占いの館 千里眼。大阪・名古屋・京都・奈良・東京・神戸・静岡・大分・和歌山・札幌・岐阜・三重・沖縄・福岡・広島・愛媛・鹿児島・徳島・香川・山形・岡山・横浜・千葉・福島・岩手・高知・熊本・群馬・滋賀・福井・仙台・山口・宮崎・山梨・長野に店舗を構える、口コミで評判の人気占い師による占い。

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ボイジャー先生
ぼいじゃー

ボイジャー先生

待機なし

占術

得意分野

恋愛成就・復縁・不倫・離婚・対人関係・仕事・相手の気持ち・略奪愛・三角関係・年の差恋愛・結婚・婚活・ 相性・金運・運勢・開運方法・同性愛・家庭問題・子育て・婚外恋愛・前世・浮気・縁切り・遠距離恋愛・ 出会い・片想い・霊障害

ご出演スケジュール

  • 2/21 (金) 10:00〜20:00
    【宮崎 / 橘通り店】
  • 2/23 (日) 10:00〜20:00
    【宮崎 / 橘通り店】
  • 2/28 (金) 10:00〜20:00
    【宮崎 / 橘通り店】
  • 3/1 (日) 10:00〜20:00
    【宮崎 / 橘通り店】
  • 3/6 (金) 10:00〜20:00
    【宮崎 / 橘通り店】
  • 3/7 (土) 10:00〜20:00
    【宮崎 / 橘通り店】
  • 3/8 (日) 10:00〜20:00
    【宮崎 / 橘通り店】
  • 3/13 (金) 10:00〜20:00
    【宮崎 / 橘通り店】
  • 3/15 (日) 10:00〜20:00
    【宮崎 / 橘通り店】
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    【宮崎 / 橘通り店】
  • 3/21 (土) 10:00〜20:00
    【宮崎 / 橘通り店】
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    【宮崎 / 橘通り店】
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    【宮崎 / 橘通り店】
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    【宮崎 / 橘通り店】
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    【宮崎 / 橘通り店】
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  • ボイジャー先生

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    占い師からのメッセージ

    状況の全体像や先行きを、スピリチュアルな視点からリーディングします。
    深い悩みであっても、由来や先行きが見えてくると、対処方法が明らかになります。
      
    私たちを取り巻く世界の移り変わりは、古来からタオの流れとして観望されていました。
    流れに沿っていれば楽に進めるのに、流れに逆らったり、
    異なる方向を目指したりすると、努力しても思い通りにならなくて、苦しみます。
    タオを見失えば、迷うばかりです。
     
    ボイジャータロットや夢占いは、鏡のようにタオを映し出します。
    それは、あなたの深い意識からのメッセージです。
    深い智慧に気づき、正しく歩むための羅針盤として生かしてください。

    千里眼からのご紹介

    ご相談者様にとっての魂の真理を見極め、
    「真実の幸せ」といえる未来への道を指し示してくださる先生です。
    お悩みを深く掘り下げていくことにより、根本の原因があらわになったり、
    お相手の本心がはっきりと見えてきたりした結果、
    ご相談者様が進むべき「本来の幸せの道」が
    自然に明らかになってしまうのです。
    ボイジャー先生の鑑定後、想いが叶ったり、
    新しい出会いを見つけて幸せを成就させたりする方があとをたちません。
    奇跡のようなその幸せは、実はご相談者様ご自身の中にあるのです。
    ボイジャー先生は、その奇跡に気づかせ、必ずや実現させてくださいます。
    鑑定を通して自分自身の内なる奇跡の扉を見つけてください。

    ボイジャー先生 コラム

    子の権現(ねのごんげん)で御守りをいただきました

    「子の年に訪れたいスピリチュアルスポット」と題したコラムで触れた、子の権現(ねのごんげん)に行ってきました。
    (最後に、御守りプレゼントのお知らせがあります。)
     
    険しい山の上にあるお寺ですから、本来の参道を登るのは登山そのものになります。
    若かった頃はともかく、今では体力に自信がないので、自動車で登りました。
    自動車用の参道は前日の雪が道端に残る、林道のような細く急な山道で、ところどころ崩れていてスリルたっぷりなドライブでしたが、無事に登りきってお参りできました。
    訪れるのは二十数年ぶりなので、道中は景色の変わった所もありますけれど、街を抜けて山道を走るほどに昔の思い出が甦って懐かしく、思い掛けずセンチメンタルジャーニーとなりました。
     
    入り口の立派な仁王像は、今も変わらずに迫力がありました。
    頂上の経ヶ峰には菩薩堂があり、東側に広がる眺望には麓の埼玉県ばかりでなく、東京都墨田区のスカイツイリーや横浜のランドマークタワーも望めました。もっと空気が澄んだ日であれば、東京湾の向うには房総半島も望めるのではないかと思いました。
    下界と隔絶された環境を求めて、この険しい山に籠もって修行をされるのだと思っていましたが、この眺望は山奥でありながら世界とのつながりをヒシヒシと感じるインパクトがあり、まるで世界の真ん中に居るような感じがしました。
     
    ここの菩薩堂は、ちょうど山頂に建てられているのですが、そこにいるだけで身体にパワーが漲るような、強烈なパワースポットでした。
    きっと、お堂の中に入って修行する僧には、大きな力が漲って、特別な体験をされるのでしょう。
    誰もいないので、お堂の入り口の縁側に腰掛けて眼を閉じていると、いつもの瞑想よりもなんだか強くトリップするような感覚で、元気が湧いてくる素敵な経験でした。
     
    社務所に寄ってみると、以前の御坊様の姿はなくて、あの時のおみくじも今は無いのだそうです。
    ちょっぴり残念な気もしましたが、その一方でホッとした気持ちもありました。
    「いつまでも頼っているんじゃない。もう、自分でできるだろ。」と叱られたような、背中を押されたような、そんな気分でした。
     
    私にとっては、お礼参りのような今回の参拝ですから、願い事をするよりも、本堂の前で感謝の気持ちを念じてきました。
     
    開山されたのが延喜11年(西暦911年)ですから、千百年を経ても霊験あらたかというのは、創建された子の聖(ねのひじり)の霊力の凄さを表しているでしょう。
    天長9年(西暦832年)、子の年、子の月、子の日、子の刻に紀伊の国で生まれたので、子の日丸と呼ばれたそうです。幼少から才気にあふれ、7歳にして仏門に入り、円成して全国行脚の折に出羽三山の月山に至り「我が永く跡を垂るべき聖地を示し給え」と経巻を天空高く投げ上げると、経巻は紫雲に包まれて南方に飛び、現在の天龍寺の在る経ヶ峰の上で光を放ったのだそうです。
    権現様はその光明を目あてに経ヶ峰の麓まで旅して来られましたが、山を前にして魔火に襲われました。そこで、心を鎮めて座り、合掌して念ぜられると、雲に天龍が現れて豪雨を降らせ、火は消えてしまったということです。
     
    権現様は永く衆生済度に励まれたのち、長和元年(西暦1012年)にお隠れになる直前「…この山に跡を垂れて永く衆生を守らん。我、登山の際に魔火によって腰下を傷め悩めることあり。故に、火災を除き、また腰より下に病ある者、一心に祈らば、その験を得せしめん。能除一切苦」との御誓願を残されて、181歳で化寂されたそうです。
     
    こうした成り立ちから、子の権現様を祀る天龍寺は、足腰守護の霊験もあらたかと信仰を集めています。
    正式名は、大鱗山雲洞院天龍寺と言います。
    足腰の病気の平癒を願う人はもちろんですが、現代では長寿祈願や身体強健を願うアスリートたちの熱い思いも集まっているようです。
     
    折角の機会なので、御守りをいただきました。
    とてもパワーを感じる御守りです。
    電話占いヴェルニーの3月のプレゼント企画に出せるように、その分もいただいてきましたので、楽しみにお待ちください。
     
    【千里眼 宮崎】ボイジャー

    子年に訪ねたい、スピリチュアル・スポット

    2020年の干支は「子年」ですね。
    子の年で思い出すのは、子ノ聖(ねのひじり)が、今から1100年以上も前(西暦911年)に開山されたという、子の権現(ねのごんげん)です。
     
    東京近郊で生まれ育った私としては、埼玉県の飯能の奥、険しい山の中にあるこのお寺は、何度も訪れた懐かしい場所でもあります。
     
    今でこそ自動車で近くまで入れるようになりましたが、子供の頃は険しい山道を歩いて登るしか方法がなく、息を切らせて辿り着いた目の前に立ちはだかる、大きな仁王像は子供心にも印象的でした。
    神寂びた幽玄な深山のただずまいの中で、邪心を寄せつけない凄味のある様子に、大人と一緒でなければ山門をくぐれないほどの畏怖を感じたものでした。
     
    なにしろ険しい山の中でしたから、山歩きの折に訪ねることになっても人混みの賑わいなどは一度も見た事がなく、おそらく初詣の時期以外には、登山者か余程の信者だけしか訪れない、神聖な境内という印象でした。
     
