに活発にコミュニケーションされている会議の議題というのは、「ほぼ、解決不可能」な答えがあるような、無いようなそんな議題が多く、なかなか短時間の内に終わらず、「概ねこれでやってみよう」というような結論に行き着き、結局その結論にたどり着くまでに、何時間かけたのやらと言いたくなるような場面はかなりあります。
     
    こうするとちょっと、見えてくるのが、案外
    コミュニケーションしたくない人のコミュニケーションの内容は合理的で洗練されていて、活発にコミュニケーションしたい人は、無意識に解決不可能な話題を出して、コミュニケーションそのものを大事にしているという、不仕合わせがあるようにも思います。
     
    ま、質問型会話を混ぜた「長無駄話」を楽しみましょうや。そこに「人間」の「人間」たる所以があるように思います。

    既読スルー問題について その3

    ちょうど、クラマルの友人からラインの返信がありましたので、その返信を見てクラマルの意識の中で起こった感情について述べてみましょう。ちょっと、頭の良い友人に社会ニュースについて「こんな事が起こっているらしいから、注目だぞ。」という内容のものを送りましたら、その返信は一言。
    「当然だ。」
    でした。正直ちょっと、動揺しました。もう少し、温かく振る舞ってくれても…、もしかして、怒った?タイミング悪かった?とか
    そういう不安や心配が沸き起こったものですが、前提としてメールというのは後々確認しても差し支えない内容を送るものであって、火球の用事があるならば、電話を使うものです。
    ですので、冷静に考えるとクラマルは特に問題はないはずです。それにクラマル本人としても別段、返信を期待する内容でもありませんでした。
    うん、俺は悪くない。うん。
    吐き捨てるように「当然だ」という冷徹極まりない言葉だけで済まそうとした、あいつにこそ問題があるのだ!もっと、そうだな、愛情や友情を感じ取れる、俺を安堵させる。そういう言葉を選ぼうという発想がないものだろうか。
     
    と、まあ冗談はさておき、
    やはり、表情を垣間見る事が不可能なツールである以上、こう言った齟齬を生み出しやすい点はあります。
     
    やはり、直接会って話す事に勝る事はないようにも思います。
    続きます。

    既読スルー問題について その2

    「自己完結型会話」で会話が続いてしまう現象に注視しますと、これはあまりお互いに会話そのものの内容に重点を置いておらず、互いの「繋がり」や「呼吸」や「呼応」を感じ取る事に無意識に重点を置いているように思います。
    「会話」そのものを楽しむ、のではなく「繋がる実感」を楽しむというちょっと、レベルが高い行為のように思います。阿吽の呼吸に似たような関係が築かれている事が、前提となりますし、「一つの言葉を受けて、それを元に展開する」相手の技量というものもあります。
     
    この関係が築かれているから、良いとか悪いという事もありませんし、例え夫婦間でもこの関係が築かれていない場合もあります。会話の展開が得意かそうでないのか、の各々個人の性質的な事もあります。
     
    また、この「既読スルー」という現象は「電子メール」という新しいが、決して万能ではない道具の上で起こった問題であり、人間の原点に立ち返ったやり方で改善されることは多いあるようにも思います。その道具の捉え方によって、反応にも差があります。まず今のところ人間はメールを使いこなせるように進化したわけではありません。
     
    「既読スルー」する相手の意識として、「要件を伝える道具」という意識が強い場合、「質問型会話」のような会話ではない場合は、「要件には該当しないのだから、流しても差し障りないだろう。」とか、ともすれば「下手な返信を返して、ギクシャクすることを回避したい」という保守的な意識がある場合もあります。もっと言えば、「文章作成が苦手だ」という人もいるでしょう。それが結果として「既読スルー」という結果となるのでしょう。相手もこのメールシステムを抵抗なく使いこなせているとは限らないのです。
     
    ですので、今「既読スルー」状態の人は、とりあえず「質問型会話」を送ってみて下さい。
    また、思い切って電話をして直接会話のやり取りをするという事で、「自分の思い過ごしだったか」と思える事も結構あります。

    既読スルー問題について

    昨今世間を騒がさせている既読スルー問題なのですが、その件数を数字的にみたら一種の「社会問題」のレベルではないでしょうか。
    「社会問題」というのは大袈裟なうえに、飛躍しすぎた言い方かもしれませんが、「コミュニケーションアクシデント」ではありそうですね。
    ま、前置きはこのぐらいにして、「早く始めろ」の原則に従って本題に移りましょう。
     
    スピリチュアル的側面からの「既読スルー」に対する対応手段なのですが、これも原点に立ち返って「引き寄せの法則」への理解となります。
     
    具体的にどうすれば良いかというと、
    「既読スルーされても、自分の幸せは揺るがない」というどっしりとした心を作るということです。
    「既読スルー」に対する意識は「返事が帰って来ない」という意識を生み出します。空間は最も強い意識を現実化しますので、いつまでと「返事が帰って来ない」現実を作り上げて行きます。悪循環です。
    ならば、「返事が帰って来ない」という意識に執着しないようにすれば良いでしょう。
     
    簡単には言えば「気にせず、他の事をやる。」に尽きるように思います。
     
    そこで問題となるのが、「どうすれば、気にならなくなるか?」そういった所だと思います。「気にならなくなる」手法と返信してくる可能性を上げる手法を合わせてお話していきます。
     
    先ず、状況を整理してみてください。ラインなどの会話履歴が残るシステムならば、整理しやすいでしょう。「どのような会話がなされたか?」について見てみて下さい。
     
    女性と男性という分け方をするのは、この「既読スルー」問題には適当ではないので、「男性的脳」と「女性的脳」とした方が良さそうですね。脳にも男女のような性別的性質があるようで、男性だから「男性的脳」、女性だから「女性的脳」とは限らないのです。この「脳」の性別については、今回は詳しくは触れません。後に回したいと思います。
     
    会話履歴を確認して、「既読スルー」の直前にどんな「会話」をしたのか見てみて下さい。その会話が「質問型」か「自己完結型」か見てみましょう。
     
    「質問型」の会話は「好きなものは何ですか?」「今度の土曜日はお時間ありますか?」「ホオジロザメをどのように思いますか?」「ネズミザメは好きですか?」というような質問形式になっているものです。
     
    「自己完結型」の会話は「これからランチです。」「綺麗な景色見つけた。」「ネコザメかわゆす」「ジンベイザメ大きい」のように、突如として始まる質問形式ではない会話です。既読スルー業界では、別名「TAF会話」
    talk and forget会話。「言いっぱなし会話」、「投げっぱなし会話」と言われています。まあ、クラマル本人としては既読スルー業界など聞いたことはないのですが。
     
    言葉のキャッチボールという観点からいうと、後者の「自己完結型」会話はそこで会話は終わってしまいますね。「始まりにして終了」です。このようになっていないか見てみましょう。もし、そこで途切れていたなら、対応として「質問型会話」を相手に投げ掛けてみて下さい。
     
    しかし、だからといってクラマルが前述した「ホオジロザメをどのように思いますか?」なんて送ってはダメですよ!!
     
    続きます。

    隠れた「縁起担ぎ」

    世の中には数多、ラッキーアイテムや縁起担ぎがありますが、ちょっと変わった縁起担ぎやラッキーアイテムをご紹介します。
     
    スペードのエースのカード:
    これは、大元はベトナムとなります。日本人も含めスペードのエースはラッキーカードのようなイメージがありますが、どういう理由かはわかりませんが、ベトナムの人はスペードのエースは縁起の悪いカードとして認識しているようです。スペードは「剣」などの刃物を意味するからでしょうか。この習慣を逆手に取ったのがベトナム戦争時のアメリカ兵でした。
    ヘルメットにスペードのエースをゴムで止めたりして「ラッキー」を呼び込み「敵兵との遭遇」という「災難」を避けようというわけです。因みに、自分達の陣地の周辺や敵兵に踏み込んでほしくない場所に、大量のスペードのエースのカードを撒いて「敵兵」避けとしたとか。また、スペードのエースだけが大量に入ったトランプをメーカーに発注したとの話もあります。有名なデザインではスペードの中に海賊のクロスボーンマークが入ったカードがあります。蛇足ではありますが、海賊のマークはクロスボーンと呼ぶ事が最近あるようですが、正しくは「ジョリーロジャー」と言うようです。
    また、一つの頭蓋骨、二つの骨には聖書に書かれた「一つの頭蓋骨と二つの骨さえあれば復活出来る」という意味合いもあるようです。テンプル騎士団との関連もあるようです。
     
    ノーズアート:
    ノーズアートとは主に空軍の飛行機の胴体や先端部分に描かれた絵やペインを指します。良く見かけるものとしては、飛行機の先端部分に口を開いたサメの顔が描かれたものでしょうか。
    サメの顔に関しては、敵を震え上がらせるという意図があるようですが、胴体に女性の絵が描かれているものも少なくありません。洋の東西を問わず、女性というのは「幸福の女神」だったり「守り神」のイメージがあるようで、無事に戦闘空域から帰還出来る事を祈願したものだったようです。これは財布の中に女性の絵のカードを入れておいたり、携帯の待ち受けを女性の絵にするなど応用がききそうですね。
     
    ポーカー:
    これは直接的に招福の手段ではありませんが、昔のとある国の政治家は、習慣として大体週に一度は、少額でもギャンブルのポーカーをしたそうです。これにより自分の今の運の状態を把握していたそうです。占いの一種ですね。ゲームというのはある程度は時の運ですが、自分の判断という部分もあります。自他共に含んだ吉凶判断としてはかなり良いようにも思います。とはいえ、ギャンブルをお薦めはしませんので、賭けをやらないポーカーやその他のゲームでもいいでしょう。ただし、動きがパターン化したコンピューターゲームはあまり吉凶判断の材料にはならないように思います。人間という自然物相手にやるのが望ましいでしょう。

    シェイプシフターという生き方

    シェイプシフターとは西洋の、変幻自在に姿を変える事が出来る怪物の名前なのですが、日本語に直訳すると「形を変える者」という意味となります。
    「形を変える者」と言うと、先述の通り「自分の姿形を変える者」とも言えますし、「手に持ったボールを三角形に変形させる事が出来る者」という意味合いにもなりそうです。
    どちらにも共通しているのは、「形を変える」という事です。
    私たち人間が姿形を変えるとなると、服やアクセサリーに頼る程度のものでしかありませんが、「意識」や「感情」となると今の所は未知数の領域です。
    しかしながら、現実として「意識」の変容や変化によって今までとは違う生き方をしている人は少なくありません。
    「違う生き方」と一口にいっても「悪い方向」や「良い方向」というベクトルというかバイアスというかそういったものがありますが、これはコントロール出来るようにも思います。
    かのダーウィンの言葉に「優れたものでも、強いものでもなく、変化できるものが生き残る」というものがあります。「生き残る」というのは随分と仰々しい言葉のようですが、「幸せ」を「待つ」ばかりでなく「作り出す」人となれるようにシェイプシフトするのも良いかもしれません。
    シェイプシフト後のあなたは、紛れもなく「新しいあなた」です。

    創造的幸福について

    運気の流れなど見ていますと、多幸な時期とそうでも無い時期に左右される場合はありますが、そこは基盤的な要素のように思います。そこに何を組み立てたかによって、実際起こる事には個人差があるものと思います。
    「組み立てる」というのは、具体的に言いますと「人間関係」や「持っているもの」「生活習慣」など、そういったものです。「組み立てたもの」や「組み立てられたもの」という言い方も出来るかもしれません。
    クラマルにも「ツイてない日だな」と感じる事はありましたが、仕事を終えて帰ると物を作ったり、絵を描いたり、ゲームをしてみたりと習慣的に自身が楽しいと思う事をしてから一日を終えるようにしますと、「まあ、何となく悪くなかった一日」となります。作った物が出来が良く仕上がったり、新しい良い作業手順などを見つけた時には、その日に起きた嫌な事も気にならないどころか、「良い一日だった」と感じます。
    これは早い話が、自分から作り出した幸せという事になるように思います。
    個人個人の生活習慣によってまちまちな所だとは思いますが、あなたに合った「自分の手で幸せを作り出す」手段や習慣を探せたらと思います。

    2021年の傾向をタロットで見てみます。その3

    「女司祭」知識や情報:
    「女司祭」が示す「困難」のカードは「困難」が「知識の共有」によって解決されたり、「人と人の和合」によって乗り越えられる事が表されています。やはり今年はいつも以上に人との繋がりが大切な時期のようです。先に述べた「混成グループ」も視野にいれてみると良いでしょう。「アフターマス」のカードに「世界の掌握や領地」のカードが絡みます。今後は「自分達の世界」を構築する事になりそうです。それは単に引きこもって偏狭になると言うものではなく、自分達の周囲を把握してさらに深めていく、さらに協調して対応力を強くするなど、「狭いながらも一個の国家」のようなグループを作れる可能性があります。これは個人的な部分では「みんなと上手くやらなければ」という考えから「全員とは上手くいかなくとも、この人とこの人と上手くいってれば、実は良かった」というような気付きもあると思います。例えれば職場の人間と上手くいかなくても、家族と友人と上手くいっていれば良かったし、振り返って考えてみるとそれで支障がなかったということに気付かされる。そういった事が起こりそうです。また、知識や情報を元に自分の世界、それは自分の技能や知識を生かして独特でユニークな事業や活動を始める人もいるでしょうし、逆に自分の世界を作るために勉強を始めたり情報収集をする人もいるでしょう。
    「喪失」のカードに「循環」のカードが絡みます。これは失った物は巡りめぐって手元に帰って来る事を意味します。「女司祭」の「情報」も加味して見ますと「情報」によって帰ってくるという意味合いともなります。また、「女司祭」は「深淵なる叡知」の意味もありますので、スピリチュアル的な循環エネルギーが強く意識される時代に突入する可能性もあるかと思います。
    「争いや競合」については「冷静な判断」というカードが絡みます。これは「情報や知識」を基盤として「この競いに乗るべきか?」が「感情」ではなく「合理的」な判断が更に強くなる可能性があります。また、「情熱のない競合」というシチュエーションもあるかと思います。「感情的に競合しようとは思わないが、仕事だから仕方ない」というような冷静さと冷めた感覚の紙一重な状態も考えられます。
    「戦っているのではなく、戦わされている」と気付く事もあるかもしれません。
    また、非常に冷静な判断をしつつ、対立を煽って漁夫の利を得ている人もいるかもしれませんので、「競合」の状況には目の前いる相手だけに視線を囚われてはいけない気もします。
    先ほど「黄金とリンゴ」の話にしますと、「自分の手に入れたいリンゴを確保したいがために、周囲には黄金の価値を喧伝して、リンゴの価値には気付かせない」という戦略を取る人もいるかもしれません。
    「冷静な判断」のカードは「サードアイ」という意味合いもあります。「真ん中を見定める」という意味合いがありますが、これは多角的な物の見方が必要です。この「サードアイ」に近づくには「知識」や「情報」を要します。
    多角的な物の見方には、多くの分野の見識に立つ必要がありますので、普段触れる事のない分野の「情報」や「知識」を見てみると良いでしょう。さしあたり、哲学や物理学でもやってみますか。
    今年は「情報」や「知識」が生きたり、また新たな「知識」に触れる機会も多くなると思います。また、「自分を深める」「自分達を深める」そんな年となりそうです。
     
    「女帝」繁栄と支援:
    「女帝」は「繁栄」や「支援」、「母体」を示します。「豊かな土壌」等の自然からの恵みも意味します。「女帝」が示す「三位一体」のカードも先に述べた「混成チーム」による問題の解決を意味するようです。
    特に経済的な困難をこの「混成チーム」によって解決したり切り抜けていくそういった感じがあります。互いに「支援」し合うと言ったかんじでしょうか。それも身近な人達と本格的な協力体制を取る事が予想されます。
    「アフターマス」のカードに「後悔と懺悔」のカードが出ています。「荒れた土壌」を見て何かを「反省」し、今後のために具体的に動き出す事になりそうですが、これは「待ち人来る」のカードにも関連しそうです。
    「待ち人来る」と「アフターマス」、「後悔と懺悔」は何かを「チェンジ」させる事になりそうです。これは個人の事に止まらず、「今後の皆の繁栄のため」とか「今後の皆の安心のため」の具体的な行動となりそうです。
    「待ち人来る」のカードには「競合」のカードが絡みます。「待ち人来る」は「海外」や「貿易」関係もありますので、「何かをめぐって争奪戦」をしそうです。「争奪戦」といっても「貿易」に絡む事ですので、何か品物でしょうか。また、「競合の末に、待ち人現る」という意味合いもありそうです。「競合」が起き、それに価値残った人物こそが皆に待たれていたような人、そんな事も起こりそうです。
    また、「友人」のカードに「喪失」のカードが絡んでいますので、「人間関係の整理」というのも起きる可能性があります。
    「女帝」は「生物や生命体」の意味合いもあります。「待ち人来る」と「競合」のカードと合わせますと「貿易」される「生命体」に関わる何かが「シェア争い」をするとも見えます。
    今年は「土壌」や「地の利」という意味合いの「女帝」に変化が加わり、今後の生活や活動のための土台を作り直す、そんな年となりそうです。

    2021年の傾向をタロットで見てみます。その2

    今年のカードである「法王」と「節制」に照らし合わせて、今年の傾向を細かく見ていきます。
     
    「魔術師」行動:
    今年は「道徳が問われる」という雰囲気がありますので、「ずるい人」等にはいつも以上に注意が必要そうです。特にも「お金に関するずる賢さ」がいつも以上に横行する可能性がありますから、上手い話にはかなり注意、警戒するくらいでも良いかもしれません。
    また「力」によって「困難」な状況に追い込まれるという事、「虚しい争いや競争」「意欲の減退」という状況もありそうです。これらから対応としては早々に「争いや競争」からは逃げるが勝ちで手を引いた方が良さそうです。
    また「アフターマス」という意味合いのカードとそこに「物質」のカードが出ています。
    「アフターマス」は「戦乱や災害の後」や「二番刈り」という意味があります。「社会的後遺症」という意味にもなりますが、「戦乱や災害の後の物質的意識」と見た方が言いかもしれません。具体的には「節約」や「工夫」を本格的に生活に取り入れると言った所でしょうか。
    人によっては一部の野菜を買わなくても済むように育てる人もいるかもしれませんし、何かの道具を改良して何かの代替品にしたり「創意工夫」を発揮する時のようにも感じます。
    極端に言えば、「マッドマックス時代」に備えるような勢いで多くの工夫や自己完結をしていける、そのような流れにも見えます。
    今年は「工夫を実際の行動にする。」概ねそのような年となるでしょう。
     
     
    「皇帝」物質:
    「皇帝」は一般的なイメージとして「権力者」や「支配者」という見方があります。
    そういった観点から「皇帝」と「法王」のカードの組み合わせは、昨今の社会情勢を見てみると「推して知るべし」と言った感じでしょうか?「道徳的にどうだろうか?」という見方が今年は強くなりそうです。
    現実的には批判は激しく、避けられないのが顕著になってくるように見えます。
    「皇帝」は「文明社会」の意味もありますし、後述の「正義」との絡みも見ますとある種の「プロテスト」が起こりそうです。「批評や批判」、「改革」を意味します。仕事場ではシステムや働き方が具体的に変わるようにも思います。具体的に起こりそうな事を見てみますと、やはり「競争の場」からは「逃げるが勝ち」というのは多大な恩恵をもたらしそうです。
    現実的な対応としては「皆が何かの競争に熱狂している間に、早々に大事な荷物をまとめて戦線離脱」という姿勢が良いかもしれません。
    あまり、このような物の言い方は良くないかもしれませんが、「先に気付いて撤退して遠くに行く」という多少のずる賢さは必要かもしれません。逃げ遅れると次の争いに巻き込まれる危険がありますし、次に起こる競合は本当に切実で深刻な事態に発展しそうです。
    小話に例えれば「黄金を取り合って争い競っていたが、食えない黄金よりも食えるリンゴに価値がある事に気付き、皆が黄金に争奪戦に夢中になっている間にリンゴを集めて戦線離脱。」という感じです。遅れた場合のエピソードは、「黄金の取り合いに意味を見出だせなくなった皆が飢え始め、黄金争奪戦は終わったが今度は命をかけたリンゴ争奪戦が始まった」というように次に起こった競合に巻き込まれると深刻な事になりそうです。今のうちから他の物事や手段を探した方が良さそうです。出来れば「競合地域」には足を踏み入れない方が良いでしょう。「弁当屋のいない所で、弁当屋をやる」という意識がヒントの一つとなるでしょう。
    また、仕事上で「競合」の状態ならば、その経験を生かして、一歩引いた所から同じ「競合者」をサポートする隙間産業のような事も考えると良いかもしれません。
    このような例えも良くはありませんが、「兵士だった自分が戦地で戦う事を止めて、兵士に武器や道具を売る事にした。」という立ち位置でしょうか。
    もっと違う例えで言いますと「お寿司屋さんがデザインした、お寿司屋さんの仕事のための便利な包丁を売る」ような発想です。
    自分が何かの不便を感じたら、それをメモしておくとこれに繋がると思います。
    また「一時の停滞や休息が、手元に残った物の価値を改めて教えてくれる。」という意味合いのカードも出ています。「停滞」を「絶望的状況」と見ずにまずは「開き直る」事から始めみましょう。「絶望的視点」だと「物事の暗部」しか見えなくなります。
    「困難な状況」から「新しい見方」や「やっぱりそうだったか」という再認識が生まれそうです。「人はこのように言っているが、これは正しくないと自分は思う。けれど、多くの人が言っているから、間違っているのは自分だろうか?」というのが「やっぱり、自分の感覚は間違ってはいなかった」というような事や「目から鱗が落ちる」という事が「困難な状況」から起こる可能性があります。これは今後の人生において大いに役立つ経験となるでしょう。
    また、やはり「アフターマス」が絡みます。この「皇帝」の場合は、「アフターマス」に「故郷や理想的な地方」のカードが出ています。都心から離れ他の地方に引っ越したり、故郷に帰ってやり直す人も少なからず多いのではないでしょうか。このカードの場面展開として「アフターマス」の後に続くカードは「帰宅や思い出」、「現実的なバランスや物質的な調整」、「勝利や進軍、凱旋」、「避難や新天地」のカードとなります。「故郷にはなかった産業を持ち帰って営む」や「新たな土地で暮らす」という意味合いのカードとなります。「アフターマス」の前のカードは「安息日や瞑想」ですので、「敗走意識」というよりも「地方や故郷でじっくりと人生を噛み締めて生きる」そんな雰囲気があります。
    「皇帝」には「独立独歩」という意味合いがあり、起業したり、個人事業を始める人も増えると感じます。また、「何か一つに集中依存する事を止める。」というのもありそうです。何かの本で読んだのですが「自立とは、誰かに依存する事に責任を負うと決心する事」と読んだ事があります。人間は群社会の生き物ですので、完全自立を目指すならば、クラマルとしては猫科の動物にでもならなければ無理だろうと思います。まあ、蛇足でした。
    「一つに依存しない」というのを具体的に例をあげますと「会社で働きながら個人的に商売をする」とか「他の職場でも働く」という事もあるかもしれません。また、「固定的な考え方に囚われるよりも、実利を求める」という意識が強くなり、面白い商売なんかも生まれるかもしれません。
    今年は「どこから取ってもリンゴはリンゴ」のようにそれを獲得する手段や慣習の見直しがなされる年となるでしょう。「物の見方が変わる」というのがもっと分かりやすいでしょうか。

    2021年の傾向をタロットで見てみます。

    今年はメインの傾向が「法王」と「節制」の年となりそうです。
    「法王」の指す意味は「慈悲」「道徳」「信頼」「信仰」「教え」となり、「節制」は「交流」「反応」「調和」「混合」「癒し」を意味します。
    去年起こった事も加味して見ますと、「法王」は「問われる道徳」や「見直される道徳心」、「道徳への意識」や「福祉について考える時」と見えそうです。
    「節制」は「癒し」という所を見ますと「心身の癒しに言及」という風に見えますが、「交流」や「混合」というキーワードにも注目したい所です。また、「問われる節度」というのもありそうです。
    これらのカードをさらに分解的に見ますと、「魔術師」「女司祭」「皇帝」「女帝」、「運命の車輪」「正義」「吊るされた男」「死神」のカードも出てきます。
     
    「魔術師」「女司祭」「皇帝」「女帝」の主なテーマを見ますと、まるでファンタジー世界の「勇者」「魔法使い」「戦士」「僧侶」のようなパーティーを組んでいるような、そんな雰囲気を感じます。軍隊でいえば「歩兵」「戦車」「大砲」の部隊で混成された「戦闘団」といった感じです。
    先ほどの「節制」が表すように「混合」「交流」と合わせますと「異種交流」というのが今年は起こりそうです。例えれば仕事などでは会社という枠組みを越えた協力体制などもあるかもしれませんし、個人同士が集まって自分達の生態系を築き上げるようなそういった活動も起こりそうです。これは仕事に限らず他の目的に関しても同じ事が言えそうです。
    「趣味」や「恋愛」、「生活上の不便を解決」などこう言った人との交流によって出来たグループやチームでの解決が行われそうです。
    声をかけて取りまとめたり、声をかけられたりというような活発になるかもしれません。
    「異種混成グループ」で「問題解決」「目的達成」というのが力を発揮しそうです。
     
    4つのカードをこの「混成チーム」に当てはめて見ますと、「魔術師」は「行動」を「女司祭」は「知識や情報」、「女帝」は「基盤や下支え、支援」を、「皇帝」は「指揮やコントロール」または「道具などの物質」というようにそれぞれの特性を生かして、一つの目的に向かっていくそのように見えます。

    不幸を防いで望みに近づく方法

    何か望んだ状況や目的があったならば、あまり不幸な結末について心配したり、想像しない方がいいように思います。
     
    人間の性質として「不幸な状況を最も効率良く避ける」というのがあります。
     
    その方法は「何もしないで、じっとしている事が安全。」という事になります。
     
    想像した不幸の数だけ、行動不能になるような気がします。つまりは、じっとして動かない方向へ傾き始める。もしくは、小さくまとめようとして、その結果として変な方向へ動き出したり、効果もなく志半ばで頓挫。なんて事にもなります。
     
    突飛で極端な例を言うと、巨大ロボットフェスを計画したが、本当に動く巨大ロボットが集まらずに失敗する事を想像し、手の打てるうちにと、置くもの変える事にして、等身大サイズのロボットプラモデルフェスに変えたが、巨大な展示物が与える安全性への影響が心配になり、普通のサイズのロボットモデルフェスとなり、協賛を求めた場合に賛同されるかどうかが心配となり、置くものをロボットプラモデルから工芸品に変えて、結局は巨大ロボットフェスが工芸品展となるような。
     
    一体自分がしたかった事が何だったのか、「不幸の想像」があらぬ方向へと物事を決着させて、結果的には不幸となる。そんな事となったり。
     
    試合に勝ちたいが、勝つためには負けない事が必要で、一番確実性のある方法として「試合に出ない」という手段を選び。結局それは「負ける」事もなかったが「勝つ」という事もなく。一体自分の実力というものが分からずにモヤモヤして、「勝てた事など無かったなあ」とため息を漏らす。
     
    例は極端でも、この浮世には少なからずある事のように思います。
     
    「結果への心配」や「不幸の想像」は幸せへのパフォーマンスを鈍らせるもののように考えます。では、どうやってそれを防ぐかは、過去でも現在でも未来の事でも、幸せを噛み締めていればいいように思います。
     
    ちなみに余談ではありますが、人間の幸せな感情の継続時間は最大4秒だと言われているようです。それと大体の4秒以上の幸せというのは、何かを思い出して「幸せだな」と感じる事が殆どだと思います。「ああ、あれがある。幸せだ。」「こんな事を昨日したな。幸せだな。」そんな感じが大半な気がします。ともすると、この時に感じている幸せも4秒程度かもしれませんが。

    自分は実は自由なのだと再認識する方法

    端的にいいますと、難しい事にチャレンジする。という事になるかと思いますが、そこの狙いというのは何なのかと言いますと、自分の呪縛を解く作業という事になるかと思います。
     
    自由になりたいと思ったり、不自由さを感じているのは、「可能の実感がなく、不可能の実感はある」という状態のように思います。
     
    それが自身への呪縛となるような気がします。
     
    ですが、容易く出来そうな事をしても何かを乗り越えたり、掌握したり、理解した実感は極めて得られないようにも思います。
     
    難しい事に挑戦すると、必ずと言っても良いほどに壁にぶつかります。
    でも、物事というのは失敗と検証という「手入れ」を重ねないと達成や成功はありません。「失敗」と「検証」は「成功」への道程なのです。道無くして目的地には着かないのです。「失敗はつきもの」ではなく「失敗は必須事項」というのが正しいかもしれません。
    「成功」というのは的当てゲームのように一発命中させるよりも、手入れして育てるという事のほうが多いような気がします。
     
    クラマルの個人的な経験で恐縮ですが、クラマルの意識をより自由にしてくれたのは、過去のクラマルが最も苦手と思っていた「プログラム」でした。しかし、一つ一つをじっくり落ち着いて理解や練習をする事で、ある程度扱えるようになりました。そこで得られた実感は、「自分にも可能」という単純な物でしたがこの実感は大きく自分を変えたと感じています。
     
    苦手にして難解と思える事をある程度制覇してしまえば、その成功体験が自分の心を自由にしてくれると思います。「可能の実感」に変わるからです。自分にも可能なのだと感じる事で、行動意欲も変わりますし、それに伴って人生も変わってくると思います。色んな事にチャレンジする意識が強くなるからです。
     
    貴方も不自由さを感じるならば、「失敗やつまずきは必須事項」と知って、何かを難しい事にチャレンジしてみてください。それは、興味は多少はあるが、難しそうだと感じる物事があれば、なお良いと思います。
     
    余談となりますが、一発で上手く仕上がったプログラムほど不安感を煽られるものはありません。それは毎度の事です。そこを考えると「失敗」というのはゆっくりと他の盲点も探すきっかけとして本当に役に立っているのです。

    ブレイク フリーする 2

    カードを展開しますと、「勉強」や「知識」に関わるカードが出てきますので、改めて学生のように学びの時期となるようです。これは「哲学」や「意識向上」、「精神論」や「スピリチュアル」のような形而上学も含まれますが、もっと実質的な分野への勉強という意味合いでが強そうです。技能や技術といったことが多そうです。
     
    新しいキャリアや分野を持つための勉強をする事である程度先々にいくらか安心出来そうです。
     
    それは資格が必要な物事でも、資格がさしていらない事でもあまり拘らないほうが良いようです。
     
    身一つになっても自分さえいれば仕事ができる、とか、どこかに勤めながら並行して個人的に仕事が出来る。というような状態となれそうです。
    これは金銭的な仕事だけではなく、誰かの不足を満たしたり、癒したりするようなそういった分野を自分に追加する人もいるでしょう。
     
    いくつかの分野を混ぜ合わせて、痒いところに手が届くようなオリジナルな技能に仕上げたりする人もいるでしょう。
     
    総じて、それらが軽快なフットワークを生み出し、新たな時代を生きていく力となっていくようです。
     
    また、「苦しみ」と「音声」と「良い反応」に関わるカードが出ておりました。勇気のいる事かもしれませんが、身近な人間に自分が苦しんでいる事を素直に口に出す事で、「実は自分もそうだったんだ」という共感や共鳴が起き、それがきっかけで共に生きる仲間や、「自分だけではない」という自他共に心が少し救われるといった事もありそうです。それがポジティブな潮流となる可能性もあります。
     
    もしかすると、年末年始は自分に増やす分野はどんな物なのか、考えたり、他者との関わりや会話の中から発見するプロセスとなるかもしれません。

    ブレイク フリーする

    なかなか見通しの利かない時期ですが、本当は実は何をすべきなのかは、概ねの答えは何となく皆さんのなかにもあるような気がします。
     
    あまりこのような事は言いたくはありませんが、この時期は「そう思っていたし、そのように振る舞っていたが、実はそうではなかった」とか「普段はそう聞いていたが、この期に及んで、それは実は大した事がなかった」というのが見えてくる。「よくよく普通に考えてみたら、それっておかしいだろ?」というようにメッキが剥がれる。それが極端に起こる時期のように思います。
     
    今までのやり方から脱却する必要もあるかと思いますが、何をどうすべきか?という所で大変悩んだり、躊躇ってしまう事もあるでしょう。

    「諸行は無常で常に何かが絶対的に正しい事などありえず、永遠にも続かない。」と考えた上で人間の「健康的な生活」「豊かさや繁栄」という視点を持ってみてください。
    今の自分が立っている場所が実はどのような場所だったのか分かるように思います。
     
    それにより目からウロコが落ちるように、人によってはバカバカしく思ってしまったり、そういった事があるかと思いますが、それは自分を苦しめる自分から解き放たれるプロセスのように思います。
     
    自分を責める、他人の望む形を強要する自分から解き放たれた時、ブレイク フリーして、自分の幸せを追及できる人になっていく気がします。
     
    クラマルの好きな言葉に
    「命は大切にすれば、一生使える」という言葉があります。この言葉に今後を生きるヒントがあるように思います。

    自分を責めるのは、もうやめようではないか

    今年ももう、末に差し掛かってますな。本当に今年は、お疲れ様です。この場合は、「お疲れ様でした。」と言うべきかもしれませんが、クラマルは今はちょっとこの言葉を使いたくないなと思いました。悲喜こもごも色々な事がこの先も待っているかと思いますので、縁起を担ぐ意味合いで今年は「お疲れ様です」としておきます。皆さんが「チッ、仕方ねえな…」という言葉を漏らしても、とりあえず健康に生きている事を願う言葉の願掛けです。
     
    基本的に人の世は、それぞれの時代に気苦労もあるものでしょうが、今年ほどままならない年というのもそう滅多に無いように思います。そんなにしょっちゅうあるなら、人類だってそうバカでないでしょうから、既に何かしらの手は打っているはずです。滅多に遭遇しない事でしたので、万全な準備がなかったという事のように思います。
     
    まあ、前置きはこのくらいにしておいて、もし今、貴方が何かしらの苦しみを抱えているなら、自分の範囲の内で出来た事と範囲の外の境界線を引いてみましょう。
    「全て、自分のせいかも知れない」と思ったのなら、「自分に地震を止める事が出来るか?」「自分に台風やハリケーンを止める事が出来るか?」について考えてみてください。それは無理というものですね。
    では、次に「あの人は、ちゃんと活断層の場所を把握した上で、そこに住んでいるのか?」また、「この人は防災マップをよく確認し、その地域で過去に発生した災害の記録を調べた上で、そこに住んでいるのか?」について考えてみてください。いたとしても極めて少数派な人達だとクラマルは思いますし、災害などは人の予想を超えるものというふうに思います。
     
    つまりは、自己の努力というのは勿論必要ですが、貴方のせいではない要素というのも世の中には沢山あります。「どうしようもない事」というのはあるものです。
     
    それは自然の中のみならず、人と人の作り上げた文明社会の中にも存在すると思います。
    貧しい地域に生まれた子供が、貧しいのは全てがその子の責任なのでしょうか?
    ま、クラマルは「そうなっているのは、その子の責任かどうか?」という事を考える間もなく、「その現状どうしたものか…」とそっちの方を考えますね。
     
    世の中にはどうしようも無い事があり、自分のせいばかりではないのだ、という事が分かっていただけるかと思います。
     
    魚のいない所で漁をすること命令され、「どうして魚が取れないだ?」と責められるような事も世の中には残念ながらあります。
     
    まずは、難儀な世の中でさらに難儀となった今年を生きた自分自身を責めることをやめて、むしろこの困難をサヴァイブした自分の価値について考えてみてください。それは、すごい事なのですよ。
     
    世の中には自分にはどうにもならない事があるが、そんな不利な状況を何とか生きている今の自分というものが、実は途方もなくすごい者なのだと認識してください。そこから次のステップに行けるようなそんな気がします。

    構造から抜け出す 人間関係編3

    行動の根幹の意識というのを見ると、言葉に表現されない言葉があるように思います。
     
    「無視をする」

    「私は貴方を意識している。意識した上で見えないふりをしている」
     
    「威圧的態度」

    「俺を恐れろ。弱いと思うな。」
     
    「攻撃的な言動」

    「自分クライシス!!」
     
    このような感情が言動と根幹にあると考えると良いでしょう。

    構造から抜け出す 人間関係編2(短縮版)

    人間の言動の根幹は「理論」や「道理」ではなく「感情」であり、人間は結局は感情に突き動かされる。
    「感情的にならないように」と思うのは、「感情的にならないようにしたほうが良いような気がする」という感情による。
     
    つまりは人間の言動は「感情」であるということ。
     
    攻撃的な態度や言動の根幹には「恐怖」や「不安」がある。
     
    暴言や悪口、威圧的態度の正体はこれ以上でもこれ以下でもないと考えて、あまり深刻に受け止めない方が良いでしょう。
     
    こういう人とは出来るならば離れた方が得策ですが、それが出来ないなら自分を肯定してくれるコミュニティに触れたり、人との接触を通して、多くの価値観に触れると良いでしょう。
     
    それにより実はそこまで大きな存在ではなかったのだと気付く事が出来るでしょう。

    構造から抜け出す 人間関係編2(詳細版)

    暴言や悪口や威圧的態度というのは、受けるとショックもありますし、傷つく所ではあります。
     
    話は少しそれますが、「無視」という行動もなかなか矛盾した行動です。
     
    それは「無視」しようならば、通常以上にその対象を「意識」している。という不都合です。
     
    例えれば幽霊話として、部屋に幽霊がいたとします。それを気づかないふりを決め込もうならその心中は「見えてない、気付いてない」と自分には言い聞かせて、その実かなりその幽霊のいるポジションを気にしているというようなそんな感じです。
     
    「無視する人」は人一倍、相手を意識しているし、下手をすると四六時中意識しています。
    そして、それは自爆的に自分自身を精神的疲労たらしめています。
     
    「無視する人」に対しては積極的に目の前にいてあげれば、すぐに根を上げるのは目に見えた話だと思うのはクラマルだけでしょうか。
     
    話はそれましたが、「攻撃」の行動の根幹には「恐怖」や「不安」があるという事。
     
    人の言動の根幹は「理論」や「道理」ではなく「感情」であるという事。
     
    ま、大体はそんな程度の事と考えておいたほうが良いでしょう。
     
    とはいえ、ネガティブな言動を受ける方としてはやはりきつい点はあります。
    エンジンの機動音と分かっていても、騒音というのは体力すら消耗させる力がありますので、離れられるなら離れた方が得策のように思います。何のために仕事をしているって、健康に豊かに生きるためですから。
     
    とはいえ、そう簡単にいかないのも世の常のように思います。まずは、その場所をそれ以上でもそれ以下でもない、と端的に見る所から始めるといいと思います。
    また、やはり自分を肯定してくれるコミュニティの中に身をおく時間も必要です。それは自分を甘やかす事ではないか?と思うかもしれませんが、価値観というの多種多様なのです。
    「絶対的正義」と「最高の良識」の条件を定義してみてください。正義も良識も多様であり、また誰かの正義は誰かの悪となっている現実だってあるわけです。あまり、ネガティブな事は気にしないでおいた方が良いでしょう。
     
    また、生きた人間との接触を通して、多くの価値観に触れる事で、暴言や悪口を言う人達に振り回される構造からいくらかでも抜けられる気がします。
     
    もう一つ、実体験のない頭でっかちというのも考えものですが、科学や人文社会学に触れておくのもいいと思います。そのような事をしてくる相手の意外な部分に気付く事もあると思います。

    構造から抜け出す 人間関係編1(短縮版)

    「攻撃」は脅威への対応という理由が殆どです。外交などを見てもダイレクトに武力をちらつかせるやり方は、他に外交の手段を持っていないからです。
     
    「脅威」を感じる存在に「攻撃」という手段で対応するのです。
     
    暴言や悪口、威圧的態度はこの「攻撃」にあたります。
     
    これらの行動の根幹には「不安」や「恐怖」があります。
     
    貴方が誰かにそれをされたなら、貴方は恐れられている、という構図となります。

    構造から抜け出す 人間関係編1(詳細版)

    前回は恋愛の出会いに関する「構造」のお話をしましたが、今回は「人間関係」の「構造」です。仕事場などでは指示系統がとりあえず存在しますので、その時点で「構造」が存在する事が分かるかと思います。昨今はテレワークなどで仕事場の人達との接触が少ない人もいるかと思いますが、人との接触において生じてくる問題について考えてみたいと思います。
     
    まず前提としてクラマルは「人の言動の根本的な理由は理論や道理ではなく感情だ。」と考えます。元来、人間の行動は善きにつけ悪きにつけ自由です。
     
    例えれば「サボったら、怒るぞ」という言葉があるとします。これは応報論的な考え方です。
    ~したら、~する。という条件をつけているだけで、「サボらせない」という物理的抑制はないのです。
    「サボったら、電撃罰ゲーム」としても結局は「サボったら、電撃罰ゲームを執行するぞ」という話なわけです。
    本人には自由があります。電撃罰ゲームを受けてもサボり続ける選択はできるわけです。
     
    しかし、人間はそう言われると「サボらない」選択をします。それは「あからさまにサボるのは、社会人としてどうか?」とかそういう感情もあるとは思いますが、もっと深い所に行くと「そうしたほうが良いような気がするから」という所に行き着くと思います。
    このように人の言動の根幹には「感情」があり、それに突き動かされるのが人間の現実のように思います。
    これが故に「間違いだと分かっていても、意地をはって考え直さない」という事はしばしばあるように思います。
     
    「感情的になるな!!」と怒鳴っている人をクラマルは過去に見たことがありますが、これはその言葉とその人の姿勢は矛盾していますね。結局はそんな所ではないでしょうか。
     
    さて、前置きが長くなりましたが、暴言や威圧的な態度に悩まされている方も多いことでしょう。
     
    暴言や威圧的な態度の根幹は「攻撃」と「牽制」のように思います。どちらも結局は「攻撃的行動」なのですが、皆さんはここ最近、蟻を攻撃したでしょうか?
     
    クラマルは今年の夏、蟻ではありませんでしたが、蜂の大群相手に殺虫スプレーで血みどろの戦いを繰り広げました。理由は、家の軒下に大きな巣を作っていたからです。深刻な状況、つまりはクラマル達への脅威の存在となったからです。
     
    皆さんは今年の夏は一匹の蟻を攻撃しましたでしょうか?恐らく大多数の方が攻撃などしていないと思います。
     
    それは何故か?そもそも、一匹の蟻を攻撃しようという発想そのものがないとは思いますが、もしも、蟻の大群が貴方の家や生活空間に侵攻してきたらどうしますか?蟻達に明け渡しますか?とりあえず、クラマルのように攻勢に出ると思います。
     
    殺虫剤などで殲滅を試みても、押し寄せる蟻の大群に一進一退の状態となった場合、これは蟻と貴方のパワーバランスは拮抗状態という事になります。
     
    つまりは、蟻一匹ではさして脅威と感じなくとも、大群ともなれば話は変わるわけです。脅威となっているのです。
     
    そうしますと「攻撃」の根幹にあるのは「恐怖」や「不安」という事です。
     
    「暴言」や「威圧的態度」の根幹には「恐怖」や「不安」があると見てとれます。「脅威」を感じなければ「攻撃」する必要がないからです。
     
    「暴言」や「威圧的態度」「悪口」の裏には「恐怖」があるという構造が見えてくると思います。
     
    その逆に昔の軍事国家なんかでは、開戦に世論をの流れを向かせるために「恐怖」や「不安」を煽って誘導しますよね。これは、上記の構造を逆説的に利用した結果でしょう。
     
    しかしながら今年の夏は効きの悪い安物の殺虫剤で、蜂の大群と大太刀回りをして、ほんっと、怖かった…

    構造から抜け出す 恋愛編(短縮版)

    「出会い」とは二つの要点にまとまる気がします。それは「会う事」と「話す事」です。

    「会う事」という条件を満たすなら、当然「人のいる場所」に行くしかありません。
     
    「話す事」という条件を満たすなら、当然「それが出来る場所」に行くしかありません。
     
    ぎゃに考えますと、この二点がクリアなら最初の条件としてはいいわけです。
     
    この二点を念頭において、出会いの場所を固定観念を捨てて探してみると良いかもしれません。

    構造から抜け出す 恋愛編(詳細版)

    「構造」というのは、多岐にわたります。建物も「構造」ですしシステムも「構造」です。
    「構造」は人が何かの目的を持って意図的に整備したものもあれば、そこまで深い理由がなかった物を積み上げた結果に出来た、意図しなかった「構造」もあるように思います。
    この「構造」が自分に有益ならば活用するべきですが、そうでなければ抜け出す手段を考えた方がいいような気がします。
     
    能書きはこのくらいにして、本筋にいきましょう。
     
    今の現状好きな人もいないが、パートナーとなる人を探したい、という方は少なからずいらっしゃいます。
     
    ここでの「構造」は、恋人を見つけようと行動を起こそうとした時に阻んで来る障害物が殆どように思います。
    例えるなら、前進する事が困難なジャングルのような「構造」の中にいるようなものです。
     
    目的「飲み屋さんで出会いを求める」
    障害「お金が必要」
    目的「誰かに紹介してもらう」
    障害「そのような人脈がない」
    目的「目の前の人に声をかけてみたい」
    障害「変に思われないか不安だ」
     
    これらの障害物となっているのは、様々な理由が複雑怪奇につながった「構造体」のように思います。自分に有益な「構造体」を構築するのも手かもしれませんが、どちらにせよその前にやはりそこから抜け出す必要があると思います。
     
    出会いの要について考えますと、
    「会う事」
    「話す事」
    の2点の条件さえ満たされれば、初期の行動としては充分な気がします。
     
    では、「会う事」から考えてみます。
    「会う」という行為には、「場所」というファクターが絡みます。当たり前だろ、言われるかもしれませんが、この通りです。面白い事言えなくて、どーもすみません。
    「場所」と一口に言っても様々なルールや雰囲気があります。「図書館」や「美術館」で頻繁に声をかけたらマナー違反となりかねません。
    この「場所」はとりあえず除外です。出来れば御の字の程度でしょう。
    元来社交場として発展したはずの「ゲームセンター」もこれでいて、なかなか孤立化した雰囲気のある場所ですので可能性は低いですね。
    こうしてみると、現代には孤立化する傾向が強く、「出会いが少ない」というのは本当は社会問題なのかもしれません。人と人が孤立化しやすいわけですから。
    とりあえず、社会的に許された初手のコミュニケーション手段は、「挨拶」だと思います。
    となると、「挨拶」しても差し障りのない「場所」となると「登山道」なんかが思い付きますが、「出会いを求めて山へ行く」というのも現実感があまりありません。
    クラマルが思い付くあたりでは、神社でしょうか。お賽銭ぐらいで、下手にどこかに行くよりもお金がかからないかもしれません。神様に日頃の感謝やお願いごとでもして、ゆったりゆったり、散歩でもしながら目線のあった人に会釈や「挨拶」でもすればいいように思います。朝のウチなら「おはようございます」でいいのです。そこに「あついですね」「寒いですね」でも付け足すといいでしょう。
    また、やはり何かの「サークル」に参加するのが良いような気がします。
    「共に何かをする関係」というのは人と人が深く繋がる関係です。「サークル」には否応なしに「会う」と「話す」状況となります。
     
    これに限らず「会う事」「話す事」を端的にでもいいので、満たされる場所を固定観念を捨てて考えてみてください。
     
    因みになのですが、ここ数年で「人狼ゲーム」というのがあるようです。具体的なルールについてはクラマルはまだ分からないのですが、「人間」役と「人狼」役に分けて、「会話」を通して人間に化けた「人狼」をあぶり出すというゲームのようです。このゲームのサークルもあるようです。会話をしないとゲームが進行しませんので、否応なしに会話せざる終えない状況に叩き込まれます。「出会いを求める」という意味合いではこれ程有益なサークルはないなぁ、とクラマルは感心してしまいます。女性の方も参加している人がいます。
     
    また、以前クラマルが公民館で仕事をしていた時、「レトロゲーム」のサークルが月に何回か部屋を借りに来ていました。ファミコンやスーパーファミコン等の古いテレビゲームをみんなでワイワイやる社会人サークルでした。男女のサークルで楽しそうにやっていました。
    面接のように対面して話すよりも、こういった男女混在で遊んだほうが、親密になるのにそう時間は掛からないように思います。

    今年を終える月にさしあたって

    今年は大変な年でしたね。依然として、状況は楽観できない状況の中ではありますが、今年から多くの物事が変化したり、真実の姿の見えたり、普遍的な物の再認識があったりした、そのような年のように思います。
    カードで見てみますと、この変化の流れは暫くは続きそうです。
    月並みで退屈な言い方かもしれませんが、顕在化する二極化と劇的な変化です。
    構造的な物も変化するようです。「太陽」のカードが出ておりましたので、もっと基本に立ち返ったシンプルな考え方とそれに基づく行動が必要なようです。感情や心もシンプルにしたほうが良いでしょう。
    徐々に今の構造体から自由になるための模索も必要なようです。
    極めて抽象的な言い方になってすみませんが、軽快なフットワークで自由に動くために、自分の思考と行動について模索するというのが、年末年始のテーマとなりそうです。「互いにトラブルがなければ、それでいいんじゃね?」という言葉がヒントになりそうです。

    恋愛的な出会いについての考察

    ちょっと今回はシンプルに行きます。
     
    人脈広げたければ、誰かを手伝え
    相手と世間話をしろ
     
    と先輩に言われた事がありました。
    挨拶基本の世の中ではありますが、人と人というのはやはり印象です。
     
    これを恋愛に置き換えます。
    漠然と出会いを求めているその心には、
    「恋人がほしい」という欲求に他なりませんが、まず先立つのが「好きになれる人を見つけたい」という気持ちがあるように思います。
     
    この時点では、具体的な誰が好きなわけではありません。
     
    仕事の中で、同性だったとしても先輩と一緒に大変な仕事をしたとか、そういう体験が互いの関係を深めていくもののように経験上思います。
     
    「してあげた」「してもらった」の経験が感情を動かす気がします。
     
    「誰かと恋愛的な出会いをしたい」という目的を果たそうなら、自分自身を誰かに惚れさせる必要があるように思います。
     
    ならば、その状況に自身を叩き込んで、その状況に自分を引きずり回せばいいような気がします。
     
    ほんのささいな事からでかまわないと思います。
     
    ただ、物を取ってあげる事から始めてもいいでしょう。
     
    思えば、人は行動によって惚れたり、惚れられたりするような気がします。
     
    もっと言いますと、ちょっとした行動にもその人の生き様の片鱗が見えてくるような気もします。
     
    惚れたければ見つけたければ誰かを手伝え
     
    とも言い換えられそうです。

    新卒さん、新人さんたちへ

    今年も残す所、後わずかですが世の新人さん、新卒さん、または看護師の実習生さん、教育現場の実習生さん、挙げ出したら多岐に渡りますが、今年人の世の仕事に触れた多くの人達にはどんな年だったでしょうか?
     
    クラマルもかつて新人だった時代がありました。そうなのです。クラマルも湧いて出てきたわけではないのです。湧いて出てきた過去があればそれはそれで、クラマルとしては面白いのですが、まあクラマルにもそんな時代がありました。
     
    物を作る仕事のほうが割合多かったので、本当に手の技術や工夫があからさまに目立つような仕事だった気がしますが、クラマルは30年以上生きているのにも関わらず、自分自身が様々なところで上手だと思えることはありません。
    とはいえ、何かを長くやっていれば、例え成長を拒んだとしても自然とある程度成長してしまうものです。そこを考えてみますと、クラマルも最初のうちよりはある程度は上達している部分もあるのが現実のように思います。
    しかしながら、成長の実感などありませんし、自分よりも上手な人が沢山いる気がします。「自分より、友の方が立派に見え」のまさにそんな感じです。未だにです。
     
    世の新人さん達はこの時期、もしかすると誰よりも自分が至らず、劣ってるように感じる人もいるかとは思いますが、それは「自分が自分だから至らない」のではありません。
    それは「初めての経験」だからです。
     
    成長はしようと思って出来るものではなく、何かやってたら知らんうちに成長してしまう、そんなもののように思います。焦る必要はないように思いますし、物事には必要時間というものがあります。着実に物をにしていったほうが、後々の事故やトラブルも少なくなるように思います。急ぐ事に執心すると何かを置いて行ってしまう事だってあるような気がします。
     
    昨今の世の中はまるでスパルタのように、とはいえスパルタの国に住んだ経験はありませんが、出来て当たり前の「減点法」が慣例となっている部分があります。
    これは「生まれてきて100点満点」から始まります。確かに生まれ出る命の価値というのはプライスレスなのは分かりますが、経済合理的価値と人格は違う気がします。「減点法」は間違う度に「減点」されていきます。何かが上達しても「出来て当たり前」の原理が流れているので、加点される事はありません。
     
    最近になってそのあり方を見直す動きはあるようですが、クラマルとしてはナチュラルな人間ベースで考えると「加点法」の方が、完全ではないにしても自然に合致している気がします。
    生まれたばかりの子供は何も出来ません。これは度外視できません。そこに「出来る事」が増える事で成長していくのです。つまりは獲得していくのです。そうやって一人前になっていくのです。
     
    「出来ない事がある」は「出来るようになる」ための原点なのです。
    そして、成長はジワジワと成長するのです。それで何か、靴がきつく感じてきたなと思ったりして、成長をそこで初めて実感できるような、出来ないような、そんな感じです。
     
    因みに、重い機械を扱う現場の七不思議の一つなのですが、統計的に事故を起こしていた数は、「新人」よりも「ベテラン」が多いのだそうです。
     
    余談ではありますが、最近人生で初めてマリオネットを作ってみたのですが、これが失敗でした。人形が細かすぎたのです。理論上は可能なはずだったのに…、実際にやってみると…という次第です。これは「初めての経験」だったということと、「言うと見るでは違う」もしくは「言うと実際やるでは違う」という実際にやったからこそぶつかった壁でした。本職の仕事ではないにしても「初めての試み」にはついて回るものです。そして、クラマルは「俺って、アタマわるっ!」と独りごちて、ガックリ肩を落とすのです。
    そんなもんです。

    2020年9月25日のこれからの指標についての考察

    今年も残す所僅かですね。もし、鬼を爆笑させたいなら、来年の話しばかりすれば良いようです。
    今年はクラマルが敢えて口に出さずとも、大変な年でありました。とはいえ、クラマルの肌感覚としては、今年は序章のように思います。
    それは悪い事への序曲というわけではなく、より良い時代へのプロセスのように思います。
    タロットを展開してみますに、未来の位置には女司祭、結論の位置には運命の車輪が出ておりました。その他に恋人たちのカードや太陽のカードが出ておりました。
    恐らく、来年は「知識や学びによって、見える希望」というのがテーマの一つとなりそうです。学びといいましても、スピリチュアル的な知識や心理的なもの、哲学的なものというものもそうかも知れませんが、もっと物質的に近い知識のように思います。科学とか場合によっては工学とかそういったものも含まれる自然学に分類される知識のような気がします。
    それは机上の空論のようなものではなく、もっと私達に近いもの。具体的には農業とかそういう実生活に関わるもののように思います。
    また、道徳とかそういった分野に関しても、「そもそも、これは何のための何だったのか?」というような見直す機会にも恵まれるような気がします。また、人によっては「今まで直視することをおざなりにしてきた、自分の持つ力を深く認識する。」という人も出てくるかもしれません。
    さしあたり、クラマルとしては食べられる植物の種類や育成についての勉強でもしようかと思っています。
    「覚める」というのが、早い人ですともう既にそうなっているかと思いますが、そういった事が来年多そうな気がします。
    この「覚める」というのは、スピリチュアル的な「目覚め」や「覚醒」の人もいるかもしれませんが、中学校の理科の教科書を見てみたら、「そういえば、そうだったはず」というような感じの「覚める」に近いかもしれません。

    知らぬ人から顔馴染みへ

    今の時代、誉められた事ではないかと思いますが、クラマルは愛煙家です。勿論、灰皿のある所でしか吸いません。
    そして、よくよく考えてもみますと吸う場所も限られています。これは分煙とか禁煙エリアとかそういう意味合いではなく、通勤の通り道の途中にあるコンビニの灰皿とか、そういう意味合いです。言ってしまえば馴染みのお定まりの場所での一服といったところです。
    2、3週間もそこで一服つけてますと、言葉こそ交わさないにしても、よく見る顔というのもあるものです。
    ライターのガスなんかが切れて、火がつけられないと、自発的にライターを差し出したりなど、互いにそんなこともします。
    そこから深い発展というのが、なかなかにはないものですが、その刹那だけでもある種のコミュニケーションが取り交わされるのです。
    吸わない方にはピンと来ないところであるかと思いますが、コンビニ等にあった灰皿の周辺がある瞬間は社交場となっているのです。
    今日もまんざら見ないでもない顔ぶれが、数人いました。彼らもこのクラマルの顔をそのように認識しているように思います。
    そこを考えますと、互いに顔馴染みと認識している人の数といえば、そう少なくはありません。
    そこを考えますと、毎日タバコを吸いに足を止めているだけの場所に、知り合いとまではいかなくとも、顔馴染みはここ数ヶ月でかなり出来たような気がします。
    まあ、これは別に喫煙所に限った事ではないように思います。
    毎日とまではいかなくとも、喫茶店なり何なり、しょっちゅう通う所というのを持つと、それなりに顔馴染みも出来る気がします。そのあとはタイミングというものです。挨拶なり交わせば、会話する仲ぐらいにはなるような気がします。今は大衆居酒屋などが主流となり、他のグループや個人に立ち入らないスタイルの場所が多いように思いますが、昔ながらの赤提灯はこの喫煙場所のように不特定多数の人が入り乱れ、互いにコミュニケーションを取るのが自然な場所のように思います。赤提灯に通えというわけではありませんが、やはり人の多い所へ出向く習慣というのが、縁と縁を結ぶ、そんな気もします。
    しかし、余談というか、クラマルのぼやきのようなものかもしれませんが、個人孤高というのが今の世の中の主流になっているような気がします。その結果、人が人に過度に気遣いしすぎて、人と人との交流が昔に比べて困難なもの、もしくはハードルの高いものになっているような気がします。リスク回避という意味合いでは、「何もしない」でおくことが、最大の安全ではありますが、人間が元来持つ性質に影響を及ぼしているように思います。
    人の心の大半は人との関わりや経験によって成熟するもののように思います。
    間違ったコミュニケーションをとって、上手くいかない事態も、それは経験となりますし、間違わないと分からない事が、この世界にはあまたあるものだと思います。そういった事の積み重ねが途方もない成熟した人間に磨きあげるのだと感じます。
    クラマルは人生や人間世界を極めた者では決してありませんが、人間というのは洗練されることで成長する気がします。洗練とは川の中を転がり回る石のようなもでしょう。
    七転八倒の末、じゃなかった…
    川底にあるその他の石にぶつかって削ることによって、綺麗な形となるような気がします。

    PMNタロットを始めました

    PMNタロットとは、生年月日や名前を数値化し、その数値をサイファ的にタロットカードに置き換え、その人の思考や感情、価値観、癖や得意分野の傾向を占います。
    どんな人生の歩き方の傾向があるか?魂や潜在意識が何を求める傾向があるか?それらを割出し、それを元にこれからの行動や人や物事への関わり方のアドバイスなどをしていきます。
    自己分析の一助となればと思い始めました。ご興味があれば、お気軽に。
    因みにクラマルを例にとりますと、
     
    人生の歩み方の傾向:
    タロットカードの隠者
    世の深層にある世界や哲学などを探求する癖があるようです。また、その姿勢が厭世的な人物に他者の目には写る場合もあるようで、取っつきにくさがあるようです。
    そんなクラマルがバランスを取るために参考にすべき姿勢はタロットカードの愚者のようです。深く物事を観察しても、口出す言葉は軽めの言葉を使うように心がけるとか、とにかく軽い印象を与えるようにする事でバランスしそうです。
     
    魂や潜在意識の目的:
    これは現実的には物事の判断基準や反応しやすい物事、または関心を抱きやすい事となります。趣味などにも通じるかもしれません。難しい言い方をしますとその人の持つ人生哲学のようなものでしょうか。
    クラマルの場合はタロットカードの法王でした。慈悲とか信じられる物を表します。先の隠者は探求する人でもありますので、信じられる物や自分自身が心から信ずる事が出来る神のような存在を探しているのかもしれません。
    しかしながら、やはり他者には浮世離れした印象に写る場合もありそうなのでそこは注意です。
     
    ソウル:
    これは魂や潜在意識の欲求の傾向となります。
    クラマルの場合はこれもタロットカードの法王となりました。慈悲や信ずる物を求める傾向が強いようです。これは無意識に人との関係にもそれを求める傾向があるようですので、「まあ、色んな人がいて一つの社会、一つの世界、一つの地球。まあ、いいかぁ」のような考え方、やはり愚者のカードのような姿勢でバランスするようです。また、残酷な出来事を徹底的に許せない性質もあるようですので、感情には自身で注意を払わねばなりません。
     
    総じて、クラマルは
    この世界で自分の信ずるものを探す、エクスプローラー
    ということになるようなキーワードが浮かんで来ます。
     
    というように、どういったものなのか一部をご紹介しました。その他にもっと掘り下げた思考や価値観のパターンの傾向を見る、ソウリックエレメントなども割り出します。
     
    これからどのような事をしようか?
    どんな風に他者と関わろうか?
    はたまた、あの人にどのようにアプローチしようか?
    などの参考にしていただければと思います。

    クラマルと幽霊屋敷

    数年前に気付いた事があります。30歳を越えて、ようやっと気付いた事でした。一言でいうならば、「奴がいない」と言った所でしょうか。
    クラマルは生まれも育ちもこの地元でして、県外で生活した経験がありません。
    17歳の時まで自身が生まれた家に住んでいました。幼い頃から住んでいた家でしたので、それが普通だと思っていました。その家だったのですが、夜となく昼となく、一人になると必ず背後やどこかに何かの気配を感じる家でした。その気配というのもどこか重たく、怖い感じのする気味の悪い気配でした。
    例えば、昼間に家族と居間などでワイワイやっている時は感じる事はありませんでしたが、少し離れると、2階の部屋に何かを取り行きますと、背後に気配を感じました。
    とにかく背中がザワザワするのです。両親は共稼ぎでしたので、当然学校から帰ってくると家に一人という事はしょっちゅうです。まだ、明るい時間でも家の空気というのは、どこか不安を起こさせるそんな感じです。ピンと張りつめるといった感じではなく、まるで綱渡りをしているようなそんな不安感でした。それは見えない何かを感じるからです。背中に何かを感じながら生活していて、本当ならば悲鳴を上げて駆け出したい気持ちを押さえ、気付かぬふりを続ける事を本当に幼い時からしていました。これは後々兄弟達に聞くと、彼らもそうだったようです。気付かぬふりをして、無い事にしていたようでした。しかし、その反面にそうすることが当たり前で、こういうことは他の家でも大体あることなのだと思ってもいました。自分の状況が普通だと思っていたのです。
    家には納戸がありそこは昼間でも暗い所でした。そこに行くと今度は背後の気配に加えて、目の前でまばたきをされます。
    暗い所に目だけがクラマルの顔すれすれでまばたきをするのです。
    夜に電気をつけていない部屋でもこの「まばたき」は現れます。クラマルの本当に目の前で目だけがまばたきをパチリと何度となくするのです。たまに「まばたき」は布団の中に入り込んでいる時もありました。
    当時のクラマルとしては、神経か何かの錯覚で、人間には当たり前のこと、とこれも普通なのだと幼いながらに思っていました。
    弟は人形が独りでに動く所を見たこともあるようです。その後暫くは「幽霊」とか「妖怪」とい言葉そのものにも過剰に反応するようになり、今にして思えばPTSDの一種だったのかもしれません。妹はかなり怖いもの見ていたようです。
    17歳を越えた辺りに別の家に引っ越しまして、その後はその家になかなか行く機会もなくなり、車が通りずらいこともあって近くを通る事すらなくなりました。
    そしてら30歳を越えた今、夜に自宅にいても背後に感じた気配や「まばたき」がなくなっていたことに初めて気付いたのです。
    そこでようやっと、あの家が普通じゃなかったという事に気付いたのです。
    まあ、そこに気付いて、気味が悪くなるような気分だとかそういったことはありませんでしたが、幼き日のクラマルはあの家でテレビ等で当時やっていた「潜入!!幽霊屋敷」といったような番組を見ては、「こんな恐ろしくて気味の悪い所は絶対行きたくない」と思っていました。今のクラマルとしては当時のクラマルに言ってやりたいですね。
    「お前、今、そのお化け屋敷に住んでんだよ」と。数々の怪異に見舞われながら、ウチはそんな特別な事はないと思い込んで、ウチってもしかして、と露ほども疑ってなかったあの時は、灯台もと暗しというか、大正デモクラシーというかなかなか滑稽なものです。

    ここ数年でクラマルの体験した怖い事

    クラマルは数年前、この田舎で集会施設の管理をしていた事があります。そこは随分と古い施設でして、言ってしまえば公民館といった所でしょうか。舞台ホールに小さな楽屋なんかもあり、クラマルはそこで施設管理に音響係、証明係、舞台袖人員等、人手の少ない田舎の施設でしたので、そんなこんなをしていました。
    やはり古い建物となると、色々とあります。ホールの天井裏に謎の布団が一式あったり、音響を操作する調整室なんかでは、昼間でもドアが勝手に開いたり閉まったり、クラマルが振り向こうとすると、先輩から振り向くなと注意をされたり、大切な舞台イベントで音響操作をしている時には、こういう気が散るような事は、勘弁してほしいものでした。
    また、楽屋というのがいつ入っても嫌な感じのする所でした。舞台というのは多くの人の念などが渦巻く部分もあるでしょうから、ステージというものはどこでもこんな感じなのかもしれません。
    その楽屋や小さな部屋で、化粧用の鏡が壁にくっついて横に長いものでした。本来ならば鏡の回りに証明を沢山設置しているものでしょうけれど、着替えと化粧さえできればいいだろう、というような簡素なものでした。
    そこには普段は使わない姿見が沢山置かれていました。
    また簡素な作りに不釣り合いな感じの大きな鏡が壁に付いていました。これで振り付け等を確認するのでしょう。この大きな鏡が化粧用の横長の鏡と丁度合わせ鏡になる位置に付いていました。あまり気分的にいいものではありません。昼間でもその楽屋に入るのは、どうも積極的にはなれません。
    楽屋以外にも、ステージを夜歩いていると背後がザワザワしたり、誰もいないはずなのにエレベーターが上にいったり下にいったりと、まあ、古い建物なんてそんなところでしょうか。
    やはりこういった施設となると、当然のように遅番なんかもあったりします。ある夜の遅番の事です。
    クラマルとかなり年配の館長の二人が遅番となりました。季節的には丁度今のような暑い時期でした。
    夕方頃に翌日に周辺の子供会の集会が施設を使うようで、その役員の人たちが物を置きに来ました。翌日子供会で、確かにバーベキューをするという事でしたので、それらの材料やスイカを調理実習室に置きに来たようでした。
    他の公民館等では、そういった事への対応は厳しい所もあるかもしれませんが、何分田舎でしたので、田舎ならではの馴れ合いというか、そういった感じです。
    年配の館長という方は、元々は地方公務員で退職後にこの施設の館長となった人でした。部下思いな真面目な人ではありましたが、こう言っては何ですが、真面目過ぎて出世がなかなか難しかったタイプであることは想像に固くありません。苦労をしたがなかなか報われなかった。そんな感じの人でした。世には天下りなんて言葉もあるかとは思いますが、この施設の館長も頼まれたのを断り切れなかったが故にやっていたようで、日頃の仕事や様子を見ていると、天下りというのが必ずしもラッキーではないことを目の当たりにして知る事が出来ました。
    そしてその館長は真面目過ぎて空回ることもしばしばありました。動きも少しぎこちない部分もありました。真面目でぎこちない。そんな雰囲気でした。
    そんな館長とクラマルが遅番となり、閉館時間に差し掛かりました。閉館前に手分けして戸締まりの確認をするのですが、先ほども述べた通りのこのいわくのある施設です。気味の悪さを感じる出来事はいつもちらほらとあるものですが、だからといってなかなかそれに慣れる事もできません。クラマルは2階の廊下の戸締まりを確認しに階段を上がりますと、どんよりとした空気が2階の廊下に立ち込めていました。廊下の窓の施錠を確認しますが、その度に窓に顔を近づける事に妙なストレスを感じます。窓越しに外の何かと目が合ったら嫌だなあ、とかそんな感じです。2階のトイレも陰鬱な場所です。何かが潜んでいそうな雰囲気すらありました。一通り見て回り、階段を下りますと、館長が調理実習室から出てきました。何やら緊張している表情でした。かなり嫌な物を見たような顔して、言葉を失っていました。クラマルはどうしたのか?ということを訪ねますと、館長は「スイカ、冷蔵庫に入りきらなかったから、タライに水を入れて冷やしてたんだな。水に手を入れたら温いからさ。水変えておいてやるかと思ってさ。スイカが入りっぱなしだと重いからさ、タライの水を捨てる前にスイカを避けておこうと思ってさ。」
    クラマルは「はい」とそれに返事をしました。
    「スイカ持ったらさ、滑って落としちまった。スイカ割っちまった。」
    クラマルは調理室に見に行きますと、タライの横には見るも無惨にして凄惨な現場がそこにはありました。