    社会人になり、壮年と言われるような歳になった頃、人生の岐路に立って追い詰められるような気分で己れの生きる意味に真剣に悩んだ時、このお寺を思い出し、訪ねた事がありました。
    パワースポットと呼ぶに相応わしい、体にエネルギーが流れ込むような感覚を抱きながら境内を歩いていると、おみくじの表記に気がつきました。
     
    周りを見ても、神社で見るようなクジの入った筒とか、印刷した紙を畳んだようなクジの入った箱は見当たりません。
    ちょうど通りかかったお坊さんに尋ねてみると「それでは用意しますから、呼んだら御堂の方へどうぞ。」と言われて、神社によくあるおみくじと勝手が違うのにチョット驚きました。
     
    通された古めかしいお堂は、質素な造りでしたがチリ一つなく清められていて、静けさと神聖な雰囲気に圧倒されそうでした。
    広いお堂の中で言われるままに座ると、お経が唱えられ、神秘的な儀式とともに長い筒から駒のような物が取り出されました。なにか記号が書いてあるらしく、お坊さんはそれを確認すると、ジッとしばらく目を閉じて居られました。
    これが霊視というものなのだろうかと思いながら黙って待っていると、お坊さんのお話が始りました。
    それは、まさにお説教というのに相応しく、心に染み入るお話でした。
     
    あれからもう、20年は経ったでしょうか。
    明日はどうなる、と切羽詰まって答えを迫る私に、静かに諭すようにお話をされた言葉は、今でも思い出します。
    「大魚、水底に潜む。向こう十年はお待ちなさい。」と言われて、焦る私をなだめ、諫めた、あのお坊さんは今はどうされた事でしょう。
     
    はや、十年をとうに過ぎて、今の私は宮崎に居ます。
    飯能は遠くなりました。
    が、子の年をまた迎えて、今一度尋ねてみようと思います。
     
    水底に潜んだ大魚は、今はどうなるのでしょう。
    お坊さま、お元気ですか。
    お陰さまで、私は元気です。
     
    【宮崎 千里眼】ボイジャー
     
    追記:子の権現の縁起
    子の聖は幼少から才智鋭く、子の年の子の月、子の日、子の刻に誕生されたので、人々からは子の日丸と呼ばれたそうです。
    長じては、弟子の恵聖上人が子ノ聖を大権現と崇め、子ノ聖大権現社を建立され、今に残る子の権現(ねのごんげん)となったそうです。
    権現とは、仏さまや菩薩さまが、日本の神の姿となって現れる事を言うそうです。神通力で多くの人々を救ったので尊崇を集めた方だったのでしょう。
    子の聖も開山に際しては山の険しさに大変苦労されたらしく、お隠れになる前に「腰より下を病める者、一心に祈らば、その験を得せしめん。」と誓いをたてられたそうで、今もなお足腰の病を治す霊験もあらたかと信仰を集めています。

    緊張をほどくオマジナイ

    たくさんの人の前に出るときや、試験の前などには緊張しますね。
    いざ本番という時にアガってしまって、実力が出せないと困ってしまいます。
     
    そんな時に、よく効くオマジナイが有りますから、使ってみてください。
     
    立ち上がって、両腕をあげて上の方でV字型に開きます。
    ちょうど、グリコのマークのような姿勢になります。
    「勝利のポーズ」です。
    ランナーがゴールして観衆に誇らしげにVサインを贈るようなイメージで、その姿勢のまま1分間くらい保ちます。
     
    気分をなるべく盛り上げて、ウィニングパレードをするような気分を想像してみましょう。
    先のことを心配するのでなく、すでに勝利した後の気持ちを保ちます。
    できれば、その姿勢のままで少し歩いてみるのも良いでしょう。スタンドの観衆に向かって笑顔を振りまくような感じで。
     
    実際にやってみると、勝利のポーズをしているだけで、なんとなく自信が湧いてきます。
    ワクワクするような気分になれば、もう大丈夫です。
    その自信のある状態で、本番に臨みましょう。
     
    勝利のポーズをするだけで自信が湧いてくるなんて、不思議なのですけれど、大脳生理学の専門家が薦めている方法でもありますから、間違いありません。
    この「勝利のポーズ」をしていると、成功して興奮している時と同じホルモンが出てくるのだそうです。
    そうして、自信に満ちた気持ちになり、心配はどこかへ行ってしまいます。
     
    人目が気になる時は、見えないところに行って、やってみるのも良いでしょう。
    発表の前なら、舞台の袖のカーテンの影とかでもできますね。
     
    試験の前とか、大事な発表の前、競走に出る前などに、ぜひ使ってみてください。
    きっと、うまくいきますよ! *\(^o^)/*
     
    【千里眼 宮崎】ボイジャー
     

    アダムとイブ 禁断の果実とは何でしょう

    聖書にある「アダムとイブ」のお話は有名なので、キリスト教徒ではなくても殆どの方が御存知の事と思います。私は宗教に関しては無宗派なのですけれど、子どもの頃にこのお話を聴いて、何を伝えたいのか意図が解らない、腑に落ちない話として気になっていました。
    だって、リンゴを食べたって良いじゃない、と子ども心に思ったわけです。
    神様が天地を創造されて、エデンの園にアダムとイブを住まわせられたという、あのお話です。
     
    理想郷で幸せに暮らしていた二人ですが、智慧の樹の実だけは食べてはいけないと神様に言われていました。
    ある日、イブは蛇にそそのかされて智慧の樹の果実を口にしてしまいました。アダムもイブに勧められて食べてしまいました。
    これを知った神様は、二人を問いただしたのですが、アダムはイブに勧められたからと言い、イブは蛇に言われたからと言い訳をしました。
    こうして二人は罪を背負って楽園を追放された、というお話です。
     
    このお話が私にとって気になるのは、そもそも知恵をつける事が悪いとは思えないのに、どうして神様は智慧の樹の果実を食べてはいけないと言われたのか、不可解です。
    キリスト教ではこの逸話の示すところを「原罪」としているようなのですが、どこがそんなに悪いのか、無宗派な私には疑問が膨らむのです。
    言いつけを守らなかったからとか、言い訳をしたからとか、色々な解釈があるそうですが、知恵をつけた結果が「原罪」というのは、どうにも腑に落ちないのです。
    ここで宗教論争をするつもりはないのですが、子供の頃からの素朴な疑問ではありました。
     
    年月が経ち、社会人にもなってからのある時、このお話に触れている専門書に出逢いました。
    このお話は、キリスト教の聖書に出てくるお話として有名ですが、専門家の研究によれば、もっと古くから伝わる2つの神話が編集された成り立ちがあるようです。
    神話というのは、重要なことを象徴的に表現するものである事を考えると、不可解に思える事にも意味がありそうです。
     
    もしも、禁断の果実の象徴している知恵が「分別知」を指しているとしたらどうでしょうか。
    人間の知恵には二つのスタイル(様式)があって、その一つが分別知です。
    「分別知」とは、物事を認識する際に、アレとコレ、アナタとワタシ、などのように分けて認識するスタイルを指しています。コップ、テーブル、本、鉛筆など、すべての物に名前がつけられていて、他のものとは区別して認識しています。
    現代人は、一日中この分別知を使って生活しているのが普通ではないかと思います。分別知に依らない認識があるとは思ってもいない、という方も多いかも知れません。
    それは無理もない事で、私達は小さい頃からの教育で、分別を強化する訓練ばかりを受けていて、もう一つのスタイルを使うと評価されないという体験を繰り返しています。
    理知的に考えたり、分析したり、解釈したりというのはどれも自我の機能であり、分別です。「分かる」という言葉も面白いもので、まさに分ける意味です。「理解」もまた「理」で「解」すると書いていて、「理性」という自我機能による解釈であることを示しています。
     
    でも、「知る」ためのスタイルには、もう一つあるのです。
    これにも名前がついていて「上智( Sophia)」と呼ばれています。馴染みは無くとも、お聞きになったことはあるのではないでしょうか。例えば、この名を冠した大学が有ったりしますし…。
     
    分別に依らずに、上智ではどのように「知る」のでしょう。分別しませんから、知ろうとする「私」と「対象」との間に境界は無く、区別しません。つまり、一つになって「知る」という事になります。
    そんな事が可能なのかと仰る方もありますが、本当はこちらの方が私達にとっては原初的なスタイルなのです。例えば、赤ちゃんは自我が未発達で、自他の区別がハッキリしていません。分別が無いのです。それでも周囲の状況について無知なわけではなく、何かしらの反応を示すほどに知ってはいるのです。
    2-3歳になっても未だ、自他の見境が曖昧ですから、隣の子のオモチャを使ってしまって喧嘩になったりしますが、当人にとっては仕方のない事なのです。
    とはいえ、いつまでも精神年齢が2−3才のままでは困りものですから、オトナになるように教育を受けるわけですけれども、現代の常識では分別知を強化するばかりで、上智の発達には全く関心がありませんから、上智は未発達なまま取り残されています。
     