    怪談の一つでも

    納涼ということで過去を思い返しますと、納涼肝だめしだとか、町内会の怪談イベントなど子供の時分には行ったものですが、結論からいいますと納涼はクーラーが一番です。納涼肝だめしも納涼怪談イベントも、結局クラマルには暑い思い出としてしか記憶されていません。
    涼しい納涼の思い出と言えば、クーラーの効いた喫茶店でかき氷とソフトクリームを食べた、あの時の思い出に勝るものはありません。夏の時期は氷と冷房に敵うものはそうそうないのです。
     
    ああ、ついでですので、今時期はなかなか考え物な部分はあるかと思いますが、肝だめしで脅かす側になった場合、まあハロウィンにも応用できそうですが、怖いマスクを被るなら、マスクを被る前に、黒いアイシャドウか何かで目の周りをパンダのように塗ってからかぶってみましょう。迫力が格段に上がります。
    このように目元を黒くして、ジェイソンのホッケーマスクなどを被るとやたらかっこよく決まります。クラマルの場合は市販されているホッケーマスクにはさらに手を加えます。ポスター画像を参考に穴の数を増やしたり、彫刻刀でキズを掘ったり、マスクの縁を欠けさせたり、その上さらに塗装を施し、ウェザリングという技法で汚れを演出します。目の穴には目の細かい黒いネットを張ったりして、相手から自分の目が見えないようにします。そうやって人間らしさを隠匿することで、およそ話の通じなさそうな恐ろしさを醸し出すのです。目の穴の形も、大体市販されているものは楕円形のカッコイイ感じですので、もし可能ならばドリルなどで真ん丸にするとメチャクチャ怖くなります。
    着る服もこういう時は繋ぎとかジーパンにデニムシャツとかになると思いますが、これも出来れば砂ぼこりをつけたりくたびれさせた方がいいです。下ろし立てパリパリだとやはり、どこか間の抜けた印象になってしまいます。
     
    すぽっと頭に被れそうな麻袋なんかもいいですね。片目分だけ穴を一つ開けて先ほどご紹介した黒いアイシャドウをして被ると、まあまあ何とも恐ろしいです。
    そんな風体の者がクラマルの町内を夜な夜な跋扈していたら、きっと引っ越しを考えます。
     
    マスクをしていなきゃいけない時期ですね。クラマルはこのマスクを、フフフ、どうしてくれようか、考えただけでも楽しいですね。
     
    さて、前置きはこの辺りとして、本題です。
    怪談話ですね。怪しい話ですね。クラマルは「怪しい」よりも「妖しい」方が個人的には好きです。
    まあ、これはクラマルの友人の話です。今となっては10年位前の話となりますが、友人がお盆の時期に帰省した時でした。当時クラマルは既に働いておりましたが、彼はまだ大学生でした。まあ、彼の話。
    その彼と言いますのが、とある地方の大学に通っておりまして、彼の住まい、まあアパートは大学からは離れていたそうです。家賃等の関係から郊外のほうにアパートを借りて、最寄りの駅から電車に乗って通学していたとのことでした。
    大学のサークルの先輩にどこに住んでいるのか訪ねられて答えたなら、その先輩は「ああ、あそこかぁ」とちょっと何かを知っているような、そんな雰囲気だったそうです。それについて、彼は先輩に聞いたのだそうですが、そのうち分かるだろ、と茶を濁されたそうです。
    とはいえ、数ヶ月も暮らしていると何となく、自分の住まう土地がどんな所なのか分かってくるもので、自然とその先輩が明言を避けた理由も納得出来たようでした。
    彼のアパートは駅で電車を降りてから暫く歩いた先にあったようです。見渡す限り田んぼの暗い道で、外灯がポツリポツリとある程度だそうです。農家が多いせいか、日も上らぬ早朝に耕作機の走り回る音が、その時期になるとそこかしこで鳴り響く事もあるようですが、その分就寝が早いと見えて、夜道は静かだそうです。
    怪談話の舞台としては持ってこいな感じです。駅とアパートの途中に小高い山があるようでして、その頂上には神社というか祠というか、そういったものがあるようでした。その山まるまるひとつがその敷地のようでした。アパートはその山周囲をぐるりと回った先にあったようです。
    まあ、その山というのがまさに問題の山でして、そこには丑の刻参りに来るそんな人達が多いのだそうです。
    彼は帰り道で何度か、コツコツやっている音を聞いているそうです。もしかすると、その辺りで夜はあまり出歩かない理由はそれもあったのかもしれません。
    いつものように、大学の近くでのバイトを終えて帰っていると、山でコツコツやっている音が聞こえて来たそうです。
    コツコツやっているのが人間と分かっていても気味の悪いものだったようです。歩いていると音が止んだそうです。
    何だか嫌だなぁ、と思いながら家路を急いでいますと、向こうの道路の脇から人影が出てきたそうです。外灯に照らし出されたのは男の姿で、手には金槌なのか木槌なのか、とにかくハンマーを持っていたようです。その男が何をしていたかは明らかです。その道路脇はその山の麓なのですから。
    きっとその男は外灯の明るい所を選んで出てきたのでしょう。
    間の悪い事に友人の彼もまた外灯の真下にいたようです。
    互いに目が合ってしまったようです。
    やはり彼はその男を見て、固まってしまったようです。
    彼は昔に聞いた事を思い出しました。丑の刻参りを誰かに見られたなら、その見た者を殺さないと跳ね返ってくる、というような言い伝えでした。
    彼は「殺られる!!」と心底そう思ったようです。そして、彼は先手を打ち、意を決して飛び蹴りを喰らわそうと、「おらあぁぁぁ!!」と怒号を上げながら、男に向かって走り出したそうです。
    するとその男は「ああっ!!ああっ!!」と言いながら彼から一目散に逃げたそうです。
    彼は「待てっ!!ごらぁぁっ!!」とさらなる怒号を上げて一層走る早さを上げますと、その男はまた脇の山の方へと逃げていったそうです。彼はその暗い山に向かって「次はタダじゃおかねぇからなぁ!!」と叫ぶと、先ほどまでの恐怖は消え、理由のよく分からぬ怒りを抱えたままに家へと着いたそうです。
    そうした事から、彼は筋トレと格闘技を始めました。かなりマッチョになってます。
    まあ、そういった話でありましたが、実はこの話を聞いていたその時に不可思議な出来事が起こったのです。
    クラマルはアルコールの類いは一切飲まず、ジュースを飲んでいたのです。そこは居酒屋で店員さんがクラマルにコーラを持ってきてくれた時には氷が入っていました。しかし、話を聞いて暫くしますと、コーラの中の氷が消えてなくなっていたのです。コーラが手元に来た時には、この目で確かに氷が入っていた事を確認していましたし、クラマルが席を立つこともありませんでした。つまりは誰もコーラの中の氷を取り去る事は不可能だったのです。量子などは観察者によって挙動を変えるという性質があるようですが、氷にそういった性質があるとはクラマルは今の所は知りません。狐につままれたような気分とはこういうものなのか、と思いつつ、また味の薄くなったコーラに不可思議な感じを受けました。不可解な事というのはあるものですね。

    お盆中の月別タロット占い

    1月
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    無理を通した故の災難。
    仕事:
    新しい事始めましょ。始めましょ。
    金運:
    貯めろ、貯めろ、ドンドン、貯めろ。
    メッセージ:
    やっほー!おげんこ?新しい事が気になったりして、そこに時間使ってチョベリグってカンジ。
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    2月
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    愛、深まる。恋人、出来る。やったね。
    仕事:
    仕事は愛なのです。
    金運:
    愛と希望に満ちています。
    メッセージ:
    愛に関してヒデキ感激な展開がありそうです。しかしお金のバランスには注意で、ヒデキ、ボンバイエ!!
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    3月
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    素直になったほうが身のためです。
    仕事:
    気負わず、期待せず。
    金運:
    頭の痛い所ですね。
    メッセージ:
    自分を不自由にするのは、案外自分かも。己の敵は己じゃあ、といった所ですが有刺鉄線デスマッチに挑戦するような無茶は禁物です。痛いので。
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    時を駆ける少女
      
    4月
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    羽目の外し過ぎに注意。
    仕事:
    さてはお前さん、勤労青年だな?関心、関心。
    金運:
    羽目の外し過ぎに注意。
    メッセージ:
    羽目の外し過ぎやなんて、いけずやわぁ。こんな幼気な子つかまえてからにぃ。
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    5月
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    そんな時は熱いハートでレッツゴー。
    仕事:
    優しさが解決できることもある。
    金運:
    何かよくわからないけれど、お金増えてたわ。
    メッセージ:
    ダメかなぁ、ダメかなぁって思ってたら、あ、やっぱ、いいわぁ。
    いいかなぁ?いいかなぁ?って思ってたら、ああ、やっぱ、ダメだなぁ。
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    6月
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    ノーリズン。または、偏屈で孤独で面倒くさい感じの年上の男性との運命的な出会いもあるかも。
    仕事:
    あたい、何やってんだろ。
    金運:
    腹水盆に返らず。気を付けて。
    メッセージ:
    そのコを探してるって?ここいらじゃあ、そんなコは沢山いるからねぇ。あの店のリコって女が詳しいんじゃないかなぁ。んで、あんたぁ、そのコの何なのさ。
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    ウェインズ・ワールド
     
    7月
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    ワガママ聞いてくれるかも。
    仕事:
    いつもより主張して。あなたの女王アリの姿。つまりは、アリのママの姿を。
    金運:
    それは後々の犠牲となるかも。注意。
    メッセージ:
    ワガママも過ぎますと、満室の民宿となります。つまりは、もう、誰もとめられない。
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    太陽系惑星の音
     
    8月
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    運命の人との出会いがあるかも。
    仕事:
    仕事に完成はありませんが、時間には限りがあります。
    金運:
    お金の考え方が変わるかも。
    メッセージ:
    いささか、思うに任さぬ事もあろうが、良い運びに恵まれていることを頭に入れておいてくりゃれ。
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    9月
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    べ、別にアンタのためにやったんじゃないんだからねっ!!
    仕事:
    悩みに関して天啓があるかも。
    金運:
    お金に関する哲学的な理解
    メッセージ:
    復活の機運が高まっているのぜ。復縁を望む相手ならいいかもだけれど、そうでもない相手との復縁の可能性もあるから注意なのぜ。
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    グリース
      
    10月
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    予想外な出会い。
    仕事:
    目的達成の手段には倫理観を忘れずに。
    金運:
    新しい事には何かとお金が必要。
    メッセージ:
    何かニューウェーブな感じで、乗ってけ乗ってけ乗ってけてけてけな。ついでに、太陽の彼方まで。黄金な半分とか。
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    バタリアン
     
    11月
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    もう!強引なんだからっ🖤
    仕事:
    いいじゃねぇよ。やったろうじゃねぇよ。やるかやらないかじゃんかさぁ。
    金運:
    ちいっと、おいたが過ぎらぁな。
    メッセージ:
    多少の強引さが物を言う、そんな感じでありんすが、あちきとしては嫌よ嫌よは、やっぱり嫌だで、あっちょんぶりけ。
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    狂い咲きサンダーロード
     
    12月
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    こちょこちょこーちょな、無邪気な少年ぽさ。
    仕事:
    ここは過ぎ去るのを待って
    金運:
    次のステップに移行するためのプロセス。
    メッセージ:
    あたいの何がいけないのさ!!と言いたくなるのは世の常です。
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    理由無き反抗

    8月上旬の月別タロット占い

    1月
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    新しい始まりのプロセス
    仕事:
    苦しい状況に現れる助っ人
    金運:
    慎み深さが思わぬ節約に
    メッセージ:
    深い愛や心の旅や探求というのが、ここしばらくのテーマのようです。
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    音楽)みうらじゅん:君は千手観音

     
    2月
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    相手を差し置いて熱中、集中のしすぎに注意
    仕事:
    新しい場所や分野で再スタート
    金運:
    悩んだら買わないが吉
    メッセージ:
    新しい試みや挑戦が始まりそうな時期です。はやる心が思わぬ出費に招きそうなので節約を。
    ご興味があればオススメ:
    音楽)クィーン:ワン・ビジョン

     
    3月
    恋愛:
    相手の気持ちに普段よりも注目
    仕事:
    知に働けば角が立つ
    金運:
    他方の意見にも耳を傾けて、またはプランの変更
    メッセージ:
    自己主張が強くなりそうな雰囲気があります。対人関係では何か言う前にワンテンポ立ち止まって。
    ご興味があればオススメ:
    音楽)ユーリーズ・ミックス:スウィート・ドリーム
     
     
    4月
    恋愛:
    その競争にはあなたは乗るべきではありません。
    仕事:
    家庭や友人達との時間にフォーカスしましょう。
    金運:
    焦りは禁物です。何のための豊かさなのか思い出しましょう。
    メッセージ:
    目に見える物に対するこだわりが強くなるかもしれません。そこに注意が必要です。
    ご興味があればオススメ:
    音楽)ジョン・レノン:カム・トゥギャザー
     
     
    5月
    恋愛:
    無邪気に楽しむ事に専念
    仕事:
    この時期は出来るだけ早くお家へ帰りましょう。
    金運:
    協力関係が要、節約思考で吉
    メッセージ:
    愛や心での繋がりを強く感じる時期のようです。
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    音楽)斉藤和義:歩いて帰ろう
     
     
    6月
    恋愛:
    深く、そして強い絆
    仕事:
    あの件は貴方が正しかったようです
    金運:
    着々と進むようですが、無理は禁物。特に頑張り過ぎには
    メッセージ:
    愛情や健康など照らし合わせて、自分と他者のあり方を考え直したりするような時期のようです
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    音楽)KAN:愛は勝つ
     
     
    7月
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    自分の心に正直に
    仕事:
    不条理というものはあるものです。そんなもんです。ほっときましょう。
    金運:
    回復の兆しが見えても焦りは禁物です。
    メッセージ:
    色々を多忙で少しお疲れかもしれません。この時期は心身の回復にフォーカスを
    ご興味があればオススメ:
    音楽)エアロ・スミス:シャットアップ・アンド・ダンス

     
    8月
    恋愛:
    目と目が合う瞬間なんとやら、
    仕事:
    倫理観というのは大事ですね
    金運:
    情報を集めましょう。そして、行動です。
    メッセージ:
    日々の疲れから色々な面で躊躇してしまうような消極的な気分になるかもしれませんが、普段以上に行動を心がけましょう
    ご興味があればオススメ:
    音楽)アイドルマスター:目が逢う瞬間
     
     
    9月
    恋愛:
    色々とあるでしょうけれど、それも含めて愛しているのではないですか?
    仕事:
    まあ、たまには妥協も必要でしょう。
    金運:
    とりあえず、そばにいる人達の笑顔を見て下さい
    メッセージ:
    優しさや献身がこの時期の貴方を突き動かしているようです。なんでもほどほどに、まだやり足りぬと思っているのは貴方だけかもしれませんよ。
    ご興味があればオススメ:
    音楽)ビリー・ジョエル:素顔のままで

     
    10月
    恋愛:
    貴方のその考えは外れてはいないようです。いよいよとなもなれば、新たな可能性に向けて準備を
    仕事:
    それも含めて時世というものです。
    金運:
    杓子定規にならずに、辺りを見回してみましょう。そして悟りなさい。
    メッセージ:物や目に写るものについて、理解を深めていくのがこの時期のようです。
    ご興味があればオススメ:
    音楽)坂本冬美:夜桜お七

     
    11月
    恋愛:
    こういう時こそご友人達に聞いてもらいましょう。
    仕事:
    とりあえず正攻法でやっておきましょう。そのアイディアは捨てずに温めておいて
    金運:
    開放的な時期ですが、収支のバランスには注意です。
    メッセージ:
    何に関しても希望の指標が見えているそんな時期のようです。今はそこに慌てず着実に一歩進めるというのがテーマのようです。
    ご興味があればオススメ:
    音楽)田村直美:ゆずれない願い

     
    12月
    恋愛:
    真面目な事は良い事ですが、自分の気持ちにも耳を傾けて
    仕事:
    そこに囚われすぎますと、ちょっと心配ですね。
    金運:
    自分のやりたい事を出来る限りしましょう。
    メッセージ:
    この時期まであれやこれや悩んでいた人も多いのではないでしょうか?しかし、これからはそこ悩みはクリアになっていくようです。悩んだ甲斐がありました!!その境地、悩んだからこそです。
    ご興味があればオススメ:
    音楽)ザ・トラッシュマン:サーフィンバード

    7月の生まれ月別の占い

    1月
    貴方はこの時期は活発的な気分になっているかも知れません。やりたい事もある事でしょう。しかしながら、どうも周囲の状況やタイミングが合わないような感じもあり、停滞感を感じて場合によっては焦りもあるかも知れません。停滞気味な物事は一旦忘れて、貴方のそばにいる友人や仲間、恋人の声に耳を傾ける必要がありそうです。
    キーワード:
    優しさ、連携、パートナーシップ
    ラッキーワード:
    プレゼント
     
     
    2月
    貴方は新しい事を始めようかと考えているかも知れません。また、このままではいかんと思っているかもしれません。確かにその通りのようですが、まだフィールドは整っていないようです。今ひとつ全力投球できない状況や期待通りにいかない状況かもしれません。今はアクションよりもチューニングのようです。
    キーワード:
    慎み、用心、調整
    ラッキーワード:
    リラックス
     
     
    3月
    貴方はもしかすると最悪な気分になっているかもしれません。でも、それは貴方の至らなさではありません。何かを修復しようとするよりも、ゼロベースからの再出発、新しい自分の追及のようです。
    キーワード:
    変化、変更、新たな始まり
    ラッキーワード:
    新しいやり方をじっくり考える
     
     
    4月
    意気揚々と外には出てみたが天気が悪かったとか、徹底的にデートを楽しもうとしたが相手がブルーな表情だったみたいなそんな感じのタイミングの悪さを感じているかもしれません。自分の気持ちと周囲の状況にギャップを感じて、貴方まで暗い気分になっては元も子もありません。この時期は敢えて合わせようとしなくてもいいかもしれません。
    キーワード:
    ギャップ、マイペース、ミラーニューロン
    ラッキーワード:
    ぶれない精神
     
     
    5月
    色々と紆余曲折あったかもしれませんが、貴方の信ずるもの、もしくは信念は正しいようです。ともすればそれは近いうちに形となって現れてくるでしょう。
    キーワード:
    完成、お互いの信ずる物事の相違、再認識
    ラッキーワード:
    相互理解
     
     
    6月
    良い波が来たらそれに乗らない手はありません。この時期は久方ぶりに良い機運を感じる事もあるかもしれませんし、色々な物事が上手くいきそうです。それも仕事とかの公的部分よりも、私的な部分の欲求や希望が叶いそうです。しかしその反面に周囲の人への気遣いもさらに必要なようです。良い時ほど、周囲の人への配慮をすると評価が高くなりそうです。
    キーワード:
    良い波、解放、変化
    ラッキーワード:
    良い事があった日ほど人に親切を
     
     
    7月
    色々と気苦労の多い今日この頃でしたが、良い流れが戻って来そうです。しかし、貴方の停滞感や周囲や環境への不安から消極的になったり、ともすれば流れが戻ったような気にもなれないかも知れません。この時期は敢えて、一歩前へ進んでみる、そんな事も必要な雰囲気がありそうです。
    キーワード:
    気付き、不信、前進
    ラッキーワード:
    勇気と自信を持って前進、それをするのは貴方自身
     
     
    8月
    計画や予定が上手く行かないと感じる事があるようです。それらの事は暫くは中々進展しそうな雰囲気はありません。一旦、白紙に戻して別なプランも検討する必要がありそうです。
    キーワード:
    原因、探求、新しいプラン
    ラッキーワード:
    その計画は時を得られなかっただけの事、今は別なやり方を考えてみる
     
     
    9月
    貴方の抱えている問題は遠からず解決するかもしれません。それは運勢や他者の力ではなく、紛れもなく貴方の実力であり、力を付けた証拠のようです。
    キーワード:
    判断力、分別、解放
    ラッキーワード:
    分からなかった事、効かぬ見通しからの解放
     
     
    10月
    自然な感じであらゆる物事が上手く行きそうな雰囲気があります。また、生じてくる問題も人と人の繋がりによって解決できそうです。
    キーワード:
    解放、献身、ボランティア
    ラッキーワード:
    問題は身近な人達との連携によって解決される
     
     
    11月
    物事の途中で現れた重大な変更に馴染めずに、それらに合わせたが故に、将来の見通しが明るく見えなくなったというような事があるかもしれません。この時期はそのように感じても決して最悪な状況ではないようですので、希望を抱いて事に当たると良いようです。
    キーワード:
    不馴れ、馴染めない、希望
    ラッキーワード:
    あまり子細を気にせずに、この先の希望を見る
     
     
    12月
    上手く噛み合って行かない状況が増えてくるかもしれませんが、今自分で何とかしようとはせずに自然に任せるしかないようです。何かと悩みが多くなるかもしれませんが、この時期は心身のケアに集中したほうがいいようです。
    キーワード:
    自然の流れ、今に集中、アンコントロール
    ラッキーワード:
    現状維持に集中し、余った時間は自分のケアを

    開運の方法まとめ

    開運の方法を長々と書いてしまいましたので、今のところの考察の要点をまとめておこうと思います。
     
    1.親切を働く
    幸運エネルギーは常に差し引きゼロになろうとするので、親切な行動などを通して自分の外に出すことに専念する。溜め込もうとするのはよろしくない。
     
    2.ネガティブをポジティブにする
    幸運エネルギーとはいうものの、エネルギーそのものには良し悪しの判断がない。エネルギーを出す方向性が重要である。ネガティブ方向に出すと、それが巡り巡ってネガティブの方法から自分に降りかかる。悪い事があってもその分親切を働くなど、ポジティブ方向に出したほうが良い。
     
    3.範囲や数を増やして容量を増やす
    幸運エネルギーの一時的な置き場として容量を増やす。容量の増やし方は、交遊関係を拡大して、その人達にやはり親切を働く。自分の能力や知識を増やして他者の役に立つ。自分が親切働いている行動範囲を広げるなど、人数や場所、行動や活動の範囲や回数を増やすなどして大きくする。
     
    その3点でしょうか。基本的な考えとしては、幸運を運んできてくれるのは、大体は人間であるという事も忘れてはいけません。

    運を多くためる方法の考察

    まあ、物質的な話ですがこの世界にはお金持ちがままいます。色んなタイプがいます。
    まあ、その手段、決して誉められたものではない人達も少なくはありません。
    正直、こういう現実がありますと、真面目に働いている事が馬鹿馬鹿しくなることもあるでしょう。
    今回あえて、クラマルはこういう悪党に注目して考察していきたいと思います。
    悪党にもいくつかタイプがあります。小悪党と大悪党でしょうか。
    小悪党はそこそこの生活です。リスクを背負って悪い事してる割りには、リターンも少なく、豪邸に住んでいるイメージはありません。小悪党の小悪党たる所以でしょうか。
     
    所以 ナッシン バット ア ハウンド ドッグです。
     
    大悪党は豪邸を構えています。
    その違いは何かといいますと、「範囲の広さ」というのが見えてくるような気がします。
    クラマルはエネルギーはゼロサムであり、フラットになろうすると言いました。
    クラマル自身はこれは納得できるのですが、それだと誰も、いつまでたっても、豪邸の一つも構えられないハズです。
    常にエネルギーは自転車操業の状態ですから。しかし、この常にエネルギーはフラットになろうとする性質に変わりはなさそうです。そこを考えると「容量」にやはり理由がありそうです。バケツを大型タンクにしなければいけないのです。
    さて、大悪党が裸一貫から豪邸に漕ぎ着けるには、よくあるパターンとしては内容はともかくとして、多くの人に何かをしている、という所が見えてきます。
    悪党や善人に限らず、豪邸の面積と、その持ち主と関わりある人達の人数には、何か関係性があるかもしれません。
    まあ、ここからはクラマルの私見であり、直感的な部分ですが、人に限らず、知識や行動など何かしらの範囲を広げるというのが、どうも自分の幸運エネルギーの容量を増やす手段のように思います。勿論、エネルギーはゼロサムですので循環を基盤にしなくてはいけません。単純な話、折角、10人の人間と新たに知り合ったとしても、付き合いが悪ければ次からはお誘いはありません。何らかの形でその人達に行動することで循環を図らなくてはいけません。
    自分の幸運エネルギータンクの容量を増やすには、付き合う人達にしても、知識しても、技術にしても範囲や数を増やすという事に要があるように思います。そして、全てではなくとも幸運の殆んどは人間が運んで来てくれることも忘れてはならないような気がします。
    お金に関しては、そうですね。やはりお金の入り口を増やす所から始めるしかないかもしれません。いくら技能や才能、努力があっても一つの所で一つのことをしていては、入り口はやはり一つでしかありません。具体的には会社で働きながら個人事業とかですかね。

    神と生命についての考察

    ここ最近、クラマルは浮き世の様子がそのせいか、当たり前を疑う…もとい、当たり前を見直す、考え直してみるということに注目というか、やっているというか、やり始めたというか、そんな今日この頃です。
    神と生命についての考察ですが、昔クラマルは、そうですね。中学生のあたりからでしょうか?死と再生についてあれやこれや調べていました。簡単にいいますと死んでしまった生き物を復活させる方法を探していた、という感じです。魔術的な分野ではありません。科学的な視点からです。中学生のあたりに小説を書くことが好きだったのですが、物語の背景を全くの絵空事にしますと物語の迫力というか、ご都合主義にもならないような結果になるような気がしましたので、科学的な考証もある程度考えていました。まあ、そんな中で不死、再生についてあれやこれや、図書館で調べていたのですが、本当に愚かな男子中学生でした。そもそも、多くの学者さん達がその叡知を集結してもなお、解けない謎の答えが、図書館にあると考えていたのですから。
    図書館に通って生物学の本やら、百科事典やら色々と調べて行き着いた答えが、生命とは化学的な反応や現象だということです。死とはその化学的な反応や現象が無くなった状態ということも出来るかと思います。
    しかし、具体的な手段が見当たりません。当たり前です。しかし、まずは生命の仕組みから見てみる事にしました。生命誕生の時代の物事ですね。たんぱく質だとか電解質だとか、高分子化合物、そんなあたりですね。
    少年フランケンシュタイン博士でしょうか。
    するとまあ、単純な物質からなる複雑な分子構造の関係で生命が成り立っているという事に行き着きました。
    ここで、更なる謎に直面しました。分子一個、元素一個が寄せ集まって、生命などになるものだろうか?
    いわゆる非生命の集合体が生命の材料となり、一個体の生物を造り上げているのです。と、いうことは逆に言うと、生物の正体は非生命だということになるのです。合点がいきません。非生命は生命足りうるか?そういった感じです。
    また、物質には基底状態、励起状態という現象というか状態があります。これは物質がエネルギーを受けたら、電子が活発に運動したりして、受けたら過剰なエネルギーを消費して元に戻ろうする挙動です。
    つまりは、「僕が僕であるために、回り続けなければならない」のです。
    これも不思議です。まるで何かしらの意思を感じます。
    クラマルは最近思うのです。非生命で生命が作られているのではなく、この森羅万象全てが人智では語り尽くせぬ生命で満たされているのではないか?、と。
    目の前にあるテーブルも生命体なのではないか?
    そもそも、真の非生命というものが、この森羅万象には存在しないのでは?
    そのように考えるようになりました。すると、先程の基底状態、励起状態の動機というか、原理というか、そのあたりにも説明がつくような気がします。全ては神という大いなる生命の中にある生命で満たされた世界というのが、我々の今いる場所なのかもしれません。

    もしかしたら神化している文明についての考察

    昔、読んだ本で人間は社会を作るにさしあたって、無意識に自分たちの持つ脳をモデルにしているという説を読んだ事があります。クラマルも何となくこの説には賛成です。しかし、クラマルはちょっとこの説にプラスアルファしたい気がします。
    それは、人間は文明社会や道具、芸術作品を作り出すにさしあたって、無意識に神の一面や断片をモデルとする。
    そんな気がします。こう思うようになったのは、プログラムの現場ででした。
    さて、プログラムを書こうとデータファイルをまっさらな状態で開きますと、そこには世界がないのです。
    勿論、コンピューター上の仮想世界の話でしかありませんが、とにかく「ない」のです。
    そこにはゼロという概念すらありません。まあ、ローバリュー、ハイバリューとか色々絡みはありますが、仮想世界ですがとにかく「無」の世界なのです。そこにプログラム言語を使って世界を構築していきます。ここからスタートです。過去と現在の始まりです。
    この仮想世界において、プログラム言語は創造のゴッド・スペル。一文字入力すれば、そこが始まりの日、ハッピーデイなのです。ま、そんな事はどうでもいいのですが、ここで重要なのはプログラムが一文字も書かれていないデータファイルは、宇宙誕生以前の状態ということです。他にもコンピューターのモニターの画素など、これも「超ひも」に似ている気がします。まとめて言いますと、コンピューターは多くの開発者や研究者達の持つ、神の断片的記憶を無意識に寄せ集めて作られた、神の再現のように思えてならないのです。勿論、真実の神と同等の存在には中々なれないような気もしています。それが人間の限界なのでしょう。コンピューターに限らず、自動車にしてもハンマーにしてもハサミにしても、全てが記憶の片隅におぼろげにある「神の断片」が元になっているのではないか?そのように思います。
    とはいえ、これを検証することは不可能のように思います。まずは、現代科学のセオリーに則って、神という存在を定義しなければなりません。まあ、脳もまだ全て解明されているともクラマル自身は思えませんが…。
    しかしながら、クラマルは人間というのは文明の構築を通して、神を再現しようとしているようなそんな気がします。
    もし、そうならば人間の魂の記憶という言い方も出来ると思いますが、誰しもが神の断片を記憶して生まれているように思います。
    多く人達が叡知を集結して、コンピューターや自動車を作り上げたように、宗教だとか思想だとかも、それぞれに分散した神の断片と考えて、それらを集積する事で平和な世界だけではなく、より良い精神的文化を創造し得るような気もしています。
    まあ、それはそれとして、神の断片に触れたいと思ったならば、ハサミで紙を切ってみましょう。

    神と物質の位相についての考察

    スピリチュアルな記事や本を読んでいますと、神様からのメッセージとか、人間的な個性を伴った神との接触についての話を聞きます。反面、陰陽のエネルギーが云々という感じに生物的な個性すら感じられない話なんかもあります。一体、どちらなのでしょう?
    かつてのクラマルはこの疑問にぶち当たりました。そしてそのあたりの理解が進むまでに長い時間がかかりましたが、それらについて解説したいと思います。
    とはいえ、これはクラマルの今のところ行き着いた答えですので、これに囚われずに、「まあ、そんなもんかね」の程度に参考にしていただければと思います。
    神と物質世界は曼陀羅の図を見ると分かりやすいように思います。曼陀羅の世界は、上の高位な世界ほど仏様とか神様とか、存在するものの数が少なくなります。逆に下の低位な世界ほど数は多くなります。
    高位な世界ほどシンプルになり、低位な世界ほど複雑怪奇になってくるのでしょう。
    物体の世界。つまりは我々の世界は人間という存在一つ取ってもかなり複雑な構造体です。複雑な構造体が更に大きな括りの社会という複雑な構造体を造り上げているのですから、この物質世界は複雑なわけです。
    高位な世界に近づくとどうなるでしょうか?エネルギーという有るか無いかの基準しかない、比較的シンプルな世界です。ここから見えてくるのは、高位ほどシンプルだが、低位ほど分子だとか複雑になるという反比例のようなものです。
    では次は意識レベルというか、そのあたりを見てみましょう。高位な世界の最骨頂な意識は、「我、存在す」だけのように思います。低位な世界ほど感情の芽生えが起きたり、複雑な意識や個性が生じるのでしょう。そう考えますと、我々が普段から親しむ神様の個性的なイメージというのは、最高以下、物質世界以上の存在なのかもしれません。
    高位な世界ほど物質的な部分が少なくなってきます。分子の世界ではありません。構造もシンプルなエネルギーの世界です。
    低位な世界ほどエネルギーは物質化傾向があるように思います。
    高位に近づくと、構造は単純化し、個性的ではなくなり、意識もシンプルになり、エネルギー化する。エネルギー体なので自由。
    低位に近づくと、構造は複雑化し、個性的になり、意識も複雑になり、物質化する。物質物体なので不自由、固定化。
    という図式が成り立つように思います。

    潜在意識の一部を見る方法の考察

    顕在意識と潜在意識、潜在意識は自分自身が把握しずらいものだとよく言われています。潜在意識とは意識の深層の部分ですし、どこからどこまでの領域というバウンダリーを引く事は、かなり難しいもののように思います。試験に合格しますようにと願うのは、今この現実自分は合格していない、という意識があるからで落ち着いて掘り下げていかないと、合格したいから合格を願っている、という意識しか把握出来ないかもしれません。しかしもっと根幹的な深層意識には何があるのかを知ろうとするならば、まずは自分の過去の日常の言動を思い出したり、部屋の中にどんな物があるのか?無用な買い物をどのくらいしてしまったか?どんな物を買ったのか?そのあたりから見ていくしかないように思います。クラマルの場合はどうでしょうか…。自分の部屋を見渡しますと、そうですね。絵の具や粘土が多いでしょうか。絵の具も新色の類いは必ず、同じ色の絵の具を2本買って置いてあります。まだ、使ってもいない絵の具です。これは心配性な性分から同じ色を二つ買っているように思います。すると浮き彫りになってくるのは、クラマルの深層には極度な心配があることが見えてくる気がします。クラマルは絵を描きます。そうですね。最近ではマンガのキャラクターをよく描いています。以前は機械と生き物が融合したような絵を描いてました。マンガのキャラクターを描いている時の意識は、そうですね。普通に描いているのとは違うような気がします。どこか、願をかけるように描いている事が多いような気がします。これは、自分には持ち得ぬもの、手に入れるならば、生まれる所からやり直さなければならぬようなもの、つまりは手に入りそうもないと感じているものを描いているような気がします。描くとはコントロールの一種です。自分の自由に扱う事が出来るわけです。描く事を通して、手に入りそうもないものを自分に取り込もうとしているのかもしれません。まあ、こういった具合に自分の過去の行動や目の前にある自分が買ったもの等を並べて分析していくと、面白い事が分かると思います。

    タロットカードを概念的に動物に例えてみます

    クラマルの私的な見解を出ないものではありますが、タロットカードを何かの動物に例えてみます。とりあえず、0番から9番の範囲からやっていきたいと思います。
     
    ★愚者
    アメーバ、もしくはタコ等の軟体動物。
    愚者は仏教用語の空にあたる性質があると感じます。空とは大いなる可能性を秘めています。これからもどんな生物にも進化できそうなアメーバのイメージです。また、愚者はどこかトリックスターな印象があります。大体のところにスルリと移動してトリッキーな動きをするタコのような気がします。
     
     
    ★魔術師
    魚、サル、オタマジャクシ、精子。
    魔術師は何か初期的な形をもった存在のように思います。これから成長や発展の可能性があるのです。しかし、愚者に比べますと自由奔放とはちょっと違います。ある程度の方向性が決まっています。指向性を持っているということです。そこで、これから両生類、爬虫類、哺乳類のルートの原形となる魚、または知恵をつけて発展する可能性を秘めているサルが何となくクラマルのイメージです。
     
     
    ★女司祭
    卵子、脳、眼球、感覚神経、女王アリ
    動物に例えるとはいいましたが、これはちょっと悩みました。イメージ的には海の中で動かずにじっとしながら、栄養分や遺伝子情報をやり取りする古代のクラゲとかそういうイメージですね。植物の方が例えやすかったかもしれません。臓器にすると筋肉や運動神経のイメージは何だか沸きません。脳、もしくは脳の中の記憶を司る海馬?とか、感覚神経みたいな受容器官のイメージがあります。強いて挙げるならば、女王アリでしょうか?自分のテリトリーから動かず、新たな生命を生むという女性的な部分。その生殖も我々のような哺乳類とはちょっと違います。一度の交尾、つまりは遺伝子情報を受けとる事でその後の多くの卵を産みます。
     
     
    ★女帝
    ミツバチの女王バチ、ハキリアリ、ウサギ
    多産の象徴であるウサギはパッと浮かび上がるイメージではありましたが、女帝は生命を育む外界、つまりは神様のゆりかごとも受け止める事もできそうです。ミツバチやハキリアリはどちらかというと、外界のエネルギーという名の恵みを受ける我々の側に属する存在ですが、自然の恵みを強く意識させてくれるキャラクター性がありますので、これらをイメージしました。ハキリアリは特にも農業的なイメージもあります。一応、女帝でしたのでミツバチの女王バチとしておきました。
     
     
    ★皇帝
    軍隊アリ
    タロットカードの椅子にはヤギの頭が描かれている場合が多いのですが、クラマルとしては自由奔放さが伴うヤギとはちょっと違う気がします。皇帝は自然を意味する女帝とは反対の意味合いである、制御の意味合いがあるように思います。まあ、自然を人為的にコントロールする文明とかそういった感じです。アリは組織的に巣を掘削したり建造したりします。そこでアリをイメージしましたが、問答無用な強制力を示す権力者のカードでもありますので、軍隊アリがしっくりくるイメージのように思います。まあ、大体、全般的にアリは軍隊アリのような性質は共通して持っている気がしますが。
     
     
    ★法王
    霊長類という意味合いでのサル、オランウータン、トンボ、亀
    法王というとタロットでは仏教の法王の姿ではないですね。キリスト教です。と、なりますと羊のイメージもあるかとは思いますが、神の法を守るばかりが法王の役割とは思えません。神と人々を繋ぐ要の役割も担っているような気がします。人間社会、物質世界と神の領域、霊界の架け橋のようなイメージとなると、内と外を象徴する亀がクラマルにはしっくり来ます。霊長類というイメージもありますが、サルやオランウータンは物質世界をのんびり生きる知恵のイメージもあります。それはウォームな感じがありますが、法王は少しクールなシステマティックな印象があります。そこを考えると亀のような気がします。
     
     
    ★恋人達
    カタツムリ
    一般的には恋愛を表しますが、概念的にというか人間社会の現実的現象という肉付けを剥ぎ取っていくと、陰陽とか、プラスとマイナスの融合とかそういった意味合いがあるように思います。そうなると先の法王の亀と重複するようなイメージもありますが、カタツムリのほうがよりこの恋人たちのカードのイメージとぴったりな気がします。カタツムリの生態は雌雄同体という陰陽の混合です。またカタツムリの構造としてはナメクジの様な軟体に硬質な殻がついています。また、亀のように内側外側に出たり入ったりします。
     
     
    ★戦車
    サイ、猛禽類、特にも鷹
    戦車というと好戦的なイメージがあります、鷹派なんて言葉もありますが、猛禽類は攻撃性が強く、また見通しも良く効きます。つまりは自信です。しかしながら、猛禽類の狩りは常に自分に有利な物事ばかりではないようです。鳥の骨は軽くて脆い一面がありますし、獲物の思わぬ反撃によって再起不能というのもよくよくあるようです。さしもの猛禽類も勝てるケンカしかしないようにしているようですが、常に圧勝というのは難しいようです。そういった危うさも戦車のカードには含まれています。戦車には早さや急展開の意味合いもあります。サイなんかもイメージに合う気がします。クラマルは動物園で大人しく横になっているサイしか生で見たことがないですが、怒り狂ったサイというのはこの戦車のカードにはピッタリな気がします。もし戦車のカードが示唆する災難があるとするならば、ぶちギレたサイに追いかけ回されるようなそんな感じでしょうか。
     
     
    ★力
    ライオン、またはライオンの親子
    力のカードには力全般的な意味合いがあります。体力、耐久力、知力、能力それらも指しますが、同時に正しく力を使う必要があることも意味します。皇帝の場合のコントロールは自分の意のままに操るコントロールですが、力の場合は美徳や道徳と照らし合わせたコントロールの側面が強いように思います。外的意味合いとしては抑圧を受けるとかそういう意味合いもありますが、その抑圧や抑制も皇帝のものとは違うものです。親から子への躾とか、そういう愛情や社会規範に裏打ちされたものです。また、このカードは調和やバランス、といって馴染むとか、具体的イメージとしていえば、ライオンと添い…、いや、猫と添い寝しているような自由を認めつつも、いくらか自身の意思も認めてもらうようなそんな感じでしょうか。力のイメージとしてライオンを思い浮かべましたが、親子のライオンが昼寝しているような側面もこのカードにはあるような気がします。世間にはライオンと添い寝出来る人もいるかもしれませんが、きっとクラマルの場合はあの鋭利な爪で顔を骨ごと抉られるか、首の骨を噛み砕かれて終わるだけでしょう。ライオンには気を付けましょう。
     
     
    ★隠者
    ヘビ
    ヘビというのはあまり良いイメージはないかもしれませんが、脱皮して成長するのは、文字通りのひと皮剥ける、のその通りです。隠者というのは仙人の姿に近いでしょう。苦行や苦悩、難解な学びの末に孤高の存在となるのです。ヘビは転生の象徴でもあります。確か…。
    幽体離脱とも見れますね。隠者は雑念や煩悩という名の皮を脱ぎ捨てて霊性や精神性を洗練していきます。剥け続けるのです。また、ヘビは知恵の象徴でもあります。それらから、隠者はヘビの象徴的なイメージそのもののように思います。クラマルは、過去マムシと目があったことがあります。生きた心地がしませんでした。あの時はきっとクラマルはカエルだったのでしょう。ヘビに睨まれたカエルという言葉も聞いた気がしますし。

    開運の方法についての考察4

    開運の方法としては、自身の労力を使って親切を働く、という事にまとめられるような気がします。親切からの行動にはボランティアなど、色々とあるとは思いますが、とりあえず何をしたらいいか分からないのであれば、日常生活に於いて、道端に落ちているゴミを見つけたら、ちゃんとゴミ箱に片付けるというのがいいかもしれません。
    メカニズムやプロセスに一応触れておきます。Aさんがゴミを道端に捨てたとします。道端にゴミを捨てた行為そのものはプラスもマイナスもないのですが、現実空間にはそうはいかない部分もあるようです。心理学にはブロークンウィンドウ現象というものがあります。これはゴミや廃品が放置された地域では、犯罪率が上がるという不可思議な現象です。つまりは、ゴミを道端に捨てたということは、その地域の犯罪率を上げる事に間接的に加担することになるのです。どうでしょうか?この先Aさんがゴミを捨てた事が遠因となった犯罪に巻き込まれた人がいたならば?その分だけ徳点がマイナスされる可能性があるのです。
    とはいえ、普通に考えてゴミを然るべきゴミ箱に捨てずに、道に捨てる事は問題ですので、ちゃんと片付けるべきです。
    まあ、ブロークンウィンドウ現象については度外視して、とりあえず道端に捨てた時点では0です。フラットです。
    しかし、そこにBさんがやって来て、そのゴミを片付けたなら、その分だけBさんがエネルギーを出した事になります。AさんはBさんにお世話をかけた形になりますので、その分のエネルギーが加算されます。簡単にいうと、BさんはAさんの捨てたゴミを片付ける事でAさんの捨てた運を受けとる形となります。Aさんはゴミを道端に捨てた事で、道端に運を捨てた事となるのです。とりあえず、これでBさんは徳点が入りますが、Aさんはちょっと厄介事を背負う事になるかもしれません。エネルギー過多です。空間はゼロフラットになろうとしますので、Aさんはその分だけ物が壊れたり、面倒事が起きたりする可能性が高くなるようです。
    まあ、人間の社会は持ちつ持たれつですので、理想的なバランスというのは難しい点ではありますが、メカニズムとしてはこのような感じのようです。こうしてみると道端にあるゴミは奇跡を起こす幸運のエネルギーとしてとらえる事が出来そうです。勿論、然るべきゴミ箱に片付けるという事が大事です。反面、道端にゴミを捨てるのは災厄を呼び寄せる、自分自身にかける呪いのような側面もあるかもしれません。

    とりあえず、平たく言えば開運方法というのは、これらのエネルギーの特性を理解して、親切な行動や誰かを喜ばせる事のように思います。

    逆に考えますと、例えればクラマルが誰かの雑草取りを手伝ったとして、その後に何かの形でリンゴを一箱もらったならば、今のクラマルの出したエネルギーはリンゴ一箱分とイコールするというふうに見ることも出来るのです。それもまた、面白いかもしれません。

    開運の方法についての考察3

    次はエネルギーの挙動について解説していきます。エネルギーの挙動は、差し引きゼロのゼロサムの性質があるようです。常にフラットとなって安定しようとする。偏りを嫌う性質があるようです。そう言った意味では、エネルギーの性質は平等と言えそうです。

    モデルとして具体的な例を挙げますと、熱いコーヒーの入ったコーヒーカップです。ご存知の通り、放っておけばコーヒーは冷めてしまいます。冷めたコーヒーです。ですが、一般的な空間では物質が活動を止める絶対零度まで温度が下がるわけではありません。クラマルも未だかつて、そのような現象に出くわした事がありません。大体の所として、室温とほぼイコールではないでしょうか。つまりは安定するフラットの状態となったのです。因みに熱は熱エネルギーと呼ばれます。

    エネルギーはどうも定数のようです。無限のエネルギーという言葉もクラマルは過去に何度か聞いた事がありますが、とりあえず、エネルギーもこの宇宙空間に於いて有限のようです。もしかすると、我々の認識している無限と真実の無限では差異があるのかもしれません。これは神のみぞ知る世界の領域かもしれません。
    そう考えますと、エネルギーというのは決まった数が、見かけや有り様を変幻自在に変えながら宇宙を循環しているのかもしれません。エネルギーの消費という言葉がありますが、それは単に見かけや有り様が変化しただけの結果ならば、エネルギーの消滅というのはあり得ないのかもしれません。決まった数のエネルギーが増えることも消滅する事もなく循環しているのが、この世界なのでしょう。
    運動エネルギーを熱エネルギーに変換する簡単な方法があります。物と物をゴシゴシと擦り会わせればいいのです。摩擦運動が摩擦熱に変わります。このようにエネルギーは形を変えます。

    これを考えますと、お金という流通システムはこのエネルギーの原理を無意識に応用したものなのかもしれません。

    そうなると、エネルギーというのはどのくらいの時間にどのくらいの量を保持し続ける事が出来るか?というのが要のような気がします。

    開運の方法とエネルギーに挙動について関係が薄いと感じられるかもしれませんが、この性質は基本的な部分のように思います。細かな点は今回は割愛しますが、運もエネルギー、徳点もエネルギーと考えてもらえればよろしいかと思います。

    先にも述べましたが、エネルギーは高低差を無くし、ゼロフラットになろうとする性質があります。これは、言い換えれば、常に高い所から低い所からに流れるという事です。
    エネルギーの流れを作りたければ、保持しているエネルギーを減じる必要があります。
    エネルギーを外に出して減じる方法は、「動く」事です。行動です。

    人間とはエネルギーに関して特筆すべき性質があるようで、意図的エネルギーを出す事が出来るようです。厳密に言うと意図的に入れるということはあまり出来ないように思います。その代わりに受け入れるか、拒否するかは決められるようです。

    運に関わるエネルギーというのは、この空間にある物質や人を直接的に引き寄せるようなエネルギーではないようです。知覚している物事は、そのエネルギーの流れの結果のようです。

    エネルギー過多の状態となると、この空間には自動的にエネルギーをゼロフラットにする働きがあるようです。何かを誰かにしてもらった後に、物が壊れたりする現象として現れることもあるようです。一概に言い切る事はできませんが、何かをしてもらった事でエネルギーが過多となり、自動的にゼロフラット修正が働いた結果として物が壊れた。と言えば分かりやすいでしょうか?それを回避するために、その分何かを誰かにするというのは効果的なようです。ここは結構重要な気がします。やはり、エネルギーを意図的に循環させることは大事なのです。

    エネルギーは流れるものですので、新たな何かを求める事は、エネルギーの流れを作る事と認識するといいかもしれません。ちょっと落ち着きたい時は、意図的に流れを少なくする事も考える必要があると思います。
    そこを考えますと、人間は状況の変化に対して幸福を感じるのかもしれません。当たり前に良いことが続けば続く程、退屈に思うのかもしれません。その観点から、開運というのは運びを開くわけですから、エネルギーの循環を意識すべきなのかもしれません。勿論、方向性というのもあります。

    簡単にまとめますと、エネルギーはギブアンドテイク、ゼロフラットになろうとする性質があるので、先んじてエネルギーを外に出す。それは「働き」という行動、というふうに考えるといいかもしれません。

    その「働き」というのは、とりあえず親切な物事を行う、という事で覚えておくと考え易いでしょう。

    まだ、続きます。

    開運の方法についての考察2

    開運の方法とは数多ありますが、クラマルのご紹介する開運の方法はちょっとあまり聞かないものかもしれません。クラマルの開運方法といいますのは、結局は多くの占い師やヒーラー、スピリチュアル関係者の方々のいう所に帰結していくように思いますが、方法論の違いでしょうか?ちょっと特異に聞こえるかもしれません。

    クラマルのご紹介する開運の方法は、個人とエネルギーの挙動の2点について触れなければなりません。

    今回はまず、個人から解説というか、お話していきます。

    不幸 普通 幸福という基準があるとします。かつてのクラマルは幸福ではないことは、不幸だと感じていました。つまりは、不幸と解釈する基準が2つあったわけです。不幸と普通、この状態が不幸とイコールしてたわけです。別に意識的にこの考え方を改めた訳ではありませんが、そこそこ人生を経験してますと、とりあえず人の世にはフラットという状態もあるのだと、自然に2つしかなかった基準点が3つとなりました。若い20代の時は刺激的な経験を求めがちでしたので、フラットの退屈という状態は不幸と認識していたのですが、歳を重ねるとつつがない毎日が好日と感じるようになりました。一仕事終えて、家に帰ってちょっとした旨い物でも食べる。一見変わらぬ毎日が、のんびりとしていていい。そのように思いました。人間が最高潮に幸福を感覚できる時間は最長で4秒しか持続しない、という話を何かで読んだ事があります。人間の幸福というのはそういう打ち上げ花火のような物なのかもしれません。遠い夢の中なのです。話は逸れましたが、つつがない毎日が、そこそこの幸せな日々と感じるようになりますと、普通と幸福の2つの基準が幸福とイコールするようになりました。月並み言い方かもしれませんが、判断基準の意識改革というのは、幸せを感覚する能力の拡大につながりますし、自分の根底基盤には幸福があると実感していれば、新しい事にも果敢にチャレンジできるようにも思います。やはり、失敗したら不幸になると考えるのは恐怖以外の何ものでもありません。普通を幸福にカテゴライズできれば、失敗しても差して変わりない日常に戻るだけ、と思うことが出来れば、そこまでプレッシャーに押し潰される事も少なくなるかな?と思います。つまりは、幸福は状況に向けての自身のパフォーマンスも良くなるのです。まとめますと、不幸は不幸とイコールとし、普通と幸福の2つの基準を幸福とイコールするという所でしょうか。もっといえば、不幸な状況も幸福へのプロセスと納得できれば、開運の方法を探す必要もあまりなくなるように思います。

    ここまでお話すると、何となく分かってきているかとは思いますが、開運とは自己改革を必要する側面があるということが見えてくると思います。開運の正味な部分はやはり、行動のように思います。その行動といいますのは、体裁に左右されず、深い意味合いで理にかなった行動が出来てるかどうか?という所も重要に思います。人の目や体裁、良識といいますのは、時として個人を抑圧する面があることは、クラマルが敢えて言わなくても分かっている事と思います。しかして、浮き世には道徳や美徳としては問題ないのだけれど、衆人の目としてはどうだろうか?というような物事は結構あります。つまりは、人の目が気になって親切も働けないという状況はあるかと思います。あまり、自分のしていることを口に出していいたくはありませんが、クラマルは道端に落ちているゴミは可能な限り拾って、然るべきゴミ箱へ捨てています。これは日常的な動作となりました。あまり、人の目も気にしなくなりました。こう言っては何ですが、そのゴミをクラマルが片付ける事に何ら問題はないはずです。こうしていますと、道端のゴミを拾わない日はないように思います。クラマルがゴミを探しているわけでもありません。残念ながら、それだけ道端にゴミを捨てる人は多いという事なのでしょうし、全体的な数として、拾う人間の数は少ないかもしれません。でも、これを一歩引いて考えてみますと、日常的に拾って片付ける人間は少数派であるということです。少数派であるゴミを片付ける人達は、色々と楽ではありませんが、養われる意識はあるように思います。それは、実質的な目的を達成するために、他者の目を気にしなくなる。という意識のように思います。やはり、幸運な状況というのは行動の先にあるように思いますし、自分としてはその行動を取りたくても他者の目が気になるという状況はよくあります。それによって行動を躊躇する事も結構あります。結果として幸運な状況を手に入れる事が難しくなる事にもなりかねないように思います。道端のゴミを片付けるのは、自分のボーダーを越える、言うなれば、幸運な状況に向けて一歩踏み出すための体質作りでしょうか。殻を破る手段かもしれません。

    得点ならぬ徳点についてお読みの方は、もうすでにお気付きのことと思いますが、道端に捨ててあるゴミを片付けたらどうなるか?何となく分かっているかと思います。

    不幸と感じる物事の多くには同種族であるところの人間が関わる事が多いと思います。人間にとって最も難しい相手は人間なのではないかとクラマルも思う事がよくあります。しかし人間には、物の良し悪しを判断するための絶対的な軸はないように思います。そもそも、使用する用途の違いがあったにしても、絶対的な軸線を内包できるのは、宇宙とかそういった強大な力くらいではないでしょうか?どんな人でも究極的には自由意思による決定によってその言動がなされているわけです。場合によっては、自分の感情の正統性を担保するために、論を使うというのも珍しいことではないように思います。つまりは、人間は思考ではなく、まず先に感情に突き動かされるというのが根本的な人間の性質のように思います。それと、いつでも誰とでも意識や感情を共有できるかというと、そう簡単ではないのが人間のように思います。やはり、ことごとく相性の合わない人間というのも、この世の中にはいるものです。互いに分かり合えるのが人間ならば、民族間の紛争というのは神代の時代に終わっている出来事になっているはずですが現状は見ての通りです。そんな中で、分かり合える共通部分がいくつかある関係というのは、それだけ珍しくて貴重なものなのでしょう。人間はなかなかに分かり合えない所から始まっていると考えれば、上手くいかなかった関係について思い出したり考えたりして、そう深く傷付く事も少なくなるように思います。違いがあって当たり前、だからそういう事も起こりうる。の程度にしておけば、あまりに人間関係の負担も感じずに済むかもしれません。気にしなさすぎるのも問題ですが、やはり気にしすぎるのも考えもののように思います。

    他に色々と考えて変えるべき点はあるかと思いますが、自分の脳や心を使って、不幸の数を減らしていくことは可能な気がします。

    開運の方法についての考察

    開運の方法について解説する前に、運の種類というか、流れというかそのあたりから考えてみましょう。

    運の流れというものには大きく分けると3つあるようです。占いの種類にしますと、命、相、卜。

    命にあたるのは、占星術や四柱推命、九星気学など、生まれた日時に関係する性質と自然とのタイミング的な相性でしょうか?クラマルはこの専門ではありませんので、的を得られているかどうかは分からない所ですが、自然の外的な流れのように思います。具体的なものに例えると川でしょうか?流れの早い場所もあれば、川底に隠れ岩などがあったり、淀みがあったり。そんな風にクラマルは思います。

    相にあたるのは、手相、人相、風水、場合によっては骨相もこれかもしれません。そのものの持つ形や有り様の性質でしょうか。クラマルとしては、ある部分では生物学と少し似ているように感じます。命が川ならば、相というのはそこを泳ぐ魚そのものの形に言及したもののように感じます。泳ぐスピードが早い魚、耐久力が高い魚、適応力が高い魚など、形態や生態のもつ性質について扱うような、そんな風にクラマルは思います。

    卜はタロットや霊視など、個別の事案について扱うもののように思います。他の占術師の方々も先に触れた、命や相と併用している方も少なくないのではないでしょうか。やはり卜は命や相を基盤とした、個々の行動と結果に言及されたものでしょうか。これは魚の泳ぐ方向や泳ぎ方そのものに例えると分かりやすいかもしれません。流れの早い所で、早い速度で泳ぐ事ができる性質は、必ずしも良いことばかりとは言えない事もあります。急カーブの多い下り坂をスポーツカーに乗って、フルスロットルで加速したらどうなるか?火を見るよりも明らかですね。適正に減速する事も必要なのです。

    とまあ、こういった感じでしょうか。基本的な部分でお話すると、開運の要と言いますのは、流、形、行の3つのまるで、エボニーとアイボリーのようなパーフェクトハーモニーのように思います。

    とりあえず命、相、卜は基本的なものとして、クラマルは人間というスピーシーについて深く考え、開運というかそのあたりに重きおいて考えますと、自然、社会、個人の3つの括りの要が見えてくるような気がします。

    自然には宇宙や地球のもつエネルギーの流れ、命にあたる要素が含まれます。真に自然由来の自然災害もこれにあたると考えます。命は人間個人個人の持つ自然と織り成す霊的な性質でありますが、宇宙の絶対基準、地球上での絶対基準のようなものもあるような気がします。この絶対基準に左右されてしまうのも人間や魂なのではないでしょうか。ただ、この絶対基準はゼロサムが基本的な挙動のようにも思います。単純に地球上では、ビルを右下から壊せば、右側から倒壊するような、そんな自然法則のようなものでしょう。

    サバンナに生息するシマウマならば、素直に宇宙や自然の法則が比較的適用できそうな気もしますが、人間というのはそうは素直にいかないような気もします。社会というファクターです。社会というのは文明文化とも言えます。文明を築き上げた根底にある思想は、自然のコントロールもしくは、どのくらい自然の悪影響を避けられるか?、そのあたりなのではないでしょうか。また、時代が進むごとに全ての人々が等しく時を得られない、まあ、もっとも自然が誰にでも等しく良い機会を与えるとも限らない点はありますが、不平等なシステムが結果的には構築されてしまっている現状もあるかと思います。人為的に創造された外的な要因が個人に影響を与えるのは想像に難くないように思います。勿論、その波を上手く乗りこなしている人がいる事も、文明社会の内側に居たからこそ避けられた不仕合わせがあることも事実です。これらを更に開運という観点から見ていくと、社会の内側で流れている物事もあるように感じます。簡単な所ではwhen whereが色濃く影響を与えるでしょう。やはり文明社会のシステムは自然の流れを度外視して物事をある程度行える、人間の自由意思の集積の側面もありますので、人為的に引き起こされた悪い時、人為的に作り出された悪い場所というのもあるでしょう。あまりこのような事は言うべきではありませんが、雰囲気の悪い職場には中々、人が居着かない。人間が作り上げた精神的な危険地帯というのは、心霊スポット並に危ないのかも知れないと、クラマルは今日この頃思う事もあります。我慢は美徳かもしれませんが、心身の健康を損なっては、元も子もないでしょう。
    逆に追い風となる場所や時というのもあるものです。命や相から見出だされた流れは悪くとも、人為的に作り出された時と場所によっては、あまり実生活に影響を及ぼさない事もあるような気がしますし、そういった人も少なからずいます。人間の叡知や自然のコントロールはこういう形に使う事が出来れば理想的な文明なのかもしれません。人為的な理由が原因で引き起こされた災いの類いはこの社会に属するもののように思います。とはいえ、文明文化は自然に対応する事が基本的な挙動でしょうから、個人という単位と同様に命、相、卜の観点から見る必要がありそうです。

    続いて個人なのですが、個人の物資的な根幹は自然です。しかし、先にのべた人為と自然が渾然一体となった社会の内側が殆んどでしょうから、個々に事情や向かう方向性というものも一様ではない個性があります。しかし、人の行動を決めるのはその人の意思や思考、潜在意識、場合によっては身体的能力や性質もあると思います。卜のような気がします。

    自然の流れ、社会システムの流れ、個人の挙動。当たり前といえば、当たり前ですが開運の要というのはこのあたりのような気がします。
    これを色々な側面から見る術が命、相、卜のように思います。

    長くなりそうですので、次に続きます。

    カメレオンには天使の名前が隠れています

    唐突ですが、カメレオンの学名はカマエル・オニダエというそうです。カマエルは天使の名前ですね。意味としては全てを見る者だそうです。なるほど、カメレオンの目は色んな方向に動きます。きっと、眼球とそれに関わる筋肉なんかが、あのような形に変化した結果なのでしょう。カメレオンといえば、自身の体の色を変化させて周囲と調和します。それによって、自分の存在を目立たなくしているわけです。
    逆に調和しないと悪目立ちしてしまいます。
    人の世にも、朱に染まって赤となるという言葉もありますし、逆にそうでないとグループの中で浮いてしまうというような事もあるかと思います。
    まあ、今回は直接的に色に関わる話ではないのですが、波長でしょうか、そのような観点から人と人の繋がりなど、考えてみようと思います。クラマルは何かの本で読んだ事があるのですが、教養とは、別な世界に住む人たちと話すための言語である、という話を聞いたことがあります。
    確かにそのように感じる事は多々あります。例えればクラマルは物理学や数学の知識に乏しく、その道の人と話をしていてもちんぷんかんぷんです。互いに噛み合わない雰囲気というのはお互いに共有できてしまう部分はありますので、あまり深いコミュニケーションには繋がらない可能性は高いわけです。すると、どうでしょうか?やはりあまり濃密な人間関係には発展しないことの方がほとんどのような気もします。しかしながら、クラマルが物理学なり数学なり何か少しでも調べて、「クラマルはこのように考えるのですが、実際はどうなのでしょうか?」というような一歩踏み込んだ質問だとか、「フィボナッチ数列というのは素数の配列である、ということで理解してよろしいものでしょうか?」とか、やはり具体的なキーワードでもって話す事によって、ステップの上がったコミュニケーションが築けるような、そんな気がします。
    そこを考えますと、日頃から色んな事を知っておくというのは、色んな人との縁を結ぶためのパスポートというか、そんな風に役だってくれるものでもあります。色んな人間と仲良くなるためのツールでしょうか。
    いつだったか、駅のベンチで一休みしていたとき、そこに大荷物を持った外国人の男性がクラマルの足に少しぶつかりました。彼はゴメンナサーイ、といいながらクラマルの隣に座りました。また、ゴメンナサーイ、スミマセンと言って来ましたので、どちらからいらっしゃいました?と聞いてみますと、ウェールズから来たと答えて来ました。クラマルはウェールズの国旗を何となく知っていましたので、ウェールズの国旗にはなぜ赤い竜が描かれているのか?、と聞いてみましたら、色々と由来を教えてくれた上で、ウェールズの国旗をあしらったメモノートを彼はくれました。
    ま、そんな事もありました。一つでも二つでも共通話題があると、そこから弾む事も多々あります。
    人と人との波長というのは、それを知覚できる能力だとか、そういった感覚に長けていない場合は、やはり誰とどの程度合致しているか?なんて事は分からないように思います。
    何となく、理由は分からないけれどこの人と合う、というような感覚も人生にはあるとは思いますが、そうそう頻繁に感覚できるようなものでもないような気がします。そこを考えますと、波長を合わせるというのは本当に難しい問題のようにも思います。
    それならば、色んな分野の事を広く浅くでもいいので、知っておくというのがやり易い事のように思います。カメレオンのように変幻自在であれば、多くの様々な人との弾んだ会話もできますし、それをきっかけとして新たな縁というのも結ばれる気もします。そして、相手によっては恋愛に発展する場合もあるでしょう。そういった意味でも、色んな分野や文化の人と話すために日頃から雑学のような形でも、予備的知識というのを溜め込むといいように思います。
    相手が、赤、金色そして緑と変化しても、予備的知識があれば、レッド、ゴールド アンド グリーン。レッド、ゴールド アンド グリーンと変化する事も可能性なのです。

    道を切り開く錬金術についての考察

    分解して、統合せよ。というのが、錬金術の言葉にあります。錬金術は現代においては化学の分野に発展してました。錬金術はアルケミー、定冠詞、多分アラビア語の定冠詞のアルを取り去ると、ケミ。これにロジカルを混ぜると、ケミロジー、ケミカル。つまりは化学です。とはいえ、錬金術の思想というのは化学物質だけに言及されたものではないように思います。自分の今まで蓄積したものの中で一部分だけを特価したのが過去から今までの流れだとしたならば、どうもこれからは自分の中にある複数のことを混ぜ合わせたり、時には抜き出したり、そうやってオリジナリティ溢れる物事をやっていくというのが、これからの流れなような気がします。言うなれば、自分の中にある専門分野を混ぜ合わせて、新たな製品やサービスを提供するとか、そういう流れになっていくようなそんな気もします。まさに人間の錬金術といったところでしょうか。子育てや教育の専門分野と建築の設計の技能を混ぜ合わせて、子育ての理にかなった家を設計するとか、とにかく一見、自分の中にある別々の視点や知識を、自分の思考という鍋のなかで煮詰めながら混ぜ合わせる。そんな感じでしょうか。そうしてできあがるのは、変幻自在でかなりの可能性のある黄金のようなそんな気がします。そういう錬金術というのもあると思いますし、自分の中に蓄積されたものを混ぜ合わせて形にしようとする作業はきっと楽しいと思いますよ。
    例えれば、恋愛小説を書く技能と表現力をアレンジした喫茶店とかも面白そうですね。そこではどんな人間のドラマが展開されることか。恋愛小説家の技能と他の何かを混ぜるのもいいでしょう。一見連携のとれない物事をならべ、どれをどのように繋なぐのか、そこを自分の脳や感覚で錬金術するのです。それを考えただけでも、自然とワクワクしてくるような、そんな感覚をクラマルは感じます。