    分別知は自我の働きによる物で、論理的思考に向き理知的です。科学の発展も分別知の成果と言えるでしょう。
    しかし、神とか魂とか、神秘的な事柄については分別知は無力です。
    形而上の事柄については、上智によって知られる事とは紀元前、ギリシャ哲学の昔から言われている事です。
    そして、アプローチ方法については確たる言及が無いのですが、それも無理からぬことで、上智と分別知は同時には働かないのです。
    哲学や科学のように分別知による論理で組み立てられる構造の中では、上智の知るものを表せないですし、無理に表現すればカテゴリーエラーを生じます。
    哲学書はどれも難解ですが、「私とは何か」とか「神について」とかを探究し始めると歯切れは悪く、答えにたどり着かないばかりか、存在が矮小化してしまうのは構造的に仕方のないことです(この辺の詳細は別稿「スピリチュアルな話」で述べます。コラムのリストの下の方をご参照ください)。
     
    さて、アダムとイブのお話に戻りますが、神を知るには上智でなければ叶わないとなれば、分別を働かせるようになったアダムとイブには神を、それまでのようには知れない事態となります。
    というわけで、神様は心配して「食べてはいけないよ」と警告されていた訳ですが、意味が通じていなかったのですね。
    悲しいかな失楽園となった訳ですが、つまりは赤児の心を失った我々こそが失楽園のアダムとイブに他ならない、という事なんですね。嗚呼。
     
    と、ここまで来ると、原罪と言われる意味も納得できます。
    上智でなら識れるものを、分別で理解しようとして、本来の眼を閉じてしまう。理性を発達させた人類の錯誤です。
    これを愚かと言わずになんとしましょうか。
     
    分別を獲得することが原罪であるのなら、上智を復活させれば贖罪になるはずです。
    上智が使えるならば、いつでも神と共に在る状態ですから、神について他人に教えてもらう必要もなくなります。
    そうなれば宗教も不要になる訳ですが、ひっくり返して考えると、昔は宗教は無かったのに、2千数百年前辺りから発生するようになった理由というのも頷けるのではないでしょうか。
    ちょうど、「文明」が花開き始める頃を境として宗教も興り始めたということは、失楽園の始まりでもあったのですね。
    現代文明を享受して、豊かな生活を送っている筈の私たちですが、幸福を求める(つまり幸せではないと感じている)人が後をたたないというのは、困ったものです。
     
    講演のためにアメリカに招かれたインドの聖者からお聞きしたお話ですが、ある講演会でお話に感動された大富豪に家に招かれたのだそうです。
    お城のような立派な邸宅で、大層なディナーやもてなしを受けて、それはそれは豪華であったそうです。これほどに裕福であれば何も悩みは無いだろうとさえ思えたそうですが、夜になり、用意された寝室に通されると、枕元のテーブルには精神安定剤が置かれていたそうです。
    ホストである大富豪は、精神安定剤や睡眠薬なしには眠れないので、客人に不便のないように親切な気持ちでこれらを用意していたのです。
    客人である聖者はそれを見て、睡眠薬なしでは眠れないほどに心の落ち着かない状態とは、なんと気の毒な人なのだろうと思ったと話しておられました。
     
    私たちが普通に考えている「幸福」は、果たして本当に幸福なのでしょうか。
    幸福になりたいと言いながら、美味しいリンゴを頬ばりながら失楽園を彷徨ってはいないでしょうか。
    もしも貴方が、幸せになりたいと願って、つまり今は不幸だと感じているのなら、アダムとイヴの神話が意味するところを、よく吟味してみる必要があるのではないでしょうか。
     
    上智が復活するのを、意識が覚醒するとも言います。
    どうぞ、貴方の真実の眼が、覚醒しますように。
     
    【千里眼 宮崎】ボイジャー
     

    成人のイニシエーション…オトナになるということ

    一月には成人の日という祝日があって、20歳になると成人として認められてお祝いしてもらえます。
    私もずいぶん前にお祝いしてもらったのですが、その日を境にオトナになったかというと、特に違った感じはしませんでした。
    今でも、毎年一月には成人式があるようですが、あまり状況は変わっていないように思います。
     
    ところで、ネイティブ・ピープルと呼ばれる人たちの文化に成人のイニシエーション(通過儀礼)というのがあるそうです。
    10〜15歳くらいの成長度合いが適切と見なされた子供達を集めてオトナになるための最終仕上げの教育を一年近くかけて行い、その最終試験としてイニシエーションが課されるそうです。
    細かい内容は部族の文化によって変わるようですが、あるアメリカインディアンの場合は、教育が完了した子供達にはスェットロッジという清めの儀式の後でビジョンクエストを行うとのことでした。大枠はアフリカでもオーストラリアでも、同じであるようです。
     
    ビジョンクエストは、人生の岐路に立ったときに行うので一生に何度か体験するようですが、成人のイニシエーションとして行う場合は、自分の人生の意味についてビジョンを狩る事が本題になります。
    荒野に一人で出て行き「この世界に於ける自分の場所」を見つける事から始まります。
    「自分の場所」を見つけたらそこに留まり、飲まず食わずで数日から一週間くらいの期間、ビジョンが訪れるのを待ちます。
    ビジョンを見出したら、指導する長老(シャーマン)の所に戻り報告します。
    長老は報告を吟味して、ビジョンが真正であればその意味を若者に解説してやり、部族の一員として迎え入れる宣言をします。これにより、その若者は部族に一人前の人として迎え入れられ、政治に参加することを認められ、結婚も認められる事になります。
    報告内容が不適切であれば、長老は若者にやり直しを命じます。つまり荒野に追い返されるわけです。
    もし、イニシエーションに合格しなければ、部族がその子を受け入れることはなく、帰る場所は無いですから、荒野で野垂れ死んだとしてもビジョンを追い続けなければなりません。
     
    スェットロッジや、ビジョンクエストは体験しないと意味を捉え難いですが、現代人の日常的な意識状態では到底耐えられない苛酷な状況下に置かれます。必然的に意識はトリップして、シャーマニックな意識状態に入るようにデザインされています。そのお陰で、自分の場所を見つけ、人生の意味を示すビジョンに出会えるのです。
     
    なかなか厳しい修行ですが、私がこの話を聞いて驚いたのは、部族社会の構成員になるには己の人生の意味を知っていなければならないという点です。
    つまり、その社会ではオトナ全員が生きる意味を、それも命懸けで知っている訳です。
    自分の人生において何をすべきかについて、誰にも疑問はないのです。
    そうでなければ、政治にも参加できないという社会なのです。
    ひるがえって、我が国の政治を担う人達は、いかがなものでしょうか?
    日々のニュースや国会中継を見て、皆さんはどのような感想をお持ちでおられるのでしょう。
    他人事ではなく、清き一票を担う選挙権のある成人の方々は、生きる意味について如何なる見解をお持ちで居られるのでしょうか。
     
    昔、西部劇というのが流行りました。映画館に行けば、必ずと言っていいほど見られたものでしたけれど、小さい頃に見て、とても印象に残っているのは「インディアン、嘘つかない。白人、嘘つく。」というセリフです。
    これは、本当にそのとおりだそうです。白人ではない日本人は、果たしてどちらでしょうか。
    数年前には「だれでも1日200回はウソをつく!」という本まで出ていました。
    お世辞と称して、心にもないおべんちゃらを言ってみたり、胸に手を当てて思い起こせば、あながち反論もできません。
    さて、一人前のオトナというのが、自分の言動に責任を持つ人だとしたら、我々はとんでもない世界にいるのではないでしょうか。
    一介の占い師が、ナニを大上段に構えて語っているのだと思われるかもしれませんが、いろいろな御相談をお聞きしていると、10代の頃に答えを出しておかなかったばかりに、世界中が迷っているように思えてならないのです。
    占いには、皆さん苦境を逃れて幸福を求める期待を持って居られると思います。
    そのとき、どうか刹那の幸せを求めるのでなく、最後に「私の人生はこれで良かった。」と満足して人生を終われるように選択して欲しいと思うのです。
    スピリチュアルな視点でリーディングするというのは、ビジョンを狩るという事であり、いっときの安定を求めたり、刹那の幸福を求めての事ではありません。
    どうぞ、皆さんが真の幸福を得られますように。

    【千里眼 宮崎】ボイジャー
     

    本心からの祈り…スェットロッジでの体験

    自分の本心が、どんなであるのか、解っているに決まっていそうですが、いざ迫られると答えに窮する事があります。
    これは、スエットロッジを体験したときのお話です。
     
    スェットロッジというのは、アメリカのインディアンと呼ばれる人達の伝統文化にある、祈りの儀式です。
    なにか大きな事を始める前に、お清め(浄化)の意味で行われます。
     
    儀式に先立って、木や竹を組んだフレームを幅広の葉っぱなどで覆ってドーム状の建物を作ります。
    人数によって広さは変わりますが、概ね6畳くらいの円形の床には、セージなどの薬草を敷き詰めて、真ん中には真っ赤に焼けた岩石を置きます。出入口は一つだけで、中に入ってからは儀式が終わるまで締め切りになります。
     