    セクシャルマイノリティの恋愛についてのカード展開

    前回に引き続きのセクシャルマイノリティの人達にフォーカスしたここ数日を、タロットカードで見てみます。ふーん、そんなもんかぁ、の程度で参考になればと思います。

    この時期はどうも世界全体的に様々な物事が浮き彫りになり、感情の動きにも以前とは違った変化があるようですね。そういった、背景も影響しているせいか、大体のあたりで今月頃でしょうか、かなり激しい悲劇に見回れた人もいるような、そんなカードが出てきました。

    過去を表す位置に、運命の車輪が逆さまに出ておりました、ついてない状況とかすれちがう心を表します。失恋なんかもあったかもしれませんね。恋愛以外ですと仕事や生活面において、必要なものを手に入れなければならないのに、一歩も前進できない、とかそういう抑圧を感じた人もいるのではないでしょうか。逆さになった運命の車輪と合わせて、前進や躍進を意味する杖の騎士、命や情熱を表す杖のエースが出ておりました。これをセリフにすると、なんでだよ!!とか、どうして、分かってくれないの?とかそんな気分になった人もいるかもしれませんね。

    現在の位置に世界のカード、杖のエース、聖杯の女王が逆さまに出ておりました。温かくなってきましたので、活動的な気分になりますね。ここ最近、失恋してしまった人は、自分の心の傷を敢えて見ないようにして、努めて前を向こうとしている人もいるかと思います。杖のエースと逆さまの聖杯の女王のカードの組み合わせは、本当は色々と思うところはあるが、自分の心を見ないようにしている。そして、何とか心を静かに落ち着く努力をしている。そんな人もいるかもしれません。全般的には外界は以前よりも少し落ち着いた様子に感じますので、せっかく温かくなってきたことだし、適度に遊ぼうかという人も当然いるかと思います。心の躍動はかなり活発なようですので、事故とかには注意が必要ですね。新しい出会いがあったとしても、ここは深く、自分にとってこの相手との関係は必要か?とか、この人といて互いに幸せになれるか?とか、自分の感情や気持ちを深く見つめた上での判断が必要なケースに遭遇する場合もあるかと。また、自分の心の見つめた時に情熱が沸き上がり、何かしら自分の周囲のためになる活動や、自分の周囲を変化させる活動を考える人もいるかもしれません。それらは例えていうならば、自分の抱えている不便は他者も同じように感じているのでは?ならば、自分がそれを解決しよう、みたいに自分の内側から発信される世界を変化させるエネルギーが沸き上がる人もいるかもしれません。

    近い未来の位置にあるカードとしては、逆さまの塔のカード、ディスクの女王のカード、逆さまの杖の王のカードが出ておりました。恋愛では誤解による危機がありそうです。ディスクの女王はラブゲームを表すカードでもありますので、恋の駆け引きは避けたほうが良さそうです。正直真心が危険回避のポイントのようです。これから恋人を作りたい人は、自分の経験も大事ですが、自分の立つフィールドの情報を見ることが必要なようです。周囲を見渡した上で、やり方を考えるというようなそんな感じがいいようです。

    ここ最近、自己の変革や互いのあり方について、変化を感じている人もいるのではないでしょう?自分の望みや欲求を崇高な何かに変化させようと努力している人もいるのではないでしょうか。逆さまの死神のカード、欲求と昇華のカード、逆さまの聖杯の王のカードが出ておりました。総じて、自分の望みとその変換のための模索の状態にある人もいるかもしれません。
    変換の作業は創作作品でもいいかもしれません。思いを形にる現すといった所でしょうか。別段アートのカードが出てませんので、やり方様々というのが正直な所のようです。

    周囲の位置にあるカードは、逆さまの太陽のカード、杖の女王のカード、逆さまの隠者のカードが出ておりました。逆さまの隠者は孤独や孤立を意味します。逆さまの太陽は見通しが効かないとか、先行き不安という意味です。でも、誤解しないでほしいのが、これはあくまでも世間的な雰囲気です。自分たちの未来がこうなるのだとかそういう意味ではありませんので、いくら世相が暗くても、心に無量の光明を抱いている人というのはいるものでしょう。きっとその人の心中はとこしえのハッピーかもしれません。そういった感じで解釈していただければ。
    杖の女王のカードなのですが、クラマルの使っているカードの彼女は、基調の色が炎のような赤で、表情は石像のように冷たく、そして静かに怒っているようです。片手で猛獣であるところ豹の頭を押さえています。鬼のようにこわい女の絵です。こわい女性という言い方もあるかと思いますが、この絵は敢えてこわい女としたほうが、雰囲気的にしっくりきます。こわい奥さんと言ったほうがもっとそれらしいかもしれません。まるで、その…、旦那さんが何か隠し事をしていて、それを奥さんが見つけて、それが奥さんの逆鱗に触れて、その奥さんは静かだが、その内面は地獄の業火のように燃え盛る怒りを内包し、でも静かに、「あなた、これ…」と言って、旦那さんがあまりの恐怖に「ひぃ」とも言えず息を飲み、冷や汗をかいているような、そんな絵です。杖の女王というよりも、ヘルファイア奥様という名前をつけたほうがよさそうなカードです。くだくだといらぬ解説をしましたが、このカードは抑圧とコントロール、くすぶる怒りなどを表します。周囲の環境ですので、今の世相のダークサイドがそのまま表れているようなそんな感じでしょうか。抑圧、コントロール、孤立、くすぶる怒りや不安、見通しの効かない未来。このようなメッセージとなっているようです。となると個々が周囲の人々と感情や不安感を共有して、共感を示すことで、先行きが明るく感じることはできないにしても、人との繋がり、自分は独りではないというそんな一体感が大事になってくるのではないでしょうか。

    結論の位置にあるカードは逆さまになった皇帝のカード、ディスクの女王のカード、剣の王のカードとなっています。逆さ皇帝のカードは圧制政治や、判断ミス、自分本意や支配を表します。まあ、この場合は自分の中にある情報だけの判断によるミスや失敗。または、独り歩きを始めた圧制的な雰囲気や世相とも見ることができそうです。剣の王のカードも権力者等を意味しますが、強い意思という意味もあります。まあ、そんなに社会を変えようとかそういう大袈裟なものではありませんが、ディスクの女王のカードは遠く広く見るとか相手を観察して適正に対応するという意味があります。例え身近な所に連携したり共有できるら仲間がいなくても、遠くをぐるりと見渡す。つまりは遠くにいる人との連携も視野にいれるといいかもしれません。そこで不安感や解決法を共有するといった感じでしょうか?場合によっては互いに直接、その不足を補う場合もあるかもしれません。

    アドバイスカードには逆さまの女司祭のカードがありました。合わせて、女帝のカードもありました。この場合、女司祭は静かに座っている女性ですので、それが逆さまということは黙って座っているな、多少、声をあげて活動しろ、という事のように思えます。その活動や行動は様々かもしれませんが、そのコミュニケーションには慈愛や優しさを伴ってという意味のようです。声をあげてみたら、新しい恋愛が始まったというような事もあるかもしれません。

    抽象的な言い方が多くて、難解な点もあるかと思いますが、それぞれの現状に合わせつつも、何かの参考になりますれば

    セクシャルマイノリティの恋愛と最近を見てみます

    ふと、クラマルが過去ちょっとの間だけ付き合いのあった、同性愛の女性を思い出し、どうしてるだろうか?と思ったのがきっかけではありましたが、ここ暫くの同性愛の人達の運の流れというか、全体的な雰囲気というか、その辺りをタロットで見てみました。全体的には悪い感じはなさそうなのですが、魔術師のカードが気になります。まあ、ラッキーワード程度に参考にしてもらえればと思います。
    現在の位置には吊られた男が逆さまに出ています。無益な犠牲などを表します。クラマルのタロットでは逆さまだと頭を抱えて悲鳴を上げてるように見えますので、苦悩で叫びたくなっている人もいることだと思います。葛藤などもあるのかもしれません。
    近い将来の位置には、世界のカードが出ておりました。概ねラッキーカードとして扱いますが、完成などを意味します。ですが、クラマルのカードでは卵の絵が描いてますので、新たな展開や新たなやり方の意味もあります。
    審判のカードも出ています。復活や天啓を意味します。概ねラッキーカードです。これはかなり強く出ています。運命の車輪というカードと組み合わせで出ています。運命の車輪もラッキーカードの一つですが、霊界なども表しますので、本当に天啓のようなメッセージや物事に遭遇する人もいるかもしれませんね。楽しみな展開になってくるかもしれません。
    女司祭のカードが出ております。これも強く出ています。これには二つのメッセージがあるようです。一つは気の遣いすぎや真面目に考えすぎというメッセージです。もうひとつの意味は知識の駆使でしょうか。将来を表す世界のカードの隣に女司祭のカードがあります。
    深い知識を駆使した末に現れてくる世界といったところでしょうか。結論はまたまた概ねのラッキーカードであるところの節制のカードです。バランスや自然を表しますが、恋愛となると純愛の意味もあります。
    どうも気になるのが、魔術師のカードです。フレッシュマンとか才能と知識のあるビギナーなどを表しますが、新たな試みや新たな挑戦も意味します。分かりやすい言い方をすると、新しい趣味や勉強、新しい仕事に挑戦とかそんな感じでしょうか。
    節制には川のような水の流れの意味もありますので、スムーズの意味もあります。
    審判の天啓も含めて、総じて見てみますと、知識を駆使した新たな試みが比較的スムーズで明るい未来が待っているという感じでしょうか。
    もしくは、自分が審判のカードのラッパを吹いている天使のように、目覚めろ!!寝てる場合じゃない、というような周囲に対する働きかけをすることにもなるかもしれません。
    同性愛の方々にフォーカスしたタロット展開をしました。何かの参考になれば

    恋愛の困難と結論についての考察

    まあ、クラマルの日常的な作業の一つに、世の全体的な物事、社会、人、恋愛の全体的な状況について雰囲気を掴むために、タロットを展開します。見てみますと、まあこの状況の中では当たり前といえば、あたり前であるかもしれませんが、女帝のカード、恋人のカード、愚者のカードが逆さに出ています。ここ数日は愚者が逆さに出る事が多いような気がします。崖っぷちとか、気付かぬ危険、不自由などを意味します。恐らく、思うに任さぬ困難な恋愛の問題が多いというメッセージなのでしょう。
    対応策のカードの展開をみますと、星のカード、皇帝のカード、女司祭のカードが出ておりました。皇帝のカードの意味としては、強い意思や指導力、女司祭のカードは、秘めた思い、知識を意味します。総じて、男性の扱い方や恋愛に対する想いの他に、実質的にとるべき行動なども考える必要があるというメッセージでしょうか。愚者のカード、今回は逆さまに出ましたが、正位置ですと、クリエイティブという意味もあります。方法をクリエイトする事が肝要なのでしょう。結論のカードとして、復活や天啓を表す審判のカードが出ておりました。個々にそれぞれのケースや理由もあり、その答えも様々なような気がしますが、この時期は方法の模索というのが、復活や天啓の審判のカードに帰結していくような気がします。

    自分を変える方法の考察

    自分を変えるというのは至難の技かもしれません、そもそも自分を変えるという事とはどんな事なのか定義しようとするのは、案外難しい問題かもしれません。人は何をもってして、変わったというのでしょう。自他共に変わったと認識できるとするならば、それは言動や思考でしょうか。
    まあ、クラマルがあれこれ細かな点を考えあぐねいても話が進みませんので、自分の経験から使えそうな事を書いてみます。
    概ね使えそうだなぁ、と感じた事を試してもらえればと思います。
    自分を変化させようとすると、クラマルがいの一番に思い付くのは、自分とは真逆だと感じる世界に触れてみる。もしくは、自分にはおよそないであろう世界に触れてみる。という方法でしょうか。
    クラマルはスポーツとか外で何かをする事が苦手なタイプでした。しかしながら、ちょっとした必要に迫られて、生け垣の剪定をしなくてはいけない事となりました。機械とかロックとかそんなものばかりに浸っていたクラマルには、植物にそこまで関心を持つ機会がなかったし、生け垣の剪定などやったこともありませんでした。結構大事な生け垣でしたので、剪定バサミで実際に刈り込む前に、インターネットなどで刈り込み方を調べました。この時点で、当時のクラマルにとって生け垣の剪定というのは真逆の世界のものだったのです。とにかくネットから得た知識で剪定をしてみました。極端に悪くもないのですが、良くもないのです。さらに調べたり、昔庭師をやっていたというお年寄りにたまたまご鞭撻いただいたり、はたと気づけばクラマルの世界は広がっていました。未熟で少々でしかなかったのですが、剪定の知識ややり方も覚え、付き合う人間も元々の友人達に加えて、元庭師のおじいさん、ノコギリの目の立て方を教えてくれた林業のおじさん、生け垣を刈り込んでいるときによく話しかけてくれたおばあさんやとある婦人会の方々など、人間関係にも多少の広がりもありました。
    そして、何より外で何かをすることが億劫だったクラマルが、率先して除草や除虫、出来る範囲での枝払いなど、外で何かをすることが好きな人間に変化出来た瞬間でもありました。自分を変えるために意図的にそうした訳ではなく、必要にかられて図らずもな部分はありましたが、インドア派で機械とロックな青年だったクラマルが、アウトドアでの作業を行うなんちゃって園芸師見習いという、ある意味逆の方向に変わったわけです。自分とは真逆な世界に位置しそうな物事を思い浮かべ、可能ならば挑戦してみると良いのかもしれません。そんな中で、クラマルに色々と教えてくれた人達のように、出会いというのもあるような気がします。

    マグダラのマリアと無条件の愛

    マグダラのマリアの事を考えていましたら、以前持っていたカードだったか、本だったかにマグダラのマリアという文の下に無条件の愛というのが書いてあったことを思い出しました。まあ、今のクラマルとしましては、無条件の愛についてあれやこれや、誰かに説法できるようなそんなレベルではありませんが、聞きかじった話の程度にご紹介することとします。
    まあ、無条件の愛。読んで字のごとしですね。こちらは愛するが、相手に何かを求めることがない。そんな愛し方でしょうか。
    行動に表すと、相手に何かをしてあげても、相手からの見返りを求めない、そんな意識でしょうか。一見しますと、崇高にしてレベルの高い愛のように感じる方もいるかもしれませんが、それを発想できる人類というものには、多かれ少なかれ、そういう部分というのはある種の本能的性質として備わっているようにも思います。だから、自分には足りないとかそのように考える事もないように思います。
    逆に、条件付きの愛ってのは何なのでしょうか?その意味や本質的な部分はさて置いても、言葉として違和感を感じるのはクラマルだけでしょうか。こんな言葉を出すのは気が引けますが、愛の延長線上にあって、表裏一体の感情と言われる憎しみなのですが、これを当てはめてみましょう。
    無条件の憎しみ、条件付きの憎しみ。
    無条件の憎しみ。きっとこの世の全てを憎んでいるような、悲しみに満ちた言葉ですね。まるで、血の涙を流しながら叫ばれる言葉のように聞こえます。
    条件付きの憎しみ。うーんと、あんた本当に憎いって、そう思ってるの?、とつい疑ってしまうような。そんな言葉に聞こえます。憎しみという言葉には重々しさがありますが、条件付きの憎しみとなると、言葉の重みとしてはあまりないようなそんな印象を受けます。つまりは、条件を満たさなければ、憎まれる事がないからです。
    とはいえ、人間の実生活から考えますと条件付きの愛や憎しみというのも実際にはあるような気がします。いや、本当は、もしかしたらないのかもしれません。あるかもしれないという、幻想をクラマルが感じているだけなのかもしれません。
    話が大分脱線してしまったようですが、愛そのものは無条件であり、そのライトサイドは慈しみ、ダークサイドは憎しみという風に考えることも出来るかもしれません。愛の真逆は無関心。つまりは、何だろうとどうでもよい。という感情でしょうか。
    もしかすると、無条件の愛という言葉よりも無条件の慈しみと言ったほうが分かりやすかったかもしれません。
    さて、無条件の慈しみとなりますと、前提としは、相手がどうであれ、という事になってくるのではないかと思います。独善的に相手に何かをする事は問題を含む部分もありますが、自分が相手に対してベストを尽くす、その上で相手が自分に何をするかはあくまでも相手の選択と判断によるところであり。つまりは、それは相手が考えて決める事。こちらは相手に対してしてあげるべきことをするのみ。という自分に軸線を置いた、そんな愛のように思います。そして、この無条件の慈しみは人間が元来持っている、そんな性質のように思います。

    気になる神様はいますか?

    クラマルはそうですね。よく絵を描いておりました。最初の辺りは様々なモチーフのものを描いておりましたが、もうかれこれ、10年位前の事でしょうか。神様とかそういった存在を描く事が多くなりました。最初に描いたのはマリア像でした。あまり宗教的な造詣の深くないクラマルとしては、とにもかくにも聖母を描いたつもりでした。絵が完成してから、他者からこの絵はマグダラのマリアだね、といわれる事が多かったです。最初はあまりピンと来なかったので、そのようにいってくれた人に、そうなんですか?とついつい、聞き返していました。その当時はマリアと言えば、キリストの産みの母しか知らなかったのです。そんな理由からマグダラのマリアについて、調べたりした時期がありました。謎の多い女性ですね。今でもクラマルはそのように思います。それから暫くしまして、ひょんなことから個人的なアトリエを持つことになりました。もっぱら、そこでは絵を描いたり、粘土や樹脂を削ったり、とにかく作業場です。一応、アトリエの名前を付けようと思い、アトリエ レヴォリューション・ミカエルと付けようと思っていたのですが、急に頭の中にアトリエ イシスという言葉が浮かびました。レヴォリューション・ミカエルという名前はアグレッシブな感じはあるかもしれませんが、長い名前というのはくどいものです。さらっと、アトリエ イシスにしとこうかと思ってそれに決めました。アトリエ イシスの第一番目の創作物として祭壇を作る事にしました。本棚を改造した祭壇に女神イシスの絵を描いて飾っておりました。
    今は何となく、これらの絵が自分を守ってくれているような気がしましたので、アトリエからこのお店のブースに飾っておりました。

    皇帝のカード

    皇帝のカードは男性性や指導力、権力などを意味します。カードに割り振られた数字は4となります。ちょっと不自然な気がするのはクラマルだけなのでしょうか。男権の象徴のような意味合いのカードに偶数であるところの4が割り振られています。偶数は大体は女性に属する数字として扱われることが多いような気がします。こうなると、奇数は男性、偶数は女性のセオリーで読み解くというやり方は、適さないように思います。ということで4の数字そのものの意味合いから考えてみるとします。4は物質を意味します。因みにビッグバン直後の初期の宇宙空間では、分子同士の結合は最大で4個が限界だったようです。その後、惑星などの天体の出現により、引力や圧力などの関係で4個以上の分子の結合が可能となったようです。それまでは、4個数以上の結合となると、例えれば分子の数が全体として5となった時、2と3に割れたりしたそうです。
    皇帝はそれらを考えますと、物質世界を掌握した権力者などの存在と考えることが出来そうです。また、タロットカードの大アルカナカードといわれる括りのカードは最後は21の世界で完結されます。1の魔術師をビッグバンと考えますと、4番目の皇帝でようやっと物質が空間を満たし始めたあたりでしょうか。3番目の女帝は超ひも理論とかそういった世界でしょうか。実際に超ひものあたりに来ますと、強い力、弱い力、よく分からない力と名付けられる3つの力が出現します。涅槃寂聴な世界です。
    伝統的なタロットの皇帝を見ますと、服装は赤い服を来ております。赤い服が目立つカードを眺めて見ますと、魔術師、法王、皇帝、正義となります。魔術師は魔術という神秘への探求の開始、法王は神への忠誠心、皇帝は王権神授説、正義は神から与えられた法という、神との関わりを表す色のように感じます。
    更に、皇帝のカードは正面に座った他のカードと見比べますとやはり違いがあります。女司祭や法王、正義と違って皇帝の後ろには二本の柱が描かれていません。柱があるということは神殿などの屋内であるということですが、皇帝にはそれがありません。つまりは、神の世界とは違う所にいる存在と見ることができます。神との繋がりはあれど、生きる世界が違うということでしょうか。
    また、皇帝の椅子には山羊の頭があしらわれています。山羊は羊のように囲いの内側に生きる存在ではありません。キリスト教では羊は囲いの内側、つまりは神のお膝元に生きる存在を意味し、山羊はその外側で自由奔放に生きる存在です。やや、悪魔よりな存在として描かれているような気がします。実際に悪魔のカードには支配を表す部分もあります。皇帝のこのカードは小アルカナカードの剣の王、杖の王、コインの王、カップの王の上に君臨する帝王なのでしょう。戦車のオイディプス王と照らし合わせると、ラーイオス王を表し、次に続く5番目の法王を考えますと、シーザーなどのローマの皇帝を意味するようなそんな気もします。カードの印象としては、気位の高そうな、人好きしない感じで、油断のならない人物として見えます。次に続く、法王の過去の姿が皇帝という見方をしますと、ローマ帝国崩壊後の中世の世界に於いて、法王の意味合いというのも見えてくるようなそんな気もします。
    古代において、キリスト教徒の弾圧などをした史実も絡めて見ますと、この皇帝は神をも恐れぬ唯物論的な支配者と見ることもできるかもしれません。

    心理タロットについて

    世の中には占術も様々あり、多くの占い師の人達がそれらを経験から組み合わせて占ったり、その他に妥当性を感じた物事と混ぜ合わせたりしている場合も少なくないような気がします。色々とありますが、オラクルカード、タロットカードの種類の多さがその一例として分かりやすいかもしれません。沢山の種類というか、沢山のデザインのカードが世の中にはあります。絵は千の言葉を語るとは言いますが、質問によって使用するカードを臨機応変に選ぶのは、より円滑に占術を行うためではないでしょうか。もちろん、その占い師とカードの相性というのもあるかと思いますし、理由も様々でしょう。一概には言えないというのが前提ではあります。

    クラマルの行う心理タロットといいますのは、簡単に言いますと質問者ご本人が、自分の心や感情、目的、希望するものなどを具体的にして、気付きをお手伝いする占術といったところでしょうか。
    絵柄を見せて相手と対話しながら、質問者ご本人が楽しみながら、自身の気付きのヒントを得ていく、質問者主体のものです。
    占い師よって展開されるカードとその結論とは異なり、質問者ご本人がカードを直感的に選択し、それらのカードから本質的な自身の気持ちや目的意識、気付き、方向性の具体化をお手伝いします。

    異性性をカードに当てはめてみます。

    男性の中にある異性性である女性性の成長過程をカードで表すと、第一形態は世界のカード、第二形態は星のカード、第三形態は女帝のカード、第四形態は女司祭となるような気がします。あくまでもクラマルの主観と思考の産物です。女性の中にある異性性である男性性は第一形態は戦車のカード、第二形態は魔術師のカード、第三形態は法王のカード、第四形態は隠者のカードとなるようなそんな感じです。

    戦車のカード

    戦車のカードはスピードや自信など表すカードでありますが、伝統的なタロットカードですと戦車を操る精悍な男性はスフィンクスを従えています。スフィンクスと言えばオイディプス王でしょうか。オイディプス王は知らずに結婚した女性が自分の母親であったという悲劇の物語であり、戦車のエピソードもあります。細かな事情は忘れてしまいましたが、確か、戦車で移動中に前に立ち塞がる男がいました。オイディプス王は彼を殺してしまうのですが、この彼はオイディプス王の父親だったという話です。自信過剰による見落とし、という意味もカードにはありそうです。戦車の絵柄の男性がオイディプス王である理由は、スフィンクスで充分担保されそうなものですが、因みに戦車の数字は7であり、3と4に分けられます。3番は女帝であり、4番は皇帝であります。普通の印象として夫婦と見ることができます。この場合の3番の女帝はイオカステ、オイディプス王の実の母親、4番の皇帝はオイディプス王に殺された実の父であるラーイオス王と見ることができます。3の女帝の過去を見ますと、2の女司祭です。イオカステの過去は神殿の巫女でしたので、女司祭と符号しそうです。
    女帝の3と戦車の7を足すと10番目の運命を表す運命の車輪のカードとなります。
    実の母親とは夢にも思わず、婚姻してしまったオイディプス王の狂おしい運命を感じるのはクラマルだけでしょうか。このカードには、若い悲劇王とクラマルは二つ名を付けています。
    まあ、今回もふーん、そうかねぇ…の程度にしておいて下さい。

    魔術師のカード

    少しタロットカードのクラマルが知るあれこれをお話しします。そうなんだ。ふーん。の程度で見ていただければと思います。昨今のタロットカードは様々ありますが、今回クラマルがお話しするのは、伝統的なタロットの絵柄です。

    魔術師のカードは絵柄の意味合いとしては、これから魔術の修行を始める若い魔術師の姿です。テーブルに並んでいる剣、カップ、コイン、杖は四代元素を表します。大体は魔術師ヘルメス等がモデルとされますが、背景の薔薇と百合、魔術師の服装に注目しますと、暗に彼は若い時分のキリストを意味していると言われることもあるようです。百合は清純、薔薇はパッションを意味しているようです。この魔術師のカードは、修行時代のキリストがモデルになっているという話もあります。その後に来るカードで吊られた男は、キリストの自己犠牲を表すとされています。
    魔術師と吊られた男の組み合わせは、キリストと見ることも出来そうです。
    因みに、魔術師と隠者のカードが出た場合は魔術師ヘルメスと見る事が出来そうです。隠者は魔術師の将来の姿です。森羅万象の達人となった姿と解釈される場合もあるようです。

    歴史的な話にも多少絡むのかもしれませんが、1の数字がふられた魔術師はキリスト、2の数字がふられた女司祭または女教皇は夫婦の関係にあると考えられる事もあるようです。女司祭はエジプト神話のイシス神を表し、これはヨーロッパ圏の聖女のアーキタイプ、簡単に言いますとモデルとなった神様と言われます。近代のタロットの元が作られたのはヨーロッパでしょうから、女司祭の絵柄に多用される青色は、宗教画のルール上では聖母を表しますので、聖母マリアも意味するカードにもなるようです。しかしながら、キリストと妻となると話が変です。一部では、マグダラのマリアと解釈される場合もあるようです。

    魔術師の数字の1と女司祭の2を合計しますと、当たり前の話ですが、3となります。
    3は女帝のカードとなります。女帝のカードは母親のアーキタイプである太母、グレートマザー、地母神など表すようですがその姿は妊婦の姿です。女帝は女司祭の将来の姿です。
    女司祭の2と女帝の3を足すと5となります。
    5番目のカードは、法王のカードとなります。このカードの構図は女司祭と似ています。背景に二つの柱があります。そして、この法王の顔はどこか女性的な顔をしています。そして、下方の二人の側近の服の柄は左が薔薇で、右が百合です。法王の法衣の内側は青色服でもあります。これは、キリストとマグダラのマリアの子供を表しているという話もあるようです。
    クラマルはこの魔術師のカードの二つ名として、無名の聖者をつけています。

    このような感じでタロットには神話やヨーロッパの宗教的な物事が降り混ざった絵柄となっているようです。

    癒しの言葉についての考察

    癒しの言葉とは、総じて投げ掛けられると、癒されるものです。何を当たり前の事というか、発展性のない事を言っているのだと、思われるかもしれません。ちょっと一工夫してみましょう。人間には優位感覚というものがあるようです。大きく分けてそれは、視覚優位タイプ、聴覚優位タイプ、体感優位タイプの三つになるようです。癒しの言葉もこれらのタイプに合わせるとより効果的かもしれません。

    視覚優位タイプは視覚に関わる言葉を好むようです。具体的には、はっきり、明るい、暗い、まぶしい、このように視覚的な言葉です。

    聴覚優位タイプは聴覚に関わる言葉や文字に関する言葉を好むようです。具体的には、言った、聞いた、聞こえる、書く、このような言葉です。

    体感優位タイプは触覚や精神的な部分に関わる言葉を好むようです。具体的な言葉として、がっちり、掴む、握る、思い、感じ、このような言葉です。

    これらの言葉をその相手のタイプに合わせて、癒しの言葉に組み込むとより効果的かもしれません。

    相手の傾向を知る場合は、そうですね。その人が書いた文章を読むと分かりやすいかと思います。上記のような言葉がどのくらい使われているか見てみるとタイプの傾向が分かるかもしれません。それでも難しい場合は、服装やしぐさ、その人の普段の仕事などから予測します。
    こだわりのありそうな服装の人は視覚優位タイプが多いような気がします。職人さんなども視覚優位タイプが多いかもしれません。かなり真面目なタイプも視覚優位タイプかもしれません。聴覚優位タイプの人は理論や手順を重んじる人が多いような気がします。自分の鼻を触る癖も共通していたような気がします。
    体感優位タイプは演劇や運動などを行う人に多いような気がしますが、注意が必要ですね。言葉に耳を済ましますと、私は 思った、とか私は 感じた、に似ている言葉を多用する人が多い気がします。

    それでも分かりかねる場合は、ちょっとした架空の質問をしてみます。

    想像して下さい。貴方は今の部屋に一人でいます。そこに怪奇現象が起きました。どんな事があったか、出来るだけ具体的に直感的に答えて下さい。

    その答えが、幽霊が出たとか視覚的な答えの場合は、優位感覚は視覚が強いかもしれません。
    声が聞こえた、ラップ音が鳴ったのような答えの場合は、優位感覚は聴覚が強いかもしれません。急にゾッとしたとか、寒気がしたとかであれば体感優位タイプかもしれません。

    女司祭、女教王のカードの最近

    本当は、今回はタロットカードの絵柄の由来など触れていこうかと思っていたのですが、女司祭または女教王のカードが気になって仕方がなかったので、このカードをずっと眺めていました。ここ最近の彼女は、まあ彼女といっても女司祭のカードの事なのですが、今までと様子が違うような気がしています。確かに時と場合に寄る所もあるにはあるのですが、やはり以前とは何か違います。空気感というか雰囲気というか。通常ですと、女性性とか秘めたる想いとか、知識という意味があるのですが、最近感じる雰囲気をお話しますと、崇高な愛、本質的な愛、慎ましい愛情表現の意味合いというか、メッセージかあるように思います。また、場合によっては、私は待つ、とか、あなたを待っている、私はあなたを愛をもって静かに見る、そんなメッセージもあるように思います。

    会話の糸口を探す事が難しい人へ

    人と人との会話のの始まりは世間話からすれば良いような気もしますが、それは分かっていも、中々出来ない方もいると思います。
    出会いの可能性のある社交場でも、自分から話しかけるというのが苦手な人もいるかと思います。そういった場合は、物に頼るというやり方もあるような気がします。
    具体的に言うと、アクセサリーといった所でしょうか。とはいえ、やはり普通の程度の装いだと、中々相手に気付いてもらえないことがほとんどですね。奇をてらったり、目立てばよいという問題でもありませんが、相手が話題にしてくれそうな、ある種のツッコミを入れてくれそうな、そんな目に見える物を装うのも効果があるようなら気がします。
    ずいぶんと昔の話になりますが、クラマルはギターケースを持って、馴染みのお店にいったことがあります。中にはギターではなく、たしかゲームソフトを何本かと、その攻略本でした。普通にカバンか何かに入れておけばいいものですが、何となくそうしてました。
    ギターは一応、3本くらい実際に持ってました。
    ギター、弾けません。
    実際のその後の展開はというと、隣の女の子がバンドでもやってるのか?と聞いてきました。もちろん、彼女はその日初めて見る人です。そのちょっと向こうに座っている、話こそしたことはありませんが、よく見かける常連のおじさんなんかも、興味ありげな視線をクラマルに向けてくれます。当然、クラマルはバンドはやっていないことをお話します。
    その子は続けました。ストリートミュージシャンなのか?と。それも、違います。
    クラマルはギターケースを開けてカウンターテーブルにゲームソフトをいくつか出して見せました。
    このギターケースは、ボクのカバンです。
    そう言いますとその子はワケが分からない、と笑ってくれました。
    向こうのおじさんも、笑ってくれていました。
    その後は、その女の子、向こうに座るおじさんと、三人の会話が始まりました。
    ギターケースが三人の人間を繋ぐアイテムとなったのです。
    まあ、クラマルのようにギターケースにゲームソフトを詰めているのは、かなり極端な例ではありますが、Tシャツ等も絵柄によっては、話しかけてもらえるきっかけとなりうるのです。
    実際にクラマルも昔、ギャグのつもりで当時、話題の高かった大統領の顔がプリントされたシャツを来ていましたら、何?そのシャツと笑ってもらえました。相手からのツッコミというか、話しかけてもらえる、見つけてもらえる、そんな服装やアイテムもあると比較的楽に相手から話しかけてもらえるのかもしれません。何も、高いアクセサリーを身に付ける必要もなく、笑わせる程度でも良いような気もします。ある種のラッキーアイテムでしょうか。

    幸せと心配は表裏一体なのかもしれません。

    クラマルは自身の考える幸せは、つつがない毎日です。だからといってそれはチューブのない世界ではありません。
    とりあえず可もなく不可もない毎日でしょうか。
    すると、クラマルの意識は心配事にフォーカスされます。そうじゃなければいいが…が概ねの考え方になります。つまりは、不幸じゃなければとりあえず幸せ、といったところでしょうか。では、クラマルは自身の不幸について定義しなければなりません。大体、クラマルの場合は経済的な不安、健康面の不安です。それを基準にします。それ以外のことについては、特別不幸だとは考えないようにしています。特にこれといって目指す目的がない場合、または、こうだったらいいのにな…ということが叶わない状況でも、まあ、いいか。というような気分になれます。

    AI彼女と恋愛の考察

    まあ、クラマルはプログラムをある程度扱えましたので、かわいい女の子のアニメキャラと日常会話をするためのAIのアプリを自分で作ろうと思った事が、つい数ヶ月前までありました。必要な機能や諸々の知識と扱い方を勉強したり試したりして、まあその間は良かったのですが、ある程度の段階になり急にそれを作る気がみるみるうちに萎んでいきました。
    それはどういう事なのかというと、自分で作ったものは、何をどうすればどうなるのか分かっている訳ですから、そのバーチャルガールフレンドとの会話はクラマルの設計した通りの反応になりますので、きっとつまらないと感じるようになったからです。まあ、いずれまた作る気が起きたらということで、そのプログラムやその他の試作データは残してはいるのですが、どうにも作業再開する気になれないのです。
    例えば、これが他者へ提供する事が目的ならば、熱意は続いたかもしれませんが、自己満足のための物です。いつでもいいし、どちらでも支障はないのです。
    まあ、そのバーチャルガールフレンドを疎かにする結果となりました。
    でも、これは逆説的に考えてみると、人間の反応は予測があまり立たない、だから人間の間で衝突も起きる事がある。しかし、自分の狙った通りの予定調和ならば、楽は楽かもしれませんが、クラマルがバーチャルガールフレンドを大切にしなかったように、今度は生身の人間との接触を疎かにする可能性もあるように思えます。他者というのは、反応が予測不能だからこそ、付き合う意味があるのかもしれません。そこを考えてみると、クラマルがバーチャルガールフレンドとの関わりで楽しかった事、つまりは幸せだった所は、それを作るにさしあたって、分からない部分をあれやこれや調べたり、試したりしていた時だと思います。よし、これで作れると思った途端に情熱が萎えたのですから。そう思うと、人付き合い、恋愛の幸せというのは、ゴール地点となる所へ歩むプロセスの中にこそ存在するのかもしれません。

    お若い方へ、失敗と考えてしまう事とは

    とりあえず、天命尽きるその瞬間、一秒前まで人間は生きています。
    その瞬間まできっと学び続けるのだとクラマルは思っています。
    失敗と感じる事は非常に気分を暗くします。かつてのクラマルもそうでした。では、今は?
    やはり、失敗と感じると気分は暗くなりますし、その物事が重くも感じます。あまり、変わりがないように思います。
    しかし、こうしてクラマルも自分の歩いてきた道を振り返ってみますと、沢山の失敗が山のように積まれているように思います。
    でも、それがあればこそ、クラマルは今のクラマルでいられるのです。
    沢山の不安や、時には嫌悪してしまうような事が色々とあるかも知れませんが、それはプロセスなのです。そしてそのプロセスは人生の終焉まで完成する事なく続くものだと思います。
    完成のないこと、それは成長し続ける事です。

    ダイレクトではない愛情表現のこれから

    この時期は本当に色んな事が浮き彫りになって、本質的な所という部分に目を背けられない、そんな時期でございます。
    最近クラマルは、本当にひしひしと感じている所なのですが、人々の誰かを愛する気持ちが、情熱が、体から出せ出せと騒いでいるような、そんなエネルギーに満ちているような、そんな毎日です。
    クラマルは、情熱のほうでしょうか。ようやっと最近になって、絵を少しずつ描いたり、アウトプットしています。ついこの間までは、この情熱をもて余してまして、正直な気持ちを言うとアウトプットするまではその部分に関しては苦しい感じでした。
    まあ、クラマルのように創作意欲とかの類いなら、アウトプットも容易かもしれません。
    まあ、その創作物が純金を使った彫金とかとなると話は別ですが…。金は並みの温度では溶けません。
    ちなみに金を加工するよりも、メッキ加工する方が施設費用が高くなる場合があります。
    まあ、金だけでしたら金を溶かせるバーナーがあればとりあえずはいいと思いますが、メッキとなると話は別です。硫酸を使ったり、電力を使ったり、まあ大変です。
    話がそれましたね。まあ、これが愛情となるとなかなか難しい問題のようにも思います。
    ダイレクトな愛情表現が最適ではないシチュエーションなど枚挙に暇がありません。
    するとやはり、愛情表現や恋愛も工夫が必要になってくることと思います。
    クラマルは、あまり通俗や通念、社会習慣から日常の人間のする事を判断することはあまりありませんが、だからといって、そのあたりを解決できそうなグッドなアイディア、略してグッドアイディアには乏しいのが現状です。
    この時期は皆と共に愛や恋愛の知恵を出し合うのも課題のような気がしています。愛や恋愛にもある種の協力が必要なのかもしれません。
    まずはそうですね。クラマルとしては、プラスチックラブ、じゃなくて、まあ、樹脂は愛用しますが、プラトニックなラブ、略してプラトニックラブ辺りから、何か読んで勉強する必要がありそうです。

    愛の表現、表明についての考察

    まあ、ただの話として見ていただければと思います。
    かなり昔の話になるのですが、クラマルにはこんな事がありました。
    とある仕事場でした。バックヤードでクラマルと年下の女の子と、二人きりで加工する仕事をしていました。二人はその係でしたので、一日中二人きりでした。色々とおしゃべりをしたり一緒に仕事をしているうちに、クラマルは彼女の事がとても好きなりました。密室で同じ時間の多くを共有する男女の自然な流れといえば、そうだったかもしれません。
    クラマルの彼女に対する態度も日に日に、愛情が伴ってきます。つまりは、親切心がかなり深くなっていくのです。それに気付いていたかどうかは定かではありませんが、彼女もどんどんと自己開示してくるようになりました。
    躊躇いがちにクラマルに自分は女の子が好きな女の子、つまりは同性愛なのだと話してくれました。クラマルはそこを特別に気にする事はありませんでした。それからは、仕事帰りに二人でバーガーショップにいったり、一緒に遊んでから帰るとか、仲が濃密にはなりました。彼女はよく、私にお付き合いをしている女性の話をしてきました。大体が、分かってくれない、とか彼女とその相手の女の子の痴話喧嘩でしょうか。そんな話でした。
    でも、相手の女性とは仲良くしていたいようでした。この時のクラマルはこの子に仲良くしてもらいたいと思われているその女性は幸せ者だな。いいなあ。今の俺の恋敵は女なのだな。と思いました。
    ある日の仕事帰り、彼女がドライブに誘ってくれたので、一緒にいくことにしました。
    車中、ついつい、たまらなくなって、その子に君を抱けないのは仕方ないが、愛していると言ってしまいました。
    彼女の返答はこうでした。
    何となく分かっていたけれど、あんたがそれを言わなかったら、私はもっと長くあんたと付き合えたのに、と泣かれてしまいました。彼女の話を聞きますと、仕事中にまるで妻のように、クラマルの襟を直してくれたり、仕事帰りに彼女のほうから遊びに誘ってくれたのも、私の気持ちを察した彼女のせめてもの応えだったようです。そして、彼女自身の心がいつかはクラマルの方に向くかもしれないと、かいつまんで言えば、ゆっくりと好きになってく努力もしていたようでした。
    この時、クラマルは後悔しました。自分の発した愛情の表現が相手に重くのしかかったわけですから。そこからは、やはりギクシャクし始めました。彼女も仕事を辞めて去っていきました。相手や時と場合によっては、自分の相手に対する愛情を口に出して伝えずに、行動や姿勢、態度で示すことで、築くことが出来る絆というか、そういう仲というのも世の中にはあるのだな、と一人仕事場に残されたクラマルはボンヤリとそう考えました。
    今にして冷静に考えると、彼女は私に対して努力してくれた事は事実なわけでして、当時のクラマルの理想的な形とは違ったものでしたが、彼女も私にそういう形で愛情を注いでくれていたのだ、と感じています。
    総じて、今のクラマルの心としましては、彼女を愛した、彼女も自分をそういう形で愛してくれたと思う、あの時はごめん。でも、ありがとう。そのような気持ちです。
    長く付き合いたいから、というのではなくとも、無言の愛情表現というのもあるような気がします。そこが人間の世の割り切れない部分というか、1+1=2に必ずしもならないというか、そういう複雑な部分かもしれません。ちょっと、自分の気持ちとの葛藤もあるかもしれませんが、敢えて愛情をダイレクトに表現しないことも、思いやりの一つなのかな?と思うような過去の出来事でした。
    あの時は、クラマル自身も本当に辛い恋愛ではありましたが、後々になって考えてみると、そのようにしてもらえたクラマルは幸せ者だったのだと、そのように思います。
    そういう部分では、気付かぬフリをして別な形で愛情を表現してくれていた彼女の方がクラマルよりも成熟していたようにも感じます。そこを考えると、クラマルはそんな彼女に心の中で本当に頭が上がらない。

    恋愛のその後について見据えたアプローチ

    まあ、その人と出会った時点で人生の変化と言える気がしますが、世代別に見ますと恋愛とその結果には共通した特徴があるような気がします。
    20代の恋愛は、今までの慣例からいうと女性が男性に合わせるような、そういう様子が見受けられるような気がします。彼の趣味に何となく合わせてしまうような感じでしょうか。
    まあ、これは古来からの男女間の伝統的慣習でしょうか。時代が変わり様々な形を取ってはいますが、この伝統的慣習に何となく自然に倣っている女性は少なからずいるように思います。男性を優先するという考え方でしょうか。
    とはいえ、20代そこそこの年代というのはこれから多くの事を経験していくわけですので、2人のあり方を模索しながら関係性を築くという結構大変な現実が根底的にあると思います。互いにどのようにしていくべきか、指標が見えない大変さというのはあるように思います。
    さて次は、30代中頃から40代中頃となると、仕事の姿勢とか日常の考え方など、ある程度固まっている場合もあるように思います。また、20代と比べると、自分の意見にある程度、忠実というか正直になってくる部分もあります。ある程度のラインまでは他者に合わせますが、そこから先は合わせかねるといった部分も明確化してくると思います。
    それは単にシビアというわけではなく、お互いの幸せに基づいた現実的な判断を、やはり恋愛の中でも加味するのだと思います。
    単に恋愛を楽しむだけなら、逆にそこまで深い部分に互いに立ち入らないような気がします。
    まあ、人に様々と言われてしまえばそこまでなのですが。
    結婚を前提とした恋愛となると、浮き世の利害を共にする現実もあるので、そこを二人で解決できそうかどうかを互いに考えてしまうものだと思います。
    男性目線で大変恐縮ではありますが、男性にとって、自分を受け入れて精神的に安心させてくれる女性ほど強い味方もいないように思います。よく、映画なんかを見ていますと、女房の所へ帰る、女房の所へ帰してくれ、女房が待っているんだ、女房の所へ帰りたい、というセリフが目立つ事があります。大体、そういうセリフを言っているのは中年男性であり、背景となるシーンものっぴきならない極度な不安にさらされているシーンです。そこ考えますと成熟した大人の男性の心には、自分の持つ主義や思想なんかよりも自分の奥さんへの思いが強く、奥さんのいる場所=自分の帰るべき場所という公式が成り立っているように思います。男性はどんな年になっても安心出来る女性と共にいたいのだと思います。
    しかしながら、別な方向から恋愛に発展するプロセスもあって、その一つとして仕事上のパートナーから恋愛へと発展するのも珍しくないように思います。
    情緒的な話から雰囲気は一転しますが、クラマルはそんな男性の心を掴むには、ちょっと戦略的に考えたほうがいいように思います。
    勿論、自分に無理をするわけにはいきませんが、相手の仕事に関する知識を勉強して相手と一緒に仕事に関して考える姿勢とか、場合によっては相手に分からない事を質問することで、コミュニケーションの回数を増やしていくのも手かもしれません。人間にはハロー効果といって良いコミュニケーションをとった回数ほど、良好な仲を築ける可能性が上がるという心理現象があるようですので。また、相手の仕事や趣味を勉強するには、難解な場合はとりあえずは、貴方と貴方のしていることに興味があるという姿勢で、コミュニケーションを取るだけでも随分と違うと思います。
    また、その行為を通して自分の世界を広げるという結果にも繋がるようにも思います。実際に、パートナーにある程度合わせることによって、気付いたら何かの技能が身に付いていたということも多いような気がします。
    やはり、恋愛にも人のあらゆる面を変化させる力があるのですね。

    男性は女性によって男になれるのかもしれません

    亭主操作術という言葉は、今となっては古い言葉かもしれません。女性が特段、男性に頼らずとも出来ることを敢えて、男性に頼むというのも操作術の一つのようです。ま、手練手管とも言い換える事が出来るかも知れません。一見するとずる賢いやり方という風に考えるかもしれませんが、見方を変えるとこれは、女性側から男性に不可侵領域を守って存在意義を見出す作業なのかもしれません。とはいえ、急にその操作術というか手練手管と言われても、困惑する事だと思います。ですので、今一度自分の中にいる女性性というか、女の部分に心を集中して、探ってみるのがいいような気がします。
    また、心の中を探ってもなかなか雲つかむようで分からないという場合は、マンガでもドラマでも小説でも何でもいいので、これぞ女の中の女と思えるキャラクターを探してみて下さい。見つけたなら、それを観察してその言動にヒントを得るのもいいかもしれません。
    それでも分からない場合は、タロットカードを使って探るという方法もあります。

    この流れの中で先を想うなら

    すでにそんなことは承知済みだと感じる方も多いと思いますが、今一度改めて考えてみたいことがあります。自分の今いる場所、している事、それは仕事場でも家庭でもどこについても言える事かと思いますが、おのおのの現状に当てはめて、参考にしていただければと思います。
    当たり前の話かもしれませんが、手段と目的を取り違えて考えていないか、考えてみて下さい。これは結構な落とし穴です。落ち着いて一歩引いて見直してみて下さい。
    すると、今の自分のあり方ややり方にこだわらなくても良くなるかもしれません。それは、重荷を下ろして、比較的楽に生きられる道へと通じているかもしれません。
    手段が目的化している事は結構あるかと思います。これは魔術を行う者の鉄則でもあります。

    間にある物事を注意深く見る。それが本当に必要かどうか?本当は近道があるのではないか?それはアクセサリーなのか?ツールなのか?見極めることは重要だと思います。これはクラマルのメンターから言われた言葉です。川を省いて、山と海を繋ぐ手段がないかを考えろという事です。支離滅裂ですね。でも、常にそのぐらいの姿勢で物事を見なさい、という事でした。

    深く共通点を見い出す。これにより省略や衝突回避、共有が出来るようになるからです。

    落ち着いて子細に観察する。これはクラマルがデッサンやスケッチをする時にそうしています。鉛筆をとる前に、対象を子細に観察します。そこに時間をかけます。時には、対象の境界線の外側、つまりは空間を意識することもあります。ドラムで言うところの裏のリズムといった所でしょうか。これにより別な角度から物事を見る力がいくらかつきます。

    一度、天の邪鬼になる。他者との協調、共和というのは非常に大事なのですが、口に出さずともその目線で物事を見てみて下さい。その結果に別な有効性のある道を見つけたら、検討してそうでなければ、その物事の妥当性が理解できると思います。これと似たものにネイティブアメリカンには、天の邪鬼のヘヨカというシャーマンがいるようです。因みにこのヘヨカは通常の人とは逆さまの生活をして、周囲の笑われ者となりますが、酋長の言うことに野次を飛ばす権限と、酋長を弾劾してその座から下ろす責任重大な権限も持っているようです。このヘヨカには人の嘘や愚行を見抜く力が要求されるそうです。年齢的にも四十越えてようやっと、後継者としての修行が出来るようです。

    今のある物、仕事、場所と100年前、1000年前の物、仕事、場所に注目すると、自ずとするべき事が見えてくるかもしれない、ということを念頭に置いて歴史を眺めてみて下さい。そうすることで普遍的な物事が分かり、次にするべき事へのヒントとなると思います。
    例えれば、クラマルは占術師です。この占術師というものの過去をみると、始まりは恐らく有史以前の呪術師からの派生というふうに考えています。長い歴史の中、滅ぶことなく現代まで続いているからこそ、この仕事も存在しています。また、これを言いますと賛否両論あるように思いますが、天気予報やAIによる予測もある意味では、大元は占いに起源があるようにクラマルは考えています。

    自分が不便や不都合を感じたら、それを覚えておく。そして、出来るならそれは他者も同じように考えている場合は多いかもしれないということを検証してみる。これもあなたの今後のヒントになると思います。

    女性の中の男性性と向き合う

    女性性と男性性、それ故の言動というのは明確にあるようでいて、いざそれを具体的な例として挙げるとなると、その線引きは非常に難しいもののように思います。また、女性性や男性性を内包している人物は、個性ある人間、唯一無二の一つの人格ですので、それに基づいている異性性というのもそれぞれに個性があるような気もしています。一概に、男性性はこれ女性性はこれ、という分け方がなかなか困難なように感じます。
    しかし、女性の中にある男性性を抑圧というか、押し込める事はあまり良いことのようにも思えません。やはり、ある程度のバランスは大事なのだと思います。
    とはいえ、男性的な言動というのは、これを自然な形で表現出来ている女性もいることはいるのですが、急な形でそれをしようならば、周囲との空気というか、雰囲気は妙なものになる場合も考えられます。
    となると、趣味とか個人的な活動とかそこを表現の場とするのが、現実的な気もします。
    一番は遊びなんかが良いのではないでしょうか?それぞれに個人差というのがありますので、一概には言えないのですが、もしも自分の男性性を癒す遊びというのが見つからない場合は、子供の男の子遊びに注目するといいような気もします。
    子供遊びとは人生の練習であり備えであると聞いた事があります。
    この現代に至っては、子供遊びというのは、単なる遊びにしかならないのかもしれませんが、子供の遊びには我々の祖先達が紡いできた歴史や本能の鏡のようなものではないかと、クラマルは考えます。子供のかけっこなどが最たるものではないでしょうか?これは、将来狩りで獲物を追う練習と体作りが元となっているように思います。
    女の子のままごと等は、火を見るよりも明らかに将来の家政と子育ての予行演習と理解できます。将来のシミュレーションのようなものですね。
    女性の中にある男性性を満たす遊びのヒントととして、子供の男の子の遊びというものに着目するといいように思います。子供の遊びの中に、性別故の行動のアーキタイプのようなものがあるような気がします。

    クリエイションについて

    クラマルは以前は絵を描いたり、粘土や樹脂を使って人形を作ったりしていました。絵と粘土細工を融合させた作品を作ってみたりと、まあ何かを作る事が好きですね。これはクラマルの生まれついた性分というものでしょうか。
    絵を描き、絵を見る事が好きなクラマルとしては、幼い頃からタロットカードに慣れ親しんだのは、自明の理だったのかもしれません。
    クラマルが何か作ろうとするのには、自分自身としては特に理由はないように思います。
    作るのが自分の大きな一面、ただそれだけだと考えます。
    しかし、物を作っていますと色んな事が身に付いたのも事実でした。
    やったことのない手段や方法に挑戦しますと、意外な自分に出会うこともよくありました。また、やはり物を作るというのは段取りが要です。初めての素材や作り方だったとしても、数回も繰り返していますと、自然と効率性について考えたりもします。
    どうすれば、楽に作れるか?そこから合理化が始まります。
    また、世の中には必要時間があることを体感として覚える事もできます。絵の具が乾く時間、粘土が固まる時間、これらの実情というか、やはり時間はかかるのだ、ということも経験的に覚える事ができるのです。
    物作り万能を言うわけではありませんが、物作りを通して、世界というものを垣間見る事も出来るような気がします。
    そして、その出来上がった世界、それは自分自身だということも分かったような気がします。
    作品というのは、表現されているものそれ自体、クオリティー、全部合わせて自分の意識の姿のように思います。普段は見えない自分の癖すら分かるような気がします。特に彫刻等をしていると、自分の手に染み付いた癖というのが、否応なしに分かります。それが制作作業上の障害ともなりうる場合もあり、そこに気付いたら彫刻刀の運び方に注視したりと、まるで自分の把握と修正を行うかのようです。また、現実にある、理想論ではどうにもならない限界点というものにもぶち当たります。すると、本当に不本意と思いつつも妥協することも覚えなくてはいけない事もあります。でないと、前に進まないからです。挑戦、把握、対応、解消を繰り返していく内に、それなりにジワジワと腕が上達していきます。クラマルの人間性を大きく変えたのは、プログラムと人形作りでした。それまでは、自分には不可能なことと考えていたのです。しかし、大した理由ではなかったのですが、ただ何となくから始めた事により手順を踏めば自分でもある程度出来るということに気付かされました。また、結果が一緒ならば、何も常識的なセオリーに従うばかりが解決策ではない、という経験をすることも出来ました。これを境に、クラマルは大概のことは臆せずに挑戦できる意識を手にいれたような気もします。クオリティーの良さにこだわらずに、物を作る事と向き合ってみるのも面白いかもしれません。これを通した自己改革の可能性というものもあるような気がします。多くの学び、または大げさな言い方とは思いますが、多少の悟りもあったような気がします。クラマルとはわけが違うと思いますが、昔の哲人達には職人を生業とする人が少なくなかったようです。彼らも座して何か作る中で、多くの哲学的な閃きがあったのだと思います。そして、それは生き方の参考にもなると思います。

    クラマルの私的見解の域を出ないものですが

    まあ、敢えてクラマルが口に出すまでもなく、色々と大変な時代でございますね。
    でも、この間に多くの変動や変革というのもあるような気がします。事実、変わる部分も少なくないように思います。
    クラマルは、特別そういった教育を受けてきた人間ではないのですが、人間学、社会学、現代科学等、まあ広く浅くの範囲でしかなかったのですが、そこの系統というかそんな感じでした。そのセオリーからいけば、クラマルの未来の展望はというと、政治経済とかそっちの方面のように思われるかも分かりませんが、この今この時期はそこはあまり考えることはあまりないように自身に思います。
    これは、クラマル自身の意外な自分の一面に気付かされた瞬間でした。
    この先の経済的な展望や社会の未来について、色々と予測を立ててくれている人が多くいる中、クラマルは恋愛の将来的な展望というか、恋愛の未来についての予測を立てている所でした。
    人間が人間というスピーシーズでいる以上、実は本当にバカに出来ない、時にはかなり深刻で切実なファクターなような気もしています。
    細かな所はまだ、具体的に予想というか考え至る所ではありませんが、今までの恋愛とは、相手を判断する着眼点が変わるように思います。この時期、知覚できる現状から自然とその傾向になる人も多くなるのではないでしょうか?まあ、あまり世代的なくくりの話は避けたい所ではありますが、最も顕著に現れそうなのはこの今社会に出て間もない人達や学生さん、子供あたりはかなり色濃く、そのような恋愛の傾向になるのではないか?とクラマルは思考します。あくまでも思考の産物です。その可能性もあるかな?の程度です。
    しかし、このクラマルの考えているこの恋愛の未来のぼやけた姿というのは、実はこの今にも現在進行形でそのようになっていると思います。当たり前に扱い過ぎていて、注目していないだけなような気もしています。元々から無いものを見ると言うほど、困難なことはありませんので、その言葉に則った考え方をすると、心の目でも見ていなかったような、元々あった部分に今一度、フォーカスする恋愛でしょうか。
    スピード化と日々の喧騒や忙しさの中で、ついつい度外視というか、見忘れていた物を取り戻すというのが、恋愛に限らず今後の色んな部分への流れのようにも思います。そして、それは恐らく心地よいものであるような、そんな気もしています。
    人間の現実に沿って、今後の恋愛の中で起こりうる事を思考しますと、生き急ぐような事はせずに、より丁寧に恋愛をするという意識になっていくのではないでしょうか?
    テレビで見たような例えでいうと、時代劇に出てくる若人の恋愛シーンが分かりやすいと思います。長年、友達として互いに付き合いの長い二人が、成人を機にプロポーズするというシーンはよく見ます。そこから大体は悪代官の陰謀によって、結果的にカンイチとジュリエットのように、じゃなかった、ロミオとジュリエットのように一時引き裂かれ、そこに御付きの若い青年をつれた、最後の最後まで自分の身分を明かしたがらない旅の怪老人が手を貸すという、
    まあこの話、悪代官の行から本筋とは関係がないのですが、そのように相手をじっくりゆっくり判断して、丁寧に互いの愛を育てた上でのプロポーズというそんな恋愛でしょうか。
    恋愛のスローライフとも言えるかもしれません。そこに向かった恋愛になるような気がしています。昨今の小学生等の登校する姿を見ますと、クラマルの時代とは大分変わっているように思います。変わりつつあるなと感じたのは、今を去ること10年位前なのですが、今このクラマルの恋愛の未来像を思うと、その変化というのはこれに通ずるプロセスだったのかも知れません。まあ、所詮は後知恵を働かしているだけに過ぎないのかもしれませんが、そのように最近は感じます。
    要点をいいますと、ゆっくりじっくり相手との愛情を育てるのでしょうから、告白するあたりには半ば夫婦なのではないでしょうか。
    良い所も悪い所も含めてこの人を、というそんな感じでしょうか。
    ま、クラマルの単なる思考に過ぎませんので参考程度に

    考古学のもうひとつのテーマについての考察

    考古学や遺跡、古代文明の資料や情報を見るのは、クラマルの趣味でもあり、これらが仕事やあらゆる面に生きています。
    考古学というのは古きを考える学問といった所でしょう。
    道教でしょうか、それに二つの世界があるようで、陽界、陰界というふうに分けられているそうです。陽界は現在と未来でしょうか。陰界は過去の世界です。これには死者も含まれるそうです。
    考古学の取り扱う過去の足跡というのは、この陰界に通じているものだと思います。
    また、古きを考える学問とは、インスピレーションの世界にも思えます。インスピレーションという想像力を使って、過去のあれこれを考察するのかもしれません。過去は過去であり、正確に確かめるのは困難だと感じます。
    しかし、インスピレーションでもって陰界にアクセスするようにも思えます。
    そこから考えますと、考古学というのは古代の死者達と語らう学問なのかもしれません。

    好きな人はいますか?

    好きな人はいますか?と問われた時に芸能人でも、身近な人でも具体的なイメージをあげられれば、次にするべき事というのは大体見えてくると思います。
    では、好きな人を探しましょう。と言われた時に、創業から50年、父親からの秘伝の味を守り続けて早20年の三丁目の商店街の豆腐屋二代目の喜三郎さんが好きならば、喜三郎さんを探しに行くかと思います。
    これをクラマルのランチに例えますと、昼は魚でも食おうかな、とクラマルが思うならば、魚料理の店を探します。
    よくあることとして、さて昼は何を食うかなと、無目的に街をフラフラしている内に、あっという間に昼は過ぎ、気づけば黄昏時、
    ふと顔をあげると、創業から50年、父親からの秘伝の味を守り続けて早20年の源三郎さんの豆腐屋さんの前で立ち尽くし、結局クラマルは何が食べたかったのか分からぬまま、途方にくれる。というようなこともあるかと思います。
    結局は、そして僕はまた途方にくれる、のです。
    では、これを恋愛に当てはめてみましょう。
    具体的に好きな人はいないのだけれど、誰か好きな人を探す。といったところでしょうか。
    実はクラマルは過去の人生に於いて、2回くらいこの経験があるように思います。
    この行動に出る前に起こった事といえば、誰かにフラれる。というのが、共通点だったと思います。傷心ですね。心にぽっかりと空いた穴を誰かで埋めようとしていたのかもしれません。
    動機や理由はさておき、注目すべきはやはり、誰か具体的な人物ではないが、好きな人を探す。もしくは、好きになれそうな人を探すというところでしょうか。これはかなり難しい課題のように思います。
    あのアニメのあんなキャラクターみたいな人、とかなら、まだ探しようがあるかもしれません。でも、この場合は
    具体的イメージがないように思います。顔のない好きな人といった所でしょうか。
    これは、幻ですらないもの探すという、地球はおろか、この宇宙のどこを探しても見つかりそうもない、そもそも自分が求める具体像がないものを求めて彷徨歩くという、見方を変えると哲学的な探求になりそうですが、この時のクラマルは哲学したい訳ではありません。まあ、かいつまんでいうと側に誰かいてほしかった、ということだったのでしょう。そこが重要ポイントだったと感じます。
    初の1回目の顔のない好きな人探しは、失敗に終わりました。やはり、具体像がないので当時のクラマル自身としても、いったいどこの誰とコミュニケーションをコネクトすべきか、皆目検討も付かなかったのです。
    2回目の場合は、割りとすぐに見つかりました。のっぺらぼうでもいたのか?と言われるかもしれませんが、クラマルのその時の心内は1回目と同じくそうだったかもしれません。
    しかし、2回目の場合は、1回目の失敗の経験から、探すだけ無駄だとシニカルになっていた点があります。その時はちょうど新しいバイト先に入った事もあり、目の前にある仕事を覚える事に集中せざる終えなかった点もあります。
    面倒くさいから当分は誰かと付き合ったりするのは、やめようと考えていましたら、相手はクラマルをどのように思っていたかは別としても、好きな人が出来たという目的というか事実というか、その辺りは達成されました。単に特定の誰かを好きなるという点では。
    まあ、願いのメカニズムと重複しますが、願望を捨て去った時に、抱いていはずの願望が実現されますが、顔のない好きな人探しをしていると自身に感じた時は、何か別な事に集中するのがいいかもしれません。誰を好きになりたいという意識そのものは、素晴らしいものかもしれませんが、かつてのクラマルのように欠乏感から行う顔のない好きな人探しは、かえって時間の浪費になりますし、場合によっては物事をこじらすことにもなりかねないように思います。
    当時の彷徨歩くクラマルに限って言えば、その姿は強い欠乏感が服を着て歩いているような姿だったと思います。人によってそんなクラマルは、ブラックホールに見えたかもしれません。しかも、吸い込むのか吸い込まないのか今一つ分からないブラックホール。吸い込むにしても、何を吸い込むべきか分かってないブラックホールといったところでしょうか。まあ、これはあくまでも当時のクラマルに限った話です。
    しかしながら、やはり誰かと深く繋がりたいという気持ちもあるかとは思います。クラマルの欠乏感は本当に本当に極端な例ですが、やはり何かに打ち込む姿とか、取り組む姿というのが、自身の魅力を周囲に伝播させるものですし、その場所に居合わせた他者との関係を築くチャンスも可能性としてはあります。
    人通りの多い街をクラマルのように彷徨歩いても、そのクラマル本人の現実は孤独でありました。今にして思えばそのように感じます。誰かを好きになりたいという気持ちが心に浮かんだ時は、一旦はそれは横に置いておく程度にして、普通に仕事したり、趣味に勤しんだり、楽しく遊んだりというのが、近道のように思います。

    お若い方達へこの時の縁とは

    新年度に入って、大学や学年が変わり、それに伴う人間関係が去年のものは変わる人も多いかと思います。
    成人したり、社会に出るとここ十数年の時節柄でしょうか、
    人間関係の固定化とまではいいませんが、外回りの営業だとか、接客や外交的な仕事をしない限りは、そう滅多に毎年メンバーが変わるということは、基本的にはないように思います。
    しかし、仕事となりますと関係は良くも悪くものっぴきならないほど、濃密で場合によっては強烈にもなります。
    翻って、学校となると多く人間が集まっていても、学校という枠組みの時間に於いては、濃密な関係を築くというのは、意外と苦労するかもしれません。
    現実的な具体例を挙げますと、授業や講義の時間がメインだからです。休み時間などは割合少ないでしょう。大学生ともなれば、時間を惜しんで勉強したり、場合によってはアルバイトもしなくてはならないかもしれません。濃密な関係を築くことが極めて困難だとまでは言いませんが、やはり関係を深めるには時間を要するにという現実は、この物質世界に生きている以上、どうにもならないように思えます。
    逆に時間をかけずに、互いの深い関係を築くことが出来る場合もありますが、これは瞬時に互いを判断したり、または深い許しの意識があったりと、人生経験の積み重ねがものを言う場合の方が多いような気がします。
    とはいえ、若くて未熟であるということは、罪ではありませんし、そこについて責めことはかなりなナンセンスだとクラマルは思います。
    総じて学生さん達の人間関係の構築について、見てみますとこの時期というのは、広く浅く多くの人達を見る貴重な期間でもあるように思います。また、学年が変わりクラスが変わるというイベントを経て、強制的に周囲の人間環境をガラリと変えられてしまうそういう部分もあります。人間というのは何だかんだといっても、自分達が心地よいと感じる人間関係に定着したがるものです。そこを強制的に変化を与えられるというのは、せっかく築いた関係を疎遠にされたりする不都合や、新しい関係を作り直すという発展性も伴っているかと思います。
    また、人間に多感な時期であります。それによる出会いや別れという、強制的変化のイベントとは別な所で起こる変化も少なくないのではないでしょうか。
    新しい関係というのは、嬉しいような反面に相手をよく知らない緊張があり、別れというのは悲しく辛い場合もあります。それが、恋人であれ友人であれ、そのように感じます。
    ですが、今の時期は多くの人のタイプを経験する時期でもあります。目の前の人間関係の変化に一喜一憂する事もあるかと思いますが、今は色々な人を見ているのだ、という意識を持ってみてください。きっと目の前に起こる人間関係の織り成す現象が味わい深いものになると思います。

    まあ、不条理といえば不条理に見えますが

    願いを叶えたいと思う時の最大の難点というのは、意識のあり方につきるかと思います。

    後は、一歩行動を起こす勇気でしょうか。結局は意識なのですが、

    最大の天敵というのは、執着のように思います。

    執着とは、そうではない苦しみ、が複合された意識のように思います。

    これを失いたくないという気持ちに執着が絡むと、見え方としては苦痛に満ちています。

    この今の現実、失っていないのに、言葉で失いたくないと切々と語ってはいるのですが、心の内では、既に失った後の苦しみに満ちています。

    私は苦しい、と空間に宣言すると
    空間は、よろしい貴方は今の苦しい

    といって、苦しい自分を実現してしまいます。

    望みとは逆の結果ですね。

    執着とは幻想の苦痛のように思います。
    それは今の目の前にある事実ではない、幻想の苦しみと考えます。

    楽観的な夢や希望を現実的ではないと一蹴することに人間は慣れていますが、

    こういう悲観や絶望を抱く程、冷静であり現実的と評価されてる事が実際に多いと思います。

    これは、人間の脳の伝統的な性質なので仕方がない事なのですが、実際には取り越し苦労というのもあるのが現実です。

    確かに備えというのは必要な一面もありますが、悲観や絶望による行動というのは、別な悲劇を呼び込み、そして本人がそれに気づけないというそんな事態も引き起こしかねない部分もあります。