    シャーマンを先頭に1列に参加者が並び、最後尾にはシャーマンの助手であり火を管理するファイアーマンが続きます。
    出入口から入り、中央の焼け石を時計回りに進み、シャーマンが出入り口の手前まで来たところで座ると、一同は石を中心に円形になって座った状態になります。
    最後尾のファイアーマンと先頭のシャーマンによって、出入口が挟まれる位置となり、開始の宣告とともにシャーマンは出入り口の覆いを降し、部屋は真っ暗闇になります。
    目が闇に慣れてくると、中央の焼け石が赤く浮かび上がります。
    室内の温度はグングン上昇し、サウナのようになります。
     
    シャーマンは儀式の開始を宣言し、グレートスピリットに祈りを捧げ始めます。小一時間は続く、参加者の加護と心願成就を願う長い祈りです。
    祈りながらシャーマンは、用意した水を柄杓ですくい、時折り焼けた岩にかけます。
    ジャーという大音声とともに蒸気が吹き上がり、室内を熱気が駆け巡ります。
    高温のミストサウナ状態で、息苦しくなります。
    この時、意識が鎮まっていれば、呼吸は細く長く続くので、肺に到達する空気は鼻や気道で冷やされていますから、姿勢を動かさずに耐えられます。しかし、怖がったり、不安を抱くと、呼吸はそれに応じて乱れ、高温の空気が一気に肺に到達し、強い痛みに苦しみます。もがけば尚更、喉の火傷に苦しむ悪循環に陥ります。
    床に敷かれたセージの葉を握って鼻につけると、少し呼吸は楽になりますが、それを維持できるかどうかは精神状態の安定性にかかっているのを、身をもって体験する羽目になります。
    己の弱さを痛感する瞬間です。
    その間も、平然とシャーマンの祈りは続いています。
    吐き気を催して苦しむ人も出始めます。
    逃げ出したい衝動に駆られて大騒ぎする人もあったりします。
    それもこれも、全てを受け容れて、シャーマンの祈りは続きます。
    ながい、ながい、本当に長いシャーマンの祈りが終わりに近づくと、シャーマンの祈りの後に各自が心からの祈りを捧げるように言われます。
    一人ずつ、順番に祈りを捧げるのですが、他の人たちはそれを無言で聞いて、祈りが真正であると思ったら、それは真実であるという意味の合言葉をかけます。それ以外には無言で居なければなりません。
    お互いに苦しい環境の中で、初めの一人が祈り始めると、真っ暗闇で何も見えないはずなのに、その人の本心が見えてきます。
    居合わせる人たちが聞いているとなれば、それなりに格好の良い事を言いたくなるのは人の常かも知れません。しかし、それが本心でない事は解ってしまいます。
    言葉が終わっても、誰一人声をあげません。
    祈りの順番は、未だその人のままですから、慌てて次の言葉をつなぎます。
    誰も声をあげません。
    そんな事が続くと、シャーマンが本心からの祈りを捧げるようにと、始めの言葉を繰り返します。穏やかな口調ですが、意味は厳しさそのものです。
    もはや、高温の環境が苦しいということよりも、己の本心を問われる厳しさに驚き慄きます。
    彼が苦しみながら、もがきながら繰り出す言葉が本心でない事に苛立ちも感じます。逃げ出したいくらい辛いのに、時間を引き伸ばしているその人物に腹立たしくなります。
    その心を見透かしたように、シャーマンが話します。
    「ここに集まった人達は仲間です。一人一人が全部を受け容れなければなりません。いま、彼は苦しんでいる。あなたも苦しんでいる。だが、一つのことを一緒に成し遂げるために今日ここに集まったという事を、もう一度思い起こしなさい。」
    苦しさに負けて 最初の目標を忘れている自分に気がつきます。こんな事で自分は本心からの祈りができるのだろうかと、不安がよぎります。呼吸は乱れ、苦しさが倍加します。
    自分は何を祈れば良いのだろう。どうすれば皆に認められるのだろう。
    思考が走れば走るほど、本心がわからなくなります。
    一人目が苦しみ、もがき、のたうちまわった長い長い時間の後で、ようやくポロッと本音が出ました。
    誰もが納得し、安堵とともに合言葉をかけます。
    やれやれ終わった。しかし、未だ一人め。あと十人以上いる。自分までは、あと何時間かかるのだろう。
    何人かの本心の祈りを聞くうちに、あの人の本心とはそうであったのかと、以前とは異なる印象に感慨を覚えます。
    人目を気にして格好を取り繕っていたペルソナが剥がれ落ちる時、本性が現れます。その人と初めて出会ったような衝撃です。
    それを全部受け容れるのが、この場に居合わせた仲間なのだという事実に驚きます。
    自分の番が回ってきた時、初体験の時はやっぱり一度では認めてもらえませんでした。言い終えたはずなのに、沈黙によって返された判定は自己嫌悪になるのに十分な衝撃がありました。
    自分を呪いたくなるような苦悶の中で、この自己嫌悪が他ならぬ自分のプライドに由来することに気づきます。
    そのプライドは、自分の器量の小ささを隠すために作り上げてきた自分の鎧としての自尊心でした。
    取り繕えば、取り繕うほどに、露わになる己の本性!
    なんと格好の悪い事か!!
    穴があったら入りたい。逃げ出したい。
    そのタイミングを見計らったかのようにシャーマンが、穏やかな口調で「さぁ、本心からの祈りを言いなさい。」
     
    観念するとは、こういう事なのでしょう。
    自分でも意外なほど、アッサリと本音が出ました。
    取り繕わない自分とは、こんなものだったのか。
    それが側からどう見えようとも気にならない心境で、素直な本心と出会い、自分とはこうだったのかと確かめた思いでした。
     
    さて、本心とはなんであったのか。気になった方もあるでしょうけれど、スェットロッジの中で起きたことについては、その場を共有しなかった人には語らない事になっています。それだけ神聖な場であるということです。
    それでもなお、こんな我が身のみっともなさを晒す話を書いたのは、本心と出会っていない人が、たくさんいると思うからです。
    自分の本当の望みが解らないとおっしゃる方が、少なくありません。
    いまの社会状況を見れば、それは無理からぬ事ではあります。どんなに高等な教育を受けても、いまの学校で人生の意味を教えられるとは思えません。教える側が知らないのですから。仮に立派な教科書を作れたとしても、それで教えられるものではありません。増してや教科書に書けるものでもないはずです。
     
    インディアンは、成人のイニシエーションにおいて、このスェットロッジに続けてビジョンクエストを課すことで、この問題を解決していたのですね。
    つまり、このソリューションはビジョンによって、もたらされるものなのです。
    したがって読み解くためには、ビジョンロジックを使いこなせるシャーマンが必要になります。哲学的な考察では届かないものです。
     
    おそらく縄文時代には、この秋津島(あるいは弓の島)にも同じ文化があっただろうと思いますが、アメリカのインディアン文化が白人の入植によって蹂躙されたように、縄文文化は弥生文化の侵入によって破壊されたものと思います。
    いまの日本で、インディアンのような儀式を再現するのは、アメリカで行う以上に難しいとは思うのですが、私としてはどうしても諦める気になれません。
    だって、人生の意味が解らないまま、この人生を棒に振るなんて、私は納得がいきません。
     
    今の私にできるのは、占いに来られた方のビジョンを観て解説するくらいが精一杯ですが、できれば誰もが御自身のビジョンを観られるようにできたらなと思います。
    貴方もビジョンを観てみませんか?
     
    【千里眼 宮崎】ボイジャー
     

    タオって何だろう

    私の紹介ページのメッセージに、「タオ」という言葉を使いました。
     
    タオという言葉に馴染みのない方も居られるかも知れません。
    ボイジャータロットや夢占いでタオを読むとは、どういう意味でしょうか。
     
    タオとは、中国に古くから伝わる精神的な伝統で使われる言葉ですけれど、難しい話は抜きにしてザックリと言うならば、宇宙の普遍的な法則と言えるでしょう。
    道教(Taoism:タオイズム)という教えがありますけれど、その道(Tao:タオ)のことです。
     
    川の流れがゆったりと流れたり、渦を巻くほどの激流になったりと変化するのに似て、タオも刻々と変化し、その現れとして世界は刻々と有り様を変えて行くと観る視点があります。
    この視点で世界を観るとき、変化の予兆を捉えるセンスを磨くと、先行きを前もって見通せるようになります。
     
    ボイジャータロットや夢には、このタオの状態を写し出す効果があるので、今の状況について理由を知ったり、先行きの見通しを得るのに役立ちます。
     
    大海原に漕ぎ出す船乗りが、羅針盤で行き先を定めるように、あなたも人生の航海術として、ボイジャータロットや夢占いを役立ててください。
     
    [千里眼 宮崎]ボイジャー

    夢、夢見、ドリーミング

    「夢」と聞いて、何を思い浮かべますか?
     