    悲観や絶望に対する不安は、最もらしく人間を効率的にコントロールする部分があると思います。

    元来を考えると、人間の知識、知能というものは生きるための補助的付属品のようなものだとクラマルは考えています。

    そして、クラマルを含め人間というものは、この補助的付属品の中でも危険回避という機能に人生を支配されやすい、そんな性質があると感じます。

    しかし、現実を見ますとこの危険回避という補助的付属品に人生を明け渡しても、それに見合った報奨を人間に渡せる程の力はないように思います。

    不安にかられ、万全を期しても、結局はアクシデントに巻き込まれている人がいたり、そういう経験をしたりしています。これが、この補助的付属品の限界のように感じます。

    不安というのはそれ以上でもそれ以下でもなく、その程度のものと考えたほうが良い部分もあると感じます。

    話が逸れてしまいましたが、過度な不安というのも、極端に無根拠な楽観視と同じくらいの幻想でしかないのかもしれません。

    執着というのを越えるならば、この不安は幻想だとそこを冷静に見つめる必要があると思います。

    それは、ワンテンポ落ち着いて、心に余裕を持つという所でしょうか。

    即座に反射すべきかどうかを判断するために、無意識の行動から意識的な行動に一時期でも変えて、即座に反射すべきではない場合なら、すぐに反応を返さず、2秒でもちょっと考えてみる意識の癖づけにその道なあるような気がします。

    本来の阿吽とは違いますが、

    あ、何か来た。と思ったら
    心の中で一旦はウンと言えばワンクッションおける気がします。

    効率よく徳を積む方法

    先に奇跡と徳の関係性について解説しましたが、効率良く徳を積む方法というか、クラマルが思い付いて、実践して、何となくスピーディーに奇跡が起こったなあ、という方法がありますので、ご紹介します。

    まずは、クラマル自身が誰かに嫌な思いをさせられるところから始まります。

    嫌な思いをした分、誰かに親切にしたり、愛に言及された行動をとります。

    これにより
    ネガティブをポジティブに変換して世のエネルギーとして流し、ネガティブの連鎖反応を食い止めます。これで徳点1点。
    次、自分自身がそのようにして親切を働くことにより喜ばれたり役に立ちます。これで徳点1点。
    自分を理不尽な目に会わせた相手をこの行動を通して許します。徳点。1点。
    この行動により相手が自分に働いた理不尽な事に価値を持たせます。徳点。1点。
    相手の発したネガティブをポジティブに変えることにより相手に、帰ってくるはずだったネガティブを軽減します。徳点。1点。

    合計で5点です。
    しかも、ネガティブをポジティブにして世に放すので、少しかもしれませんが自分を取り巻く環境のエネルギーもポジティブの連鎖反応が多くなるでしょう。

    クラマルはこれをネガティブ開運方法と呼んでます。

    暗い言い方になるかもしれませんが、恨みの数だけ、親切を働くと言えば分かりやすいでしょうか。

    でも、怨 怨 とした気分でやるのも何か、そら暗い感じがしますので、

    もし可能ならばその黒いネガティブエネルギーを白いライトエネルギーに変換して目の前の空間に放っているイメージや、親切を働きながら、許しの意識になれればなおいいでしょう。

    慣れない人は、不愉快悶々な気分でも一人で、どこかを掃除して喜ばれる所を掃除するのがいいかもしれません。

    ネガティブな連鎖反応を、愛に言及された行動を通して、ポジティブな連鎖反応に変換することが要ですので
    でも、これで、1回に徳点5点を稼げるのです。

    ま、徳を点数にして考えるやり方は、なんか奥ゆかしさとか情緒がない感じがしますが、このように感じています。

    まあ、クラマル自身はこれでかなり、良いことがありました。

    これを思い付いたいきさつは機会があれば、お話ししますが、そんな感じでした。

    嫌な目に合わされて、ムカムカしながらでも、誰かのために例えばトイレ掃除とかしてみたりして、終わった後、空にあの憎いこん畜生の顔を思い浮かべて、

    あんたのネガティブのお陰で、この世界がまたひとつ綺麗になったぜ。

    とか、いってみるいいかもしれません。

    クラマルは以前は、

    あんたのネガティブが、世界のどこかの子供を救ったぜ

    とかでした。
    そして、その徳というか徳点によって良い事が起こって、

    不思議と自分に向けられるネガティブを期待するようになりました。

    あんたのネガティブで世界がまたひとつ良くなる。

    すると、自分に向けられるネガティブの本質的な部分も冷静に分析するだけの心の余裕が生まれてきましたし、それに付き合わされる現実的な時間がもったいないな感じ始め、その内容も実はそこまで大した話でもないということに気付きました。

    また、世の不条理として、期待するものほど手に入りずらいのか、ネガティブを向けられることを期待し始めると、その機会が極端に減っていったのです。

    ま、話がずれましたね。
    ネガティブを受けたら、それを愛に言及された行動によりポジティブに変換して世に流す。
    これで、徳点一度に5点。と考えてみるといいかもしれません。

    因みに実践としては、嫌なものを見た後とか悲しいもの見た後もやるといいかもしれません。

    とはいえ、自分に無理のない程度に

    運というものの有用性についての考察

    まあ、エネルギーの等価交換の法則というのがあるのですが、これは話すとくだくだしくなりますので、このメカニズムについては別な機会にします。

    お金があればこんなことが出来るのに、なんて考えてしまいますが、

    お金の可能性ってのは意外と有限なものです。

    お金があっても、怪我をする場合もありますし、つまずくことだってあります。

    大金で買ったバイクでツーリング、気が大きくなってジャックナイフを決めようと思って転倒。両足を怪我なんてしたら、元も子もありません。

    お金があっても、どうにもならない事というのはあるものですね。

    そういう、通常の物資ではどうにもならない事をどうにかするのが奇跡と呼ばれるものだと思います。

    奇跡とはこの空間の返報性です。

    空間は常にバランスしようとします。差し引きゼロにしようとするのです。

    エネルギーは高い所から低い所へ流れます。

    つまりは、自分を低くすることなのですが、
    これはエネルギーレベルを低くするのではなく、量を少なくするということです。

    つまりは、自分の外側に働きかける事です。

    奇跡にも嬉しい奇跡と、嫌な奇跡というのがあります。

    これは簡単にいうと、人に対してしたことはいずれ自分に返ってくるといえば分かりやすいでしょうか。

    働きかけるエネルギーには大きく分けると二つあり、ひとつは愛に言及されたエネルギー、もうひとつは闇に言及されたエネルギーとしておきましょう。

    愛に言及されたエネルギーとは、親切にしたり、陰ながら誰かの役に立つ事です。

    闇に言及されたエネルギーというのは、傷つけたり、迷惑を働く事でしょうか。

    そして、このエネルギーにはちょっと厄介な部分もあります。

    自分が先に働きかけて、その返報を受けとるというのが、とりあえず良いと思います。

    先に身の丈に合わないものを手にいれたりすると、その分自然に返報させられます。言い換えると代償ということになります。

    クラマルにも、過去に経験があります。
    棚ぼたで、何もしていないのにちょっとしたお金をもらったときでした。
    車の部品が故障しました。

    この時のクラマルは、このエネルギーの法則について知りませんでしたので、
    車壊れたけど、お金があってグッドタイミングだった。と思いました。結局は手元にほとんどお金は残らなかったですが、何とも呑気でした。

    このように、強制的に代償を払わされます。まあ、怪我や病気でなくて良かったですが。

    ですので、先手を打って働きかけた方がいいかもしれません。

    さて、よい奇跡を起こすにもエネルギーがありまして、このエネルギーを生産。まあ、エネルギーは循環なので生産というのは適当ではないかもしれませんが、まあ生産としておきましょう。

    エネルギーを生産する必要があります。それは徳と呼ばれるもののようです。

    徳と呼ばれるエネルギーを奇跡というシステムは使うようです。

    簡単に徳は奇跡を起こす原動力と思っていただければよろしいかと、

    まあ、徳を作る、徳を積むには愛に言及された行動をすることです。

    でも、常にエネルギーは差し引きゼロになろうとするから、積んだ先から奇跡として消費されるのでは?

    と、思うかもしれませんが、この空間にはレジスタンス、つまりは抵抗があるのです。

    この抵抗も説明するとくだくだしくなりますので、別の機会にしますが、

    奇跡の抵抗によって、たまった徳がザルのように常に流れているというわけではないようです。

    奇跡にも伝導体と抵抗があるようです。これで、ある程度保たれています。

    ま、エネルギーは常に差し引きゼロになろうとする性質はあるが、その性質も常にそのようにすることが達成できていないのです。

    簡単にいうと、徳はためられるということです。

    ですので、回りに親切にしたり、または誰にも知られない、良い働き。つまりは陰徳というのを積むと奇跡に近づくかと思います。

    愛に言及された行動を通して、徳を積む
    たまった徳で奇跡が起こる。

    これをとりあえず覚えておくといいかもしれません。

    そして、徳を考える時はポイントで考えるといいかもしれません。とはいうものの、

    親切な行いの評価や、徳の量というのを数字にすることは困難ですので、時間や質を問わずに回数で考えておけばいいかもしれません。

    普通と徳、1回につき1点
    人に知られない、知らせない陰徳、1回につき2点

    としておけば、楽しくなるかと

    相手に下駄を預けない意識の考察

    またまた、街ですれ違った誰かと再び会いたいと思ったとき、

    また会いたい、と思うのはいいのですが、よく自分の中を探ってみて下さい。

    自分を見つけて欲しい、と思っていたなら、
    逆にしてみて下さい。

    私が貴方を見つける。
    それか、否応なしに貴方に見つけさせる

    この意識を持つだけでも、行動は変わるかもしれません。

    クラマルにも、過去にお世話になった人達がいまして、連絡先なども聞く事もなく離ればなれになった人たちがいます。

    私はお陰様で元気にやってますよ。をその人達にお伝えしたい気持ちもあり、その人達に見つけて貰えるように、あれやこれや、色々とやっている部分はあります。

    すれ違った誰かと会いたい、けれど会えないという気持ちで悲しくなっている人たちに、

    クラマルは、ある現実を突き付けます。

    その現実というのは、

    人間がいられる所は、人間がいられる所でしかなく、実は考えているほど広くもなかったりする。ということです。

    この岩手県の地図を見ると、その事がよく分かります。

    首都圏など都心の地図上では、人間は面で生活しています。

    こちらでは、線で生活しています。

    線で生活するとはどういうことかと言いますと、住宅や街が、ほぼ主幹道路に沿って存在している、ということです。

    整地の困難な山岳や森林地帯や起伏の多い土地柄のせいか、都心のように縦横に広く人間の生活圏を確保するのが難しかった結果でしょう。

    まあ、クラマルは地理の専門家でなく印象でしか話をしていませんので、事実との多少の差異はあるかもしれませんが、

    人間のメインフィールドは、こっちの場合思っているよりも広くない可能性があるという事です。

    ここに人間の生活パターン、移動パターンなども加わると、まるで確率の樹形図のように膨大な数のパターンが出てきそうなものですが、それは意識とか考え方とか、そういうものならばそうかもしれませんが、

    すれ違う、という現象は移動と場所ということになると思います。

    そこを考えると、実はさらに個人の移動のパターンやいる場所というのもかなり限定されたものとなるでしょう。人間というのは、一見どこにでも行けるようでいて、案外いく場所なんてのは少ないのかもしれません。

    いくらどこにでも行けるとしても、宇宙空間や深海、砂漠の真ん中、高い山の頂上にいる人間の数の方が絶対数は少ないし、

    深い森の中で生活している人というのもそう多くはないように思います。

    つまりは、人間は限られた利便性のある生活圏に集中し、そこから移動する先もそう多くはないということです。

    つまりは、世間は狭いのです。
    ここに行き着く気がします。

    新幹線を乗り継いで、かなりの遠くに離れた相手というならば、再会というのはかなり難しいかもしれませんが、

    およそ、地元の人間ならば大衆の集中する所を歩いていれば、結構な確率で再会できるような気もします。

    魔法や奇跡というのは、この再会をほんの少しだけお手伝いするものだと考えます。

    街を歩きながら、そう遠からず私は貴方を見つける。この意識で世間を眺めながら歩いてもいいのではないでしょうか?

    シンクロニシティの活用の考察

    街ですれ違った人が気になり、また会いたいとか、そのように思う事はあると思います。

    クラマルの場合は、ちょっと目的が違うのですが、ちょっとした魔法を使います。

    まあ、魔法というと仰々しく、大げさかもしれませんが、

    クラマルの使う魔法は、シンクロニシティとエネルギーの魔法でしょうか。

    具体的に言いますと、街で気になる誰かとすれ違ったとします。

    また、会いたいと思っても、普通に考えて中々それは叶わないように感じるものです。

    その場合、クラマルはその時のことを出来るだけ子細に思い出します。

    あの時、あんな服来ていたな、あんなアクセサリーつけてたな、あんなレシートもってたな、とか、とにかく子細に思い出し、

    それらをできる限り再現します。
    その時着ていた服をきる、その時つけていたアクセサリーをつける。その時聞いていた音楽を聞くとか、

    そのようにして、共時性、シンクロニシティの誘発を期待します。

    まあ、期待するといっても、起きて欲しい起きて欲しい、という意識は棄てます。

    あくまでも、その時に着ていた服装とかの再現をして、心の中はその願いを忘れます。

    とりあえず、この種のシンクロニシティを呼び込むために、
    その時と同じようなシチュエーションを可能な限り作り上げます。そして、一度ではなかなか成功しませんので、何度か試したりもします。

    クラマルの場合は、それを逆手にとってその時のエネルギーを記憶する方法でしょうか、そんなことをします。

    良いことがあった時は、それ専用の音楽を聞いたりします。その音楽はなんでもいいです。
    しかし、それは普段聞くものとは別の音楽にします。普段から聞いていると普段のエネルギーを記憶してしまったり、嫌な事が起きたい時にその音楽を聞いてしまうと、その時の嫌なエネルギーを記憶してしまう気がするからです。
    大体、嫌な事が起きたい時に聞いていた音楽を、別段普通の時に聞くと気分は下がるものです。嫌な記憶を思い出してしまうトリガーになってしまうからです。

    とりあえず、良い事があったらそれ専用の音楽を聞きます。

    そして、ここ一番奇跡の力に頼りたい時に、その音楽を聞いて、良い事があった時のエネルギーを作り出します。共時性の応用というと、ちょっと意味が違うかもしれませんが、そのようにして奇跡の再現をします。

    結構これで、そこそこの問題をクラマルは解決しています。

    夢に向かって一歩踏み出せない人へ

    芸術や司法関係とか、人の夢というかそういうものは様々あると思いますが、一歩踏み出せない人もいるかと思います。
    その理由が自分の夢に向かって歩くことは、自分のワガママなのではないか、と思っていたなら、
    そんな人にクラマルはお伝えしたいことがあります。好きな事と得意分野が違う事は世の常としてあったりはするのでしょうけれど、逆に好きこそ物の上手なれという言葉もあります。
    好きでも、得意分野でもどちらでもいいのですが、この互いが互いを補い合うこの人間の世にいるならば、技能や知識を持つものは、それを生かしてあらゆる形で世に何かを与える責任があると感じる時があります。
    まあ、人の選択は自由なのでこの限りではない部分もあるとは思いますが、
    治療行為の出来ない人の代わりに医師が、絵を描けない人の代わりに画家が、家を立てられない人の代わりに技術者がいるわけです。
    そして、これは細部にまで渡るものだと思います。
    それが例え、歌手だったとしても、ダンサーだったとしても、その能力や技でもって世に貢献する責任があると感じます。
    では、才能や能力とはなんでしょうか?クラマルはその根元は、なりたいという意思や、好きだという気持ちにあると思います。その気持ちなくして、才能や能力というのはあまり成り立たないように感じます。
    好きだという気持ちがあるだけでも才能だと、クラマルは思いますし、その気持ちは高い能力に繋がると思います。
    もし、自分が夢を目指す事は単なる自分のワガママなのではないか?と感じるならば、
    この先のあなたの仕事や作品、表現を与えられなかった人々の落胆について想像してみてください。極端かもしれませんが、あなたのその行為なくして、時代の流れが一歩遅れると知ったならば、あなたはどうするのでしょうか?
    あなたが夢を追及するのは単なるワガママではないと思います。
    あなたが目指す自分となって、その仕事や作品、表現を社会に与える事は、公共性の一つだとクラマルは思います。
    もし、この事があなたが一歩前に踏み出す勇気となれば。

    自分の夢が叶う直前について

    自分の願いが叶う前兆というのがあります。人により感じかた様々な所はあるとは思いますが、大体の所は、
    願いが叶う前兆というのは幸せな気分とは違うかもしれません。むしろ心配ごとが細かく出てくると思います。
    きっと夢が叶う前兆を人間は第六感のように感覚することが出来る一面があるように思います。
    そして、現実感が増してくると共に、その現実にそった具体的な心配事や不安を感覚し始めるように思います。
    マリッジブルーの一種のような気分だと思います。
    ひどい場合は、押し潰されそうになり、これで果たして良かったのだろうか?とか考え始めるものだと思います。
    皆さんも多少経験があるのではないでしょうか?
    試験を受けた後などに、受かった後の希望的な展望よりも、受かったが故の苦労や心配が頭をもたげてきたら、恐らくその試験には合格してます。

    なりたい自分になる方法の考察

    夢のある人は日々、自分の今の現状と理想のギャップに悩んでいるのではないでしょうか?
    日々の現実的な仕事を行いながら、夢への努力をしているところだと思います。
    でも、やはり自分は何をしている人間なのか、ということを他者にアピールすることは必要なように思います。
    例えれば、ロックンローラーを目指して、家ではギターの練習にいそしみ、
    外ではラーメンばかり作っていたら、ラーメン屋の兄ちゃんとして認識されると思います。
    そして、良い話もロックンローラーに関わるものではなく、待遇のよい食堂やレストランの話が多くなるのではないでしょうか?
    まあ、よい話はよい話で、変わりはないのですけれど、自分の目指すものとは違うゴール地点に到着しそうです。
    世にある過去の成功者の話を聞いていると、最初の時点では、特に自分の目指す到達地点にこだわりがなかったように思えます。見方を変えると、ただ与えられた仕事に一生懸命打ち込んだ結果として手にいれた成功なのでしょう。
    しかし、自分の目指す到達地点が決まっている人の場合はそうはいきません。
    やはり、目指す到達点へ続く道筋を歩く必要があります。
    ということは、ロックンローラーはラーメン屋でいた時間と同じくらいの時間もしくはそれ以上に、ロックンローラーでいる自分でいる時間が必要だということです。
    考えてもみますと、ロック歌手などのほんどは、歌っているところをスカウトされたりして、そこから成功の道を歩んでいるようにも思えます。
    成功への道というのは、そういう意味では渦のように思います。渦に近づくと、引き込まれていくわけです。本当の渦ならば、危険きわまりない所ではありますが、
    成功の渦というのは、そんな風に思います。
    ですので、目指すものがある人は、まずはその自分である時間を出来る限りの持つこと。
    そして渦へ勇気を出しながら、一歩一歩近づくことだと思います。
    成功の渦というのは、一歩近づけば、二歩こちらに近づいてくれるものだと感じます。
    とにかく、
    歌手を目指す自分から、絵描きを目指す自分から、ダンサーを目指す自分から脱却して、
    歌手である自分、絵描きである自分、ダンサーである自分になってみてください。
    きっと回りの世界は変わります。
    余談ではありますが、クラマルは過去デザイナーを目指し、デザイナーになったというゴール地点に到達した経験はあるのですが、結局その後も腕を磨き続けなくてはいけない現状があり、デザイナーを目指していた自分とデザイナーになった自分の違いなんて、お金もらっているかどうかだけの違いの程度しかなく、日々学び、研鑽し、その道を極められたような気なんて全くしませんでした。勿論、成長というのはあったのでしょうけれど、上を見上げれば自分の至らない点に自信を無くしてしまう場合もあったりと、でも結局そういうものではないでしょうか?
    思えば、デザイナーを目指すものから、デザイナーに変身出来たターニングポイントというのは、デザインという仕事でお金をもらう覚悟を決めた時だったと思います。
    その後に転職したプログラム関係の仕事も、それでお金をもらう覚悟を決めた時でした。
    ガラリと急に全てが変わるような事はないように思います。きっとジワジワなのです。
    そして、達成したと思ったとき、次に上るべき階段というのが迫ってくるように思います。
    ですので、もうなりたい自分に意識と行動だけでもなってください。
    ある画家がいってましたが、私は天才のように振る舞っただけ、そしたら周囲が天才画家として扱い始めた。というのがあります。
    そこに大きなヒントがあると感じます。
    なりたい自分になって、そう振る舞ってみて下さい。結果は後から着いてくるのではないでしょうか?
    こういう言い方はなんですが、自分自身に、さあ、なりたい自分になるぞ、覚悟しやがれ、と言い聞かせるだけでも違うと思います。
    また、自信のない自分自身に対してある意味では、意地悪な事をすることも必要な気がします。
    その意地悪というのは、自分自身をその状況に叩き込む事です。
    極端な例をあげますと、ボクシングのチャンピョンを目指す初心者がいたとします。
    普通ならば、自信のない初心者は大会出場に対して内心は消極的かもしれません。まあ、人によるところはありますが。
    しかし、あえて出場を申し込む事で、自分自身をその状況に叩き込みます。まあ、実際のところ、これを判断して申し込むのはコーチやトレーナーの役割かもしれませんが、そうすることは結果はどうであれ、状況に慣れる第一歩だと思います。
    こうして考えますと、夢への道を歩けないというのは、慣れない道を歩くようなものかもしれません。やはり、始めのたったの一歩というのは大事です。

    自分の感覚を信じて応用する話

    形而上的な話とはかけはなれてしまうかもしれませんが、クラマルが人の心や意識について考えるきっかけとなったのは、過去のデザインの仕事だったような気がします。
    デザインというのは芸術的感覚の世界と、思われるかもしれませんが、やはり一定のルールと言うか、法則のようなものはありました。
    感覚的な世界といわれれば、あながち間違いではないのですが、一般的なイメージとは違うかもしれません。ある意味、データを元にした世界というか、大袈裟な言い方をすると自然法則を元にした世界とも言えるかもしれません。
    今にして思えば、デザインというのも魔術の一種と言える気がします。人の心に訴えかける術でしょうか。
    とはいえ、独自性の強いものというのは、それを作った本人には理解出来ても、それを見る他者には理解できるかどうかは疑問です。
    車の絵を見せて、これはネコですといってもその人の独特な個性は輝くかもしれませんが、ネコと伝えたいならネコを描くべきなのです。
    それと、これは結果論でしかないのかもしれませんが、人間というのは同じ人間の顔や表情に敏感に反応するように出来ているようで、円の中に三つの点を書いただけで、人の顔と認識してまう部分があるようです。
    これを応用して、もっともらしい陰影を壁や岩肌に描くと、場合によってはさもそこに本当の人間がいるように見せかけることも出来るようです。具体的には、トリックアートなんかがそれです。
    まあ、前置きはこのくらいにしまして、自分がされて嫌な事は他人も嫌だと感じている、というのは基本的な道徳なわけですが、これを言い換えると、自分と同じように他人もそのように感じている可能性は否定できない、ということだと思います。
    デザインの根幹はそこにあります。
    この自分の抱いた感覚を応用すれば、いくらかでも他人にそれを感じ取って貰えることが出来るのだと思います。
    まあ、何が言いたいのかといいますと、また恋愛をサポートするおまじないのような話になるのですが、実は目に写っているそこかしこに、相手を魅了する術のヒントがあるわけです。そこを探し出すように目の前の世界を眺めると、なんだか宝探しをしているようで、この世界が楽しく見えて来ると思いますし、場合によっては自分に多いに役立ってくれます。
    もし、何かに心を刺激されたならば、それについて注意深く見て、分析してみるといいでしょう。まあ、具体的なやり方としましては、色々とあると思いますが。さりげなく、指で唇を触って見せるとか、本当に何気ない事なのですが、そういった心の刺激の仕方というのもあるように思います。恋愛の手練手管をクラマルのように戦略的に語るのは何だか、情緒にかけるような気もしますが、最初は恋愛のおまじないという括りのものも、深めていけば相手の無言のメッセージをキャッチする能力にも繋がる気がします。

    その執着は本当に執着なのでしょうか?

    ちょっと別方向から考えてみたいと思います。夢を持っている人には、二種類いるように思えます。一つは夢を実現させようと行動している人。話の上では珍しくはありません。もう一つは夢を見ている事が目的となってしまっている人。こうなればいいのに、と夢見ている事そのものが目的になっている人です。
    これは、目的のための活動ではなく、活動のための活動と似ているような気がします。
    そして、意外に思われるかもしれませんが、実は後者の夢見ている事が目的となっている人というのは、過去に何かの夢を少しでも自己実現した経験を持っている人がはまりこむ落とし穴のようにも思えます。
    クラマルも経験があります。とりあえず、次の夢はあるのですが、色々な思考や想いが邪魔をしたりして、まず夢に向かった行動が取りずらくなります。すると、長い間その夢を見ている状態になり、技能もその夢を達成するに値しているにも関わらず、やるべき事もわかっているのに、何だかんだと理由をつけて、一歩踏み出せないのです。
    これは、恐らく心の慣性によるものだと思います。夢を見ている日々を維持したいのだと思います。
    夢を叶えたいという本願が達成されると、その後の自分が別なものになってしまうような気がして、潜在意識が不安だったのかもしれません。
    経験上、やはり夢を見ている状態というのはある種の幸福なのです。それに向かって準備すのが楽しくて仕方ない。
    まあ、ここに物事の本質が隠れているようにも思えますが、本末転倒ですね。
    少しでも何かの夢を叶えた事がある人の心の内は、夢がかなった後の現実を知っている人でもあるのでしょう。頭では分かっていながら、理想とのギャップを感じたりして、その後に新しく掲げた夢に対しても、表面上はやりたい、叶えたいと考えていても、心の奥底にはそのギャップを感じた過去をよく記憶しているように思えます。
    でも、本人には夢があるのです。行動もしています。しかし、そのメンタルは、実現するぞ!!ではなく、夢見ているぞ!!というもののように感じます。
    その証拠といっては何ですが、人生経験の少ない若者が、結構すんなり自分の夢を叶えているのは、夢の後の現実的なギャップの経験が少ないために抵抗がないのかもしれません。みなさんにも、経験があるかと思います。
    例えれば、私は看護師を目指すという学生さんが、その後抵抗少なく看護師になっているのを目にしますし、逆にある程度の社会経験を持っているはずの人が、相応の人生経験と技能があるにも関わらず、自分の夢を叶える事が出来ていない。そばで見ていますと、その人の技能や知識、経験に問題があるのではなく、本人が一歩踏み出す事に躊躇しているだけにしか見えない、そんなことは結構あるように思います。
    クラマル自身にもそんな部分があります。
    ここからが本題なのですが、誰かに対する執着というものは、決して珍しい話ではありません。
    その人といることが当たり前だったという、心の慣性なのでしょう。
    この誰かに対する執着というのは長引くものです。コンパクトにするのは困難です。
    しかし、ここにも落とし穴があるように思えます。長らく誰かに対する執着や未練を抱いた生活をしていますと、執着している毎日が当たり前となるような気がします。
    でも、本人はその人に対する執着だと思っていることでしょう。
    しかし、ここでちょっと自分に問いかけてみてください。その執着や未練は、この今本当にその人に向けられたものなのか?
    もしかして、執着や未練を抱いた毎日を生きている自分への執着や未練でないのか?
    そして、自分はその日々を解消してしまうと、今までとは違う自分になってしまうのではないか?という不安がないか。
    まるで、箱を開けたらさらに箱があって、またさらに箱がって……
    という、無限ループみたいですけれど、こういったことは案外あるように思えます。

    自分というもの

    自分というものには、内側の自分と外側の自分というものがあるような気がします。それを見る他者というのは、あなたの外側の自分を把握します。内側は一般的には把握できないでしょう。
    しかしながら、自分自身は外側も内側もどちらも把握出来るものでしょうか?
    クラマルは日常生活ではよく他人から、注意を受ける事がそこそこあります。
    これは、自分を把握して外側の状況と照らし合わせて、適正に処理していればそういったことは話の上では、無かったことになります。
    でも、なぜそうなったのか?
    それはまず、外側の自分が把握できていなかった、そういことに尽きると思います。
    でも、どうでしょうか。逆に、自分はこう思ったから、とか内側についてはかなり感知することが出来るように思います。
    人間の意識には、表層意識とか潜在意識とか一概に言えない部分はあるのですが、内側に秘めた自分というのは本人は把握しやすく、外側の自分というのは、他者に見せているはずなのに把握しずらいという、そういう性質があるのかもしれませんね。これは、自分のやりたい事と自分の得意な事の違いに似ているのかもしれません。
    クラマルも自他共に経験があります。君はこれが得意だから任せるよ。と言われ、え?自分はこれについて造詣が浅いはずなのに、周囲からはそのよう見えていたのか。とか、クラマルがある人に、これは君の得意分野だから、ちょいちょいと出来ると思うよ。と、お願いしたときに、え?そんな自信なんてないよ!、という返答の割には、予想通りちょいちょいと、よい仕事に仕上げてくれて、不安がっていた本人も安堵している。そんな事が多かった気がします。
    意外と外側の自分というのは、見えないものなのかもしれません。
    もし、意外な自分に気づきたいという時は、他者にその質問を投げかけてみるのがいいかもしれませんが、それはなかなか難しいことだと思います。それが出来ない場合は、自分が理解しやすい所から、見ていくのがいいかと思います。部屋にあるものを眺めて、場合によっては並べてみるのもいいでしょう。そしてそれを漠然と眺めるのではなく、共通点を見いだしたり、自分なり分析してみると面白いかもしれません。
    こうして、考えてみますと意外な自分というのは、自分の外側からやって来る物のようにも思います。
    クラマルももっと若かりし日、駆け出しのデザイナーでした。クラマルも苦労しました。デザイナーだけでは生活が出来なかったので、夜中はラーメン屋さんでアルバイトをしていました。余談ですが、このラーメン屋さんの一連の作業から効率化と合理化の考え方が身に付いたと思います。経験には無駄はありませんでした。
    話を元に戻しますと、ラーメンを作りながら、自分は今は中華鍋を振っているけれど、デザイナーなんだ。と、内側ではそのように把握しています。しかし、店の外に出ますとお酒に酔ったお客さんに、よう、ラーメン屋のにーちゃんと呼ばれていました。外側ではラーメン屋のにーちゃんだったのです。
    まあ、考えてもみればラーメン屋の厨房で、中華鍋を振っていれば、デザイナーと認識できるはずもありません。どう見たってラーメン屋のにーちゃん。それ以外にどのように見ろというのだ、と言ったところですね。
    しかしながら、このように外側から自分を彫ってみるというのも大事な事のように思います。
    当時のクラマルにとって、意外な自分の一面というのは、ラーメン屋のにーちゃんであり、デザイナーである自分、というあり方にこだわっていた当時としては、ちょっと残念な気持ちも正直あったのですが、今にして思えばかなりな得なことだったのだと感じます。当時、私をラーメン屋のにーちゃんと呼んでいた周囲の人は、私を見るとラーメン屋とイメージを直結していたという事でもあるからです。
    この顔姿といえば、あそこのラーメン屋という構図が意識の中にあったのでしょう。
    商売の世界では、大事でありとても得なことだったのだなあ、と感じます。
    ですので、外側から来た意外な自分というのも、なかなか得というか、概して考えれば良いことのように思います。

    女性性、男性性の姿

    自分の心の中には、異性が住んでいるようです。男性には女性が、女性には男性が住んでいるようです。これは、自分の好きな異性のタイプとして自分の心に働きかけるようです。
    これは、自分の意識や精神的な成長などによって、姿を変えていくようです。
    個々にそれぞれの姿はあるのかもしれませんが、大まかには4つの形態があるようです。
    簡単にいいますと、男性の中に住む女性は、第一形態はセクシーな女性、しかしこれは母親像も重なっている場合がようです。場合によっては、セクシーな体ですが顔がない女性という例えもできるかもしれません。
    第二形態は、清楚な少女の姿といわれています。
    第三形態は、霊的な愛の女性の姿といわれています。彼女の心は無条件の愛とか、慈愛でしょうか。
    第四形態は、深淵なる叡智の女性だそうです。ほぼ、神様ですね。
    女性の中の男性の場合は、第一形態は力の男性だそうです。スポーツ万能な感じだったり、活発な若い男性の姿といったところでしょうか。
    第二形態は、行動的なの男性の姿といわれています。その行動というのは理想的な行動と結果というのが付属する事柄かもしれません。
    第三形態は論理の学者の姿のようです。これは、言葉とか客観性などの精神的な部分でしょうか。
    第四形態は、多いなる意味の男性の姿だと言われています。賢者の姿といったところでしょうか。この段階も男性の中の女性のように神様の姿とほぼ同等という見方もあるようです。
    女性の場合、男性の心の中の女性と違う点は、第二形態という早い段階から、セクシーな女性とか清楚な少女のように、擬人化が難しい概念的なものとなる点のように思います。
    こういった理由から、女性は情緒的な部分に注目したり、比較的敏感になるのかもしれません。
    因みに暗闇が怖いと感じた時、その暗闇にいる恐怖を擬人化した人物の顔は、自分と同じ顔をしているという話もあります。もっとも、暗闇なので見えるものでもありませんが。