    眠っている間に見る「夢」、
    現実のようにハッキリした「明晰夢」、
    起きているのに見てしまう「白昼夢(白日夢)」、
    夢が現実となってしまう「予知夢」、
    他にも、理想的な目標として思い描く「夢」もあります。
     
    中国に伝わる「胡蝶の夢」という昔話があります。
    老荘思想の始祖として高名な哲人、莊子がある時うたた寝をしていました。
    すると、夢の中で莊子は一匹の蝶となって、ヒラヒラと空中を舞うように飛び、我を忘れて楽しく過ごしていたのです。
    やがて、目を覚ました莊子は、現身(うつしみ)の私を確かめます。
    さて、・・・この現身の私が夢の中であの胡蝶になったのか、それともあのヒラヒラと楽しげに舞い飛ぶ胡蝶が夢の中で私になっているのだろうか。私が胡蝶なのか、胡蝶が私なのか。夢が現実なのか、現実が夢なのか・・・。
     
    私たちは日常の中で、自覚しないままにいろいろな行動をしています。
    本を読んでいるのに、机の下では足を小刻みに揺すっていたり、会話をしているのに腕組みをしたり手を動かしたり、足を組んだり広げたりします。本人は気がついていない事が多くて、いわゆる無意識の行動です。
    あるいは、良く注意していると、気持ちが大きく動く時に、その直前に体の中に感覚が生じているのに気づけるものです。
    こうした自覚していない行動や感覚も、夢として捉えれば沢山の気付くためのヒントを含んでいます。
     
    普段は自覚していない深い意識の働きが、眠っている間に夢として現れるのだとしたら、目が覚めている間にも無意識からの働きかけで無自覚な行動を起こしているのもまた夢と言えます。
     
    日常では、いろいろな事が起きます。外で見かける事は他人事として片付けられますが、それは本当にあなたと無関係でしょうか?
    目撃したときに、妙に気にかかる事はないでしょうか。
    そんな時、あなたの感じた感覚を無視せずに、どんな感覚かを汲み取ってみてください。
    そこには、あなたの深い部分が知っている智慧に迫るヒントが込められています。
    そのメッセージに気付くようになると、世界が自分と密接に繋がっているのを確認できるでしょう。シンクロニシティーと言われるのは、この事です。
     
    シンクロニシティーを実感できたら、それもまた「悟り」の一つです。
    さらに深く、自分を知るチャンスとなります。
     
    夢占いでは、その悟りを体験していただけるようにと、いつも努めています。それこそが、答えを掴む事だからです。
    どうぞ、あなたも悟りを体験して、自らの進む道に自信を持って、前進してください。
     
    [千里眼 宮崎]ボイジャー

    スピリチュアルな話 -1- 見える? 見えない? それとも見ない?

    自分には見えているのに周りの人には見えていない、というようなご経験はお有りでしょうか。或いは、昨日までは見えなかったのに、今日は何故だか世界が違っている、みたいな。。。
    占いをしていると、時としてこのようなお悩みを打ち明けられる方がいらっしゃいます。
     
    「見える」という他にも、聞こえたり、飛んでしまったり、壊してしまったり、いろいろな悩みがあるようです。
    かく云う私にも、似たような体験がありますから、当人として大変なのは分かる気がします。
     
    本人としても慣れない体験に驚きますから誰かに相談したいのですが、相手にされなかったり、それだけならまだしも、心の病気を疑われたり、使ってもいないクスリを疑われたり、頭から否定されて拒絶されたりというケースが多くて、誰にも言えずに悩んだりします。
     
    体験内容がハイならば(風と一体になった、神様に会った等)気持ち良くて結構なのですが、バッドな内容になると恐怖を伴なう事になって逃げたくもなります。
     
    こうした体験が起きることを、スピリチュアル・エマージェンス(Spiritual Emergence)と呼ぶのですが、あまり知られていないようです。エマージェンスという言葉は、非常口に書いてあったりするので、常ならざる状況というのは伝わると思うのですが、非常事態になったと慌てる必要はありません。「突然起きる」というような意味です。
     
    話を聞く方にも、それなりの準備が要ります。とりわけ「共感的理解」のためには、まず体験した人でなければ共感のしようがないので話にならないのが実情です。知ったかぶりをしても、何しろ見えないものが見えるような人ですから、すぐにバレてしまい、馬鹿にするなと怒られてしまうのがオチでしょう。本質的な話をするためには、正直でなければなりません。
     
    体験を乗り越えた方は、たいてい自論をお持ちのようです。占いをする方には体験をお持ちの方も多いようですから、ケースバイケースではありますが、そうした御相談も宜しいのではないかと思います。
     
    私の場合、初めてオヤッと思ったのは車を運転している時の事でした。
    バックミラーに写らない死角なのに後ろの状況が判る(見える)、それだけではなくて1キロ以上先の未だ見えていない所の交通状況が判る(見える)ということが起こりました。
    都内を走っていた時の事でしたが、あまりにも当然のように起きていたので、始めのうちはいつもと違うことに気付いていませんでした。暫くしてから、それまで数十分のドライブの間に一度も赤信号で止まっていないことに気がつきました。
    都内の道路は数百メートルおきに信号があって交通量も多いので、渋滞していなくても数分おきに止まるのが普通ですから、気がついた時には非常に驚いたのを覚えています。
    気がついた後も青信号が続いて、結局1時間以上に渡ってスムーズに走り続けられました。
    この体験は気持ちの良い体験でしたし、自分がなんだか特別な能力を身につけたような気がして、舞い上がるような気分にもなりました。
     
    帰宅してから、落ち着いて振り返りました。
    私は車を運転するのが好きで、若かったその頃はレースの為のAライセンスも持っているようなタイプだったのですが、レース中や練習走行中には、似た体験があった事を思いだしました。信号機は無いですけれども、コーナーの手前で瞬間的に、そのコーナーの中で車がどのような挙動を起こすか、その結果どのようなコーナリングラインが生まれるかというような事が事前に判ってしまうのです。
     
    私だけではなくて、レーサーには後ろを見なくても車庫入れできるような人もいて、競技中には時速200キロ越える速度で走りながら路面の小石も見逃さない、メインスタンドのどこでスポンサーの某が見ているのが判るとかいった経験談は多くのレーサーが持っています。が、あまり話したがらないのも事実です。レーシングカーは好きでも、黄色い救急車に乗せられるのは嫌ですから。
     
    気持ちの良い体験だけならば良かったのかもしれませんが、私には不思議な事がその後も続き、いわゆる霊が見えるというようなこともありました。御先祖様と話をするとか、なんといえば良いのか、まぁ、人様にお話しするのはホドホドにしておかないと黄色い救急車に乗せられてしまいそうで、人には言えない事がいろいろありました。
     
    UFOを見たという話は、最近ではカミングアウトする人も多くなったので、場所さえ選べば話しやすくなりましたけれど、それでも相手を間違うと今でも怪しまれます。
    そのせいで、私は「普通の人」と見られるように振る舞うことに気を使うようになってしまい、占いをするときも魔法使いのような格好をするのは気が引けて、なるべく「その辺のオッサン」に成りすましたいのが本心です。
     
    千里眼のホームページに載せるための写真を撮っていただく機会がありましたけれど、神秘的な雰囲気のある格好の方が良い効果を生むそうです。
    それは私もよく分かるのですが、本当にそれで大丈夫かどうか悩みながら、ある種妥協しながら撮影していただいたような次第でした。
     
    さて、個人的なお話が長くなってしまいました。
    本題は、どうしたら良いかという事ですが、そのお話は次回に続けたいと思います。
    ありがとうございました。
     
    [千里眼 宮崎]ボイジャー

    スピリチュアルな話 -2- スピリチュアル・エマージェンスを乗り越える

    前回で、スピリチュアル・エマージェンスと呼ばれる現象あるいは経験があって、それはハイな体験であったり、バッドな体験であったりするというお話をしました。
    今回はそれに続いて、どうしたら良いのだろうという事を書きたいと思います
     
    御相談に来られる方は、だいたいバッドな体験で困るというのが動機になるようです。
    この場合には、ご本人になんとかしたいという気持ちがハッキリあるので先に進みやすいのです。
     
    難しいのは、ハイな体験をされている場合です。
    ご本人としては「気持ち良いからOK」な訳で、わざわざ相談したりはしないでしょうし、やめる気にもなり難いので先には進みません。これも一つの執着ではあるのです。
    これはクスリでハイな体験をした場合に似て、中毒性とも言えます。
     
    実体験からお話をするならば、ハイな体験の中には他者の役に立つ事で承認欲求が満たされるという事もありました。例えば、サイキックな能力で病人を治したというような体験は、確実に自尊心をくすぐり、もっとやってみたくなります。しかも、周りからも期待されるとなれば、続けずには居られなくなるという中毒性があります。
    この体験は「サイキ」(psych)と呼ばれる意識状態で起きることで、いわゆるサイキック(psychic)な現象です。
    ここで注意すべきなのは、サイキックな現象がどうして起きるのかという説明は、サイキの意識状態では解明できないということです。無理に説明をつけようとすると、例外事項が多発して法則が複雑になり、だんだん訳が分からなくなってしまいます。
    仕組みを解明できないままに利用するとなれば、副作用を予見できなくて後悔する事態に追い込まれる危険を内包しています。病気治療で言えば、再発や重篤化の危険も考慮しなければなりませんから、危険でもあるのです。
     
    サイキという意識状態は、日常的な意識状態からは少しだけ深いのですが、深い意識領域にはまだまだ届かない浅さではあるのです。
    それ故に、自覚できていない意識領域(無意識)が未だ多く残っていて、本人自身の全体像を知らない状態とも言えます。
    禅では、サイキ領域を魔境として戒めているというのも肯けます。ハマりやすく、先に進めなくする罠になり、しかも危険を伴うという、まさに魔境です。
     
    では魔境を避ける、あるいは脱出するには、どうすれば良いのでしょうか。
    私の体験から考えると、理想的にはまず、事象が起きる構造、機作を知っておくのが良いだろうと思うのです。知らずに闇雲に行動するのは、間違う危険があります。
     
    というところで、また長くなりましたから、次回に続けたいと思います。
    ありがとうございました。
     
    [千里眼 宮崎]ボイジャー

    スピリチュアルな話 -3- 意識の構造って? ASCってナニ?

    前回では、スピリチュアル・エマージェンスについて、簡単な説明を試みました。
    そして、たいていの体験はサイキ領域の意識状態での体験であり、魔境と呼ばれる危険性を持っているので、先に進むためには、事象が起きる構造、機作を知っておくのが理想的、というところまでお話ししました。
     
    さて、理想的にはそうなのですが、私の体験として苦労したのは、意識の構造について体系的に教えてくれる人が見つからない事でした。
     
    瞑想に詳しい人に聞いても「そういう事はあります」という反応はあるのですが、意識の構造や機作を体系的に説明して貰える事はありませんでした。
     
    「なぜ、こんな事が起きるのだろう?」
    「どうして、他の人には理解してもらえないのだろう?」
    などと、ずいぶん悩みました。
     
    そんな時に見つけたのが ASC(Alternative States of Consciousness:交代可能な複数の意識状態)という考え方でした。
    ときどきASCを「変性意識状態」と思っていらっしゃる方に出会いますけれど、たいていはトランス状態のことと思われているようで、それはASCではありませんし、意識が変性する(状態が変わる)ことはあっても特定の状態を意味するのは無理があります。
     
    ASCというのは、意識には複数の状態があって入れ替わることがあり、同時には一つの状態しかとり得ないという考え方です。状態を意味する英語 “states” が複数形であることに注意してください。
    では、複数ある意識状態というのは、いくつあるのでしょう?
    そして、どんな状態なのでしょう?
    こうした疑問に対して見事に答えたのが、ケン・ウィルバーという方がお書きになった「意識のスペクトル」という本でした。
     
    もともと東洋には神秘思想(Mysticism)と呼ばれる東洋哲学や仏教、道教などの精神的な伝統がありました。健全な精神のあり方を究めるべく、心について精密な探究の結果を残しており、その微細で精緻な成果はあまりに深くて秀逸なので一般的には評価する事すら難しくて、凡人には価値が理解できない現実があります。心の究極を求めるので、病んだ心には関心が無くて、治療については言及がありません。
     
    一方で西洋では精神医学や心理学が発達しており、心の病を治そうとするところから発していますから、病んだ心については豊富な事例研究がある傍ら、健康な状態については定義できず、社会適応をもって良好とせざるを得ない現実があります。現代社会そのものが病んでいるのではないかと思われる状況で、これは悲劇です。まして、「悟り」などは眼中になく、遠いどこかの御伽話とでもいうような関心の無さを感じます。
     
    ケン・ウィルバーは、これら双方の研究を総覧して、どちらも同じ心を対象としながら、異なる状態の心を見ているために、違ったものを見ているかのような見解の相違をきたしていると看破しました。
    さらに、意識の状態は幾つもあり、一度に一つの状態しか体験できないこと、異なる意識状態では同じ事象でも異なった体験となること、より深い意識状態はより浅い意識状態での知見を含むこと、これによって意識の深さの順列を系統立てて整理できる事を明らかにしました。
     
    可視光が虹色のスペクトルを示すばかりでなく、電波、X線などの放射線、紫外線や赤外線などの不可視光に分類されるものも、それぞれ波長の異なる電磁波としてスペクトル分布の一部に位置付けて一覧されるように、意識にも状態が様々あって、分類されてもそれらは違わずに意識であるという意味をこめて「意識のスペクトル」と名付けたのでした。
    (後になってウィルバー自身が、複数の波長の電磁波が共存できるのに対して、意識は一度に一つの状態しか取れないという違いがある為に、スペクトルという命名が完全に適切とは言えないと修正しています。)
     
    私は、この本に随分助けられました。
    もちろん、スペクトルになぞらえたこの捉え方は、ひとつのモデルであって実物ではありません。
    しかし、道に迷う者が地図を手にしたような、現在位置を確認して迷わずに進めるという安心感に喜んだのを覚えています。
     
    では、日常の意識とサイキ、更には悟りの意識、その他にも、どのような意識状態があるのかというお話は、続編にという事にしたいと思います。
    ありがとうございました。
     
    [千里眼 宮崎]ボイジャー

    スピリチュアルな話 -4- ペルソナとシャドウ

    意識状態には、どれくらいの種類があるのだろう? というのが今回のテーマです。
    分類方法には、分け方もいろいろな見解がありますけれど、ここでは一応、ウィルバーが意識のスペクトルで展開した考え方を基にして書いてみます。
    これは、「私」とその周りに広がる世界の中で、アイデンティティ(自己同一性)の範囲に着目した分類になっています。
    各意識状態についての定義なので、面倒に感じられるかもしれませんが、ここがハッキリしないと、この先の話が進められないので、ちょっと辛抱してお付き合いください。
    各意識状態は階層をなしているので、レベルと表記します。幅を持っている場合には、帯域(band)と表記します。
     
    なお、このコラムではグラフィックを掲示できないので、図を使えません。
    言葉だけでは、分類空間をイメージするのにちょっと苦労かも知れませんが、意識の階層の名前をレベルの順位に従って書いてみます。
     
    — 意識状態のレベル —
      ペルソナ/シャドウのレベル
       哲学的帯域
      自我のレベル
       生物社会的帯域
      実存のレベル
       超個の帯域
      MINDのレベル
     
    正確なイメージを確認したい方は、原著を参照されると一番正確ですが、Google等の検索エンジンで「ウィルバー、意識のスペクトル」をキーワードとして画像を検索すると、本から引用した図が出てくるようです。
     
    それでは、各レベル/帯域の説明に進みましょう。
     
    ☆ ペルソナ/シャドウのレベル ☆
    まずは誰にも馴染みのある、日常的な意識状態から始めましょう。
    現代人にとっての日常的な意識状態は、その時々の役割に応じた「私」を演じる(振る舞う)状態でしょう。
    例えば、仕事上の役割で、事務員だったり、営業マンだったり、他にも作業員、先生、課長、部長、社長など、たくさんの役割があります。子供にも生徒であったり、兄弟の兄であったり弟であったり、姉妹としてのポジションとか、友達関係の中でのポジションがあります。親子関係でも、親は親として子は子としての役割があって、それぞれのポジションに相応しい役割を担い、それらしく振る舞っています。
    ポジションに相応しくない振る舞いをすると、社会生活に差し障りがあり、「○○らしくない」として立場をわきまえた正しい振る舞いをするように注意を受ける事になります。
    仕事中は仕事上の立場に相応しく、生徒ならば生徒らしく、家に帰れば親や子としてその立場に相応しく振る舞うことが当然となって、その人物像に同化していきます。こうして、ポジションに相応しい振る舞いに慣れてくると、その人物像が恰も「私そのもの」であるかのように思えてきます。
    このような状態を「ペルソナ(仮面)」と言います。
    ペルソナを形成するために、本当は存在するのに無視され隠蔽された側面が残りますから、これを「シャドウ(影)」と呼びます。
     
    ペルソナは顕在意識であり、シャドウは抑圧された意識、すなわち潜在意識に含まれるます。
    この自我(ego)が、ペルソナとシャドウに分離している意識状態を、「ペルソナ/シャドウのレベル」と呼び、現代人にとっての常識的な状態と言えるでしょう。
    ペルソナ/シャドウの状態にあっては、自分の体についても「私の手」とか「私の足」といったように、私に所属する所有物のように認識されています。つまり、手は私自身そのものではなく、私が所有するものと捉えています。体ですら私そのものではないですから、周りに広がる環境も私ではありません。他人はもちろん他人です。
    こうした認識は、恐らく殆どの人にとって違和感なく、認められるのではないでしょうか。
    ただ、ここで難しいのは、シャドウが無意識であるために、自覚的に認識できないことです。この状態での素直な感覚からすれば、シャドウは存在しないと感じられるので、その部分だけは同意しかねるという事になるでしょう。
     