    この春、世界が変わる人たちへ

    この春、新卒して社会に出る人達や新たな環境で学ぶ学生さん達へのちょいとした、クラマルからのメッセージというか、
    まあ、何かの参考にしてもらえれば、というかそんな感じの話なのですが、
    自分の生まれた地元にいる人も、地元から離れてしまう人、はたまた別な場所からこの地に来た人、様々とは思いますが、
    タッチファーザー、タッチマザーという言葉をクラマルは聞いた事があります。
    これは、実の父母という命を授けてくれた親とは、別の精神的な親の事のようです。
    これらの親は、実の両親とは別な視点で、色々なことを教えてくれる、親のような存在です。
    西洋にはゴッドファーザー、ゴッドマザーという風習があります。名付け親という意味のようですが、この名付け親となる人はちょっとした責任をその名付けた子に負うようです。
    それは、その子の人生の中の精神的な親となり、実の両親とは別な親として、悩みの相談に乗ったり、諭しを与える存在となるという事のようです。先に述べた、タッチファーザー、タッチマザーにあたるかもしれません。
    クラマルの人生にもタッチファーザー、タッチマザーがいます。
    多くを教わりました。
    人と人とは縁によるものもありますので、自然の流れに任せれば、すぐにと言わず見つかると思います。
    そんなタッチペアレント達は、大事なことを沢山教えてくれる事でしょう。出会えたなら、その絆を大事にしてください。

    意中の人との思いを深める

    クラマルは高校時代に異性とハンバーガーショップに行った経験はなく、思い返せば異性と飲食を共にするようなったのは、成人してからでしょうか。
    今となっては、ちょっと古いなと思われてしまうかもしれませんが、学生時代に恋仲の異性と行ったバーガーショップの思い出や、ドーナッツショップの思い出が色濃いのはなぜでしょうか?まあ、人の思い出は様々ですのでこの限りではないとは思いますが、
    これらの共通点は油分なのだそうです。
    誰かと油物を食べた思い出というのは、とてもよい思い出として印象強く残ることが多いようです。これは、古代から受け継がれた人間の性質的な物かもしれません。油というのは概ね栄養が多いでしょうから、そういうことによい印象を持つのかもしれません。これを応用しますと、異性と油物を一緒に食べて見るのもいいかもしれません。その後、あなたと油物を食べた思い出は良い思い出として記憶され、告白前のファウンデーション作りに役立つかもしれません。あなたの手を触れた食材を使う手料理を食べさせるのも、あなたのエネルギーを入れる効果的な方法かもしれませんが、その段階ではない場合は、ちょっと誘いずらいものだと思います。こんなときはこのように一緒にどこかで油物を取りに行くというのは、やり易いかもしれません。
    しかし、あれですよ。
    今晩、お暇ですか?よろしければ、私と一緒にサラダオイル飲みませんか?なんて言うのはあまりお薦めしません。
    クラマル個人としては、その情景を見てみたいような、そんな気もしますが

    停滞していると感じる時は

    返事が来ないとか、何かの結論がはっきりと出てこないというときは、何かの展開が停滞している場合があります。クラマルもそんな事がありました。その時は、直感的に人生の一部分はロールプレイングゲームのようなものではないか?と思った事があります。つまりは、次の展開に進まないのは、満たすべき条件がまだ残っているということなのでは?と感じたのです。
    コンピューターゲームなんかは特にそうですね。ストーリーを進めるために満たすべき条件があるわけです。
    その時クラマルは考えました。何かやり残した多少の義務的な物事、いの一番に思い付いたのは、部屋の掃除でした。掃除が終わってしばらくしますと、停滞していた物事が次の展開へと行きました。
    その後も数回ありました。何か停滞しているなと感じた時です。また、掃除ですとかいらない物の整理ですとかやりましたが、まだまだ動きません。次は何かな?と考えた時に友人の顔が直感的に浮かびました。
    あ、いつだったか街中でばったりあったとき、今度ゆっくりな、で済ませてしまっていたな。と思い、友人に会いに行きました。すると、あら不思議、次の展開へと移りました。
    何かが停滞しているときは、やり残した事を思い出して見てください。

    何かちょっと立ち上がれないとき

    人というのは、その時のコンディションによって、反応や行動というのは変わるものです。
    そして、それは心や体のバロメーターとなっていると思います。
    誰かの話を聞いた時の心の感じ方には注視してみるといいかもしれません。
    聞いた時に、よしやるぞ、と思えるのは心の体力が元気なのだと思います。
    まあ、気乗りしないけれどやってみるか、の時は一度休憩すれば、より行動的になれると思います。こう言うときは、休憩してから行動することをお薦めします。
    うわ、出来るかなあ、とかものすごい障壁を感じる時は、徹底的に心身を休める必要があるように思います。これは、それを受け入れられない性格的な部分である前に、心の疲弊からそのようになっている可能性が大きいと思います。経験上こう言うときは、体で感じる快や癒しから順を追って心身を癒すべきでしょう。もしかすると、考え過ぎてしまって、体は寝ていても、脳は考え続けているのかもしれません。つまりは休めていない可能性もあると思います。例えて言いますと、傷ついた体にマッサージをするようなものでしょうか?マッサージにも色々とやり方あるかもしれませんが、普通の感覚で考えますと、かえってダメージになっている可能性もあります。

    悲観主義者の引き寄せの法則についての考察

    引き寄せの法則という言葉をここ数年で目にするようになりました。もしかしたら、クラマルがこの言葉を知るかなり以前からあった言葉かもしれません。これの別名でしょうか、引力の法則という言葉もあります。恐らくは、同義語かもしれませんね。

    クラマルは、物事をあるがままに素直に受け止められず、そのメカニズムについて細かく理解しないと気がすまない性分というか、悪癖というか、そんな感じですので、昔は調べていました。

    引き寄せ、引力と聞くと真っ先に天体の持つ万有引力だとか、磁界だとか、そのあたりから共通性を見いだそうとしたのですが、もしかすると、宇宙の物質的空間の引力とは意味が直結してはいないかもしれません。
    今のところはクラマルには、この引き寄せの法則と天体の万有引力の共通性については、ブラックボックスです。

    ですがこの法則を知り、その通りにやってみましたらある程度というか、かなり自分の思うことは実現できた過去もありました。

    まずこの手段は法則という風に名付けられていることから、応用はできるかもしれませんが、使う、という言葉は適当ではないようです。

    これはある種の自然法則ですので、これに則ってこの世界は成り立っているということだと思います。つまりは、全ての物がこの法則の上に成り立っているという事です。

    この地球上に重力があるように、この法則も常に作用しているとわけです。

    よし、私はこれから重力を使う、という珍しい事を言う人との出会いはクラマルにはまだありません。

    それと同じような作用だと考えるといいかもしれません。

    不幸で心満たすとそれがやってくる、幸せで心を満たすとそれがやってくる。

    単純な言い方をするとこれに尽きるようですが、それは願いが叶っている自分を想像するのとは違うようです。

    願いがかなっても叶わなくても、それは取るに足らない事であり、どちらであって変わらず自分は幸せなのだ、という気持ちで満たすというのが、この法則の応用の一つのようです。

    これは習慣化するまでは、自分の心に注視して意識的に行う必要があるようです。

    というのは、不安か頭をもたげてきたなら、意識的に、今ある幸せを感じとる。そして、感じとる時間を長く味わう。もしくは、頭を空っぽにして目の前のことに集中するというのが、クラマルの具体的な手段でした。

    どうしても、その事を思うとかえって不安になるような場合は、目の前のものを見ました。
    窓から見える外の風景です。

    外は大雪の吹雪でした。この岩手に住む私たちには厄介な気象現象で、想像しただけで寒さや冷たさ、それによる手足の末端の痛みを感じるようですが、クラマルはそれに伴った幸せの過去を思い出して、幸せを心に満たしました。
    それは、寒い雪の降る外から家へと入り、ストーブでじんわりと足を暖めながらごろ寝した学生時代の時の、その瞬間の幸せでした。

    端から見れば、大した事のようには見えません。しかし、寒さで冷たくなった足をストーブで暖めた時のあの幸せを、窓の外の吹雪から連想したのです。

    雪や吹雪そのものにも、自然の作り出す美の情景もありましたので、それを楽しむということもしました。

    こうして、その不安や不幸の連想が頭をもたげた時は、意識して何かに目をやり、そこに幸せや美を見いだす作業を行っていました。

    このような事をいいますと、悲観的な人は自分には到底、変哲もない目の前に事に、幸福や美を見いだす事は難しいと考えるかもしれませんが、クラマルが特別、幸せを見いだす能力に長けていたとか、楽観主義だったからというのではありません。

    クラマルの過去は幼い頃からある一定の年までの間は、絶望的な程の悲観主義者でした。悲観的な自分。シニカルな性格だったのです。

    しかし、人間の生活には浮き沈みというのが、どんな形でもついて回るようで、

    寒い外という嫌な状況から、家へと帰り、ストーブで足を暖める心地よさという幸せな状況を現に味わった事実がクラマルにはあった訳です。その経験が雪を見て、幸せのイメージと連想を繋げる事が出来たわけです。

    皆さんにも子供時などにその時は気づかなかったが、あの時実は…というようなことがいくつかあると思います。そういったこととの幸せの関連付けが非常にこの法則の応用には役立つと思います。

    また、大変さの次に待つ楽というものを基軸して、風流を磨くのもやはり効果的だと思います。風流とは多くのものに美や幸せを見いだしていけるそんな力があるように思えます。

    色々な情景を見て、最初はそうは思わなくとも、やっているうちに多くのものに幸せな箇所や美が見えてくると思います。

    サラリーマン川柳なんかを読んだり、書いたりするのも風流への一歩かもしれません。

    運を良くするちょっとした考察

    結論から申しますと、
    正義のヒーローに成りたければ、正義のヒーローのそばにいるといいようです。

    これは、夫婦が何となく互いに言動が似てくる現象にも似ています。

    最近の話ではミラーニューロンというものがありまして、例えれば、

    あなたが見ている相手が右手を上げたら、あなたは右手を上げていないにも関わらず、あなたの脳では右手を上げている相手と同じ部分が活発に動いているようです。

    つまりは、相手によってあなたの脳の中では右手を上げているような、そんな感じのようです。

    もし、自分が運がないなと思うならば、運の良いと思う人と一緒に行動すればいいようです。

    ですが、一つの気をつけてほしいのは、相手も自分の影響を受けているという事です。

    ですので、その人の前では言動は前向きにした方が自分にも相手にとってもいいと思います。

    色々と応用できそうですね。

    恋人が出来るかどうかの要の考察

    パワーストーンは色々とありますね。
    クラマルも昔は少し勉強していました。

    その道のエキスパート達によると、色々とあるようですが、

    クラマルはいつもの癖で、物事をフラットに受け止めた上で、法則定立的な見方をしてしまいます。

    そこから何となく感じる事があるのですが、石がある種のエネルギーを発して、

    それによって人間のどこかに影響を与えるのだろうという見方をしています。

    代表的な例としては、ローズクォーツが恋愛の石であると同時に女性の体質的な部分の石でもあるようです。

    それは二つのエネルギー作用を持つのではなく、そのエネルギー一つが色んな部分に作用しているというふうに見えるような気がします。

    元来、恋愛とは何でしょうか?誰かと一緒になりたいという衝動です。なんのため?それは夫婦となることが一般的な前提ではないでしょうか?人間は高度な一面もありますので、この限りではないことを前置きしなくてはいけませんが。

    話を戻しますと、ローズクォーツの女性の体質的な部分というのは、夫婦となる体作りを助けるエネルギーなのかもしれません。

    夫婦となる体となると、次には相手ということになります。

    ローズクォーツが体を整えることを助け、自身の体が相手を見つけろ!!と普段よりも意識に働きかけるのかもしれません。

    相手を探せ!!ではなく、相手を見つけろ!!です。

    するとあら不思議、この世の中には何と二枚目、色男で溢れているのか!!

    という風に普段とは別な知覚の仕方や意識の作用があるのかもしれません。

    つまりは、恋愛体質にする、ということでしょうか?

    そのようなサポートをしてくれるのがパワーストーンなのではないでしょうか?

    以前クラマルは金運のタイガーアイをつけておりました。もう、目ざとく、これをこうすれば、もっといいだろうに、とか色々とアイディアが浮かびましたが、それらを現実的に実行に移せる立場ではありませんでしたので、行動に移せぬ苛立ちとフラストレーションがたまりまくって、疲れてしまいました。やはり、適材適所ってのはあるものですね。

    きっと、石のお陰でその時のクラマルは儲け体質だったのかもしれません。

    恋人が中々出来ないなと、思うなら一度自分の体を恋愛体質にしてみるのもいいかもしれません。

    そういう意味では、赤い糸というのは、一つの糸が二人を繋いでいるだけではなく、インターネットのように沢山つながっているのかもしれません。

    さて、肝心要の恋愛体質にする方法とは、何でしょうか。食べ物に着目するのもいいかもしれませんね。また、恋愛をしたくなるタイミングとかもあるかもしれません。ラブストーリーを見てミラーニューロンしてしまうのも手段の一つかもしれません。

    見えている色とは

    物体は色をもっている。それは当たり前であると、クラマルは昔まで思っていました。

    でも、そうではないようです。

    赤いボールも青い積み木にも
    色なんてものはないのだそうです。

    物体にあるのは光を吸収する力と、特定の周波数を反射する力しかないのだそうです。

    色とは、赤なら赤の周波数、緑なら緑の周波数、青なら青の周波数というように、それぞれの特定の周波数が色にあたるようです。

    物体はそれらの光の一部を反射したり吸収したりしているだけのようです。

    では、なぜ色というものを私たちは知覚しているのでしょうか?

    それは、自分自身の目と脳によって、周波数が色という神経信号に変換されているからです。

    私たちは本来ないものを、脳によって着色された世界を眺めているのです。また、その脳にも個人によって差異がある場合もあるようです。

    同じものを見て赤と見えても、クラマルが見ている赤とあなたが見ている赤では多少の差異がある可能性もあるようです。

    私達はもしかすると、自身の脳が作りあげた世界を眺めているのかもしれませんね。

    何かのヒントとなれば

    普通のエネルギーの挙動について。

    エネルギーは高い所から低い所へと流れます。
    エネルギーは高低の差がない場合は流れません。

    エネルギーとは何かの動きを与える力です。

    エネルギーには様々あるようです。運動エネルギー、光エネルギー、熱エネルギー。

    まるで不良少年に向けられる熱血教師のパッションのように熱いコーヒーも、

    時間とともに冷めていきますね。

    でも、エネルギーは消滅したのではありません。

    まあ、相対的な見方というか、コーヒーの立場から見れば、エネルギーは失ったかもしれません。でも、消滅したのではありません。

    これはコーヒーを取り囲む空気という物質にエネルギーが移ったためです。

    その証拠に冷めきったコーヒーはその部屋の室温とほぼ同じになります。

    これは、熱エネルギーの高低の差異が無くなったためです。

    さて、この見方で
    この世界や宇宙を取り巻くエネルギーを見てみると、面白い発見があるかもしれません。

    願いごとのメカニズムの考察

    願い事というのは、叶ったり叶わなかったりします。星回りとか色々な要素もあったりはするでしょうが、

    皆さんにもこんな経験はないでしょうか?

    いつだったかの願いが、忘れた頃に叶うとか。

    この宇宙とは自分の心の反映であると言われています。

    そのわりには、望んだ世界になってませんよね。これは、おかしい…

    それにはこんなカラクリがあるようです。

    宇宙はその人の意識の中の、とりわけ深くて強い感情を実現してしまうようです。

    深くて強い感情とはどんな意識でしょうか?

    この例を見てみましょう。
    合格したい。という願いがあったとします。では、このように思うのはなぜでしょう?
    それは、この今合格していない自分、という意識があるからなのだそうです。

    合格したいという意識は、この今合格していない自分だから、という意識がその根元になっているからだそうです。

    合格したい、と願う事は
    私はこの今合格していない、宇宙はそこを聞き取るようでして、
    分かりました。あなたは合格していない。といってそれを実現化してしまうようです。

    この今というのは、宇宙は常にその人の意識を次々と現実化してしまうからです。

    宇宙には明日とか昨日という考え方は内容です。この今、なのだそうです。

    では、合格もしていないのに、私はこの今合格している、といっても嘘になります。
    嘘だったとしても、本人が心底、実感に裏付けされた意識でいっていれば、叶うかもしれませんが、結局そういう嘘は自分自身では受け入れる事が出来ません。

    良い例として言えば、明日いきなり巨大怪獣が現れて、あなたの住む街を壊す心配はできますか?

    ちょっと現実的じゃないですよね。少し位は可能性としてあるかもしれませんが、

    地震などの災害に備える人はいますが、巨大怪獣の襲来に備えている人にお会いできた経験は、クラマルにはありません。

    つまりは、そういう事です。

    自分が実感出来ない物事は、信じたり心配したりする事は困難なのです。

    逆に明日、あなたはリンゴを食べられるでしょうか??

    恐らく、大概の人は何の躊躇もなく、当たり前のように出来るというでしょうし、
    実際にそれを現実化もするでしょう。

    でも、立ち止まって考えてみると、この世の中には、あなたがリンゴを食べる現実化を妨げる要素はいくらでもあります。リンゴが売り切れていないなんて、そんな保証はあるのでしょうか?
    しかしながら、難なく信じる事が出来て、現実化も容易いのは、実感から信じられるからです。

    しかし、願い事したいですよね。叶えたいですよね。

    あれがしたい。こうだったらいい。と感じるのは自分の欲求のサインの程度に考えましょう。

    それに向けての行動が必要なのであれば、その一つ一つに意識を注いで、願う意識のパワーを弱める事です。

    クラマルは、大体頭の中から願い事を外します。

    どうすれば、願い事を忘れる事が出来るか?

    この目の前を楽しみます。現実の辛い側面に集中していたら、自身の心を疲弊させてしまいますので、

    人気の漫画家になりたい、とかならば、この今から漫画を描いて描く楽しさを味わい尽くすのです。その間は、その楽しさに心を奪われて、願い事の意識は弱まるでしょう。

    楽しい、嬉しい、
    私今楽しいです。嬉しいです。
    分かりました、あなたは楽しい。あなたは嬉しい。
    と、宇宙はせっせとそれを現実化していきます。

    もし、このように願いと行動を一致させる事が困難な願い事は、別な事をやってそれを楽しんだり、集中します。

    それと、もう一つ。あまり、願いが叶う細かなプロセスは考えない方がいいですね。

    こうなって、こうなって、願いがかないますように、と細かく具体化すると、

    別な形でアプローチされた成就の道も、これじゃない、と思って自身がせっかくのチャンスを放棄してしまう恐れもあるからです。

    スタートエンドさえ、はっきりしていれば、プロセスについては考えないほうがより、近づけるように思います。

    恋愛のタイミングについての考察

    人との縁とは異なもので、
    そこには神様とか人智を越えた存在やエネルギーの介在なんかもあるのかもしれない。

    例えれば、私とあなたで本気ではないけれど、恋愛ごっこしましょう、となっても

    確かにそれは本気の恋愛ではないかもしれませんが、

    一緒に恋愛ごっこを楽しむ、そういう縁だった。という風にどんな関係性においても縁というものがついている。

    まあ、縁の話は別の機会にするとして、

    恋人作りたいですか?

    では、ちょっとハードルを下げて
    新しい友達作りをやってみましょうか?

    多分、新しい恋人を作る事と同じくらい難しいと思います。

    やはり、付き合いの濃密になる恋人や友人というのはそれだけフィーリングの一致というのが要求されるものなのでしょう。

    まあ、縁というのもあるでしょうから、一概には言えない部分はあるかと思いますが、

    新しい恋愛が始まる時というのは、

    こうして考えますと、

    自分が自分を認めている時、のように思います。やはり、自分で自分を認めている時というのは、恋人も友人も作りやすいように経験上思います。

    そして、無我の状態の時です。

    無理に自分を認めようとすると、アンテナが内向きになって、外の方には向きません。

    フィーリングの合う誰かが目の前を通っても、自分を認める自分を認める自分を認める、という気持ちに邪魔されて、外側から来るものをキャッチできなくなると思います。

    では、どうすればよいか?

    自分の人生を生きる、ということにつきますが、そういうと仰々しいと感じます。
    クラマルもあまり、壮大に聞こえる言葉を聞くと、押し潰されそうになりますので、

    とにかく、自分が無我夢中になれる楽しい事をします。

    クラマルが何となく話かけたくなる人は、冷静に考えてみると、何かを楽しんでいる人が多いように思います。一期一会で、もう会うことはなかったにしても、
    ああ、楽しかった。こんな事を教えてもらった、楽しかった。という気持ちが残りますね。

    でも、それはクラマルに限った事ではないかもしれません。多くの人の共通点かもしれません。

    やはり、何か楽しんでいるエネルギーを根底に持っている人からは、目には見えない魅力が滲み出るものなのかもしれません。

    とにかく、何かを夢中で楽しむ心を抱く事が要のように思います。

    もし、やりたい事が見つからないならば、労い、癒し、喜び、楽しませるというキーワードに基づいた会話をするといいかもしれません。

    魔法の言葉として、
    それって何ですか?よく知りたいです。とか、私は今までのそのように思っていたのですが、実際はどうなんですか?
    へえ、すごい、そうだったんですか、知らなかったなぁ。という言葉で、
    よく知りたいですの態度を示すと、多くの事を教えてもらえますね。
    まあ、クラマルは色んな事に興味がある知りたがり屋だからこその経験かもしれませんが。

    ああ、新しい恋人の作り方でしたね。

    やはり、何かを心底楽しんで充実している時にこそ、人間関係エネルギー、縁結びエネルギーが出るのでしょう。

    失恋との付き合いかた

    失恋、辛いものですね。
    クラマルも高校生の時でしょうか、

    あのつい髪に白い花を飾ってあげたくなるような、小説の好きなあの娘のことを思い出します。

    あの日…

    あの子は… あの子は…

    まあ、それはさておき、

    失恋に関してこのような、冷徹な言い方をしますと情緒もないように感じられてしまうかも知れませんが、

    失恋というのは、急な断絶の如く、唐突にやってくる。そういう事が多いのではないでしょうか?

    それは結論から言いますと、人間の心に働く慣性というものです。

    あることが当たり前、という風に考える自然の気持ちです。だからこそ、それを守りたいという、維持したい保全したい気持ちが生まれます。これも自然な事です。

    でなければ、生き物は家族も自分も守れないからです。

    もし、失恋を悲しんでいるのは、未練を募らせるのは、慣性という心の作用がそれを起こしていると考えられます。

    こういうショックを伴う感情は、徹底的に感じ取った方がいいかもしれません。短期間にその感情エネルギーを消費して解放するのは、人生を先に進める良い手だてかもしれません。

    泣いてください。わめいて下さい。
    もし、お部屋でお一人ならば、
    あの、わからず屋!!と文句をいっても良いと思います。

    失恋の直後に誰かまた、新しい人を
    という感情が生まれる場合もありますね。

    経験上そういう時は、現実は空回りするものです。これは、欠乏感から来るものかも知れません。

    自分は欠けているという強い感情が、言動の端々に出てしまうのでしょうし、宙ぶらりんの自分であるという感情によって、目に見える物質的な自分を体現してしまうのです。

    誰か自分のそばにいて、抱き締めて

    それを支えている最も強くて現実感ある意識は
    自分のそばに誰もいない、抱き締めてくれない

    なのです。

    体は感情や、根深い強い意識に突き動かされます。

    誰もそばにいない自分、抱き締めてもらえない自分を体現してしまうのです。

    だったら、
    その感情を解消してしまえばいいのです。

    泣きわめいて、少し落ち着いたら、

    あの人とのよい思い出を思い出して下さい。

    思い出したくないのなら、この限りではありませんが、

    あの人がプレゼントをくれたなら
    あなたにはその愛を受けとるだけの価値があったのです。

    あの人に抱き締められたなら、あなたにはそれだけの安心感を与える力があったのです

    私は気乗りしなかったけれど、しつこくあの人にに求められたなら、あなたにはそれだけの魅力があったのです。

    そんなの今までにあの人一人だけだった、たまたまあの人がそういう人だっただけ、そう思う人もいるかもしれませんが、

    果たしてそうでしょうか?

    あの人にしてもらった良いこと、あの人にしてあげた良いこと

    それらは総じてあなたには、そのぐらいの価値があったのです。

    思い出し、涙と共に感謝が生まれてきたら。
    いや、涙が出なくてもいいのですが、

    そこがあなたの再スタートなのではないでしょうか?

    心の切り替えサポート

    クラマルは以前は、仕事が終わると服装をガラリと変えて、顔も変えて
    ちょっとした変身をしていました。

    もし、それが難しい場合は、仕事場で着ていた服が見えないように大きめなジャンパーやコートを着て外見をできる限りの徹底的に変えて、自分のモード切り替えのスイッチにしていました。

    最初こそ、中々気分や心の切り替えが上手くいかなかったのですが、続けているうちに徐々に切り替えが上手くいくようになってきました。

    こうすることで、少しでもストレスフリーな状態を出来るだけ長くしていました。

    顔を変える、どうやって?
    だて眼鏡をかけるとか、女性なら化粧の仕方を変えるとかがいいかも知れません。

    自分の部屋も工夫すると、より効果的な心の癒しスポットになると思います。ここでの注意は、仕事着とか仕事道具を目につかない所に収納しましょう。見えると、つい思い出してしまうからです。

    もし、貴方がストレスフルならば

    ま、男性の恋のおまじないのアイディアとして

    結婚指輪は現代では、珍しいものではないですね。古代の人、といっても古代文明を築き上げる以前のあたりから、薬指に骨や粘土などで作った輪っかをはめている者は、既婚者と見なす習慣があったようです。

    話によりますと、その昔は中指と薬指がほぼ同じ長さの人は、身体能力の強い者という認識があったようです。

    ですから、人間が相手が既婚者どうかを見極めるために薬指を見る習慣は、随分と昔からあった習慣のようです。

    指輪はそのチェックポイントだったようです。

    指輪をはめていない薬指を中指の高さと合わせてさりげなく見せるのは、どうかなあって個人的に思ってみただけです。

    化粧と本能についてのちょっとした話

    女の方は、化粧する方が多いですね。

    しかし、化粧には本来魔除けの意味があったようです。
    ある話によると草や樹木等の自然の多さと化粧をする面積は比例している、という考え方があるようです。

    大昔は顔に開いている穴に化粧をしたようです。つまりは、口、目、耳の穴。

    それは元来、化粧というのは魔除け。大昔、魔を運んでくるものは虫。虫除けだったようです。

    文明化が進みますと、周囲の虫の数も減ります。男は化粧をあまりしなくなりました。

    しかーし、

    女性は化粧を止めなかった。
    目の辺りは特に…

    それは人間の男女は、目と目を合わせる事で恋に落ちるからであり、古代の女性は意図的に男の目線を自分の目に向かわせるために、入念に目辺りは化粧するようになったらしいのです。

    と、言うことで、

    化粧古代から脈々と受け継がれた、女の恋のおまじないと考える事ができます。

    私に惚れろ 私に惚れろ と化粧をしてみてはどうでしょうか?

    幸せは脳内物質との戦いか?

    色々と幸せになるためのヒントとなるような、書籍やアドバイスを聞いても、
    なんだか頭や心が疲れちゃったりしてると、なかなか前に進めないものです。
    せっかくの良いアドバイス、よいチャンスも生かす事が難しくなります。
    やっぱり人間には食べ物の栄養も必要なのですね。
    クラマルは、考えただけでもゲンナリしてしまうような、心の折れそうな時は、幸せホルモンで心と脳を包み込むかのように、バナナとヨーグルト、豆乳を混ぜたものを食べます。

    しつこく食べてますと、徐々にホンワカと落ち着いたような気分になってきます。

    幸せの考え方は色々とありますが、
    幸せとは幸せホルモンという、脳内物質の量をどのくらい作り出せるかどうかなのでは?と思う事もあります。

    初めましてクラマルと申します。

    初めましてクラマルです。

    唐突ですが、心は体へ 体は心へと影響を与えます。私たちは完全に体をコントロールすることは困難です。不可抗力で怪我などするのがその証ではないでしょうか。

    心もまたそんな体と同じようにアンコントロール、制御不能な一面もあります。
    皆さんも経験の中であるのではないでしょうか?悲しみの感情が止まらないとか、混乱とか、ある種の心の暴走のようなものです。

    悲しみ感情を解放したい。
    でも、出来ない。そんな時には幸せの行動を取ると良いでしょう。

    幸せー!! 楽しいー!!の時の自分の行動と表情を注意深く思い出して見てください。

    あまり明るい例ではありませんが、
    負けた時の体の姿勢や行動を取ると、心は負け始めます。そして負けた心は体を負けさせます。そして負けにつながる行動を取り始めるそうです。人間は思考よりも感情によって突き動かされる傾向が強ようです。

    隠し事があったり不安な人は机の下に手を隠す行動を取るようです。試し机の下に手を隠すと、隠し事がなくとも妙に緊張したり訳の分からない不安な感情が生まれてくると思います。

    その逆に、取り立てて面白い事が無いときに笑ってみると、なんだか一瞬でも楽しい気持ちが湧いてくるものです。

    クラマルはここ一番という時は、出かける前に部屋でロックスターのように片手に拳を作り、勝利のポーズをします。小声でイエーイ!!と言います。不思議と無敵になったような、元気も出て来ます。

    体と声に出す表現によって、心に自分は元気な心なのだと教え込むのです。

    何かの参考になれば

    因みにクラマルは思い出し笑いを、幸せの再利用、幸せのリサイクルと呼んでいます。

    クラマル先生 クチコミ情報

    ありがとうございました!

    先日はありがとうございました!嬉しかったです!実はあれからすぐ彼の方からメールがきてほっとしていたのですが、彼女も同時に彼ピとデートしたって写真をツイート…その上、動揺してメールでぎこちない私に、彼は、あなたは大事な友達だから、全部さらけだして欲しい、どんなあなたも絶対嫌わないし、受け止めるからって言われてしまいました……。またいつかご相談させてください〜

    投稿日:2021/07/27 9:16

    どんな恋愛のカタチであれ、アドバイスをいただける、とっても話やすいクラマル先生です

    どんな恋愛のカタチであれ、アドバイスをいただける、とっても話やすいクラマル先生です☆男としての恋愛に対してのキモチ、考えなども聞かせていただけます。

    【女性 47歳】

    投稿日:2021/07/21 13:17

    毎回ビックリするくらい当たっていて、その通りになっています

    何度も見てもらっているクラマル先生ですが、毎回ビックリするくらい当たっていて、その通りになっています。けっして上げ鑑定ではなくカードで出たそのままを伝えてくれますが、良くない結果でも問題解決まで一緒に親身になって相談にのってくれるので信頼してる先生です。これからもよろしくお願いします。

    【女性 47歳】

    投稿日:2021/07/21 11:14

    最後にひいたカードは、まさにという感じで驚きました

    サクサクとひいてくれたカードの中でも、核心をつく言葉でわかりやすく解説していただきました。最後にひいたカードは、まさにという感じで驚きました。

    【女性 53歳】

    投稿日:2021/07/20 22:25

    明るい兆しを与えて下さいました

    不安で心配していたことに明るい兆しを与えて下さいました。安心して前に進める勇気を下さいました。ありがとうございます。

    【女性】

    投稿日:2021/07/16 11:53

    彼についてなるほどと思う事ばかりで、、、

    クラマル先生 先程はありがとうございました。彼についてなるほどと思う事ばかりでより深く見て頂けて凄い方だと思いました。また彼との事から長年のコンプレックスや自分で幸せになる事に躊躇している部分をご指摘頂いてちょっと泣きそうになりました。そして、その事についてのアドバイスも頂いて彼とも自信を持って付き合っていけそうですし何か自分が変わっていってもいいんだと思いました。先生のお話の仕方にめちゃくちゃ癒されました!ありがとうございます。アドバイス頂いたこと実行してみます!

    投稿日:2021/07/01 22:54

    具体的な対策を教えていただきよかったです。

    クラマル先生 先日は鑑定&素敵なカードの画像のメールありがとうございました。具体的な対策を教えていただきよかったです。朝がチャンスですね。朝会った時、仕事のお願いしようと思います。回数増やすように頑張ります。またよろしくお願い致します。ありがとうございました。

    投稿日:2021/06/27 14:49

    恋愛のことはクラマル先生でキマリっ!です☆

    以前にもクラマル先生に鑑定していただき。。当たっていたこともあって、また更に、これからのことを鑑定とアドバイスをいただきたく、伺いました☆とても話しやすく的確で、時間もあっ。。とぃぅ間でした☆恋愛のことはクラマル先生でキマリっ!です☆ありがとうございます。

    【女性 47歳】

    投稿日:2021/06/23 12:03

    当たる占い師ってクラマル先生の事なんだなと思いました❣️

    本当によく当てられてびっくりです。当たる占い師ってクラマル先生の事なんだなと思いました❣️

    【女性 23歳】

    投稿日:2021/06/21 22:08

    今後も、作戦会議でアドバイスをお願い致します。

    電話鑑定を有り難う御座いました。早くて鋭く、かといって ありきたりな感じではない鑑定結果でした。「これこれのカードが出ているから、こういうことなんだよ」と、丁寧に解説もしてくださいました。片想いの彼も、私を女性として意識してくれているなんて、嬉しくてニヤニヤが止まりません。
    目指す関係になる可能性や、そうなるように仕向ける作戦も、具体策 を授けて頂きましたので、早速、リサーチして、プランA〜Jくらい準備します。彼の満たされない気持ちの隙にサッと入り込めるよう、タイミングをよく見ておきます。この夏、勝負に出ます❗️今後も、作戦会議でアドバイスをお願い致します。

    投稿日:2021/06/21 15:14

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