    だいぶ前のことですが、占いをするかどうか迷っている女性に、何故迷うのかを伺ったところ「もしも無意識を見られてしまったら、鬼が出るか蛇が出るか分からないから怖いんです。」と答えられました。キュートなレディーから、鬼とか蛇とかという言葉が出てきたのが可笑しくて、思わず笑ってしまいましたが、御本人には何が出るか分からないところが無意識ならではというところでしょうか。
     
    ペルソナ/シャドウをドラマチックに描いた小説では、ジキル博士とハイド氏というのが有名です。シャドウの抑圧が過ぎて、別人格として動いてしまうところが恐怖を掻き立てます。
    病的な方向にさらに進めば、多重人格という事にも発展する訳ですが、ここでは病理の探究をするつもりはないので、詳述は控えましょう。
    ただ、恐らくは現代人の殆どが日常的に体験している意識状態は、ペルソナ/シャドウでしょうから、御自身の体験をチェックしてみてください。
    現代社会に適応しようとすると、この意識レベルに嵌まりがちですけれど、躁鬱病(双極性障害)を発症する意識領域でもありますから、程々にしておきたいものです。
     
    さて、より深い意識に関心をお持ちの方にとっては、これより先の話の方が参考になるでしょう。
    回を改めて、先をお話ししたいと思います。
     
    -つづく-
     
    【千里眼 宮崎】ボイジャー

    スピリチュアルな話 -5- 自覚が深まったレベル

    前回で書いたペルソナ/シャドウのレベルは、意識レベルとしては一番浅いレベルです。
    ここから、深まっていく意識レベルについて、順に書いてみようと思います。
     
    ☆ 哲学的帯域 ☆
    ペルソナ/シャドウのレベルから深まって、シャドウを部分的に自覚するようになった辺りの状態は「哲学的帯域」と呼ばれています。自覚が多少深まったとでも言えるでしょうか。
    ここでのアイデンティティーは、古典的な哲学が認識している「私」の概念が当てはまる領域です。デカルトやカントが思索した中に現れる「私」は、ペルソナだけでなく「私」を突き動かす衝動の存在を感じており、シャドウをある程度は自覚しています。
    理性的な思索(分別による思考)を続けるときは、だいたいこの帯域の意識状態でしょう。
     
    ☆ 自我のレベル ☆
    シャドウを全て自覚して「私」と感じるようになると、アイデンティティーは「自我(ego)」そのものになります。
    自我は自覚できていますが、「自己(self)」の全域を認識できてはいないですから、潜在意識(自覚できていない意識領域)が無くなった訳ではありません。身体は依然として「私」の外側に感じています。
    現代人の殆どは、ペルソナ/シャドウと自我の2つのレベルの間を、行ったり来たりして毎日を過ごしているのではないでしょうか。常識的な世界認識、あるいは自己認識とでも言えましょうか。
     
    ここまでの、常識的と言えそうな意識状態によって人が自覚する「私」の実感は、殆どの方にとって体験のある、したがって分かり易い感覚と言えるでしょう。
     
    ところで、ご想像の通り、意識の状態はこれだけではなく、さらに深まりがあります。むしろ、「本当の私」を探究する方にとっては、ここからが本題です。
     
    ☆ 生物社会的帯域と実存的レベル ☆
    自我に同一化していた「私」が、更に身体をも内部に感じ始める領域を、生物社会的帯域と呼んでいます。
    更に進んで、自覚している意識と身体を合わせた総体を「私」と感じるのを実存的レベルと呼びます。
    実存主義哲学が提唱した「私」の概念に符合するでしょう。自分の手を眺めて「私の手」とは思わない、「これは私だ」と感じる状況です。この感覚に馴染みのある方は、現代では少数派のようです。
    どちらかというと、女性の方が男性よりもこの状態を体験されているようです。おそらく女性ならではの子宮にまつわる月ごとの体験や、とりわけ出産の体験は身体感覚が強烈なので、その感覚の当事者であるという体験が、身体を私そのものとして感じるチャンスとなっているのではないかと思います。
    私には、図らずも身体の感覚そのものになった強烈な体験があります。胆石の発作が起きた時でした。
    あまりの激痛に耐えかねて、生まれて初めて救急車を呼びました。
    駆けつけた救急隊員が「どこが痛いのですか?」と聞いてくるのですが、激痛の中にいる私にとっては、「私は痛みそのもの」という感覚になっていて、「何処が」と言われても答えようがないのです。
    息も絶え絶えの私の口から、ようやく出た言葉は
    「い、いた、い、んです、、、」
    「何処ですか? 何処が痛いんですか?」
    「あ、あの、い、いたい、、、いたい、ん、です、、、」
     
    思い出しても笑ってしまうような、会話の噛み合わなさですが、これが実感だったので、ほかに言葉が出なかったんです。そのとき、私は、痛みそのものだったのです。
    とはいえ、救急隊の方々は流石に訓練されているのですね。
    「見たところ胆石のような症状ですが、そのような診断を受けたことはありますか?」
    と、実に適格な判断をされて、
    「い、いいえ、、、」ともがく私を病院に運んでくれました。
    とまぁ、個人的な話が長くなりましたが、実存的レベルでの実感というのは、強烈な感覚の中で発生し易いとは言えそうです。
    これが、痛みなどを伴うことなく、日常的な感覚として定着すると、経験をいつも全身で受け止める積み重ねになるので、ペルソナ/シャドウレベルの場合とは、同じ体験をしても質がかなり違うことになります。
    それだけ意識は深まっていて、「私」と認識される範囲も拡がっています。
    それでも、このレベルは究極にはほど遠く、まだ先があります。
     
    -つづく-
     
    【千里眼 宮崎】ボイジャー

    スピリチュアルな話 -6- 個を超越して究極へ

    ☆ 超個の帯域(Transpersonal band) ☆
    実存的レベルで身体も心も含んだ総体としての「私」を実感したならば、私の外に広がるのは環境です。
    さらに深い、超個の帯域では、「私」は身体の内側にとどまらずに周囲へと溶け込んでゆきます。
    哲学的帯域からは想像すらできない感覚です。
     
    もしも、テーブルの上のコップが私の内側に感じられたら、手の指を動かすのと同じように、コップも動かせる、、、かどうか、たいていの場合は想像するのは難しいでしょう。
    ですが、サイコキネシス(psychokinesis:念動)が起きる際の実感というのは、そんなものです。
     
    サイコキネシスばかりでなく、ESP等のサイキックな現象を体験するサイキ(psych )と呼ばれる領域は、実存のレベルから超個の帯域に入る入口に位置します。
    興味を持たれる方も居られるでしょうが、この領域は禅で魔境と呼ばれる領域でもあり、多くを語るべきではないという先人の忠告に私も同意するところです。
    ただし、修行中に誤って、或いは意図せずに唐突にASCとして踏み込んだ場合に、これが魔境であることを確認して抜け出すために、位置を明確にする必要がありますから、忠告の意味で記しておきます。
    脱出するときは、より深い方を目指してください。良く知っている浅い方に逃げようとすると、失敗するという経験がありますので。。。
    もう少し具体的にいうと、その時の価値観や判別基準を手放す必要があります。自我が作り出している境界線を消すという事です。
    執着を手放すということでもありますが、この状態にはまり込んでいる当人にとっては、それが執着だとは認め難い心境になるものです。何しろ一番大事にしている価値観だったりしますから、それこそが唯一絶対の価値に感じられて、手放すのは自己像の崩壊を意味するようなものです。
    言葉で抽象的に表現している間は簡単そうに見えるのですが、自分の意識の執着が作り出している世界に圧倒されている状況でもあるので、本人としては自分の世界が崩壊していく体験となり、死ぬような強烈さを伴うことが多く、執着を手放せないで苦しみもがくものです。
    あるいは、サイキックな能力による全能感と、神になったような多幸感に酔いしれて、一歩も動かないという場合もあります。一歩も動かない訳ですから執着/中毒に他ならないのは一目瞭然ですが、本人は高揚しているので他人の言う事を聞き入れません。
    魔境というのは、そういうことですから、華麗にスルーするのに越したことはありません。
     
    この超個の帯域については、サイキの領域は兎も角として、悟りを目指す精神修行が対象とする領域は、ここから先になります。
    神秘思想の中には古代からの研究も最近の研究もあって、いろいろな分類があります。
    唯識仏教が伝えるところは相当に細密ですから、研究熱心な方には面白いと思います。
    ですが、もともと意識に境界線が存在する訳ではないですから、便宜上の分類である事に注意してください。
    特定の分類に拘ると、実体験と整合しなくなって迷ってしまいます。分類は、その研究が成された文化的背景を背負い込んでいるので、異なる文化からは違って見える事があるようです。
     
    エーテル、アストラル、コーザル、と名付けられた分類領域/分類方法があります。
    これらは、ウィルバーが提案した意識領域のマッピングに対して、少し異なった次元を含んでいるようです。
    無理やりウィルバーのマップに投影すると、概ね超個の帯域に重なると思えます。エーテル領域は実存領域より少し深い辺りで、その更に深い辺りがアストラル領域、更に深くがコーザル領域に割り当てられるかなと思います。
    ただし、正確に二つの分類マップを重ねようとすると、ウィルバーのマップが意識の深さを縦軸とし、世界の広がりを横軸とした2次元平面空間で表現されているのに対し、エーテル・アストラル・コーザルの分類空間はその中に収まらない感じがします。次元を増やして斜めにはめ込めば良いかなと考えたこともあるのですが、ウィルバーの空間に直行するもう一つの座標軸というのが上手く表現できなくて難しいです。
     
    ただ、幽体離脱をしてしまう方にとっては、無事に帰還するために重要な気がするので、この辺なんだよというサジェスションと受け止めていただければと思います。
    離脱したとき、とりあえず自分の体(手が見やすい)を見て、黄色っぽかったらエーテルボディーですから、一度戻ってアストラルボディー(青っぽい)で出直した方が安全です。
    因みに、コーザルボディーになると白っぽいのでわかりやすいです。でも、ここまで来たら、離脱が云々というよりも、ニルヴァーナに接近する方に関心が向くでしょうから、正しく先へ進んだ方が宜しいですね。
    こうした色付けは、観る側の意識が脚色しているものですから、ケースバイケースと言う事も有るはずですが、アーキタイプと言うのでしょうか、不思議と世界的に共通した色で見られるようです。
     
    ちなみに、エーテルボディーと肉体の連結が中途半端に外れかかって、もがくのが金縛りであるようです。
    サイキ領域に入りかかっているけれど、殆ど実存のレベルという辺りで起きる現象のようです。
    意図せずに金縛りに遭って困る方は、肉体にしっかり入り直す事を意図(決断)すると、ボディーが自動的に反応して元に収まるはずですから、お試しください。
    無闇に離脱などしないように。安全のために、戻りましょう。
    それでも、何か事情があって、離脱してしまうことはあるでしょう。そういう場合は、わかる人に相談する方が宜しいと思います。
     
    最近流行りの(?)トーラスというビジュアル表現は、コーザル領域での体験に近いと思います。あのビジュアルを考えたというか表現した人は、その辺りの体験が元になっているのでしょう。
     
    超個の帯域については幅があるのと、進むにつれて深さがあるので、全域を隈無く体験するのにはそれなりに時間をかけて修行する必要があるプロセスです。
    経験者が少ないので評価するのも難しく、本を参考にしようにも、本によっては違っていると思われることも多いので、あまり鵜呑みにせずに、正しい瞑想法(修行法)を使って御自身で探究してください。
     
    ☆ MIND(心)のレベル ☆
    超個の帯域も抜けて、いよいよ究極の意識状態と言えるのが、大文字のMIND(心)と呼ばれるレベルです。
    この大文字で書くというのは、自我レベルでのmind(心)と区別するための表記です。
    実は、このウィルバーの表記方法には、禅哲と呼ばれた鈴木大拙という禅師の影響が見て取れます。大拙禅師の日本語の記述では「心」の文字の横に黒点のルビを付けたり、付けなかったりで判別する工夫をしてあり、英文では大文字と小文字にしてあるのですが、禅を修したウィルバーの事ですから、それに倣ったものと思われます。
     
    MINDは、個と周りの世界を隔てる境界が一切なくなった、宇宙そのものという状態です。最近はワンネスという言葉がありますが、これの事でしょう。「一なるもの」という表現もあります。
    つまり、見るものと見られるものに分離しない状態です。
    この究極の状態、MINDに於いて、本当の私を自覚することになります。ここに於ける知覚こそが本物、つまりrealでありますから、リアリティーというのも、ここでの知覚こそが本当のリアリティー(real realty)な訳です。言葉を使うと理知的な構造が重なるので、表現がトートロジー(tautology)になってしまって変ですけれど、まぁ、そういうことです。
    だから、上に書いてきたいろいろなレベルでの実感というのは、リアリティーではなくて全てバーチャル・リアリティー、幻想、幻覚なのですね。
    私たちが常識と思って眺めている日常の現実は、なんと! すべてバーチャル・リアリティー、幻想である訳です。仏教で無明というのは、この事なんですね。みんな夢を見ているようなものです。ありのままの現実を見ていない。
     
    MINDで観る、真正のリアリティーでは、私たちが現実と信じながら夢見るように見ている幻想は「色(しき)」であり、本来は一切が「空(くう)」であると看破される訳です。
    そしてまた、空はそのまま色であると。
    般若心経の有名な一節「色即是空 空即是色」とは、これを言っている訳なんですね。
     
    あぁ、長くなりましたけど、本当は、こんなに短く言い切ってしまって良いのだろうか、と実は心配です。
    今後の続編で、占いをする時の意識の振り方などをお話しするのに、どうしても意識のマッピングを定義しておかないと説明に窮するので、原典を読むのを躊躇われる方にも通じるようにと頑張って、できるだけ簡単に書いたつもりです(コレでもネ)。
     
    意識マップは、そんな単純なことではないだろうと思われた方は、どうぞ御自身で修行を修めていただき、正しく御確認くださるようお願いします。
    じつは、それが狙いだったりして。(^_^)
     
    -まだまだつづくよ-
     
    【千里眼 宮崎】ボイジャー

    ボイジャー先生 クチコミ情報

    とても的確で、希望を感じる結果をお伝えしてくださいました。

    鑑定をしていただいて、ありがとうございました!カードでの鑑定ですが、とても的確で、希望を感じる結果をお伝えしてくださいました。とても深い言葉をいただいて、わたしの今後の道しるべにしたいと思います。

    とても優しい雰囲気の中占っていただき…

    ボイジャー先生、先日はありがとうございました。とても優しい雰囲気の中占っていただき、頑張ろうと前向きな気持ちになれました。またぜひ伺いたいと思います!

    【女性 22歳】

    相手の事などをみてもらいましたが、カードの通りになって驚き、納得できました

    ボイジャー先生、お世話になります。先日、メール鑑定をして頂き、相手の事などをみてもらいましたが、カードの通りになって驚き、納得できました。危うく国際詐欺にひっかかるところでした。何度も鑑定結果を読み直し、冷静に考える事ができました。また、何かあればご相談させて下さい。ありがとうございました。

    色々教えて頂き、納得できました

    ボイジャー先生、ありがとうございました。メール鑑定と電話鑑定でお世話になりました。今、体調が悪く何もやる気になれずにいたのでご相談して良かったです。お話ししながら、カードを展開して頂きご自身のお話しも交えて色々教えて頂き、納得できました。お聞きした事を実践できるように頑張ってみます。またご相談させて下さい。よろしくお願いします。

    彼の今の気持ち等を根掘り葉掘りたくさん教えて頂いてよかったです

    久しぶりに会った元カレの事について伺いました。私にとっては忘れられなくてずっと別れた事を心残りにしていたので、彼の今の気持ち等を根掘り葉掘りたくさん教えて頂いてよかったです。何度も「心配しなくても大丈夫」と言って下さったので安心できました。

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    モヤモヤしていた気持ちがすっきりしました!心の中でずっと気になっていた事がありましたが、背中を押していただけたように感じます。鑑定結果は、自分が目を逸らしていた事をびしりと当てていただき内心冷や汗ものでしたが、優しい口調と言葉に涙が出そうになりました。いただいたアドバイスを胸に、前向きに頑張ろうと思います。ありがとうございました。

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    まさに目からうろこでした!彼との状況もまさに!と驚くほど当たっていました。現状にあきらめるしかないのかとふさぎ込んでいましたが、可能性の芽をこれでもかとお伝えくださり、これから何とかなりそう!と前向きになりました。すごいお力を秘めた先生です。ありがとうございました「。 

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    今日はありがとうございました。自分に自信を持って前向きに考えて見ようと思います。またよろしくお願いします。

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    カードからこんなに私のことが分かるなんて、何だか丸裸にされた感じです(笑)

    先日はありがとうございました。これまで誰にも言えずに心に秘めていたこと、先生に当てられました。何で分かるの!?とビックリ、先生のお力は間違いないです。カードからこんなに私のことが分かるなんて、何だか丸裸にされた感じです(笑)次会いに行ったときには良い報告ができると良いです。本当にありがとうございました。

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    とても柔らかく優しい口調で、話しをしていて安心します。今回は自分自身のことについて鑑定していただきました。先生はスピリテュアルな力をお持ちなのか、カードの結果から分からないようなことまで、スバっと言い当てられて驚きです!驚きのあまり鳥肌が立ちました。最後の方にはモヤモヤした気持ちがスッキリして、先生のアドバイスを忘れずに頑張ろうと思います。ボイジャー先生、ありがとうございました。また伺いますね。

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